深川版『お菊の皿・十人目』
えー、今日は海千山千流の若手の研究会ですが、なぜだか私がゲストとしてはじめてお呼ばれしまして、おそらく彦々あにさんが私になんらかの恨みを抱いているとか、恥をかかせてやろうとか、まあそんな理由だと思うんですけどね、しかも今日はこの暑い盛りでございますので、テーマが怖い噺、幽霊、怪談噺ですよ、そんでもって彦々あにさん、手前が怪談噺のレパートリー少ないの知っててあえて呼んでるんですよ、ええ。ひどいでしょ、本当にもう、これは恨めしくて仕方がないってなもんですが、まあ、最初の前座さんは『饅頭こわい』で、次が『野ざらし』と思いきや上方版の『骨釣り』で、まあでもそんな感じなら自分も大丈夫かなと思ったんですけど、そこからはさすが海千山千流、海山一門でしたね。描写や間合いや語り口がリアルで凄惨なんですよこれが。漫談スタイルの手前なんかとは、同じ落語でありながらも種類が全然違うというか、彦星あにさんが『死神』をかけて、それで彦々あにさんが得意の『もう半分』をかけて、さあ次はおまえの番だぞ、なんていう顔でついさっき無言ですれ違いましたけどね、これどうするか、どうすればいいか、まああのー、手前がいつもやってる連作大河落語で『茜の生涯』というんですが、その中に『お菊の皿』のパロディが三つありまして、そのうちの二つは全然怖くない明るい噺で、最初にその大河落語を即興で編み出した時に作ったのが『深川皿屋敷』という、これは手紙を一枚二枚と数えてるのを幽霊と勘違いして勝手に怖がるというつまらない噺で、今日は当然やりませんが、次が『お菊の茶碗』という『はてなの茶碗』との合わせ技で、これは怪談ではなく現実用語を散りばめてのSF経済落語で、今日の研究会とは趣向が異なるというんで、最後に残るのが『十人目』という噺でございます。
しかもこれは『茜の生涯』の中で唯一、鍵家紀伊ノ助師匠の語りで演じるという形で整えておりまして、飄飄としたアンニュイなお師匠さんで、即興の魔術師、枕営業の達人なんて設定ですので、手前みたいな平平では到底再現できないというので滅多にやらないんですが、今日は研究会ですのでね、ここにきているお客さん方も、その辺の冒険は理解して頂けるんじゃないかと思いますし、普段からやってる得意のネタを自慢気に披露するなんざは邪道でございまして――、
「えー、紀伊ノ助で一席だけおつき合い願いますが、最近弟子が面倒くさいんですよ、ええ、たまには古典もやってくださいよーなんつって。お客さんからは全然いわれないんですけどね、ええ。まああの、人には人の分というものがありまして、それをはみ出したらうまくいくものもいかなくなってしまう、お客さんだって私が登場するや、お、これはのんびりできそうだ、なんていう感じでお気楽な表情をなさっておいでで、違いますか、普段からそんな気楽な顔、まま、それはどちらでも構いませんが、古典落語というのは、出てくる言葉の意味や時代背景を話者がちゃんと理解していないと伝わりませんし、到底ものになりませんで、一方、お客さんの方も実はよくわかっていなかったりして、なんとなくの雰囲気で、左右をきょろきょろと確かめながら、ああ、はいはい、ああ知ってますよ、当然でしょ皆さん、なんて自分をごまかさなきゃならないというので、皆さんも実は少し苦痛だったり、良心の呵責に苛まれていたりするんじゃないですかね。それほどでもないですか、それほどでもないということはないこともないということになりますが、まあでもそういう点で、手前なんかはお気楽な休息要員として寄席で重宝されたりなんかして、非常に有難いことでございます。えー、その知ってる知らないということであれば、たとえば時間の数え方なんかはその典型ですな。昔は子・丑・寅・卯という感じで一日を十二支に割り振って、二時間ずつだとちょいと使いづらいというので、さらに子の一つ、子の二つ、子の三つなんて四つに区切って、草木も眠る丑三つ刻なんていいますが、大体今の午前二時から二時半頃ですか、違いますか、ただ昔は日の出と日の入りを基準にしていましたので、季節によって時間の長さがまちまちで、夏の昼間は一刻が二時間半くらいあって、冬は逆に一時間半くらいで、夜はその逆というんで、これはわかりにくいですよ。またそれとは別に、明け六つ、暮れ六つなんていいますが、鐘の回数で刻を報せるというので日の出の時間が明け六つで、じゃあ次は七時かと思いきや、なぜか数が減って五つ、四つ、三つときて、じゃあ次は二つかと思いきや、九つ、八つですよ。現代人からすれば頭が痛くなりますよこれは。またお金ですね、貨幣なんかも複雑で、蕎麦は十六文ですが、その文の上に一朱銀、一朱金があって、その上に一分銀、一分金があって、さらに小判が一両、さらに大判ですよ、それ以外にも長方形で穴の空いてる天保通宝なんてのが別にありますし、重さで量る豆板銀なんてのもあって、蕎麦を食い終わって、悪いな、今日は一朱銀しかないんだが釣りは出せるかい、えーと、一朱銀は今日のレートだといくらだったかな、なんてスマホを操作して検索したりなんかして、ああ、今日の一朱銀は二百五十文だから、お客さん、悪いんですがね、大きいのが豆板銀しかないんで、もっと足して貰えますかね、ああ、じゃあ仕事の報酬で手に入れた一分金があるが、お客さん羽振りがいいですねえ、えーと、一分金のレートは一朱金が四枚で、一朱金は二百五十文だから、豆板銀だと何グラムになるのかな……、なんてやってたら面倒くさいですよ、これは。まあ最近もですね、コンビニなんか行って買い物しますと、支払い方法がたくさんあって、現金以外にもクレジットカード、電子マネー、交通系ICカード、なんとかペイなんていって、種類が多すぎて訣がわからずに戸惑ったりして、スイカも使えますよなんていわれたものですから、弟子を八百屋に走らせたりして……。年寄りにはややこしい時代になりましたが、ただ、年寄りでもそういうのに精通してる人たちも大勢いて、お爺さんが支払いでスマホのアプリを起動していたり、お婆さんが仮想通貨で支払いするなんていって、へえ、凄いですね、仮想通貨やってるんですか、持ってるんですか、なんて手前が訊きましたら、そうなのよ、老い先短いし、あの世でも使えるかと思って……。えー、反応が鈍い人も大勢いましたが、カソウ違いというやつで、あのー、カソウなんていいますと、先日親戚の葬式がありまして、ああいやいや、別に御愁傷なんてものではなくて、全員が全員笑顔というか、百八才で大往生という一族の大長老、この私でさえ孫の一人でございますよ。もう片方の祖父なんかは私が子供の時分に亡くなったんですが、その倍近く生きたんじゃないですかね。その私が家内と息子夫婦と孫を引き連れて行ったんですが、従兄弟連中の中には曾孫を連れてるのがいたりして、そうなると子、孫、曾孫、玄孫、来孫まで揃って、来孫なんて言葉はその時にはじめて知りましたね、これ知らない人が聞いたら、ああ、知ってるよライソンだろ、あのアフリカにいる百獣の、馬鹿かおめえ、そりゃライオンだろ、ライソンってのはな、最後まで吸引力がかわらねえんだ……、なんて感じで、まあでもその火葬場ですよ、凄いですね今は、凄いんですよ、もの凄くハイテクになってて驚きましたね。霊柩車から棺を運搬台に移すんですが、大昔は親戚の男衆が全員で抱えて運んだもんですが、今は運搬車がオートマチックなんですね。それもタッチパネルの液晶画面がついてまして、係の人が入力すると勝手に動くんですよ、ええ。しかもちゃんと自動的に廊下を曲がったりして、奥の部屋まで勝手に行っちゃうんですね。それであとはあちらでお待ちくださいなんていわれて、その待合室もまた駅のホームというか空港のラウンジみたいになってて、無料のウェルカムドリンクが出たりして、電光掲示板なんかもあって、何時何分、なになに家、何番室にて最後のお別れ、ですとか、なになに家、まもなく火葬が完了します、何番室にお集まりください、ですとか、なになに家、お骨上げにて遅延が発生しております、ご迷惑をおかけしますがもうしばらくお待ちください、ですとか、まあそんな風にデジタルで表示されますので、これ火葬される側も、かなり場違いな感じがするんじゃないですかね。この世に未練や恨みがあって化けて出ようにも、あのー、すいません、化けて出たいんですけど、これどうすればいいですかね。ああ、それでしたらまずはこのタッチパネルの申請画面にお名前とご理由を入力して頂きまして、それをワイファイであの世に繋ぎますので、それで閻魔様の許可が出ましたら、あちらの電光掲示板に、生きている人には見えないように、こっそりと現世へのログインパスワードが表示されますので、ああ、ユーザー名は本名でも戒名でもどちらでも構いませんが、なるべくわかりやすい名前の方がログインしやすいと思いますので、大体の方は本名をお選びに、なんていうんで、化けて出るにも風情がない時代でございますが……」
「こんちは!」
「おや留さん、突然噺に入ったね、なんだい、なにか用かい」
「ええ、ちょいと訊きたいことがあって訪ねてきたんですがね、あがってもいいですかね」
「ああ構わんが、おやおや、一人じゃないのか」
「ええ、それなんですがね、あのー、先日下総の方に大工仕事で行って長逗留したんですけどね、江戸からきたってんでそりゃもう村中の若者から年寄りまで集まって大層親切にして貰って、しかも江戸の話を聞かせてくれなんて次々にいうもんで、あっしも得意気になって話してたんですが、そのうちの一人の老人がですね、おまえさん江戸のもんっていうんだったら、番町の皿屋敷の話を知っているだろ、それを聞かせてくれないか、とこういうんですよ。それであっし、番町の皿屋敷でございますか、さあ、そんなの聞いたことないですねえなんていったら、なんだおまえさん、江戸のもん江戸のもんっていうけど、どうせ在の方だろうなんて笑われてしまいましてね、それで江戸に戻ってきてから皆に訊いたんですけど誰も知らないってんで、それで誰か知ってそうな人はいないかと思って、こうして御隠居さんのとこに」
「なんだいおまえさん方、番町の皿屋敷の話を聞いたことがないのかい。まあそうか、ああいう話というのは流行り廃りがあるし、祟りがあっちゃいけないというんで自然に口にしなくなるのかもしれんなあ」
「それで、その番町の皿屋敷って、どんな話なんです」
「番町というからにはお城のそば、九段の坂だな、あの階段の坂を登って南の麹町の方に向けて少し進んだ辺りだが、そこに昔、青山鉄山というお旗本の屋敷があってな」
「へえ、お武家さんにしては町人みたいな名前ですねえ、鉄っつぁんなんて」
「こらこら、辰っつぁんみたいないい方をするな。そうじゃない、鉄の山と書いて鉄山といって、ああ、確かに変な名前だが、これはおそらく名前ではなく号というやつだな……、ああ、やると思ったが、時代を考えろ、しかもそれ完全に昭和だろ、そうじゃなくて、俳句だの書画だのをやる人が名乗る雅号というやつだな。本当の名前はよくわからなくて、確か青山播磨守主膳とかいったような気もするが、とにかく青山鉄山と呼ばれておったお武家さんだ。その青山家のお屋敷にお菊という若い娘が女中として奉公にあがっておったんだが、このお菊さんというのがそれはそれは大層な別嬪さんでな、世の中にこれほどの美人がいるのかと誰もが思うくらいの凄い美人だったんだそうで、まさに絶世の美女というやつだな。そうなると青山鉄山、たとえ妻子がいようとも男としては心が揺れ惑って当然というもの、このお菊さんをなんとか自分のものにしたいとあれこれ誘いをかけるんだが、お菊さんは決して首を縦には振らず、頑なに拒み続けるんだ。それもそのはず、お菊さんにはとある商家の跡取り息子の新平さんという許嫁がいて、そこに嫁ぐための花嫁修業の一環として奉公にあがっておったんだな。青山鉄山、何度も何度も誘いを断られ、正式な側妾ならどうだと打診するもこれまた一蹴され、ならば力尽くで自分のものにしてくれよう、とも思うんだが、意外に小心者でなかなか踏み切れない。そうこうするうちに叶わぬ恋の意趣返しというやつで、お菊さんをいじめにかかるんだな。たとえばこうやって、人差し指で戸棚の上をすーっ、窓の格子をすーっ、欄間の飾りをすーっと拭いてな、これお菊、この部屋の掃除はそなたに任せておるというのに、見ろ、まだこんなに埃が残っておるではないか、フーッ」
「嫁いびりの姑みたいですねえ」
「まあ最初はそういう単純な嫌がらせだったんだが、お菊さんがな、お殿様、あい済みませぬ、もう一度、お掃除し直しますのでどうかお許しを、なんて健気に答えるもんだから、青山鉄山、そのお菊の反応にだんだんと興奮と快感を覚えてきて、徐々に嫌がらせが過激になり、もっともっと困らせてやる、もっともっと謝らせてやる、もっともっと泣かせてやる、とばかりに」
「なんかもの凄く小物の悪人ですねえ、その青山鉄山てのは、せこいというか」
「ああ、小物界の大物なんだが、ただ、そんないじめがどんどん進んでしまうとどうなるか。青山家に代々伝わる葵の皿というのがあってな、青山鉄山、その手入れをあえてお菊に任せるんだが、これももちろんいじめるがための口実、策略というやつで、葵の御紋のついた十枚組の皿なんだが、ある時、そこから一枚だけ抜いて隠しておいたんだな。そうしておいて、これお菊、久しぶりにあの葵の皿を愛でたいと思う、こちらへ持ってまいれ、なんていってお菊が桐の箱を持ってくる、お持ち致しました、ご苦労であった、埃などはついておらぬであろうな、はい、きちんと磨いております、よし、では十枚揃いおるか中身を改めよ、はい。そうしてお菊さんが皿の枚数を数えるんだが、一枚足りない、何度数えても九枚しかない。ない訣だ、だってお殿様、自分で隠したんだもん。これお菊、この葵の皿の十枚組は我が祖先が神君家康公より拝領つかまつった青山家の家宝、ただの一枚とて欠けてはならぬ貴重な品であるぞ、そなたであればしっかりと管理できると思い任せておったが、これは如何したことか、さてはお菊、不注意から一枚割ってしまい、怒られるのを怖れて黙っておったか、割ってなどおりませぬ、ならばどうして足りぬ、私にはわかりかねまする、そんなはずがなかろう、さては一枚くらいならばれないだろうと小遣い銭にでもかえたか、そのような不忠なこと、私は致しませぬ、ええい、本当のことを申せ、なぜ一枚足りぬのだ、割ったのか、割っておりませぬ、盗んだのか、そのような不忠は致しませぬ、まだ白を切るか、ええい強情な女め、というんで青山鉄山、そのお菊の体を縄で縛り上げるんだな。しかも家来には任せず、自分でお菊さんの体をだな、服を着たまま、こう、座らせて、こう、縄でな、こう、最初は両の手首を縛ってだな、それからこう、腰を縛ったり、胸を縛ったり、腕を縛ったり、足を縛ったり、また胸を縛ったり、また腰を縛ったり、とにかくこうぐるぐるに巻いてな、模様を入れたりして、こう、こんな感じで、縄で、こうやって、お菊さんの体をな、こうやって、縄で、縄で縛って、縄で、縄で……」
「御隠居さん、なんかそういう趣味でもあるんですか、やけに力入ってますよ」
「まま、そんな感じで青山鉄山、お菊さんを縛り上げるんだな。そうして縛って板の間に座らせて、膝の上に拷問用の重い石だ、あのギザギザになってるやつで、もちろんそのギザギザの方をだな、お菊さんの膝の方にあてるんだが、さあどうだ、おまえがやったんだろう、やっておりませぬ、まだいわぬか、その石を置いたまま木刀でその石をパーンと叩く、痛いっ、さあどうだ、パーン、パーン、だがお菊さん、なかなか罪を認めない、ならばというんで、今度は髪の毛を掴んで庭の井戸まで引きずって、井戸の水をバッシャー、水責めだ。水の入った桶にお菊さんの顔を無理矢理に突っ込んで、ぶくぶくぶくぶく、ごほっごほっ、どうだお菊、貴様がやったんだろ、白状しろ、やっておりませぬ、まだいわぬか、ぶくぶくぶく、ごほっごほっ、貴様がやったんだ、やっておりませぬ、ぶくぶくぶく、貴様だ、貴様が、やっておりませぬ、ぶくぶくぶく……」
「御隠居、その青山鉄山ってのはなんなんですか。冷酷なんですか、それとも変態なんですか」
「うーん、まあ冷酷であり変態でもあるんじゃないか、別に相反するものでもなし、両立してもおかしくはないだろ。それにお菊さんは絶世の美女で、その惚れた女に罰を与えるというんで、これは興奮して当然だろ、まあそういう訣でお殿様、興奮のあまりに後先が考えられなくなって、そのお菊さんを井戸の釣瓶に吊すと、真剣を抜いて、ついにはお菊さんを袈裟斬りだ。こう、斜めに斬っちまって、しかもその返す刀で吊した縄をヒュンと斬っちまうってえと、お菊さん、井戸の底にドスーン。敢えない最期だ」
「うわあ……、へえ……、へえ……、悪いことをする奴がいたもんですねえ、それじゃお菊さんがあまりにも可哀相で可哀相で。はあ、そんな話があったなんて、ちっとも知りませんでしたよ」
「まあまあ、話はまだ続くでな、そうして青山鉄山、お菊さんを殺したんだが、それで気が済んだかというとそうではない、小物界の大物だからな、気が晴れるどころか陰鬱とするばかり、しかもあんなことをするんだったらただの一度でも力尽くで……、なんて思ったりもしてな、そうして仕方なく酒を飲んで気を紛らわせるんだが、真夜中に庭から声が聞こえる。何事かと思って庭を見ると、井戸の中からお菊さんの幽霊が現れて、一枚……、二枚……、と皿の枚数を数え出す。そうして九枚まで数えると、一枚足りない……、といって鉄山の方を向く。鉄山、怖ろしくなって障子戸を閉め、布団を頭からかぶって震えながら朝まで耐える、これが毎晩のように続くもんだから堪ったもんじゃないし、そうしているうちに井戸以外からもなにか気配が漂うなんてことになってきて、用を足そうと厠に行っても、その厠の中からお菊さんの影が、こう、うーらーめーしや鉄山……、とくるんだ。うわあっと驚いて引き返すと、今度は廊下の奥からお菊さんの影が、こう、うーらーめーしや鉄山……、慌てて障子を開けて部屋に入るとそこにもお菊さんの影が、こう、うーらーめーしや鉄山……。そんなのが毎晩のように続くもんだから、青山鉄山、すっかり狂ってしまって、お菊の奴め、許せん成敗してくれよお、というんで刀を抜いて井戸に出向き、そこにいたお菊さんの幽霊をバサーッ!」
「御隠居、幽霊って刀で斬れるんですか」
「いやいや、青山鉄山は幽霊だと思って斬ったんだが、実はそれは井戸の水を汲んでいた女中でな、その女中をお菊さんと思い込んで斬ってしまったんだな。そしてその悲鳴を聞きつけて家来がかけつける、ところがこの家来を見て青山鉄山、お菊、まだいたか、といってやはり刀でバサバサッ、そうして次々にお菊の幽霊を斬り、斬って斬って斬りまくったんだな。そうしてすべてのお菊を斬り葬って、これでもう安心だというんで、久しぶりにぐっすりと眠り、そうして穏やかな心で朝を迎えるんだが、目を覚まして障子戸を開けると、そこには血まみれの側用人の死体がある、驚いて人を呼ぶんだが誰も来ず、縁側にも血まみれの腰元の死体、さらに進むとまた家来の死体、ああ、とにかく屋敷の中や庭に家来や女中なんかの死体がごろごろと転がっておって、しかも自分の妻と子供たちも同じように斬られて死んでおったんだな。これを見て青山鉄山、自分が狂ってしまったことに気づくんだが、ただ、反省はしないんだ。それどころかその罪をすべてお菊さんにかぶせてしまって、おのれお菊め、このわしを狂わせるとはなんという性悪な女、色香でわしをたぶらかすどころか、わしに妻や子を殺させ、はたまた屋敷中の人間を斬らせるとは、なんと冷酷で非道な女、許せん、この恨み、この無念、晴らさでおくべきか! というんで青山鉄山、自分も生き霊となってお菊の前に現れ、その悪霊を退治せんとばかりに、その場に座って短刀を抜き出すと、その己の腹にぶすり、切腹というやつだ」
「ひっ……」
「ところが腹に短刀を突き立てたところで人間はそう簡単には死ぬものではなく、いくら縦に横に十文字にと刀を動かしたところで滅茶苦茶痛いだけで死にはしない、だから切腹なんていう時には必ず介錯というのが伴うんだが、皆死ぬか逃げるかしたせいで屋敷にはもう誰も残っていない、それでどうしたかというと、青山鉄山、腹に短刀を突き立てたまま、長い方の刀を抜いてだな、その刀でもって自分の首を、こう、横真一文字に、でえええい!」
「ひぃぃぃぃぃっ!」
「生首が転がって、その首は目を見開いて井戸の方を向いていたそうだ」
「うわわわわ、なんと怖ろしい、おお、寒い寒い寒い」
「俺もさっきから鳥肌立っちゃって、そりゃ怖えどころの騒ぎじゃないですよ、あまりに怖すぎて、ああ、これはたとえ訊かれても答えたくないというか、口にしたくないというか」
「そうして青山鉄山が狂い死に、そんなことがあったもんだから青山家は当然お取り潰し、親戚どころか遠縁の旗本や大名なんかもすべて連座で蟄居謹慎だ、そんな因縁のある屋敷だから住みたがる者もおらず、屋敷は荒れ果てて塀も崩れ、今もそのままになっているという話だ。ああ、そんな凄惨な事件、気味が悪くてすぐに忘れたいってもんだが、でもそれが下総まで伝わっておるとなると、ああ、やはりお菊さんだな。青山家の屋敷の井戸にお菊さんの幽霊が毎晩のように出て、一枚二枚と皿を数えるというので、昔は物好きな連中が肝試しなんていってこっそり覗きに行ったりしてな、わしも誘われたことがあったが、ああ、わしは小心者なんで一度も行かずっきりだ」
「へえ、そんな不気味なお屋敷に、わざわざお菊さんの幽霊を見に、怖いもの知らずな連中ですねえ」
「そりゃまあ絶世の美女なんていうんでな、ああ、とにかく凄い美人だ、幽霊小町だなんて評判で、お菊さんを見てきたなんていう自慢話を昔はよく聞かされたもんだ」
「そんな美人ならあっしも見てみたいですけどねえ、本当に出たりしたんですか」
「おやおまえさん、見てみたいのかい、相手は幽霊だよ」
「そりゃ見てみたいですよ。幽霊でも美人なんでしょ。だって世の中には美人なんて滅多にいなくて、それも絶世の美女なんていうのは噂でしか聞いたことがなくて、たとえ死んでても美女なら大いに結構じゃないですか。生きてるのに化け物ってのが多いんだ、世の中には」
「なにをいっておるんだ、なにを」
「しかもあっしはね、これまで幽霊なんて一度も見たことがないというか、ああいや、見たことはないんですが、遭ったことがない訣じゃなくて、いや、でも遭ったといってもあれは遭ったというんじゃなくて、なんというか、本物の幽霊には遭ったことがなくて、それでちょいと本物ってのに興味があるというか」
「なんだいその曖昧ないい方は。遭ったことがあるのかい、ないのかい、どっちだい」
「それなんですがね、あれはなんといいますか、いわゆる厠のお花さんというやつで、昔なんですがね、出先で突然腹の調子が悪くなりまして、大きい方をもよおしたんですよ。ところが周りは武家屋敷ばかりで厠を借りる訣にいかないし、そんな道端で用を足そうもんならお武家さんに殺されかねないってんで、通りを抜けた先にある長屋の厠を借りようと思って急いだんですよ。ところがもよおしてるもんだから、走ろうもんならその振動で漏れちまうし、歩いてたら間に合わないし、それで走るのでも歩くのでもなく、歩くよりもゆっくりと競歩をするような感じで焦れったく急ぐというか、わかりますかね、このどうにもならないもどかしい感じ」
「ああ、わかるわかる、俺も漏れそうな時はいつもそんな絶望的な感じだ」
「それで急いで長屋の厠に着いたんですが、周囲には誰もおらず、勝手に借りようと思って扉を開けたんですが、その瞬間ですよ、キヒヒヒヒッという女の甲高い笑い声がして。おっと、中に人がいたのかと思って中を見たんですが、中には誰もいない、いや、中を見た瞬間なにかが動く気配はしたものの実際には誰もいない、それじゃ外に誰かいて、漏れそうな奴が変な歩き方で厠に飛び込んだってんで笑ったのかと思って外を見回してもやはり誰もいない、じゃあ今の甲高い声はなんだったんだと考えて、背筋が一瞬で凍りつくというか」
「ほお、噂では聞いたことがあるが、厠のお花さん、実際にいたのか」
「ええ、それも三度遭いましてね」
「なんと、三度も遭ったのか、そりゃ不運だったが、でも間に合ったんだろ、そっちの方は」
「いやいや、それが御隠居、三度とも間に合わなかったんですよ。いやね、だっていきなり甲高く悲しげな笑い声がするんですよ、その驚いた拍子で、あらあらですよ。大体ですね、ああいう漏れそうなのを我慢して急いでゆっくり歩いてる時ってのは、一番駄目なのが安心というやつで、ああ、厠、もうすぐだ、あと少しで、よしよし、やっと着いた、なんて思った瞬間にどっ、ですよ。着物をほどく余裕もないんですよ、ええ。このね、安心感というやつがなによりもの大敵でして、峠道みたいなもんですよ、ああ、やっと頂上が見えたなんて思った瞬間に、うしろに転げ落ちるんですよ。たとえてっぺんが見えていても、まだまだ登り坂が延々と続くと自分に思い込ませなきゃならない、これが難しいんですね」
「それはなんとなくわかるわかる。峠道のたとえはいまいちだが、着いたと思った瞬間ってのはまさにそうだな、あれは確かに危険だ」
「ああ、俺もそれは同感だ。何十間も我慢しながら歩いたのに、最後の一歩二歩ってところで漏れちまうんだな」
「なんだおまえたち、みんな漏らした経験があるのか。じゃあおまえたちもその厠のお花さんに遭ったことが」
「いやいや、俺はありませんよ、何度か漏らしはしましたが、一度も」
「漏らしはしたのか。ではそっちは。何度か漏らしたけど遭ったことはない。なんだなんだおまえたち、普段どんなものを食べておるんだ。しかしまあ、そうすると留さんにだけ三度も出てきた訣で、留吉、おまえさん、なにか憑いておるんじゃないか」
「いやあ、でもその三度目にやっと気づいたんですよ。気づいたというのはですね、そうやって漏らしたあとに、こう何度も笑われたんじゃおっかねえしかなわねえってんで、徹底的に幽霊を探しまして、そうして戸を何度も開け閉めしてたら、ああ、ああ、扉の蝶番の金具が錆びててキヒヒヒヒって鳴るんですね。それを聞き間違えたんですよ、焦ってたんで」
「でもおまえさん、中になにか気配を感じたとかって」
「ああ、それもですね、戸を開けて中を覗くと、そりゃ自分の影が壁に映るじゃないですか、しかもこうやって顔をひょいと覗かせて、そんで中を確かめるじゃないですか。そうするとね、影が動いて止まるんですよ。まあそれで、幽霊の正体見たりなんとやらってやつで、それからは一度も遭わなくなりましたね。それからも何度か漏らしはしましたが」
「漏らしはするのか、まあいいが」
「とにかくですね、そうやって勘違いの幽霊には遭ったことがあるんですが、実際に幽霊を見たことはないんでね、しかもお菊さん、もの凄い美人なんていうじゃないですか。そりゃ見たいですよ。御隠居さん、なんで若い頃に肝試しに行かなかったんですか、もったいないですよ」
「もったいないといわれても、ただ見たいと思わなかっただけだな。見たくなればいつでも見られる訣だし」
「ん?」
「どうかしたか」
「いや、あれ、なんか変ですね、いつでも見られるっていいませんでしたか」
「ああ、そういったが、どうかしたか」
「いや、昔の話じゃないんですか、昔の幽霊ですよね、その、お菊さんってのは」
「ああ、確かに話は昔だが、昔いたということは、今もいるんじゃないか。最近は篤と聞かんが、幽霊なんかには寿命はないだろうから、今も出ておるんじゃないかな」
「ああ……、へえ……、ああ……、てことは、今晩も出るんですか」
「出るだろうねえ」
「明日もですか」
「ああ、毎晩出ると聞いておるからな」
「ああ、はいはい、ああ、はいはい、なるほどなるほど、そうなると……」
「ちょいと留吉、おまえさん、まさか馬鹿なことを考えてるんじゃないだろうね」
「そのまさかで」
「およしなさいよ、あのね、お菊さんは幽霊だよ、それも悲惨な死に様をした幽霊だよ。当然その声には大変な怨念が籠もっていて、一枚二枚と数えて、九枚まで数えるのを聞いた人間はお菊さんに呪い殺されるといわれておるんだ。実際、わしの若い頃の知り合いの中にも狂い死んだ奴がいるし、八枚まで聞いて熱病にうなされたなんて話も聞いたことがあるしな」
「でも御隠居、六枚くらいまで聞いて、それで逃げ出したらどうです……」
「せこいことを考えおるな。まあ昔もな、そんなことをいってた連中がたくさんいて、それでまだ生きてる奴もいるからな、それなら大丈夫かもしれんが、ただ、絶対に無理はするなよ、なんといっても曰くつきのお屋敷だからな」
「そりゃあもう、それは任せてくださいってなもんで、ああ、もう今晩絶対に行きますんで、明日の朝には御隠居さんにもちゃんと報告しますんで、乞うご期待ってやつですよ」
「というんで奴さんたち、御隠居の家を出ましてから行くの行かないのというんで散々に揉めまして、結局、いい出しっぺの留吉がまずは一人で行くということになって、ただ、それでは少し可哀相だというので他の四人も九段の坂の下まではつきそいます」
「うああ、景気づけに皆で酒を飲んだが、俺だけ一向に酒が回らねえで、緊張で変な汗が出るばかりだ。しかも近頃は暑苦しい夜が続いてて、今もべったりとまとわりつくような蒸し暑さだっていうのに、この肌寒さはどうしたものか、おおっと、ぶるぶるくるぜ。やっぱり怖いのか、逃げ足には自信があるが、しかし驚きのあまり足がすくむ、足がもつれるなんてこともあるだろうし、今のうちに屈伸と伸脚だな、それをしっかりとして、ああ、膝がかくかくいいやがる、これ膝が笑うっていうんだよな、おお、笑ってるよ、笑ってるよ、凄いなあ、膝がこんなに笑っちまって、あはは、あはは、あはははは、俺の膝はいつから笑い上戸になっちまったんだ。しかしこうなると六枚なんてのは到底無理で、初回だし、四枚か三枚か、とにかくお菊さんの顔を見て、どんな美人かわかりさえすればあとは逃げるだけで、ああ、それさえ確認できれば明日も明後日も見放題って訣で、よし、おっ、なんだか薄気味悪いところに出てきたが、ははあ、これか、御隠居さんがいってたように、白漆喰の塀がところどころ崩れて、ああ、これなら侵入もしやすいってなもんで、ちょいと御免くださいよ、なんていって入って、うわあ、草が茫茫で、葦なんかもこんなに高く茂っちゃって、おっといけねえ、とりあえず逃げる時のことを考えて、鎌でも持ってくりゃよかったが、俺はカマには縁がないんでな、まあ仕方ねえ、足で草を踏み倒して逃げ道を作って、これでいいか、それで井戸が、ああ、あったあった、庭の奥の屋敷側にあるんだ、まあそう遠くはねえから、一枚二枚、三枚四枚、五枚六枚ときてから逃げ出しても、まあ間に合うっちゃ間に合いそうだが、でも初回だしな、とりあえず目標は三枚で、できれば四枚だな。それで、あまり近づきすぎるのも怖いし、なによりああ、怖えのはあのお屋敷だ。お菊さんの幽霊はまだいいが、青山鉄山の幽霊なんかは、まあ御隠居はなにもいってなかったんで大丈夫だと思うが、あんな凄惨な話を聞いちまったら、そりゃ誰もこなくなるってなもんで、おっと、この辺でいいかな、それで、あとは、ここで時間を待って、くるかなあ、くるかなあ、まだかなあ、まだかなあ、どうかなあ、ちょっと緊張してきて、お腹がぎゅるぎゅるいってるんだが、お、なんだ、雲がお月様をぼんやりと隠して、風がやんで、そしてこの不意の静けさ……」
「しーんと静まり返る番町の青山屋敷、月が雲から顔を出し、草木も眠る丑三つの刻、家の棟も三寸下がり、水の流れもぴたりと止まる。草木も眠る丑三つの刻、家の棟も三寸下がり、水の流れもぴたりと止まる。この定番の言葉を合図に、ドロドロドロドロドロッと、ドロドロドロドロドロッと、そう、ハメモノの音が鳴りまして、まあ打ち合わせなんて事前になにもしておりませんし、本寸法ではございませんのでね、むしろここでよくハメモノが鳴ったなあと感心するほどで、皆さんも是非ともお囃子の先生方の普段のご努力に敬意を表して頂ければと、ああ、もの凄い拍手でございますが、その拍手に釣られでもしたのか、青白い陰火、火の玉が井戸の周りに、ぽっ……、ぽっ……、ぽっ……、と現れてはゆらゆらと揺れまして、どこからかヒューーーイっと鳥の声、ワオーーーンと犬の遠吠えが聞こえたかと思うと、井戸の中からぼやけた暗い光に包まれた白装束の幽霊がじんわり、じんわりと……」
「おわっ、あ……、あ……、で、出たよ……、本当に出たよ、お菊さんが本当に……」
「うーーーらーーーめーーーしーーーや……、てっ……さん……、こーのーむーねーんーのーむーねーのーうーち……、いーかーにーしーて……」
「おお、きたきたきたけど、怖くて顔を見られねえ、足は、ああ、大丈夫だ、震えてない、震えてないんだったら、逃げることは簡単にできるから、落ち着け落ち着け、ああ、なんか幽霊が口上いってるから、今のうちに雰囲気に慣れてだな、ハメモノもな、ハメモノも怖えんだよな、このゆっくりと確実にじわじわと迫ってくるような感じ、それでいてもの悲しいんだよこれが……」
「いちまーーーい……、にまーーーい……」
「ああはじまったはじまった、本当に皿を数えてるよ、えーと、顔をあげて、顔をあげて、顔をあげてっていってるのに顔が全然あがんない……」
「さんまーーーい……」
「くそっ、三枚まできたのに、顔あげろ、顔あげろ、よし、よし、顔あがった、顔あがった、それでお菊さんは……、お菊さんは……、ん……、ん……、ん……。ああ……、うん……、なるほど……、へえ……、ほお……、これはなんというか……、いいっ! 凄くいいっ! なんという美人! この世にこれほどの美人が、いやいや、あの世にあれほどの美人がいようとは!」
「よまーーーい……」
「ああいかんいかん、そんな世迷い言をいっておる場合じゃないな、とにかく逃げないと、四枚まで聞いたんだ、今日はもうこれで十分で、よーし、退散退散っと」
「ごまーーーい……」
「うわあ、五枚まで聞いちまったが、くそっ、なんでこんな時に便意が、ああ、走る訣にいかず、歩くにも歩けず、ええい、とにかく、あの塀だ、あの塀まで逃げれば……」
「ろーくーまーーーーーい……」
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……。ふう、なんとか屋敷の外まで逃げ出したが、まさかの六枚まで聞いちまって、ああ、これであいつらに報告したら、絶対にぶったまげるに違いねえ。まあその前に着替えか洗濯が必要だが、さすがにさっきの井戸で水を汲む訣にはいかねえからな、お濠か、あるいは小さな水路でもあれば、おお、あったあった、よし、ここの水で洗ってから、そんであいつらのところに」
「おーい、留さん、無事かい」
「ああ、無事も無事、ピンピンしてら」
「ピンピンはいいが、あれ、着物がやけに濡れてるみたいだが、どうしたぃ」
「ああ、あまりの怖さに逃げる時に漏らしちまってな、ああいや、ちゃんと洗ったんで、こらこら逃げるな、俺はお菊さんじゃないぞ」
「ということは、お菊さん、本当に出たのかい」
「ああ、出た出た、本当に出やがった」
「それで、美人だったかい」
「ああ、そりゃもう、言葉では表現できないくらいの、そりゃもう絶世の美女ってやつで、ああ、まあそういう表現はできるんだが、とにかく絶世の美女ってのはああいうのをいうんだろうなあ。まさしく絶世の美女だ」
「ほお、それじゃあれだな、ほれ、最近は茶店の看板娘や吉原なんかで、何年に一度の美人なんてたとえ方をしたりするが、お菊さんは十年に一度か、百年に一度か、千年に一度か」
「なにいってんだ、相手は幽霊だぞ、怨念に一途な美人だ」
「うめえこというな、ほお、怨念に一途かい。それで、何枚まで数えたんだ。ああいやいや、九枚まで数えるんだろうが、おめえが聞いたのは何枚目までだ」
「それがな、なんと六枚だ、凄いだろ。まあ本当はな、四枚で帰ろうとしたんだが、あまりの緊張でもよおしてしまってな、それで走るでもなく歩くでもなく、こう焦れったく走るように歩いたせいで、それで六枚よ。まあそこで運が尽きちまったんだけどな」
「そりゃ凄いな。いやあ、俺たちな、実はさっき話し合ってて、留吉のことだから、一人で行くなんていったものの、どうせ怖くなって諦めて、見てもいないのに見た見たなんていいながら帰ってくるんじゃないかなんて、そういい合っていたんだが、漏らしたとなると完全に話は別だ。信じるに決まってるし、それで留さん、明日も行くかい」
「そりゃ当然だろう、どうだおめえたちも、ああ、せっかくだし御隠居も誘って、明日は六人でどうだ」
「さあ、そうなりますと、翌日の晩には六人で、なんとか全員、六枚まで聞きまして、まあ御隠居は年がいってますので、御隠居だけ三枚目で逃げて、それで逃げ終わるまでに六枚まで聞いたという感じで、しかも留吉以外の全員が全員、御隠居も含めて粗相をしてしまうという有様で、ただ、こういうのは慣れでございますし、人数が多ければ恐怖も薄まるというんで、さらに翌日には八人に増え、十人に増え、どんどんと人数が増えてまいりますが、ただ、十八人を越えた辺りから、増える一方ではなく人数が減ったりもしまして」
「留吉、聞いたか」
「ん、どうしたぃ、そんな青白い顔をして。まあ毎晩深夜にあれほど出歩きゃ、寝不足にもなるってもんだが」
「それが、御隠居なんだけど」
「ああ、御隠居がどうしたぃ、しばらく見てないが、今夜にでも久しぶりに参加するって話か」
「いや、そうじゃなくて、一昨日かその前の晩か、俺たちとは別に一人で行ってたらしくてな」
「ああ、まあ今じゃ俺たち以外にも常連組がいたりするし、屋敷の側にも何人かいたし、塀のそばにも人影があったし、行ったってことはそのどこかにいたんだろうな」
「それが、どうも逃げ遅れたらしくてな、それで、突然だそうだ。長屋の井戸の釣瓶の縄、その縄で首を括って、ああ、井戸の中に飛び込んだんだそうだ」
「お、おい……、嘘だろ……、本当か……、亡くなったのか、あの御隠居が」
「ああ、今晩が通夜で明日が本葬だとよ。行くにしても呪われそうだし、行かないにしても呪われそうだし、どうすればいいかわからなくてな、それでおめえんとこに相談に」
「あ、ああ、そりゃまあ、当然行くだろ、行かないと、俺たちが行かないと、誰が行くんだよ、誘ったのは俺たちだぞ、つまり俺たちが殺したようなもんじゃないか、それで最後まで、最後の九枚まで聞いちまって、ああ、聞いたのか、御隠居は最後まで聞いたのか、なあ、どうなんだ、最後までちゃんと聞いたのか」
「いやいや、本人が死んだんでそれはわからねえが、でも井戸で首を吊ったんだ、そんなの、最後まで聞いたからって考えるのが、ああ、当然だ、当然というか、必然というか、ああ、ああ、その通りだよ、俺たちが御隠居を殺したんだよ」
「ああ、そうだ、そうだ、そうだけど、でもよ、よくよく考えろよ、あんな絶世の美女の、最後の言葉を聞いて、最後の言葉まで聞いて、それから死んだんだ……。それって、もの凄く、幸せなことなんじゃないか……」
「おいおい、なにをいってるんだ、不謹慎にもほどがあるぞ」
「いや、でも、まあ、そうか、とにかく、今日が通夜なんだな、わかった、皆には俺から伝えておくから、おまえもあまり落ち込まず、ああ、おまえは御隠居に大層可愛がって貰ってたし、無理はするな、なんなら明日の本葬だけでもいいんだし、ああ」
「さあ、そういう訣で御隠居が謎の不審死を遂げて、留吉連中が通夜に訪れます。皆一様に沈んでおりまして、自分たちのせいで御隠居が亡くなったと、それはもう大変に責任というものを痛感していて、もう二度と青山屋敷には行かないと誓いを立てたりするんですが、ただ、通夜のあとで酒なんかを飲みますと、今夜は御隠居の弔い合戦だなんていいまして、よし新記録を打ち立ててやる、お菊の奴を説教してやる、なんていって、なんとまあ全員が七枚目まで聞き、留吉などはさらに八枚目まで聞いて、そのせいで翌日は熱病にうなされて御隠居の本葬を欠席するという有様で、それからもしばらく寝込んでいたんですが、やがて快復を果たしまして、今夜は久しぶりに行ってみるか、というんで九段の辺りまできますと、偶然にも蕎麦の屋台が出ております。ああ、寝込んでからは雑炊ばかりで、ちゃんとした飯は食ってなかったというんで留吉、その蕎麦屋に立ち寄るんですが、ただ、そこに変な客がくるんですね」
「はあ……、へえ……、ただ単に腹が減ったんで寄っただけだったんだが、こりゃ面白いやり取りに出会ったってもんで、あの野郎、おかしなとこでおかしなこと訊きやがって、銭でもちょろまかそうなんて魂胆かと思いきや、そうじゃねえ、ちゃんと十六文払いましたから偉いってなもんで、ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ところで蕎麦屋さん、今何刻でい、へい、ここのつ、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六っと、ちゃんと十六文払いましたから偉いってなもんで、おかしなとこでおかしなこと訊きましたんでね、銭でもちょろまかそうなんて魂胆かと思いきや、そうじゃねえ、ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、蕎麦屋さん、今何刻でい、へい、ここのつ、とお、十一十二……。ん……、なんか変、というかしっくりこない。ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、今何刻でい、ここのつ、とお……。ん、あれあれ、これ、おかしいんじゃないの、だってほら、ここのつっていうとこだけ、払ってなくて、それなのに数えちゃったというか、ああ、なるほどねえ、へえ、こいつは面白いや。これは真似をしたくなるというか、まあ今日じゃねえけどな、今日はまだふらふらしてるし、今日はお菊ちゃんを見て、まあふらふらしてるし三枚くらいでいいか、それで帰って、明日は四枚くらいで、それと、ああそうそう、御隠居みたいにならないように、屋敷に集まってる連中にもちゃんとそう忠告しなきゃいけなくて、九枚まで聞くと発狂して死ぬ、八枚まで聞いても熱病にうなされるなんてな、実際に熱病にうなされた身だからな、これは説得力があるというか、まあとにかくこれ以上無茶をする奴らが出たら、こっちも堪らないというか、それに、これ以上お菊ちゃんに人を呪わせるなんてのは可哀相というか酷というか」
「そんな感じで留吉、久しぶりに青山屋敷を訪れるんですが、ただ、人数の方はそう増えてませんで、いつもの仲間や常連はいいとして、新顔なんかを見かけて注意を与えたりするんですが、それが功を奏したのか、それとも注意を無視する輩がいるのか、やはりそれからも人数はほとんど増えませんで、十人前後、多い日でも安心の十八人くらい、そしてまた、昼間は仕事で江戸市中の方々で大工仕事をするんですが、そこで耳にするのがやはり不審死や狂い死になんていう類の話で、なんの悩みもなく突然、井戸に身を投げる、なんの前触れもなく井戸で首を吊る、とにかくそんなことが耳に入りますので、まさかそいつらも、なんて思って、留吉、ある一つの重大な決意を固めます。そうして翌日、いつもの仲間や常連連中を集めますと、おう、悪いが今日はちょいと早い時間に訪れて、それでお菊ちゃんを呼んでみようじゃないか、なんていいまして、それで十人で連れ立って青山屋敷を訪れるんですね」
「おう、お菊ちゃん、悪いんだが、今日は少し早めにやって貰えねえかな。いやね、俺たちも毎晩のように丑三つ刻まで待つってのはちょいときつくてね、悪いんだが、今日は早めに、頼むよお菊ちゃん」
「そんな頼まれ方をしましたので、お菊さんの方もですね、なんかいってるけど、まあ別に丑三つ刻って決まってる訣じゃないし、昔は一晩中やってたし、というんで早速出てまいりまして、青白い人魂がぽっ、ぽっ、ぽっと浮かんではぐるぐると回り、井戸の中からお菊さんの幽霊が、うーらーめーしや鉄山、と出てまいりまして」
「おう、おめえたちは好きなところで逃げていいからな。俺は試したいことがあるんで最後までいるが、ああ大丈夫だ、心配すんな」
「いちまーーーい……、にまーーーい……、さんまーーーい……、よまい……、ごまーーーい……、ろくまーーーい……、しちまーーーい……、はちまーーーい」
「おう、ところでお菊ちゃん、今何刻でい」
「留吉が突然そんなことを大声で尋ねましたので、幽霊とはいえお菊さん、そこで言葉を止めまして、少し考えてから留吉の方を向き、なんだこの変な男はと思いつつ、ここのつ、と答えます」
「ああ、ここのつかい、悪いね変なところで刻を訊いて。へえ、ここのつかい、それじゃお菊さん、ここのつの次は何枚だー」
「じゅうまーーーい……、ん、十枚……、ん、十枚? じゅ、十枚……? あ、ああ……、ああ……、十枚、十枚ございます……、十枚、十枚揃いおりまする……!」
「お菊さんの幽霊、とにかく幽霊でありながら驚くやら慌てふためくやら、目をぱちくりとさせて、顔はきょろきょろと忙しなく動き、どういうことなのか、どうしていいやら、何度も何度も、十枚、揃いおりまする、十枚揃いおりまする、と口にし続けるうちに、ようやく落ち着きを取り戻し、まあ幽霊が取り乱すということの方が変なんですが、とにかく、悲願の十枚目をついに数えたということと、その十枚目を数えさせてくれた人がいるというんで、その留吉の方を向きますと、一度は逃げた連中も何事かと戻ってきておりまして、お菊さん、穏やかな表情でそちらに向かってゆっくり深々と頭を下げますと、徐々にその姿が薄くなりはじめ、ゆっくりと頭をあげますと、静かな笑みを湛えたお菊さんが、霞のようにすーっと消え、井戸の真上から青白い光の筋が、天に向かってすーーーっと伸び、そして静かに消え去ります」
「ああ、おお、やったよ、留さん、やったよ、これ、これ、あれだよね、あれだよね」
「ああ、成仏だ、お菊さん、成仏したんだ、十枚まで数えて、それで成仏したんだ」
「おんめえ、やるじゃねえか、どこでそんなの覚えたよ、なに、蕎麦の屋台で、ちょろまかしてた奴がいて、それを見たのか、でもまさか、それが幽霊に通用するとはなあ」
「まあ賭けというか、大博打ってやつだな。それが失敗していたら、ああ、今頃俺は御隠居と同様、明日には発狂して死んでたはずで、ああ」
「いやいや、お菊さんの成仏もめでたいが、それよりも凄いのは、留吉、ついに最後まで聞きやがったな。ああ、皿の枚数だよ。なんたって九枚まで聞いて、それで発狂して死んだなんて奴らは大勢いるが、留吉は九枚どころか十枚だぜ、な。しかも俺たちもだ、様子がおかしいってんで戻ってきてみりゃ、お菊さん、十枚揃いおりまする、十枚揃いおりまする、なんて戸惑っちゃって。あの慌てっぷりときたら可愛いなんてもんじゃなかったぜ。ここにいる十人だけだな、あんなおちゃめなお菊ちゃんを見たのは。お菊ちゃん、生きてた頃はあんな感じだったのかもなあ」
「ああ、あれは確かに可愛かったな。でも俺はやっぱり最後の表情だな、頭を下げて、頭をあげた時の、あああの表情だ、世の中にこんなにも穏やかな表情があるのかと、モナリザかと思ったぜ」
「ああ、それは同感だな、俺なんかもう胸がキュンキュンして、あんな美人に感謝されて、ああ、俺はもういつどこで死んでも構わねえな」
「おいおい、死ぬなんて縁起でもねえことを。せっかくお菊さんが成仏したんだぜ、そうだな、そういうことなら今夜は皆でパーッと、精進落としってやつで盛り上がるか」
「さあ、そうやって十人の男衆が騒いでおりますが」
「もし……、もし……、一つ尋ねたきことがござるが……、さきほどの青白き光の筋は……、一体、何事でござろうか……。遠方より眺め、その方角と距離とを勘案するや、この青山屋敷の辺りではあるまいかと思い、不吉な予感がし、こうして普段よりも早き時刻に急ぎ訪れてまいった次第でござるが……」
「ん、ああ、はいはい、見たことある顔だ、あのー、確かいつも屋敷の方から井戸を見てたお侍さんですよね、あー、済みませんねえ、今日も誘いたかったんですけど、素性を聞いたことがなかったんで、それでお報せできなかったんですけどね、あのー、実はですね、こうこうこういう次第で、それでお菊ちゃん、ついに成仏したって訣なんですよ。いやー、そういうことならお侍さんも毎日きてた常連さんですし、町人のあっしらと一緒でよければ、これから精進落としなんていって盛り上がろうなんて話してて……」
「おまえたち……、自分たちが……、なにをしたのか……、わかっておるのか……」
「はい?」
「自分たちが、なにをしでかしたのか、わかっておるのかと、そう尋ねておるのだ」
「えーと、どういうことです?」
「なんという愚かな、なんという愚かなことを。せっかくの美女を、あれほどの美女を、勝手に成仏させるとは何事か、愚かにもほどがあるではないか!」
「あいや、そういわれましても」
「故郷を遠く離れての江戸ご勤番……、慣れない土地での辛く寂しい日々であったが、噂を聞きつけ、はじめてお菊殿を目にした時から、ああ、世の中にこれほどの救いがあったのかと、これは幽霊ではなくもはや現世に降臨した観世音菩薩ではないかと、そう思い、これだけが救いで毎晩通い続け、しかもおまえたち怖がりの町人どもが逃げたあとも、最後の最後まで毎日連日聞き続け、あの九枚を数えたあとの、一枚足りないといった時のお菊殿の悲しく侘しき声色、あの恨めしき面色がなんとも妖艶に美しく、心に深く重く響いていたというのに、それを、それを……、おまえたちが、貴様たちが……、勝手に……、なんという……、なんという、恨めしきことをしでかしてくれたことか! この恨み……、晴らさでおくべきか……、全員……、ここにいる十人……、全員……、今すぐ、斬り殺してくれよう!」
「お、お侍さん、ちょ、ちょっと、それ、刀、刀、真剣……、な、なにするんです、ま、まさか、まさか」
「一人!」
「ひっ……」
「あ、あ、こ、腰が抜けて……、た、助けて、だ、誰か……」
「二人!」
「ふっ……」
「ちょ、ああ、ああ、駄目、駄目、駄目駄目……」
「三人!」
「みっ……」
「ほ、本気だよこの人、お、おい、に、逃げなきゃ、逃げ……」
「四人!」
「よっ……」
「あ、あ、あ、や、やだ、やだやだ、く、くるな、くるな……」
「五人!」
「いつっ……」
「え、あ、そ、そんな、な、なんで、なんで……」
「六人!」
「むっ……」
「ま、待って、待って、あ、ああ、漏れる、漏れる、ああ、漏れた、漏れた……」
「七人!」
「なっ……」
「か、かか、かか、勘弁……、勘弁……」
「八人!」
「やっ……」
「あ、あ、こ、こないで、こ、こないで、頼む、頼む、こな……」
「九人!」
「くっ……」
「ふう……、残るは一人……、さて、どこにおる……、十人目はどこにおる……、隠れたのか、どこに隠れた、隠れても無駄だぞ、拙者は気配には敏感だでな、どこにおる、出てこい、どうせ死ぬのなら、さっさと死んだ方が悩まずに済む……、そうだろ……、違うか……、どうだ……、違うか……。ああ……、そうか……、一人……、逃したか……、拙者としたことが、一人……、逃したか……。いや、それとも、数え間違いか……。どれどれ……、死体の数は……、一人……、二人……、三人……、四人……、五人……、六人……、七人……、八人……、九人……、一人、足りぬ……。やはり、逃したか……、そうか……、一人、逃したか……、それがしとしたことが……、町人如きを取り逃がすとは……、なんたる不覚……、だが、この暗さでは……、顔も覚えておらぬ……。もし町中ですれ違っても……、互いに気づくこともあるまい……。なんと悔しい……、なんと憎々しい……。この恨みを、この恨みを生涯負い続けねばならぬというのか……。なんという……、なんという無念……。もう一人斬れば……、もう一人殺せば……、あと一人……、首を刎ねさえすれば……、すべてが終わったというのに……。ん……。ああ……。そういえば……。もう一人……。いるじゃないか……。ここに……。もう一人……。いたじゃないか……。ふっふふふっ……。ふふっふふっ……。そうだ……。それだ……。これで無念が晴れるというもの……。これで……。これでっ……、でえええい! じゅぅ……、に……、ん……」




