営業『タオル問答』
えー、馬の耳に念仏なんてことを申しますが、念仏ではなく落語でございまして、ここで落語というのもどうかと思うんですが、まま、今日は大河落語『茜の生涯』から『タオル問答』という噺で一席だけおつき合い願いまして、落馬しないことを祈るばかりなんですが、えー、世の中には色んなロマンスなんてものがあって、甘酸っぱいロマンスは大変に宜しいんですが、そこからお酢の成分をなくしますと、これがロマンでございますな。あのー、正直な話、手前はまったく興味がないんですが、世間には競馬という、紳士による紳士のための庶民的な娯楽がありまして、噺家の中にもファンが大勢いて、土日の楽屋なんかですとテレビやラジオで競馬中継を見たり聞いたりなんてのが必ずいて、それで私、思い切って訊いてみたんですね。
「あのー、粉山椒師匠、競馬ってのはなにが魅力なんでしょうか」
「そらおまえ、もちろん血のロマンよ。ああ、違う違う、血だ血、血統というやつだ。ああ、オーケーなんて手でやらんでもいい、あのあれだ、サラブレッドってのはな、その言葉自体が完全無欠の血統、完璧な繁殖なんて意味でな、元を辿ればたった三頭なんだぞ。その三頭を丈夫な牝馬とかけ合わせて子孫を残し、さらにより速く強い馬が生まれるようにと何十世代にも渡って交配を繰り返し、そうやって選び抜かれた血筋の連中がターフで競い合うんだ、まさに血のロマンだろ」
「じゃああれ全部親戚なんですか。え、それどころじゃないんですか」
「あたぼうよ、血筋にも流行り廃りってのがあってな、人気の種牡馬だととにかくそいつと種付けさせようってんで先週のGⅠなんか十八頭中の半分が兄弟だ。まあ母親は全部違うんで異母兄弟ってやつだがな」
「それはお父さん絶倫というか大変ですね。慰謝料とか養育費とか、認知とか親権とか」
「馬鹿かおめえは、結婚制度なんてのは人間だけの決まりだろ。馬の種付けは弱肉強食、如何にして強い遺伝子速い遺伝子を取り込むかってんで皆必死よ」
「それはまた一夫多妻の政略結婚みたいな」
「いい得て妙だが、ただ牝馬の方も毎年違う種を貰ったりするからな。父方の親戚だったり母方の親戚だったり、ああそんな変な顔をするな、それは大丈夫だ、インブリードってやつで遺伝学に基づいてやっておるからな。まあ確かに人間様のエゴってやつだが、でもおめえ、その人間ってのも実は神様によって操られてるんじゃないかと最近思うようになってな」
「突然なんです、まさか勧誘とか」
「違うから安心しろ。とにかく考えてもみろ、たとえばおめえの十代前のご先祖様、時代でいえば二百五十年か三百年くらい前の江戸時代だろうが、千と飛んで二十四人いるだろ」
「計算速いですね」
「じゃあ二十代前のご先祖様は何人かわかるか、室町時代の一夜虚しいなんて頃だ」
「その倍だから二千飛んで四十八人」
「馬鹿かおめえ、その千人にそれぞれ千人のご先祖様がいるんだぞ、てことは百万人だろ。なに驚いてやがる、そんなにいるどころか三十代前なら十億人、四十代前なら一兆だ。ああその通り、もちろん世界人口より完全に上で、ということはあれだ、やっぱり同じ血筋の中で何度も何度も血を重ねてるって訣で、そういう点では人間もインブリードを繰り返してんだな」
「はあ、インブリードですか」
「ほれ、運命の出会いとか赤い糸なんていうだろ。あれな、実は神様連中が、神様これどうします、誰とくっつけますかね。そいつはそうだな、頭はいいが運動音痴の血筋か、苦手分野を克服したいところだが頭の方に期待して、その辺に才女はおらんか、ブスなら一人、血統的にはどうだ、四〇の三〇か、ああそれでいい容姿は構わんでくっつけとけ、それからそこに野球の選手があまってたろ、体力と根性のある血統だが、知能と容姿をいじらんとノーキンの子孫ばかりになってしまうでな、手頃なところで女子アナなんてどうだ。神様またですか、その配合もううんざりですよ。じゃあ医者の家系なんてどうだ、あまってないか、怪我をした時の入院先なんてどうだ、娘が一人いる、それと頭のいい女医さんもいる、でも二人とも既婚者、まあそれは別に構わんで、『まちがい』ってことでその二人と交配させて子孫を残させろ、ああ二人ともだ。でも神様、托卵は旦那が可哀相じゃ、女医さんの旦那も学者の血統ですよ、娘の旦那も政治家一族だし、これ子孫が途絶えたらもったいないですよ。なあに心配するな、そいつらはこっそりごっそり外に血筋を残しておるからな、ほれ糸の先を見てみろ。あ、本当だ、しかもこんなに……。なあんてやってるんだな」
「よくわかりませんけど、師匠、酔ってます?」
なんて思わず訊いたりして、まあそんな感じでロマンとロマンスというのは密接な繋がりがあるようで、ないようで、ただ運命の糸というのは面白いもので、今日の登場人物もどこをどうしてくっついたのか、江東区は深川で同棲をはじめたばかりの初々しい男女、深川といってもいつもの民家ではなく、少し離れた築三十六年のマンションの一室、しかも初々しいといいながら二人ともそのマンションより長生きしているという中年のアベックでして、男の方が山田勇気、女の方は梅谷梢という名前でございます。
まあ今日のお客さん方は当然、手前の落語なんかはじめて聴くという方ばかりですが、これですね、普段の寄席でやりましても、そんな奴いたっけという感じで、一度も聞いたことがないなんて方も普段からおられるんですが、この山田勇気、なんのこたあない、職業は噺家、落語家で、芸名を鍵家閉蔵と申しまして、『茜の生涯』の主人公・鍵家茜の頼れる兄弟子でございます。
そうなんですよ、閉蔵あにさん、山田勇気なんてつまらない名前で、全然面白くないなんて思うかもしれませんが、いくら噺家ったって生まれた時から噺家だった訣ではありませんのでね、熊五郎だとか八五郎だとか、権助に定吉、鷲塚杢太左衛門なんて、そんな面白い名前の人間はまずいませんので、まあただ最近は事情が違うらしくてですね、キラキラネームとかいうらしいんですが、心が愛らしいと書いてココアちゃんとか、心の空と書いてなぜだかココア君とか、さらには星の心、お星様の心と書いて、まさかこれも、なんて思ったらばそちらはショコラ君だったりして、そんな三人が同じ一つのクラスにいて、しかもココア君とショコラ君は双子の兄弟で、ココア君はココアちゃんのことが好きなんですが、ココアちゃんはショコラ君のことが好きという、そんな恋模様があったりもして、学校の先生も大変だなあと思うんですが、ただ、その担任の先生の名前も、心を留める、心に留めると書いてなぜだかソウル君だったりして、そんなふうに子供の名前がどうとか話題になったりもしますが、まあ名前なんてのは時代によって移りかわるものでして、閉蔵の場合も山田勇気というごくごく普通の、世代相応の名前でございます。
一方のその閉蔵の同棲相手、梅谷梢という女性なんですが、こちらも実はお馴染みでございまして、誰あろう、オハコ十八番の結成当時からの箱入り娘で結成当初からの永遠のお局様、紙切り芸の梅ヤッコ姉さんと申しまして、主人公・鍵家茜の頼れる仲間なんですが、梅谷梢がウメヤコズエとも訓めるというんで梅ヤッコと名乗っていたりするんですね。そんな二人の同棲ですので、いつの間に、なんですが、この二人はそもそもが同い年の同世代で、梅姉さんは外国語短大を卒業してすぐに紙切りの師匠に入門しましたので、閉蔵よりもだいぶ先輩格で、まああのあれですよ、この梅姉さんというのは英語がペラペラなんですが、大学の単位を取得するためにアメリカに留学していた時に、生まれてはじめて日本の紙切り芸を目にするんですね。あちらさんの、日本語や日本文化を専攻する学生のための鑑賞会なんですが、そこに招かれた師匠が流暢な英語を話しながらリクエストを軽々とこなし、紙を切って切って切りまくるもんですから、オー、ワタシのカミサマーという感じで感銘を受けて、それで入門を決意したんですね。
世界は広いのか狭いのかわかりませんが、一方の閉蔵は大学に五年いて、しかも社会人を数年経験していて、その外回りをさぼって寄席に立ち寄ったのがきっかけで落語にはまったという社会人からの落伍者ですので、その分だけ芸人の世界では後輩ということになって、それでも寄席やなんかで顔を合わせる機会も多く、昔からお互いに相手の存在を意識していたんですね。ただ、そのあとが大問題で、二人とも外に向かっては気丈な感じなんですが、こと自身の恋愛に関しては晩熟も晩熟の引っ込み思案、好意を抱きながらも気持ちを伝えることができないという、そんな草食時代のウブな間柄を長らく続けます。一応二人とも交際経験なんてのは人並み以上にあって、モテるモテないでいえば前者の方だったんですが、どれも受け身の交際、受け身の恋愛ばかり。特に梅姉さんなんかは高校時代に三人の男子に同時にいい寄られ、それも学年一の秀才と学年一のスポーツマンと学年一のイケメンで、その三連単が熱烈にアプローチしてきましたので、選ぶことも断ることもできず、ポケベルを駆使して三人同時に交際したなんて輝かしい歴史があったりするんですが、ただ、実はその三人とは別に気になる本命の存在がいたりするんですね。ところがそちらは心の中に秘めるだけで話しかけることすらできず、自分のポケベルの番号を紙に書いてですね、廊下ですれ違ったりなんかした時にいつでも渡せるようにと毎日ポケットに忍ばせていたんですが、結局渡せないまま卒業を迎えてしまったというような淡い恋でして、そんな優柔不断で消極的な恋愛傾向を、アラフォーになってなお引きずっているんですね。
単純に告白すれば済むだけですし、それから倍近く人生経験、さらにはチョメチョメ経験を積んでいますので、普通ならなんとかなるんですが、そこは寄席という特殊な社会、梅姉さんの方は自分が芸能の世界での先輩ですし、同い年とはいえ早生まれで、学年が一つ上だったりしたもんですから、あのー、結構こういう上下にこだわる人ってのは普通にいるもので、同い年の夫婦、同じ干支の二人なのに喧嘩なんかしようもんなら、「あたしの方が学年は一つ上なのよ!」なんて五十六十すぎてまで学年にこだわるなんて笑い話がありますが、まあ手前の親戚だけかもしれませんが、そんな感じで梅ヤッコの方が芸歴も学年も上ということになると、これはなかなか難しい問題で、一方の閉蔵も、後輩の分際で先輩に告白するなどもってのほかという保守的な考えがあって、しかも閉蔵は長らく二ツ目という、五百万下のクラスだったんですが、梅ヤッコの方はとっくの昔、オハコ時代に真打ちのオープンに昇進していて、一応ですね、紙切りや講談にもそういう序列があって、寄席芸人にとってはこの序列は絶対ですので、二ツ目の男と真打ちの女が交際するなんてのはまずありえない話で、その逆はどういう訣か全然構わないんですが、とにかく自分が昇進しない限りはなにをするのも到底無理という感じだったんですね。
そんな事情で、元々が草食系の上に芸人の序列なんかもシステムオーディオになりまして、んー、なんか違いますね。ミニコンポでもないですし、CDプレイヤー、ウォークマンよりももっと昔ですか、そうなるとラジカセ、ああ、足枷になりまして、そんなイトシコイシといった感じのはっきりしない関係が何年も続いたりして、寄席やなんかで会いましても、「あねさん、お先に勉強させて貰います」「あ、どうぞ」とか、「お先に勉強させて貰いました」「あ、いえ」とか、あるいはですね、
「あのー、あねさん、来週の土曜の夕方なんですけど、独演会をやることになりまして」
「あら閉蔵君、よかったじゃない」
「あ、いえ、独演会っつっても近所の蕎麦処の座敷でして、手前一人で三席なんてケチな会なんですが、あのー、もしお暇でしたら、どうですかね、あねさんに足を運んで頂ければこちとらも励みになったりするんですが」
「あら、ごめんなさい。土曜日は特番の収録があって、茜から聞いてなかったかしら」
「あ、いえ、そういうことなら全然大丈夫ですんで、どうせ詰め込んでも三十人っぽっちが精々ってな狭い店ですし、独演会たってちょいとツケをまけて貰うかーりのボランティアっていうか、『時そば』ともう一つ二つ、適当にやってくれよってなもんで、しかもこの時期に『時そば』やれってんで、それなら残りも『目黒のさんま』と『長屋の花見』にしてやろうかなんて、その程度の適当な会ですんで」
「あら、でもそれはそれで楽しそうかも」
「いえ、全然楽しくないですんで。しかも肝腎の蕎麦がいまいちというか、コシがなくて軟弱というか、その上、蕎麦つゆがどうにも甘ったるいというか、これ隠し味に蜜とかココナッツとか入ってんじゃねえのってくらいの甘さで、信州出身のあねさんには不満かもってな店だったりしますんで、ほんと変なこといってすいませんでした。あのー、それじゃこれで、失礼します」
とまあ、その程度の会話が過去最長記録のぎりぎりの限界で、目と目が合おうものならどちらからともなく目を逸らすというような、互いに向き合っても蟹のように横にずれてしまって触れ合うことがないというような関係だったんですが、ただですね、「この蟹や、何処の蟹、百伝ふ、外国に横去らふ、肌赤らけみ、茜の蟹そ」なんてな具合に主人公の茜が卒業して外国に旅立った頃にですね、閉蔵の方にゲイ疑惑なんてものが浮上して、弟弟子のピックとそういう仲なんじゃないか、抱き合ってたらしいぞなんて噂がその界隈に流れます。それを聞いた梅ヤッコ姉さん、予想外の衝撃で寝込んでしまうんですが、それが逆に功を奏したのかソウをコウしたのか、オハコの連中が心配して梅姉さんの部屋を訪れて、
「なんや梅おばはん恋煩いかいなしょーもな」
「ねえねえ梅ちゃんの相手ってどんな人どんな人。あ、この人なんだ、へえ……」
「あ、でもなんか最近変な噂があるらしくて。あ、これいわない方がよかったですか」
「しかし梢殿、相手がゲイなら好都合、これまでとは違い誰に憚るでもなく気楽に」
なんて感じで励ましを受けまして、その辺はまた『梅さんちでルネサンス』という噺になるんですが、それで気が楽になったのか、二人の距離が少しずつ縮まってまいります。
多分神様連中というか粉山椒師匠がですね、
「神様、これどうします、この梅谷梢って女。すっかり行き遅れちゃってるんですけど」
「どんな女だ」
「えーと、長野県の出身で、地元では諏訪姫様以来の美少女なんて有名だったんですけど」
「ああ、あの紙切り芸の女か、あれは確か英語が得意なはずだから、異国の男なんてどうだ」
「神様、最近国際結婚多すぎませんか」
「仕方ないだろ、最近は人口爆発でこっちの仕事も山積み、おかげで未婚化・晩婚化なんて批判されたりもするからな。日本は少子化なんていうが、世界を見渡せばあまってる奴なんて五万十万どころか五億十億といて、ノルマを消化するには一番手っ取り早いだろ」
「でもこれはやめときましょうよ、こないだもレベッカさんですか、意味もなく五十嵐家に嫁がせて、あの噺あんまり評判よくなかったですよ」
「そうなのか、まあそれなら職場恋愛はどうだ、寄席の連中ならあまってるのもいるだろ」
「えーと二階堂昇ってのが、ああ駄目ですねこれは、糸がもつれちゃって神田うららってのとくっついてますね」
「おいおい、そこに山田勇気ってのがいるが」
「それもやめましょうよ、また隣町の神様連中に笑われますって、あいつまた美女と野獣だよ、いつもワンパターンだよな、あそこの神様、あれ絶対自分の願望だぜ、なんて」
「それくらいいわせておけ。あいつらだって最近は、妖怪女と成金男みたいな組み合わせばかりで、女子狙いのドラマならまだ許せるが、現実となるとかなりきついものがあるからな。それに比べて美女と野獣ってのはいつの時代もウケがよくて普遍性があるだろ。よし、ともかくその二人をくっつけて、どうなるか高みの見物だ」
なんてな感じで運命の手綱を操ったのかもしれませんが、ただ、二人が同棲するまでには長い時間が必要で、とにかく閉蔵の昇進を待たなければなりませんし、その閉蔵もどういう訣かずっと師匠の家に居候していたりするんですね。普通はそういう住み込みは見習い期間と前座時代くらいで、二ツ目になると近所にアパートやなんかを借りて、やっと解放されたーなんて喜んだりするんですが、閉蔵の場合はまったくの逆で、師匠の家がよっぽど居心地がよかったのか、「やだやだー、絶対残るー、これからもおかみさんの手料理が食べたいー、みんなと暮らすー」なんて駄々をこねましたから、師匠の紀伊ノ助もさすがに驚いて、「おまえにそういう一面があるとは知らなかったが、まあ内弟子がピックだけになるのも不安だからな。よし、そんじゃあこれからもこき使うから覚悟しておけ」なんて答えまして、
「早速だが、そこに湿布があったろ。こらこら、痛い痛い、それはしっぺだ。わしがいったのは湿布薬だ。ん、なんだそれは、馬か、牛か、猫か、狛犬か。猫の真似なんかして縮こまって、どういうことかとも思うが、両腕を揃えて床につけてるところなんかを見るってえと、馬鹿野郎、スフィンクスか。湿布薬とスフィンクス、湿布薬とスフィンクス、湿布薬とスフィンクス、似てるようでいてまったく似てないじゃあないか。二ツ目にもなってその程度とは情けないが、しかしすぐに反応した点だけは誉めてやらにゃならんな。まあそんなことはどうでもいいんだが、わしが取ってくれと頼んだのは肩に貼る湿布薬だ。ああそれだそれ。最近どうにも肩が凝っていかんで、それを肩に貼っとくれ」
なんて頼みますと閉蔵も大喜びで、両手を左右に、こう下斜め四十五度に広げて、突然ビューンといいながら飛び上がりまして、
「こらこら、わしは肩に貼っとくれといったんだ。誰がカタパルトをやれといった」
なんてくだらないやり取りがあったりして、本当に心底くだらないやり取りなんですが、そんな感じで二ツ目になってからも居候を継続していましたので、後輩連中も兄弟子を差し置いて外から通う訣にはいかないってんで、やはり二ツ目になってからも師匠の家に留まり、そうして近所でも評判の愉快な一門ができ上がった次第なんですが、ただ、その鍵家閉蔵もようやく念願の真打ちに昇進して、そうなると今度は自分が弟子を取る師匠の立場になりますので、まあそれまであにさんと呼んでいた連中はそれからもあにさんと呼び続けるんですが、それ以降に落語家になろうなんて稀有な連中は皆、閉蔵師匠なんて呼ぶことになりますので、「閉蔵、いつまで居候してやがる。早く出てけ、赤ー出てけ」なんて怒られて、ようやく追い出されて独立した先が、深川鍋の冷めない距離、その近所のマンションという訣でございます。
えー、随分と寄り道をしましたが、ここで私もようやく本題に入るつもりになった様子で、二人が交際をはじめて疑惑も解消し、さらには一気に同棲にまで至ります。ただ、男女が同じ一つの部屋で暮らしはじめるなんてことになりますと、これは当然色々と揉めたりして、そもそも性別や性格の違いがある上に、まったく違う家庭環境で育った二人ですので、
「ちょっと、なんでバスタオル洗ってないのよ。なによ一昨日って、私は昨日のこといってるの。昨日の洗濯係、勇気君でしょ」
「別にいいだろ一日くらい。大体梢はなんで毎日洗うんだよ。色も落ちるし毛もすぐ駄目になんじゃねえか、普通は一週間にいっぺんだろ。不潔っておめえ、そんならトイレのタオルはどうなんだ。おめえ俺が地方に行って二、三日留守にしてもそのまんまにしてたりすんだろ。なに、それが汚ねえってんだよ。使う使わねえじゃなく、トイレのタオルは毎日洗うもんだろうが。雑菌がうようよしてんだぞ、気分が悪いじゃねえか」
「それはバスタオルも同じでしょ。毎日体を拭くのになんで洗わないで平気なのよ」
「そりゃおめえ、ちゃんと毎日綺麗に体洗ってるし、大体バスタオルは自分専用だろ、トイレのタオルとは意味が違えんだよ。いくら同棲っつっても、そこはちゃんとしとくべきだろ」
「あら、そういうことなら勇気だって、トイレのあとで蓋閉めないじゃないの」
「あの蓋は飾りみてえなもんだろ、なんで毎回毎回閉めねえといけねえんだよ」
「不潔だからに決まってるじゃない、そのための蓋でしょ。細菌が繁殖したらどうするのよ」
「閉めても閉めなくてもそんなの一緒だろ。毎度馬鹿馬鹿しいじゃねえか」
「一緒じゃないわよ、それに見た目の印象も全然違うでしょ。閉まってるだけで清潔感を演出できるのよ、開けっぱなしのトイレとは雲泥の差じゃない」
「なにが雲泥の差だよ、変なことにこだわりやがって。しかもトイレだけに雲泥とか」
「なによそのいい方、別にそんなつもりでいったんじゃないし、変なとこにこだわってるのは勇気の方でしょ。大体あんた年下なんだから、ちょっとは私のいうことに従いなさいよね。いつもいつも俺が俺がって、つき合う前はきょどきょどしてたくせに」
「年下っつっても今は同い年だろ」
「同い年でも学年は一つ下でしょ、私の方が先輩なのよ」
「この年でなに学年にこだわってんだよ、今さら上も下もねえだろうが。大体、夜は俺が上になったりおまえが上になったりで」
「いやん、急にそんなこといわないでよン……」
「あ、ああ、悪かった、今のはナシにしてくれ」
「もう、勇気ったらン」
「ちっ、なに甘ったるい声出してやがんだ、まったく」
「なによそれ、人がせっかく許してあげようって気分になったのに」
「許すも許さねえもねえだろうが、大体おめえ、タオルっていやあよ、洗面所のタオルはどうなんだよ。ああ、洗面所だよ。おめえなあ、俺は洗面所のタオルは一人一枚、それも朝晩取っかえなきゃ気持ち悪くて仕方がねえんだよ、最初にもそういってあったよな。だろ、それなのになんだ梢、おめえ、俺が気づいてねえと思って勝手に俺の使ったりしてんだろ」
「確かにそういうこともあるけど、でも勇気のタオル手前にあるんだもん」
「いくら手前にあるからって、他人のタオルは他人のタオルだろ、なんでそれを間違えんだよ。大体、絶対に間違えないようにって、そんでちゃんと色分けしたじゃねえか」
「色分けって、むしろそれがわかりにくいんじゃない」
「なにがわかりにくいんだよ。梢のタオルはベージュ色で、そんで俺のはカーキ色だろ」
「そ、そんなの間違えるに決まってるでしょ。なんで、なんでそんな近似色選んだのよ。青と赤とか、水色とピンクとか、それなら私だって間違えないわよ」
「俺はなあ、そういう派手な色のついたタオルで顔拭くのが大っ嫌えなんだよ。だからわざわざベージュとカーキで揃えたんじゃねえか。おめえだってシックで落ち着くとかいってたろ」
「それはそうだけど、でもまさか間違っただけでぐちぐちいわれるなんて思わなかったし」
「俺だってそうだ、たかがバスタオル如きで」
「それは完全に不潔でしょうが!」
「ならタオルだって不潔だろうが!」
そんな感じでどうでもいい喧嘩なんですが、まあそうやって喧嘩しましても好き合っている男と女でございますので、そのまま別れるなんてことはなく、二人でタオルを買いかえようなんて話になりまして、
「あら、これいいんじゃない。ほら、白が勇気でピンクが私、それなら間違えないわよ」
「ん、ああ、これは駄目だな」
「じゃあこっちは?」
「コットン百パーセントか。これも駄目だな」
「もう、なんで駄目なのよ」
「そりゃおめえ、タオルなんかでまた喧嘩したくはねえからな。もう木綿のは嫌だ」