Ⅱ 失恋ヘッドハンター
入学式の日。
憧れだった制服を着て外に出ると、さすがに気分が上がった。
制服を買いに行った日もそれなりに高揚したけど、あの頃は失恋の傷がまだまだ深くて表情も出づらかった。
その頃を思うと、少しの期間でやや立ち直っていることに気づく。
結構、おめでたい性格なのかもしれない。
それに、入学式には両親とも参加予定なので暗い顔ばかりしていられなかった。二人とも、仕事を休みにしてくれているんだし。
同じクラスには、塾で顔見知りだった野田さんがいた。
小学校は別だったけど、塾で三年間ともに切磋琢磨した仲間でライバルだ。
「これからは、下の名前で呼び合おうよ」
野田さんがそう言ってくれたから、私たちは「ゆうみ」「菜々」と呼び合うことになった。
塾の休み時間とかに他愛もない話をする時は、表情が少なくてちょっと怖い印象だったけど、意外に人懐っこい一面もあることがわかって正直安心した。
これも一つの「新しい出会い」なのかもしれない。少しずつ、目に映る世界が変わっていく予感がして俄然わくわくしてきた。
そんなわくわく感を早速へし折るような事件が翌日に待ち受けていた。
私の住むマンションから学校へ行く道中には、ちょっとした繁華街があった。
私が学校へ行く時間帯では、そこまで賑わってはいないのだけど、朝でもお酒を提供しているお店があって酔っ払いは少なからずいた。
パパがそれを理由に私がこの学校を志望していることを嫌がっていた。
それでも私は制服の可愛さに負けて受験を決めたのだった。
パパと入学前に事前チェックをして、比較的人通りが多く酔っ払いが少ない道を見つけていたので私は安心しきって歩いていた。
突然、細い路地から人が現れた。
パンツスーツ姿の若い女性だった。よたよたと歩いている。
カツカツと不規則な音を立てる細いヒールが心許ない。
おじさんとかなら怖いけど、女の人だから大丈夫よね。
そんなふうに考えて私はのんびり歩いていた。ふいに、その女性と目が合った。
女性が急に詰め寄ってきた。
びっくりしすぎて硬直してしまった。
近くのお店の壁にどんどん追いやられ、気がつくと私はその女性に壁ドンされていた。
「超かわいい。ねえ、何年生?」
酒臭い息が顔全体に浴びせかけられる。
自分が汚される感じがして泣きそうになった。
これ以上、近づかないで。目を閉じてうつむいた。
「お姉さん、何してんの。そんなんしたらあかん」
間近に感じていた女性の息がスッと離れた。
「え、なに、何あんた」
女性は学生服姿の男の子に肩を抱かれていた。
「何って。お姉さん、僕のこともう忘れてしもたん?」
「え、まじでわかんないんだけど」
女性は瞬きを繰り返している。
男の子の制服は、私が通っている学校のものだった。
「昨日の夜は俺、今朝は彼女。若い子に手え出したらどうなるか、お姉さん、わかってる?」
男の子は挑発的に女性の鼻先に唇を近づけた。
女性は我に返ったように、口をあんぐりとさせた。
「ごめんなさい!誰にも言わないで!」
大声で叫びながら、お姉さんは走り出した。私はほっとして大きく息を吐いた。
「ありがとうございます。助かりました」
男の子は軽く会釈をした。
「いいえー。とんでもございませーん。でもさ、この道、ああいう酔っ払いが出るから、通らん方がええよ。遠回りしてでも安全な道選んだ方がええと思うなあ」
「はあ、わかりました」
「もし、それでも変な奴に合ったら、『何しとんねん、アホボケカス』言うたったらええねん」
「なにしとんねん、あほぼけかす」
我ながら立派な棒読みだった。
「もっと気合い入れて!『何しとんねん!アホボケカス!』」
「何しとんねん!アホボケカス!」
気合いを入れて叫ぶと、街路樹に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立っていった。
「よし、その調子や。がんばるんやで」
男の子は私の肩を叩き、軽快に歩き出した。
私はしばし呆然とし、男の子の後姿を見ていた。
彼との再会はその日の午後だった。
同じ学校の制服を着ていたのでそのうち会うとは思っていたけれど、想像していたより早かった。
彼は背が高かったため上の学年だろうと推察していたので、すぐに会えるとは思っていなかったのだ。
彼はオリエンテーションの部活紹介をするべく体育館のステージに立っていた。
彼にスピーチの順番が回ってきた。
颯爽と歩く姿に客席がざわめいた。
たぶん、頭が小さくて、手足が長かったからだと思う。
「モデルみたいだね」
どこからかそんな声が聞こえてきた。
「入学おめでとうございます。五十鈴秀介といいます。3年2組に所属しています。はー」
緊張しているのか、深呼吸をしている。
「去年の夏休み明けにこの学校へ転入してきました。君たちよりもちょっとだけこの学校に詳しい人間です。ええ、突然だけど、君たちは今、恋はしているかな?」
その問いに体育館じゅうが再びざわめいた。
「ま、どれだけの人間が恋愛をしているかは知らないけど、恋愛には大いに興味があるみたいだね。それだけ、恋愛にいいイメージがあるということの現れだと思う。けどね、恋愛は楽しいことばかりじゃない。つらいこともある。その極みが失恋だ。この中にも恋愛はしたことなくても失恋したことがある人間はいるんじゃないかな」
五十鈴さんの問いに体育館は静まった。
私の脳裏に貴崎君の顔が浮かび上がる。
胸がきゅっと苦しくなった。
「図星、みたいだね。そんなあなたに朗報です!」
五十鈴さんはアイドルが如く急にくるっとターンした。さっきまでその容姿にざわめいていた女子たちの目線が一瞬で冷ややかになる。
「僕が部長を務める失恋ヘッドハンターズでは、そんな傷ついたあなたの心を癒し、そのうえ新しい恋を紹介します!でも、俺一人じゃなかなか仕事が行き届きません!だからお願いです!一緒に活動してくれませんか?入部資格は失恋を経験している事。部室はありません。放課後、僕はだいたい学校の近くにあるブルーマリンっていうショッピングセンターのフードコートで勉強しています。つまり僕自身が部室です。気軽に声をかけてください!それではよろしくお願いいたします」
一礼すると、五十鈴さんはステージを降りた。
ざわめきの音量は小さいものの、長々と後を引いて次の部活紹介へとはなかなか円滑に進まなかった。
そんなことはお構いなしに五十鈴さんは一度も振り向かず、きびきびと歩き体育館を後にした。
「ゆうみ、どうしたの?」
涙目になっている私を菜々がのぞき込んでいる。
「わかんない。花粉症かな」
目を瞬かせて私は答えた。失恋のかさぶたがめくられた感じ。痛くてヒリヒリする。あの時のショックが少し蘇ってつらかった。
この痛みっていつになったら癒えるのかな。ましになったと思ったらまた痛む。
貴崎君は今、どうしているのかな。同じようにオリエンテーションを受けているのかな。好きな子と部活について話し合ったりしてるのかな。
頭が貴崎君でいっぱいになって、続きの部活紹介の話が入ってこなかった。
まだまだ私は貴崎君のことが好きなんだ。確かめたくもない事実だった。でも、さらにそんな現実を私に見せつける事件が起こってしまった。
その日の放課後だった。
私は五十鈴さんの言う通り、遠回りをして家に帰っていた。
通っていた小学校の近くにあるコンビニの前を通った時だった。
中学の制服を着た貴崎君がいた。
ドキリとした。
ほんの数週間会っていないだけなのに、何だか少し大人っぽくなっていた気がした。
顔を合わせるのは気まずかった。
貴崎君に気づかれないように帰るにはどうしたらいいのだろう。
きょろきょろしていると、コンビニから女の子が出てくるのが見えた。絵里だった。
絵里!
貴崎君がいなかったら名前を呼びながら駆け寄っていたと思う。
でも、できなかった。
絵里は貴崎君のところへと駆け寄った。
二人は自然に手をつなぎ、歩き出した。
「うそでしょ」
そう言ってすぐに口元に手をやった。
二人に気づかれないよう、駐車場に並んだ大きな車と軽自動車の間に身を潜めた。
しばらくしてから、立ち上がって二人のいたあたりを確かめた。
そこには母親と小さな男の子がいるだけだった。
幻なんかじゃない。
夕焼けに照らされる二人の笑顔を私はしっかり見てしまった。握り合うその手も。
絵里はどんな気持ちで私を呼び出し、話を聞いたのだろう。
あの時すでに二人は付き合っていたのかな。寒気がする。
怖い。
感情が高まって涙が止まらない。
このまま家に帰れない。
私は振り返り、負け犬のように来た道をまた歩き始めた。
「あの」
ショッピングセンター「ブルーマリン」のフードコートでカップに入った何かをストローで吸い込みながらPCのキーボードを叩いている五十鈴さんに声をかけた。
五十鈴さんは目もくれなかった。
「あの」
三回くらい繰り返した時、五十鈴さんは手を止めて伸びをした。
「あのじゃわからんよ、町娘よ」
「時代劇じゃないんだから」
私の指摘を無視して話し続ける。
「挨拶、自己紹介。中学生ならもう出来ていいと思うけどって、すごい顔しとるな。大丈夫?」
五十鈴さんは私を二度見した。
「すみません」
どうやら私は泣きすぎてとんでもない顔をしているようだった。
「まあ、座り。お兄ちゃんがジュースおごったる。コーラでええか?」
私はうなずき、五十鈴さんの隣の席に座った。
五十鈴さんはリュックから携帯電話会社の広告が入ったポケットティッシュを取り出し、私の目の前に置くと、席を立った。
しばらくするとカップを片手に戻ってきた。
「まあ、飲み。コーラやで。俺が飲んでるのと一緒」
私はカップを受け取ると即座にコーラをがぶ飲みした。
思いのほか、涙で脱水していたようである。
口の中はひたひたと甘い水分で満たされ、炭酸が程よく舌の上で弾ける。
飲み込むと喉元が一気に冷えた。
「おいしい?」
「はい」
思わず笑顔がこぼれた。
「それは良かった」
五十鈴さんはにんまりと微笑み、席についた。
「それで、君はうちの部活に入ろうと思ってここへ来たわけ?それとも、失恋をして次の恋を探すためにここへ来たわけ?」
私は首を傾げた。何も決めずにここへ来てしまっていたから。
「うーん」
五十鈴さんからもらったポケットティッシュを目元や鼻のわきに当てながら私はうなった。
「うーん、とは」
五十鈴さんは肘をつき、手のひらで顎を支えやや上目遣いに私を眺める。
「あの、私、一応、失恋経験者ではあるんですよ」
「そんな感じやね、ほやほやのね」
「そう。ほやほやの。さすが、わかるんですね」
「まあね。失恋ヘッドハンターになりたいからって泣きながらやってくる人とかおらんやろしね。消去法からして失恋した人でしょ。」
淡々と話してくれるおかげで私の心も少しずつ落ち着いてくる。
「まあそうですけど。私、どちらの立場になろうとか考えないで、ただここへ来てしまったんですよね」
「ほう。それはつまり、俺に会いたくて?」
両手を組み、瞬きを繰り返している。
「そうではないです」
私は強く否定した。
「つれないなあ」
五十鈴さんは組んだ手をほどき、顔をそむけ、唇を突き出した。
「なんかこう、つらくて、行き場がなかったんですよね。わかってくれそうな気がしたのが、五十鈴さんくらいしか、思いつかなかったというか。まだ、入学してまもないし、学校に知り合いもさほどいないし。それに、この間、助けてくれたじゃないですか」
「ああ、俺のこと、頼りになる男だって思ってくれたわけ?」
五十鈴さんは親指と人差し指でVを作り横に向け、顎に当てニヒルに笑みを浮かべた。
「まあ、そんなところです」
私はそのポーズを完全無視しつつ、返事をした。
「そうですか。できれば、詳しく教えてくれる?そうやないと、こちらも対応のしようがないから」
反応が気に食わなかったのか、五十鈴さんは居住まいを正して素っ気なく訊いてきた。
「はあ」
そうして、私は小学校六年生の春から今に至るまでの話を続けた。
五十鈴さんは時折うなずいたり、「そうなんだー」「たいへんだねー」「それはびっくりしたねー」とかなんとか言ったりしながら最後まで話を聞いてくれた。
「それはきついねー」
すべて聞き終えた後、五十鈴さんはコーラをがばっと飲み切った。
「俺が思うに君はええと何だっけ、名前」
「あ、花橋ゆうみです」
「花橋さん。あの、たぶん、花橋さんに今、新しい恋をとか言っても無理だと思うんですよ」
「そうですね」
「だから、俺と一緒に失恋ヘッドハンターとして活動した方がいいと思うんだよね」
「はあ」
「だから、その、入部おめでとう」
五十鈴さんは空のカップを私のそれに当てた。




