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空を飛んでいる

作者: 青山竜祐

夢の世界だったか、よく覚えていないのですが、そんなお題をもとに書きました。

自分では普通の作品と思っていますが、他人からの評価のほうがよかった得心のいかない作品です。

 私は何かとてつもない、壮大な事態に巻き込まれていた気がしたけど、どうやらそれは夢の話だったようで、こうして薄ぼんやりと見える棚やテーブルを横目に息を吐いた。体は凄くだるくて二度寝したくなるけど、夏の暑さにやられてこのまま布団の中の住民になることさえ億劫だった。仕方なく体を起こす。さっきまで見ていた夢がどうしても思い出せない。何かドラマ的な、大きな事件に遭遇した気がしたのに、そのうえ当事者であったはずなのに、頭の中は私の財布の中みたいにすっからかんだ。夢なんてそんなものだけど、忘れるのはやっぱり寂しいし、まして大きな事件ともなれば悔しさでいっぱいだ。世界中で、毎日七十億人もの夢が体験される中、私のように諦めがつかない人間はどれくらいいるだろう。七十人に一人ですら、日本の人口くらいだと思うと、世界中の多くの人の朝は、がっかりで始まってしまうことになる。仕方ない――そうやって理不尽に立ち向かいながら人は毎日を過ごすと思えば、今日の私は褒められるに値する。

 こんなに多くのことを考えなければ、布団から出ることもできない。足も布団から出して立ち上がった。サイドテーブルの上に置かれた時計はまだ早い時間を指していた。冷蔵庫から牛乳を取り出し、大きなコップいっぱいに注ぐ。それを一気に飲み干した。はあーと声を出してから口周りの牛乳を拭き取る。これで二度寝は免れた。

 それから朝食にトーストを焼いた。マーガリンを塗り付け、朝のエンタメ情報を視聴する。笑いもせず、芸人から目を離さない。彼らには私からの非難の目なんて届いていないだろう。というか、録画か。

 レジャー系の情報を流し始めた。二枚目のトーストにいちごジャムを塗りたくっていると、テレビでは足の裏が焼けるほど熱そうな砂に水が強く打ち付けられていた。口元がジャムで汚れても、私は目を離さなかった。私の瞳は、太陽を浴びた海みたいにきらきらと輝いているだろう。

 裕翔(ゆうと)と行きたい。私の退屈を紛らわせてくれるのは彼だけ。彼の前ではこんなだらしない私はさらせない。口の中にパンが残っているのに気づいて、すぐにごくりと喉に通す。それから流しで口を洗った。ぽたぽたと口から水滴が落ちるたび、シンクで音が反響する。

 泊まりで出かけたい。裕翔はいいよって言ってくれるかな。

 そのときは私の一日が腰に手を当て、牛乳の一気飲みだとばれないようにしないと。習慣って気を抜くとすぐ表に出てしまうから。この間も二人でいたとき、かんだ後の鼻水を見た。幸い、裕翔には見られなかった。

 朝の準備を一通り終える。そんな頃には、今日見ていた夢を気にしていたことを忘れていた。ことに気づいた。ああ、所詮私の覚えていたいって気持ちも、こんなもんなんだ。自分に呆れて口を閉じたまま鼻から空気を出した。最後に今日の授業で使う教材、ノートの確認をする。……。

 ……。いつも、カレンダーなんてほとんど見ない。昨日は月曜日だったから、今日は火曜日の準備だ。そうやって、時計の隣に置いた月ごとのカレンダーは、時を刻むことなく先月で止まっている。いやいや、そんなことはどうでもよくて、昨日のことが思い出せない。起きたてのようにぼんやりと一昨日くらいの記憶がある。だけどはっきりとしたイメージが何一つできなかった。大学に行ったのかも疑問だ。私は裕翔と会ったのか、一人しくしくとお昼を食べて、寂しい背中を地域住民に見せつけて帰宅したのか、まったくわからない。

 部屋の奥側の、薄いカーテンを全開にする。熱射が部屋に入り込むのは嫌だけど、完全に頭を起こしたかった。

 外の道路には車が次々と走っていく。大きいのも、軽自動車も、白いのも、黒いのも。向かい側のコンビニには、立ち読みをしている人がいる。あ、今出てきた人アイス食べてる。いいなあ。二階から見下ろせる風景は、私が二年と四ヶ月見てきたものと同じだった。

「アイスは夏だけかな」

 と呟くと、毎日に強い思い入れがないことを自覚した。そうだ、私は毎日が退屈なんだ。裕翔がいないなら何もしたくない。ずっと寝ていたい。

 でも、退屈だから思い入れがないんじゃなくて、思い入れがないから退屈なんじゃないかって、鶏だとか卵だとかどちらが先かの思考にふける。

 口角をあげて携帯の画面を見る。今日の日付と、曜日がわかった。鞄に教材を入れる。そこには大事な昼食用のお弁当が入っていなかった。

「今日は学食にするか、手料理にするか」

 一応趣味が料理ではあるけど、していないと体が壊れるとか、それほどじゃない。まだ時間はあるものの、そんな気分にはなれず、時間の無駄遣いをすることにした。部屋の真ん中にクッションを敷いて、そこでぼうっと過ごす。昨日のこととか、そのうち思い出すだろう。



 ――目の前には見慣れた街並みが見えた。私は空を飛んでいた。正確には宙に浮いていた。夜に輝くネオンサインを見下ろす。ビールの広告があって、隣のビルではまだ働いている大人たちがいた。文句も言わず、せかせか動いている。私は宙を歩くように足を交互に前へ進める。どうして進めるかはわからないけど、とにかく足を動かした。しばらくして駅周辺の上にたどり着く。若者たちの姿があった。女の子だけだったり、男の子だけだったり、カップルがいたりした。そこには仕事帰りの大人もいたのに、私は同年代の彼らに釘づけだった。特にカップルを見る。手をつないで街中を横断している。気持ち悪くなって手で口を押さえた。胸が苦しくて、その場にしゃがみ込む。私はビルよりも高いところで仰向けになった。誰よりも星の近くにいた。誰よりも彼らの輝きを一身に受け止めた。そしてぐるりと回る。両手を広げた。私は空を飛びたかった――。



 やってしまった。完全に遅刻だこれ。大学の門を通り過ぎた頃、教室ではすでに授業が始まっている時間帯。出席カードをこれから受ける授業の先生は気まぐれに配る。開始早々だったらアウト。一枚一枚学生を見るから、裕翔が二枚取ってくれるのを期待するのも駄目だ。

 汗が全身を垂れていく。顔がひどいとか、汗臭いとか言われるより、今はとにかく冬みたいな教室に行きたい。暑さで重くなった足を精一杯前へ前へと振り上げた。

 扉を開けると教室内から涼しい風が吹いて、私を撫でつけた。誰も手元に出席カードを置いていなかった。セーフのようだ。

 大体裕翔は後ろの方に座っている。私が彼のことをすっごく好きに思っているから、すぐに見つけられたんだと思う。後ろから三列目の裕翔の隣に腰かける。

「おはよう」

 と小声で言うと、「おはよう」と裕翔も返す。それから五秒経過したら裕翔はばっと勢いをつけて首を曲げた。大きくした目で私を見つめる。あらいやだ。教室なのに私のこと見つめていたいの? そんなに魅力的かしら? 裕翔と目を合わせ私は笑った。……ちょっと待て、汗がひどいから距離置きたいとか、そんな風に思われてるんじゃなかろうか。

「千尋……どうして」

 裕翔は口を震わせる。手に持っていたシャーペンを机に落としてしまった。それはころころ転がって机の下に落ちた。裕翔は慌てたように、手を伸ばす。

 私は自分の顔が悪い感じに芸術的だったりしちゃうのかと、不安に駆られながらノートを開いた。裕翔が驚いたのが、私を見て引くとかそんな理由なら今ここでそれは訊けない。仕方なく先生の顔を見ることにする。

「あのさ……」

 シャーペンを拾った裕翔が話しかけてくる。

「よーし、出席カード配るぞ」

 先生は列の端から順に配り始める。裕翔は先生を見て嫌そうな顔をした。

「ごめん、後にする」

 そう言ってどこに視線を合わせるわけでもなくじっとしていた。

 冷房が効きすぎているのか、顔色が悪かった。

私の方は冷房のおかげで、もう汗は乾いていた。



 お昼に食堂に行った。前期がもう終わるからか、学生の数が多かった。試験やレポートの情報をかき集めるためにぞろぞろと集まって、ラーメンやカレーを挟み、賑やかに談笑している。私たちはテーブルの端に向かい合って座った。私が定食を買ったのに対して、裕翔はうどんだった。普段裕翔はもっとたくさん食べるのに。

「足りるの?」

「お前さ、どうしたんだよ」

 裕翔はうどんに手を付けようとしないで話しかけてきた。

「どうしたって何が?」

「何ってお前……だって」

 裕翔は下唇を噛んだ。茶色の髪をかきむしる。

「うどん、伸びちゃうよ」

「…………」

 裕翔は食べたいって感じじゃなくて、急かされたから仕方なくといった具合にうどんをすする。機械みたいに、その動作を繰り返した。そんな彼を奇妙に思いながら私もご飯を口に運ぶ。

 飲み込んでから「朝のことなら、ぼうっとしてたら時間が過ぎただけだよ」と言っておく。裕翔は納得したようには見えない。彼が気にしているのはどうやら別の問題のようだ。

 今日、裕翔は変だった。私に対してよそよそしい。それからぼうっとしていることが多かった。うわの空で、話しかけても聞こえていない様子。私が「わっ!」って驚かしたら「うお!」って本気でびっくりした。申し訳ない気持ちになったけど、それ以上に彼の様子が気になった。

 裕翔が家に来ていいって言ったから、遠慮なく遊びに行った。お邪魔すると部屋はちょっと散らかっているだけだった。新しい漫画雑誌や、ゲームソフトが床に落ちていた。中には一年前にも見た雑誌もある。

「古いの、片付けないの?」

「また……読みたくなったから」

「裕翔、大丈夫? 顔色悪いよ」

「コーヒー淹れる」

「暑いのに?」

「目、覚ましたい」

 裕翔はやかんに水を入れて、IH調理器にかける。私は気になった漫画雑誌を手に取った。あ、これ懐かしい。読んだ覚えがある。これも、これも。こっちも――背中に重みが乗っかった。

「え……」

 雑誌が手から滑った。耳元ですう、はあという息遣いがした。肩から回された手は、私の上腕に伸びてがっちりと掴まれる。夏なのに、三十六度くらいの、マフラーが首に巻かれている。暑いけどそんなに嫌じゃない。床に落ちた漫画雑誌は、戦闘場面が開かれていた。ああ、凄くいい場面だけど、興奮なんてしてられない。今そんな感情を抱いたら、発情してるって思われる。

「どうしたの?」

 裕翔は何も答えてくれない。私を抱きしめてくれる理由も、「冷房つけよう」とも。人の家で冷房つけてなんてそりゃ図々しいだろうけど、だって熱いんだもん。だって、しょうがないじゃない、熱くなっちゃうでしょ。

 ぴゅーって気の抜ける音が聞こえてきた。

 裕翔の腕に手を置いた。

「やかん。沸騰してるよ?」

「ちゃんと……感じる。千尋の体温」

 虫の息なのか、声がかすれたのか、私たちを囃し立てたいのか、やかんはひゅーひゅー言っていた。ついでに私の心臓も騒いでいた。



――私はそこにいなかったけど、そこにいた。裕翔の部屋にいた。突っ立って、苦しんでいる彼を隅で見守った……きっと見下ろしているだけだった。どう思おうと何もしてあげられない。彼はあぐらをかいて部屋の一点を見つめるだけ。その目は死んでいた。ときどき横になって胸に手を当てている。かと思えば頭を抱える。そしていつもこう呟くのだ。

「ごめん、千尋」と――。

 それから毎日のように裕翔の家に通った。きゅうりやハムもちゃんと細く切った冷やし中華を作ったり、部屋をガンガン冷やしてキムチ鍋を挟んだ。彼はどれも美味しそうに食べて、ちゃんと「美味しい」って言ってくれた。言葉が耳に届くたび、私の気分はうきうきする。二人で漫画を読んだり、ゲームをした。裕翔は対戦では手加減してくれた。協力では必死に守ってくれた。私が「暑いね」って言ったら意地悪するみたいにすり寄って来た。「やめてよ」って私が言うと、今度は腕を触って来て、それから抱き着かれた。そんな毎日を繰り返した。

 知らぬ間に前期の授業が終わっていた。夏休みに入る。

「ねえ、海行きたい」

 私は言った。

「暑いじゃん、外」

「暑いから行くんじゃん」

「肌、焼けるぞ」

「黒いの、嫌?」

 訊いてから、自分は海に行きたがっていた日のことを思い出した。そうだ、あの日だ。あれから私はずっと裕翔といる。退屈な日なんてないくらい、私は楽しんでいる。朝も、昼も、今このときも。

 あれからはっきりとではないけど、それなりに裕翔との楽しい日々を思い返せる。なのに、海に行きたいって思った日より前のことを、ちゃんと思い出せなかった。

 でも、ここに裕翔がいてくれる。だから私は満足で、何かを気にする意味を見いだせなかった。

 大学も、何もかも必要ない。私は裕翔と居られれば、それだけでいいんだ。



 日に日に、私の裕翔といたいという気持ちは増していくように思われる。反面、裕翔は日を追うごとにやつれていった。私たちの気持ちは比例しない。ちゃんと食事もしているのに、魂が抜けたように意識のないときがある。原夏バテかもしれない。私はスポーツドリンクを買ってきたり、冷凍庫でたくさんの氷を作ったりした。私の一番新しい記憶がある日から、ずっと裕翔は私に優しくしてくれて、好きとも言ってくれた。そうだったのに、今は私を見るたび溜め息を吐くこともある。ときにはお化けでも見たように驚いていた。裕翔は痛々しくもあり、私が何とかしなきゃとも思えた。

 彼のために栄養たっぷりのご飯を作る。ときには抱きしめてあげる。頭を撫でてあげる。

 だけど彼は決まって布団にもぐりこんだ。寝たくなるほど私が鬱陶しいのだろうか。でも好きな人と一緒にいたいのは当たり前のことだ。

 とりあえず前期授業が終わっているのはよかった。

 今日もずっと寝ている。寝顔はいつも同じじゃない。苦しそうなときや、嬉しそうなときがある。前者のときは起こしてあげた。けど、怒られたから、それ以来苦しそうでも起こしていない。

 布団がもぞもぞ動いた。裕翔は目をこすりながらこっちを見る。

「俺……何で目、開けようとしてんだよ」

 ときどき変なことを言うことが多くなった。寝言で「ごめん、千尋、ごめん」って謝ることもあった。夢の中で私にひどいことをしているのだろうか。

「うなされてたみたいだけど、大丈夫?」

「全然、大丈夫じゃねーよ」

 裕翔の隣に座る。

「何か食べられる?」

「食べて……どうなるんだよ」

「食べないと病気になるよ」

「ここで食べてどうなるってんだよ!」

 裕翔は側にあった漫画雑誌を破いた。何枚にも破り千切るそれからは目を背けたくなる。

「やめなよ裕翔」

 落ち着かせようとして優しく声をかけた。

「破いたからどうなるわけでもないだろ! そのはずだろ!」

 裕翔は凄い剣幕で私の肩を揺さぶる。頭がぐらぐらして気持ち悪い。裕翔が二人に見える。ぶれて、視認できない。裕翔がたくさんになっちゃったのだろうか。それとも私の目がおかしいのだろうか。

「だってここは――」

 ――私は空を飛んでいなかった。やっぱり私は宙に浮いているだけで、羽を生やして羽ばたくことができないでいた。羽はなくていい。とにかく飛びたかった。

 街の上空にいる私は、自分の存在が何なのか認識し辛くなっていた。少しでも気を抜けば大気中に溶けてしまいそうなほど軽くて、質量を持たなかった。溶けてしまったが最後、この世からなくなってしまうことを、不思議と知っていた。

 この世に存在を刻み込みたい、そう思ったら否定されたように夜空から強風が吹き、私の体は飛ばされた。「飛ばされると飛んでいるはきっと違う」その場にとどまりたいと強く願えば、地上のどこかが私を強く求めるように吸い込んだ。

 私はどこかのビルの屋上に立っていた――。

 裕翔の紡いだ言葉の続きは耳に入らなかった。だけど、何を言ったのか悟ってしまった。私は少しずつ気づき始めている。

 裕翔の部屋にいるはずなのに、遠くに感じる。私は南極とか、遠い場所からこの部屋を見ているだけのような、もしくは月から俯瞰しているような感覚を持った。

 それに気づいてどうすればいいの?

 私はあの日から一度も夢を見ていなかった。ときどき見えるビルとか、裕翔の姿とか、あれはきっと失った私の記憶。過去を思い出すだけで、夢を見ることはなかったのだ。

「そうなんだね」

 独り言のように呟く。裕翔は私を押し倒し、首を両手でつかんだ。十秒、一分、時間が過ぎていく。彼は力を入れなかった。

「私は夢なんて見られないよね」

「それは知らない」

「私ってどうしてここにいるのかな?」

「知らない……知らない、知らない! 頼むから出て行ってくれよ。俺の夢から、出て行ってくれ」

 裕翔の頬を伝って雫が私の頬に落下した。どうして私は不安がらないのだろう。もう絶望を、味わったことがあるからだろうか。

「お前は何なんだよ……。わけわかんねーよ。どっちが夢で、どっちが現実なんだよ! 違う、こっちが夢のはずなんだ。千尋がいるはずないんだ」

 ――私はビルの屋上にいた。誰にも使われずにただあるだけの場所。まるで私のような。私はフェンスに向かって歩いた。私はフェンスを越えた。

 一歩前へ踏み出せばもうビルじゃない。怖くて足がすくんだ。携帯に着信があった。未練がましくそれを確認したら裕翔からで、びっくりして手からそれを落とした。フェンスの下には隙間があった。そこを通って屋上に滑って行ったそれを、反射的に取ろうとして足を滑らせる。私は空を飛ぶことができない。宙に浮くことも、夢の世界ならまだしも、現実ではできず私はただ落下した――。

「私……裕翔に嫌われちゃったんだよね。それで死のうなんて軽く考えちゃって」

「千尋ごめん……俺のせいで。でも頼むから死んだやつがいつまでも出てこないでくれよ。消えてくれよ」

 裕翔は目を細めた。舟を漕ぎ始めていた。おやすみ裕翔。そして――。

 この感覚が増えたのも、私が気づいたからだろう。私はビルの屋上にいた。もう一度ここから落ちれば、私はきっと死ねると思う。今度こそ、誰の夢に出るわけでもなく、ただ死ねる。私はここが、自分の現実だって思っていた。だけどもうないのだ。きっとどこにもなくて、私は消えるだけ。フェンスに近づいた。金網に指を引っかけ、この真っ黒な空を見上げる。夢なら飛んでみたかった。

「夢の中の私は……どんな夢に希望を見つけたらいいのかな?」

 海に行きたかった。あのコンビニのアイスを食べたい。全部全部、裕翔としたい。

 屋上のどこかから聴きなれた音がした。その音楽はいつも天国を見させてくれたのに、今は地獄への門が開いた音にしか聞こえない。恐る恐る振り返った。屋上の真ん中に私の携帯が落ちていた。メールを報せるその音、裕翔からの着信に違いない。急に汗が垂れた。夏の暑さなんてもう感じないのに。足を後ろに下げるとガッと音がした。フェンスが後ろにあって逃げられない。携帯が私を襲うことはないのに、それが恐怖の対象にしか見えなかった。

 フェンスに背を預けてその場に座る。男に振られて、自殺しようとして、死にきれなくて、誤って転落してしまう。私の人生はなんて滑稽。世界中の笑いの対象。さあ、笑って。必要とされない、それがわからないと死にきれない。ここから消えることができない。次に裕翔が夢を見るまでに、早く立ち去ろう。でないと彼が苦しみ続ける。

 私はなんていい女なのだろう。彼のために死ぬ。私は格好よくて、美しいに決まっている。それを誰にも知られずひっそりと実行するだけ。

 立ち上がってすたすた歩く。もう迷いはない。

 私は携帯電話を拾った。新着メール。裕翔からの無題のメール。さあ、裕翔。私はあなたのために消えてあげる。

『ごめん、千尋』

 開いたメールにはただそれだけがあった。

 ごめん、千尋って寝言でいつも言っていた言葉。それはどういう意味なのだろう。

 不意に夢が崩壊を始めた。遠くの景色は本来裕翔が見るはずだった夢に、飲み込まれているのだと思う。なんとなくそんな気がした。ビルは削れ、光は吸い取られている。

 彼の私への最後にメッセージ。謝ったのは、ひどいことを言ったから。そしてどうなるの? 私はあなたの傍にいられるの?

 死んだ私なのに、未練がましく現世に行きたいと思い始めた。だって答えを知りたいじゃない。

「ねえ、お願い。ここが夢なら、私の目を覚まして」

 そうでしょ。待って欲しい。私を嫌った裕翔が謝っている。真相を聞きたい。だから私を消さないで。

 もっと生きたい。彼の傍にいたい。一緒に海にだって行きたい。

 夢は夢を次々に食っていく。残しはしないというように欠片一つ逃さない。だからこのままでは私もいずれ彼の栄養と化してしまう。

「聞きたいことがあるの。彼の口から直接、私に届くように」

 開いたままのメールから返信文を作成した。件名は「聞かせて」。本文に「これから怒りに行くよ」。そう書いて送信した。

 やがて夢は空を覆い尽くし、食らい、私の腕ごと携帯電話を飲み込み、ついには私の存在を無に帰した。

 ――はっと我に返った。ここはどこだ。私は何だ!

 重い体を起こせばサイドテーブルやテレビ、そして腕があった。

 寝巻のままカーテンを全開にした。アパート前の道路を様々な大きさ、形、色をした車が横切っていく。向かいのコンビニから、カフェラテを飲みながら出ていく人がいる。

 飛ぶために跳んでみた。その場でぴょんぴょんしただけだった。私は宙に浮かなかった。振り返って敷きっぱなしの布団を見据える。私にはわかるのだ。ここでお姫様のようにすやすや寝息を立てれば、かぼちゃの馬車や、王子様との幸せな日々を送る素敵な夢を見ることが叶う。

 冷蔵庫をノックした。開けるよって声をかけて中からレタス、トマト、ハム、チーズを取り出す。それらを切ってパンに挟んだ。私は立ちながらそれを食べ終え、最後に牛乳をコップに注いだ。腰に手を当てて一気に飲み干す。

「よし」

 私は着替えて鞄も持たずに家を出た。眩く光る太陽が鬱陶しい。裕翔の部屋の前に着いた。持っていた合鍵をねじ込む。

 部屋の中心に裕翔が寝転がっていた。布団もしかず、枕も使わず。

 裕翔から嫌われたのも私が彼に構いすぎて、構われたすぎてだったんだろう。合鍵使って入っている時点で反省の色が見えない気もするけど、これだけはわかってもらいたい。構いたくてしょうがないんだ。

 裕翔の傍に腰を下ろした。

「ごめん、千尋」

 彼の頭を軽く撫でる。

「起きたよ」

 裕翔の寝顔は、とても穏やかなものになった。


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