寄席『マッハポリス』
えー、世の中には落語好きなんていう人種がいて、今の時代はあまり一般的とはいえなくなっているのかもしれませんが、でもまあまあ、皆さん方は落語が好きでこうして寄席にきている訣で、それは正常、普通なんですよ。ところが落語好きの中にごく稀に、聴く側ではなく演じる側に回るという、そういうかわり者がいたりするんですね。ええ、かわり者なんですよこれが。だって人との会話で落語が好きなんていうと、普通は落語を聴くのが好きなんだと解釈しますよ。あ、この人高尚な趣味を持ってるのね、きっと教養もあって文化に対する造詣も深くてユーモアのセンスもあるんだろうな、ステキっ、なんてのが世間一般の共通認識でございますが、違いますか、それがですね、俺落語が好きなんだよね、へえそうなんだ、うん、自ら事の姓名はー、父は元・京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光、母は千代女と申せしが、我が母三十三才の折、ある晩丹頂の鶴を夢見て童を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でし時はー、なんていきなりやり出したら、うわっ、ちょっとこの人とは距離を置いた方が、なんてことになって完全に変人扱いですよ。下手すると通報されかねないという、まあそこまでではないかもしれませんが、えー、これから申し侍りますのはそんな落語を演じる側に回った連中の物語でして、ご案内の大河落語『茜の生涯』、主人公の小林茜が夏の終わりに誕生日を迎え、やっと十九才になったばかりという頃から噺がはじまります。その日もいつもと同じようにキャバクラの研修という名の落語家の修行に勤しんでいたんですが、
「あのー、オーナー、ちょっと話があるんですけど」
「おや、なんだいフランソワちゃん、また給料の前借りかい。それともその思いつきの源氏名をかえたくでもなったかな。ん、そうじゃない、違う、それじゃあなにかな、今日は確かチーフの閉蔵と同伴で浅草に行ってたはずだが。ん、見た、見ちゃった、見ちゃったってなにをだい。うん、うん、ああ、はいはいあれか、あの座布団を裏返してメクリをめくる仕事か」
「それなんですけど、いつもあっち側はVIP席なんで絶対に見たら駄目で、政財界の大物がお忍びでいたりするから研修中は顔を向けるのすら厳禁ってきつくいわれてて、それでこれまで一度も見たことなかったんですけど、今日、はっきり見ちゃったんですよ」
「ほお、見てしまったか、ついに見てしまったか。それで、見てどう思ったかな。うん、うん、ほほお、ここはキャバクラではない、なるほどなるほど、うん、ではここはなにかな」
「ここ、もしかしてですけど、キャバクラの店じゃなくて落語家の家ですよね。しかもあたし、これまでずっと、キャバクラの研修じゃなくて落語家の修行させられてませんでした?」
「ううむ、この半年間ずっと気になっておったんだが、そうか、今日ようやく気づいたか」
「今日というか、まあこれまでも、なんか変だなあとは薄々感じてたりして、全然イメージしてたキャバクラと違うし、同伴出勤とかいっても、オーナーと上野支店とか、ボーイのピックさんと池袋支店とか、マネージャーの門扉さんと新宿支店とか、用心棒の南京錠さんと横浜にぎわい座支店とか。それで今日も閉蔵チーフと浅草支店だったし、なんか絶対違うなあとは思ってたんですけど、今日見ちゃってそれで確信したというか」
「そういうことなら仕方がないが、さてフランソワちゃん、それに気づいたとしてこのあとはどうするかな。もちろん別のお店に行ってもいいんだが、どうだい、うちにこないかい。ああいやいや、門をくぐるというやつでな、正式に落語家を目指してみないかということだ」
「でもあたし、落語なんてここくるまで一度も見たことなかったし、あれが落語だなんてのも今日まで全然気づかなかったくらいだし。まあでも、せっかく半年もインターンしてた訣だし、ちょっと面白そうかなあなんて思わないでもないですけど」
「まあ入門したとしてもだ、最初は見習いで、それが済めばようやく正式に入門が認められて前座ということになるんだが、ああ、前座といってもわからんかな」
「下っ端のボーイさんですよね、支店でいつも怒鳴られてる。知ってるもなにも、だって半年もいるんですよ。オーナーだって、オーナーって呼んでるのあたしだけで、みんな師匠とかあにさんとか呼んでますし、その区別はちょっとわかんなかったりしますけど」
「ああ、それはな、自分が前座として正式に入門した時にすでに真打ちだった人にはお師匠さんで、そうじゃない先輩だとあにさんだ。そのあとでその先輩がいくら真打ちになっても名人上手と呼ばれるようになっても、あにさんはあにさんのままだったりするし、その逆も然りだ。まあ自分の入門と相手の昇進と、どっちが先かわからん時もあるが、そういう時は恐る恐るだがな、あのー師匠、自分は何年の春なんですが、なんていうとな、それだけで意味が通じて、ああわしか、わしは何年の秋だ、ああそれはちょっと困ったことに、ああいやいや、それは全然構わんでな、今日からはあにさんでいいあにさんで、なんて、まあそんな会話をしたりするんだな。特に仕事で関西に行ったり、あっちの人がこっちにくるなんて時は、それはまあ楽屋はそんな会話だらけで一種異様だったりするんだがな」
「へえ、そうだったんだ」
「まあわしも実はその辺はようわからんのだが、知恵袋なんかにそう書いてあったんでな」
「え、なんですか、知恵袋?」
「いやいや、まあそれは無視して構わんが、そういうのは追々覚えていくとして、とにかく入門を目指すとなるとそれはそれで大変だ。まあこれまでも無料の社員寮とかいって住み込んでたから、それはそのままだし、廊下の拭き掃除に風呂掃除にトイレ掃除、庭の草むしりに犬のブービーの散歩、料理の手伝いに買い出しなんかも、まあ今まで通りだな。太鼓の練習も、まあ一通りできるようにはなっているし、出囃子もそこそこは覚えたんだったかな」
「あ、はい、サービスタイムの合図ですよね。梅は咲いたかとか、鞍馬獅子とか、まかしょとか、箱根八里とか、パーマンはそこにいるとか」
「ふむふむ、噺はどうかな、いくつくらい覚えたかな。ああほら落語だ、客との会話の練習といって閉蔵がしつこく教えておったろ。一人で顔を右左に向けたりするあれだあれ」
「ああ、それなら『饅頭こわい』に『青菜』に『道灌』、『つる』と『やかん』と『千早振る』。あとは『平林』と『三方一両損』ですかね。今は『天狗裁き』のお白洲の場面まで」
「半年でそんなに覚えたか。まあ最初のうちは数ではなく、如何に基本を身につけるか、如何に落語の話法に慣れるかということなんだが、はてさて、とりあえずその中からなんでもいい、一つやってみてくれないか。ああ、そうだ、今ここで、そう、もちろん一人でだ。おおい閉蔵、ピック、ちょっとこっちへこい。ああ今日はあれか、南京錠と門扉はきておらんのかな」
「へえ、南京錠あにさんは余興の仕事でリングの上で一席。門扉あにさんは動物園のイベントとかいってましたね。なんでも虎のキグルミを着てライオンの檻に入るとか。あ、ライオンのキグルミを着て虎の檻に入るんだったかな」
「まあそれはどちらでも構わんが、しかし南京錠の奴、昔のコネでまたプロレスの営業か。その筋では人気なんて聞くが、来年の春には年功序列で真打ちだというのにプロレス落語ばかりというのはなあ。法律でプロレスが禁止されたりしたらどうするつもりか、妻も子もいるというのに」
「禁止されるんですか?」
「そんな訣はないがな。とりあえず今いるのは二人だけか」
「へえ、さっきまで戸ノ助師匠んとこの穴ノ助君がきてましたけど、なんかギルドの仕事があるとかいって帰ったんで、あ、でも師匠、フランソワもいるんで三人ですよ」
「そのフランソワちゃんだが、実はかくかくしかじか、ついに気づいたらしいんだな」
「はいはいやっと気づいたんすね。いやあ、あまりに鈍感なんで大丈夫かなあなんて」
「しかしさすがに半年も続くとなると、これは逆に見どころがあるというか、なあ閉蔵」
「いや、それは全然意味がわからないんですけど。なにが逆なんですか」
「でもおまえ、色々とフランソワちゃんに噺なんぞ教えておったが、どうだその辺は」
「どうだといわれても、ただ、かなり強引というか、無理やり噺を聴かせるというか、たとえばカミシモなんかも適当なんですが、それに文句をいわさないというか、聴く方の脳内で勝手に処理しろというような、そういうトリックというかレトリックみたいのがあって」
「ほほお、それは面白い。まあ実はだな、これからそのフランソワちゃんに一席やって貰おうと思うんだがな、それで客になったつもりで聴いて貰いたいと思って呼んだんだが」
そんな訣でそれから紀伊ノ助と閉蔵とピック、それにおかみさんも加わって四人が客として座り、源氏名フランソワちゃんがはじめて落語を披露したんですが、
「ほおほお、これは、うーむ、掘り出し物かもしれないな」
「師匠、掘り出し物って、やっぱりカミシモも全然でしたし、人物も誰が誰やらで」
「いやいや、おまえ最後ちゃんと笑っておったろ、違うか。うん、うん、まま、確かにそうだな、あまりに強引で苦笑いするよりほかにないという感じではあったが、だが落語なんて一度も聴いたことがなかった子がわずか半年で、それもそれを落語と知らずして覚え、それでここまで惹きつけるというのはどうだ。たとえば今のを高座でやったとして、まあ前座は練習風景を見せるようなもんだが、そうじゃなくてもだ、金返せなんて怒る客がいると思うか」
「それはまあ、基本は滅茶苦茶ですけど、変に迫力があったというか」
「その迫力だ。大体『饅頭こわい』で迫力を出せるような噺家がどれほどいるかだ。もちろん爆笑ということなら大勢いるが、迫力となるとわしには到底無理だし、思いつくのは両国のあにさんと、こないだ腹上死で亡くなった海千山千流の家元だな、それに上方だと小ダシ巻の野郎くらいで、あとはそうだな、へべれけに酔った時の粉山椒あにさんか。あのあにさんは酔ってる時は必ず前座噺で、有無をいわさず強引に落とすからな、あれは誰にも真似のできない迫力がある」
「ああ、あれ酔ってたんですね。それにしては前座噺以外見たことないような気も」
「それはいいんだが、どうだ閉蔵、とりあえずカミシモをちゃんと覚えさせて、あとは所作だな。これがなかなか言葉ではいい表せない、文字としてもどう表現していいかわからんというくらいに難しいんだが、それがこなせたら前座ということで、全然いけると思わんか」
「見習いもまだ半年ですし、だいぶ早いと思いますけど、師匠がそのつもりなら」
「よし、じゃあそれはおまえに全部任せるから、みっちり仕込んでやってくれ」
「え、いや、そこは師匠じゃないんすか」
「おまえも二ツ目にあがって何年だ、そろそろ慣れてきた頃合いだろ。ああ、具体的な数字はいわんでもいい、設定を合わせたりするのが面倒くさいからな。とにかく、これからはちょいと後輩の指導というやつだな、それを頑張ってみろ。それと、ピックもそろそろ二ツ目を視野に入れんといかんでな、張り合う相手がいた方がいいと思うんだ」
「あ、師匠それ、昇進ってことですか。てことは毎日池袋に通わなくてもよくなるんですか」
「まあ実際に昇進させるかどうかはわしの一存で、おまえの頑張り次第だが」
「ああ、頑張ります頑張ります。いやあ、あの悪夢のような雑用から解放されるかと思うと、そりゃもう頑張りますよ。昇進したらもう怒鳴られなくても済むんですよね」
「怒鳴られないようにちゃんと前座仕事をこなすのが一番なんだがな。それに昇進が無理だと思えた時には、まま、破門ということもなきにしもあらず。今後の一年二年が正念場だぞ」
「あ、ああ、二年はちょっと長い気もしますけど、頑張ります頑張ります、頑張れるかな」
「とりあえずフランソワちゃん、うちはほかとは違って大いに放任主義だがな、前座にあがるとなると毎日寄席に出入りして今のピックみたいに雑用の仕事なんかをこなすことになる。それが嫌で辞めるなんて奴も大勢いて、厳しい世界なんだが、どうだい、耐えられそうかい」
「自分でいうのもあれですけど、忍耐力はあるというか、喧嘩では負けないですし」
「喧嘩は絶対に禁止なんだが。ん、なに、うん、相手が先に、ああ、それも駄目だが、うん、うん、ああ凶器か、その場合は、さすがに正当防衛なら仕方ないか。まあそんな場合があることを考えなきゃいかんというのはなにやら不安だが、それも一興。それにこれまでも、同伴出勤なんていって前座仕事の真似事をやらせておった訣で、本来ならば見習いを楽屋に入れるのはルール違反の御法度なんだが、特にトラブルなんかは」
「あ、なんかお尻触られてボディに一発入れたりとかはしましたけど、駄目でしたかね。東京のキャバクラはおさわり禁止なんで、店間違えてんじゃねえよ、ぶちかまっぞ、なんて」
「そんな客がいたか。まあ客ではなく客を相手にする側だと思うが」
「それにテレビで見たことある人なんですけど、真面目なイメージとは全然違ってしつこく連絡先訊いてきたり、あと、訊いてもいないのに愛人に毎月いくら払ってるとか自慢してきたりして、まあ無言で睨みつけて黙らせましたけど」
「うーむ、何色かは知らんが、そういうことならむしろこちらも安心というか、いやいや、女の子を弟子に取るというのは難しい問題でな、そういう間違いが起きないようにと気を使わないといけないんだが、フランソワちゃんに限ってはそういう必要はなさそうだからな。うちの連中も、まあ最初だけは興味本位で騙したみたいだが、特になにもなかった訣だし、なにもなかったんだよな。ん、なんだ、誰だ、まさか風呂を覗かれたとか夜這いをされたとか。閉蔵か、ピックか」
「師匠、いくらなんでもそんなことしませんって。なあピック」
「ええ。あのー、自分そういうの疑われるの慣れてますけどね、でも自分、可愛い系のぽっちゃり系が好きなんで、確かにフランソワちゃんも美少女系ですけどね、でもほら、綺麗系の整ってる系のスレンダー系で、しかも金髪系のヤンキー系なんで、そういうのはちょっと苦手系というか、あんまり近づきたくない系というか」
「なんだそのなんとか系ってのは。まあそういう表現はちょいと面白い感じがして、あとでこっそり教えて貰いたい系なんだがな」
「師匠なにいってんですか、ピック如きに。それよりフランソワ、なんだその、いってもいいかどうかってのは。もやもやすんじゃねえか、早くいっちまえ」
「いや、あの、用心棒の南京錠さんなんですけど、腕相撲しようってしつこくって」
「ああ、あいつは元レスラーだからな、相手が誰であってもそういう勝負をしかけたがる系なんだが、それが嫌だったかな」
「いや、だって腕相撲って、手と手を繋いで押し合うじゃないですか。それでもし妊娠とかしたら、どうするんですか」
「ん……、んーと、はてさて、これは困ったな。えーと、とりあえず弓子、こういう時はどう答えたらいいんだ。おまえ、この半年間キャバクラのママさんを演じておったろ」
「そうねえ、まあフランソワちゃん、茜ちゃんはそういうところはそうなのよねえ。潔癖というか純情純朴というか、でも私もここに嫁ぐまではそんな感じだったし?」
「なにをいっておるんだ。見合いの席で真っ先に経験人数を口にしたくせに。まあ、この人は隠し事をしない正直な人だなんて、そう思って逆に好感を持ったし、それが青い海、正解だったりもしたんだがな」
「あらそうだったの。まあ私もいきなりそんなこといってみて、どういう反応をするか試したりもしたのよね。だってほら、噺家さんなんて普通じゃない職業だし、最初は絶対断ろうと思ってて、あの日も行くのためらってたりして、でもお母さんに相手の人も同郷の新潟だからとか、市会議員の吉川さんの紹介だからなんていわれて仕方なく?」
「まあこっちも師匠から強引に連れ出されてな。ああ、吉川さんは当時は師匠の後援会の副会長をしておって、師匠の面子を潰す訣にはいかないというんで渋々だったんだが、しかしその吉川さんが今じゃあ総理大臣だ。世の中どうなるかわかったもんじゃないな」
「そうよねえ。あの仲人の吉川さんが総理大臣なんて、あなたと結婚したこと以上に驚きっていうか、まさか自分の人生の中で総理大臣と知り合いになるなんて普通思わないわよね」
「まま、とりあえずフランソワちゃんの方なんだが、こういうのはこちらの口からはなあ」
「そうねえ、茜ちゃん、とりあえずだけど、普通に腕相撲をしたくらいでは子供ができたりはしないから、そこは安心していいわよ。南京錠君もそういうつもりはなくて、ただ単に力比べをしたかっただけというか、茜ちゃんの世界でいえば、喧嘩上等のタイマン勝負?」
「あ、そうだったんだ。それなら安心というか望むところというか」
「安心したみたいでなによりだが、とにかく、かなり脱線してしまったが、どうだいフランソワちゃん、うちでちゃんと修行してみるというのは」
「そういうことなら、オーナー、あ、師匠っていうんですよね、師匠、宜しくお願いします」
そういった次第で茜が見習いとして入り、二ツ目の閉蔵がたっぷりと落語の基本を仕込むんですが、それから半年か一年か一年半か、まあ一年半で都合二年ということにしておきますか、実際は大体それくらいですのでね、そうしていよいよ見習いを終えて前座になる、正式に入門が認められる、協会の名簿に名前が載るということになりますと、
「フランソワ、実は先ほど閉蔵とおまえの稽古を見ておって、いよいよ前座にあげてもいい頃合いじゃないかと思ったんだが、どうかな。前にもいったが、前座になると寄席の雑用もこなさなくてはならなくなるし、これまで以上の煩雑さなんだが、どうだい自信のほどは」
「喧嘩なら負けないんですけど、落語で勝負ってことなら勝てる相手がいないというか、ピックあにさんになら勝てそうな気もしますけど、でもあまり嬉しくないというか」
「こらこら、噺家同士で勝敗を競うなんてのは意味のないこと、前座になるということは高座にあがれるということ、相手になるのはお客さんで、お客さんが勝負の相手だ。まあ雑用のご褒美で単に場を温めるだけの役目なんだが、実際にお客さんの前で噺をするとなると、それは普段の稽古とは全然違って恐ろしくもあり楽しくもある、一度それを味わってしまうともうそこからは抜け出せないというような中毒性があったりもして、まあその中毒性だな、それが芽生える奴はちゃんと真打ちまで続けるし、そうならない奴はさっさと辞めた方が無難というやつで、一種の試金石だな。ピックなんかもああ見えてそういう中毒になった一人でな。まあ中には中毒になりすぎて落語廃人と化すような輩もいるが、寄席なんてところは社会の中の隔離病棟みたいなもんで、毎日大勢の中毒患者を受け入れてくれてたりするんだがな」
「なんか思ってた以上に怖いんですね、落語の世界って」
「まあどこの世界も、たった一つの道を突き進む、突き詰めるというのは怖いもので、ああ、わしからするとおまえも怖かったりする。いやいや、日蔭育ちとかそっちのことじゃなくて、趣味の機械いじりの方だ。こないだ休みをやったら、おまえ朝から晩まで庭で自転車をいじっておったろ。あの姿は無我夢中を通り越して一心不乱、鬼気迫るもんがあったぞ」
「ああ、あれですか。見習い中はバイクも原付も禁止なんで、せめて電動自転車、アシスト自転車の性能をあげようと思って。まあ思い通りにはいかなかったですけど」
「いやいや、あのあと乗ってみたんだが、軽く五十は出て心臓が止まるかと思ったぞ。まあブレーキの方も改造してあったみたいなんで、それでことなきを得たんだが。あれはさすがに法律違反じゃないのか、ヘルメットとかナンバープレートとかいるんじゃないのか」
「まあパワーを九倍まであげたんで完全にそうですけど、でもばれなきゃいいかななんて」
「いくらなんでも、あれはばれると思うぞ」
「うーん、そういうことならもう少し性能をあげて、逃げ切る方向で?」
「いやいや逆だ逆だ」
「でもせっかくあそこまで改造したし、そういうことならパワーを調節できるようにして、通常モードとばれない程度のお急ぎモードと、緊急時の爆走モードに分けて……」
「確かに突き詰めるというのは怖いもんだな。まま、それはいいんだが前座の話だ、おまえが前座になるというな。そうなると源氏名ではなく芸名をつけなきゃならんのだが。ああ、まあ駄目じゃないが、鍵家フランソワというのはさすがに。おまえはいいかもしれんが、鍵家フランソワ、師匠は鍵家紀伊ノ助、この人です、なんていわれると、わしの方が恥ずかしい」
「ああ、じゃあコンボイとか? ゴールド・ライタンとか?」
「鍵家コンボイ……、鍵家ゴールド・ライタン……、おまえ、本当にそれでいいのか」
「やっぱ鍵家ってつけなきゃ駄目ですか」
「駄目ということもないし、鍵亭や鍵々軒なんてのもいるが、ただ、わしの師匠、鈴ノ助の門下はすべて正統の鍵家で揃えておるからな。しかも鍵に関係ある名前というのが約束事でな、わしは鍵を英語にしたキーだし、一番弟子は戸ノ助、そこの弟子も穴ノ助だ。二番弟子はカタカナのシメに椎茸の茸でシメ茸といってな、真は打ったんだが父親が倒れて家業の鍋料理屋を継ぐというんで故郷に戻ってしまって、まあ最近は地元の、なんといったか、九州新幹線の早口言葉みたいな駅ができたところで、ああ、筑後船小屋だ筑後船小屋、そのあたりの催しや学校なんかに呼ばれたりもしておるようで、わしも嬉しかったりするんだがな」
「へえ、なんかそういう人もいるんですね。今も続けてる人たちしか知らなかったから」
「落語を辞めたということなら、その次の留松と留吉がそれだな。これは一度くらいは見たことがあると思うが、二人で漫才師になるなんていって前座の頃に揃って脱走して、まあ今はなぜかマッツンキッチンなんて名前でくだらんコントばかりやっておるが」
「マッツンキッチンって、あのシュールを履き違えたような二人組ですよね。へえ、あれ師匠の弟子だったんですね、なんかショックというか、妙に納得がいくというか……」
「まあわしの方も、テレビで見かけるたびに元師匠として忸怩たる思いなんだがな」
「あ、でも一応兄弟子ってことになるんですよね、あたしの。そしたらマッツンあにさんキッチンあにさんって呼ぶべきなんですか。そういう辞めた人の場合とかは」
「それはだな、まま、それはあとで教えるでな、今は気にしなくてもいい、ああ。いざとなったら知恵袋という手もあるしな」
「またそれなんだ……」
「それで、その二人の次が南京錠と門扉、それに閉蔵にピックだ。両国の方だと鍵をかけるというんで、駆ケ足だとか影法師だとかカケやカゲではじまるのが多いが、そういうことならそうだな、かけっ子なんてどうだ。鍵家かけっ子、ちといいにくいか。じゃあ鍵家かきくけ子なんてどうだ、あるいは鍵家かぐや姫なんてのもありか。まあ普通ならわしがその日の気分で適当に決めるんだが、ピックの時はちょっと可哀相なことをしたと反省しておってな」
「あ、師匠、なんか呼びました」
「ああピック。おまえ、その名前そろそろかえるか。いつまでもピックなんてカタカナは嫌だろ。せっかく二ツ目にあがったんだし、紀伊丸だとか紀伊坊、小紀伊ノ助なんてどうだ」
「え、全然平気っすよ。むしろ凄く気に入ってるんですけど、かえなきゃ駄目ですか?」
「あ、ああ、気に入っておるんなら別にいいんだ。おまえがそういう奴だというのをすっかり忘れておった」
「それより師匠、聞こえてたんですけどね、もしかしてフランソワの芸名考えてるんですか」
「そうなんだが、なかなか思いつかなくてな。おまえ、なんかないか」
「そうっすねえ、鍵家カギッ子なんてどうです、それとか鍵家もったか子とか」
「おまえに訊いたわしが馬鹿だった。まあ、鍵家もったか子というのは、どういう訣か、なぜかしら、どこかで聞き覚えがあるような気がしないでもないが。鍵家もったか子……、鍵家もったか子……、鍵家松たか子……?」
「あのー、やっぱり鍵家ってつけなきゃ駄目ですか、たとえば真一文字瞳とかは」
「んー、まあそれはおまえさんの顔の特徴を見事に表しておるし、なかなか堂々としたいい名前だとは思うが、ちょいとばかし宝塚すぎるんじゃないか。そういう憧れがあるのかもしれんが、寄席に出入りする噺家、それも前座が真一文字瞳というのはなあ。それに宝塚っぽいと同時に改造人間っぽい響きもあるからな。女の子としてそれはどうなんだ、真一文字瞳は改造人間である、なんていわれたりしたら嫌だろ。ああ、そっちだったか、これはちと困ったな。おーい閉蔵、ちょっとこっちへこい。ああなに、今三人でフランソワの芸名を考えておったんだがな、なんかいいのないか。今のところ候補は鍵家もったか子か、鍵家かきくけ子か、もったか子が一歩リードという感じではあるが、どうだ、なにかアイデアはないか」
「あれ、師匠てっきり最初から決めてるんだとばかり思ってたんですけど、違いましたかね。あ、いえ、あのー、フランソワの本名ですけど」
「ああ、ああ、はいはいその手があったか。いやいや、わしは鍵というとな、どうも開けるよりも閉める方にばかり気を取られてしまって、いつも家を出たあとに鍵を閉めたかなあなんて気になったりする性分だからな、つい忘れておったが、鍵家茜か、それは確かに語呂もいいし響きもいい、鍵にもちゃんと関係しておるし、なにより可愛らしい。でかした閉蔵!」
「ただ、あかねえ、ひらかねえってのはちょいと縁起が悪いかなあなんて思ったりも」
「いやいや、鍵が開かないってことは中になにがあるかわからない状態で、開けてびっくり玉手箱、色んな夢や希望が詰まってそうでいい名前じゃないか。どうだいフランソワちゃん」
「自分だけ本名というのが恥ずかしいですけど、もったか子やかきくけ子よりは?」
「うむうむ。まあよくよく考えれば、落語家になるために、鍵家に入門するために生まれてきたような名前で、いやいや、もちろんご両親が色んな思いを込めて名づけたんだとは思うし、それを安易に芸名にしていいものかどうか、そういう気がかりがないでもないが」
「それは特にそうでもないみたいですけど。なんか私が生まれた時に空が茜色に染まってて綺麗だったとかって、ただそれだけみたいで」
「ほお、そうなのか。まあ子供にはそういっておるが、ほかにも色んな意味が込められているんじゃないかとわしは思うぞ。まま、それはいつかのお楽しみになるかもしれんで取っておくがな。とにかくだ、そうやって本名を借りる訣だし、お嬢さんをこれからもうちで預かる、鍛えるとなると、男の場合とは違って一度わしの方から挨拶に伺った方がいいかもしれんな」
「いや師匠、うちはそういうのは全然いいんで。それにあの二人、あたしが今どこに住んでてなにをしてるとか、さっぱり気にならないみたいで、落語家の修行してるっていっても全然信じて貰えないし、試しに『垂乳根』やってみせても信じてくれないし、これまでの経緯を説明しても、そんな落語みたいな話が現実にある訣ないじゃないか、なあ母さん、ええ、冗談にしても面白すぎますわよねえ、お父さん、なんて感じで、だからもうなんでもいいやと思って、それで今あたし、STAP細胞の研究してるってことになってたりするんで」
「うん、まあ時事ネタはすぐに古くなるでな、ほどほどがいいんだが」
さあそうして芸名も決まり、それから身内披露というんで近所の蕎麦処の二階を借りまして、その時は一応うまくいって、よしこれなら大丈夫だろうなんて深川の一門連中全員が納得したんですが、どうなりますやら鍵家茜の初高座は浅草演芸ホールでございます。
その日の茜、はじめて高座にあがるというので前の晩は一睡もできず、早朝から緊張でがちがちに固まっております。レディース時代は喧嘩上等、色んな修羅場をくぐっていたりもしますが、それとはまったく勝手が違って、まあ練馬のダークペガサスに囲まれた時はさすがに死ぬほど緊張したそうなんですが、人生の中でそれに次ぐくらいの緊張でして、楽屋の掃除やら準備やらもまったく手につかず、青白い顔で震えるばかりですので、普通なら「なにやってんだ前座ー!」「前座ー、準備まだか、ぼさっとすんなぃ!」と怒鳴られるところ、落語の師匠連中やあにさん連中、色物の先生方も声をかけられないほどで、初高座ということで同伴出勤した紀伊ノ助と閉蔵も、大丈夫かなあなんて顔を見合わせております。
そうしていよいよ寄席が開き、震える手で茜が一番太鼓を叩き、お客さんが入って二番太鼓を打って、開口一番、茜が高座にあがるんですが、座布団に座り、頭を下げて、頭をあげますと、目の前には見知らぬ顔ぶれ。空席だらけでまばらとはいえ、実際にお客さんと対峙するとなると、それはもう想像とはまったく違ってどうしていいやら、あ、あ、あ、と声が漏れるだけで頭の中はすっかり真っ白、舞台袖の閉蔵が見かねて「名前、名前」と大きく口を開けて小声で囁くんですが、すでにパニック状態ですので無意識に言葉が出てしまい、「あ、名前、えーと、あのー、真一文字瞳です」なんていって、また閉蔵が「違う、違う」といいますと、「あ、えーと、違います。あのー」「挨拶、挨拶、自己紹介」「あ、挨拶、自己紹介、あー、はいはい、そうだそうだった」なんていって、それで気を取り直したかと思いきや、頭の回線が別のところに繋がってしまったようでして、
「お控えなすってえ、お控えなすってえ、自分より発します、お控えなすってえ、お控えなすってえ。早速お控えあってえ、有難うござんす。親分さんでえ、御免なさんせ。兄上さんでえ、御免なさんせ。姐上さんでえ、御免なさんせ。向かいましては初の目通りとなります、手前は関東といいますは武州、武州といいますは北多摩を庭とする三鷹サイバトロン初代総長ー、名乗りまするは真一文字瞳ー。バイク仏恥義理ー、喧嘩上等ー、なんで夜露死苦ー!」
とまあ謎の自己紹介でございます。これにはお客さんも唖然ですが、舞台袖の二人も大いに困惑して、閉蔵が「違う違う、鍵家茜、鍵家茜だろ」なんていいますと、これまた、
「間違えましてえ、御免なさんせ。手前は東京深川ー、鍵家紀伊ノ助門下ー、前座やらせて貰っております鍵家茜ー。古典上等ー、新作仏恥義理ー、なんで夜露死苦ー!」
とまあ、昔の名乗りが染みついているんでしょうかねえ、これにはさすがの紀伊ノ助もずっこけまして、恥ずかしそうに下を向いて肩を揺らせております。
「あー、挨拶ー、が終わったんでー、次ー、次はー、ああそうだ『饅頭こわい』だ、『饅頭こわい』だから、えーと、世の中には色々と怖いものがありましてー、人にはそれぞれ怖いものがありましてー、怖いもの自慢なんていいますがー、えー、今日も、ですね、おいおめえ、世界で一番なにが怖い。ああ、そりゃもちろん饅頭だ。ああ、饅頭か。でもそれは違う、まだ早いな。ああ、饅頭じゃないなら熱いお茶だ。ああ、それも違うな、それは駄目だ、いったら駄目で、絶対駄目で、でもいっちゃったから、えーと、おいおめえ、世界で一番なにが怖い。ああ、そりゃもちろんポリだ。ああポリ公か。ああ、特にマッポだな、マッハポリスだ。ああそりゃそうだ、マッポはこええわな、神出鬼没、どこに潜んでるかわかりゃしねえし、あいつら無茶ばっかしやがる。スピード違反なんてお構いなしでぶっ飛ばすし、信号無視だって平気でしやがる、よく捕まんねえなあいつら、いつも感心だ、ああ。おい、おめえはどうだ、世界で一番なにが怖い。あー、そうだな、ポリも怖いが、俺はダークペガサスがこええな。ああ、練馬のダークペガサスか、あれは確かにこええな、あいつら全員が全員ハンパじゃねえし、関東をはじめて制圧したレディースなんつって、あそこの初代なんかは伝説だからな。ああ、確かに練馬のエリー、メリケンサックのエリーっつえば無敗伝説、知らないもんはいねえな、うちらの間じゃ名人上手の人間国宝ってやつだ、ああ。おい、おめえはどうだ。俺はそうだなあ、その隣の東京爆走天女。なにいってやがんだ、あんなのダークペガサスに比べたら全然怖くねえだろうが、しかもあいつら、東京っつっても西東京市だろ。まあ走りだけならあいつらも結構やるけどな。おい、おめえはどうだ、どこのチームが……」
なんて感じで、本人も自分がなにをいっているのか、なにを口にしているのか、さっぱりわからないまま、とにかく噺を進めないと、なんて気持ちだけが先に先にと仏恥義理。そんな状態のまま数分が経過し、さすがにこれは無理にでも下ろすか、なんて紀伊ノ助が呟きまして、やはり閉蔵が「冗談、冗談」と小声で伝えるんですが、
「ああ、とまあ、そんなのは全部冗談でございまして、えー、あたしの方なんですが、鍵家茜と申しまして、今日のこれが初高座で、だいぶ緊張して空回りしてしまったんですけど、えーと、怖いものというのは人によって様々でして……」
と、どういう訣か落ち着きを取り戻します。ただこれ以上余分な時間はないというんで、そこからはかなり端折りまして、「えー、中には饅頭が怖いなんて変なことをいう輩がいて、周りの連中がよし、それならみんなで饅頭を持ち寄って怖がらせようなんてことになり、それで饅頭を投げ入れてその怖がる様子を楽しむんですが……」という具合になんとか進んだんですが、ただ、そのオチですね、熱いお茶が怖いというのは最初にぶちかましてしまいましたので、そのまま使う訣にはまいりませんで、
「おい、おめえが本当に怖いものはなんだ。ああ、ここらで熱いお茶が怖い、といいたいところだが、それは最初に間違えていってしまったんで、今はお客さんの拍手が怖い」
そういって頭を下げます。まあお客さんもですね、そんな滅茶苦茶な失敗は滅多にないどころか、一生に一度見られるかどうかというくらいの半狂乱ぶりでしたので、なんか凄い歴史的な場面に遭遇してしまったというんで、呆気に取られてすぐには反応できなかったんですが、ただ茜が退場したあとには大きな拍手が沸いて、「ドンマイドンマイ!」「面白かったよ!」「くじけんな!」なんて声援が飛んだり致します。そういう中でふらふらになりながら鍵家茜、舞台袖まで下りてきますと、がっくしと床に膝をつきまして、
「おい大丈夫か茜。おめえ、いくらなんでも無茶がすぎるだろ。あ、おい、いや、まあよく頑張ったっちゃ頑張ったがな。一応立て直せてはいたからな。ですよね、師匠」
「ああ、まあ、それは、そうなんだが、うーん、茜、どうだったかな、はじめての高座は……。まあどうだったもこうだったもないかもしれんが……」
「こええ、こええ、マジでこええ。客がこええ。マジでこええ」
「ああ、そうか、客が怖かったか、それは、なんというか、うーむ……」
「こええ、あいつらマジでこええ。客の拍手マジこええ。これは癖になる、マジ癖になる」
「おやおや、なるほどそうきたかっ」
「師匠、破門とかそういうのないですよね。次は絶対失敗しないので。あたし、絶対失敗しないので、絶対本寸法でやり遂げるんで、お願いします、もう一度チャンスをください!」
そこはさすがに日蔭育ち、負けたまま終わるなんてことはなく再戦を願い出まして、翌日にもまた同じ高座にあがりますってえと意外や意外、「よ、待ってました!」「真一文字瞳!」なんて声が飛んだりして、早い時間にも関わらず客足も上々、ただですね、そうして本寸法で噺を進めようとしますと、お客さんの表情がなんだかがっかりしたような感じになって、「昨日のやってよ!」「お控えなすって!」「マッハポリス!」なんて、茜を遮って茶化したりするんですね。まあマッハポリスなんて言葉は実際にはなくて、あれはマッポという呼び方の間違った解釈で、レディース界隈だけで通用する特殊な用語なんですが、お客さんにとってはそういうのも面白かったんでしょうねえ、「マッハ!」「ポリス!」「マッハ!」「ポリス!」なんて手拍子とともに連呼したりするもんですから、さすがに茜も耐えかねまして、
「ざっけんなぶちかまっぞゴラ、今日はちゃんと本寸法でやんだから黙って聴きやがれ!」
なんて喧嘩を売ったりして、完全に前座にあるまじき前代未聞の行為で、いってから、しまったまたやっちまった、今度こそ破門だなんて落ち込むんですが、お客さんの方は茜の意に反して喜んでいたりするんですね。まあ朝一からくるような寄席の常連からすれば、前座のヘマやポカなんてのは程度の差こそあれ毎日のこと、しかも珍しい女の子の前座で、それも金髪の美少女ですんでね、その反応を楽しんでいたりして、さらに茜がですね、泣いたりしょげたりするんじゃなく堂々と客を怒鳴ったりするタイプですので、そうしますとこれはもう、我々の業界ではご褒美です、というような具合で、またもやすっちゃかめっちゃかになりまして、
「おい、おめえの本当に怖いものはなんだ。ああ、今日は静かな客が怖い」
そんなオチになるんですねえ。まあそんな具合にまたもや本寸法とは違ってしまいましたので、三日目はですね、気分を整えるために、早朝に例の改造自転車で爆走したりなんかして、久しぶりにマッハポリスに追いかけられたりもしたんですが、そうやって気合いを高めてから家を出まして、さらに前座としての準備仕事を猛烈にこなし、あたしに全部やらせろというようなもの凄い気迫でほかの前座連中から掃除機を奪って奪って奪いまくり、髪の毛一本埃一筋残さないくらいにすべての楽屋を綺麗にして回り、そうして準備を完璧にこなしてから古参の立前座を無視しての一番太鼓、木戸を叩くが如く最初に縁をカラカラカラッと叩いてから、ドンドンドントコイ、ドンドンドントコイとテンポよく盛り上げ、次に二番太鼓、オタフクコイコイ、オタフクコイコイ、キイテミヤガレホンスンポ、ミテミヤガレホンスンポ、カギヤアカネノミッカメダと、思いを込めて叩きます。
そうしますとそれが功を奏したのかソウをコウしたのか、その日のお客さんは大勢いるわりに静かな客ばかり。まあ茜が登場するなり「昨日はごめん!」「今日は本寸法!」なんて声が飛んだりもしたんですが、そんな感じでその日は理解がありましたので、少しとちったりはしたものの一応は本寸法に進みます。そうなりますと以前に師匠たちから変な迫力があるなんていわれてましたし、それからはちゃんと落語として真剣に稽古してましたんでね、そこはお客さんも、おいおい、これはやればできる子なんじゃないか、なんて感じまして、「ここらで一杯、熱いお茶が怖い」なんて茜が最後までやり終えますと、今度は客席の方から、「明日も一席、マッハポリスが怖い!」なんてリクエストですねえ。まあそんな訣で威勢がよくてすぐに口を出すも、その実、中身は温かいという、お世辞なのか皮肉なのか、そんな下町特有のお客さんの励ましもあって、なんとか無事に役目を果たした訣なんですが、
「おい茜、今日はうまくいったみてえじゃねえか。ああ、きてくれたもなにも俺も高座があっからな。そのついでで早めにきてみたんだが、ただおめえ、ほかの前座から苦情がきてたぞ。仕事を全部一人でこなして掃除もなにもさせなかったっていうじゃねえか。そのせいであいつら怒鳴られてたぞ。仕事をこなすのは当然だが一人で暴走ってのはよくねえんじゃねえか」
「あ、すいませんでした。でも今日はどうしても本寸法で成功させたかったんで」
「なんだよそれ、それとこれとどう関係があるってんだ」
「あれ、閉蔵あにさんわかりませんか、ほらこれ」
「ああそういうことか。ほんと迷惑な奴だな、一人で三台も独占しやがって。でもおめえ、まさかそれで終わらせようなんて甘っちょろいこと考えてんじゃねえだろうな」
「あれ、いけませんでしたか、三台の掃除機、いいと思ったんですけど」
「そんなもんご案内もご案内、使い古されたダジャレで今時素人だって使わねえぞ」
「じゃああにさんならどうします、今日は絶対に失敗できないって時。ん、なんですかそれ」
「実はな、おめえがもうあとがないっていうんで、それで応援してやろうと思ってわざわざ用意してきたんだが、ほれほれ、なんだかわかるか」
「急須ですよね、それで、中に焼き鶏とチーズが入ってますけど、なんですかこれ」
「決まってんだろ、急須とレバーとチーズで、急須・レバー・チーズ、窮すれば通ず!」
「いや、頭下げられても困るんですけど、えっ、なんですかそれ、部族のまじないですか」
「知らねえのかよ、ったくよお。諺だ諺、そういう言葉があってな、意味か、意味はあれだ、極限まで追い込まれて本当のピンチになった時にこそ願いが通じるっていう」
「なんか勉強になりましたけど、でもあにさん、まさかそれで終わらせようなんて甘っちょろいこと考えてませんよね。だってそんなダジャレ、たとえ教養のあるお客さんでも瞬時にはわからないというか、わかっても面白くないというか、今日のお客さんがそうでしたし」
「そ、そういうことは口にするなぃ」
「しかもかなり唐突というか強引というか、そういうのは事前にさりげなく組み込んでおくもんだって、師匠いってましたけどね」
「ま、まま、それはそうなんだがな」
「どうするんです、この空気。全然オチてないし、時間は迫ってるし。まさか万事休すなんていわないですよね」
「うまいこといってんじゃねえよ。くそっ、俺よりうまいこといいやがって」
「どうします、これ。このままじゃ終わるに終われないですよ」
「馬鹿かおめえ、こういう時の終わらせ方もちゃんと教えてやったろ。覚えてねえのかよ」
「えーと、なんでしたっけ」
「なにいってやがんだ。冗談いっちゃ、いけねえよ」