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【童話集】青い空  作者: 秋月 忍


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3/3

癒しの銭湯

2014/12/25投稿

 立ち並ぶ高層ビルの一角に、ポツン、とその『銭湯』はあった。

『癒しの銭湯』と掲げられた看板に、「心のコリによく効きます」というキャッチコピー。

 そもそも、こんなところに、こんな銭湯あったのだろうか? と、遠野明子は首をひねる。

 建物は古びていて全く新しさはない。もう何十年もの月日がすぎたという外観で、建物からぼんやり漏れてくる光もどことなくレトロだ。

 今日はクリスマスだというのに、ツリーひとつ飾ることもなく、日々の営業を地味に営んでいる。

――クリスマス、か。

 思い出したくないことを思い出してしまった。

 本当なら、今日、この時間は、高級レストランで、隆と食事をするはずであった。

「ごめん。仕事で出張が入って、帰れない……」

 連絡をもらったのは、三日前。

 話を聞いた時は、納得したものの、時間がたつにつれて、それは不審に変わっていった。

 隆は、昔から女性にモテた。それなのに、真面目だけが取り柄のような明子の告白に応えてくれて、交際が始まったこと自体が、夢のような出来事だった。

――遊ばれたのかな、私。

 クリスマスに、本命の女のオッケーをもらうと、キープしていた女をいとも簡単に捨てる。そんな鬼畜な男のドラマを見たことがある。

――そんなひとじゃない。

 そう思いつつも。明子はもう二十八。盲目的に愛を信じられる年でもなくなった。

――心がコルってこういうことかしら。

 ほぼ、魔が差したといってもいい。明子は、銭湯ののれんをくぐった。


 中に入ると、そこは『昭和な銭湯』の風景であった。

 男湯と女湯ののれんの真ん中に番台があって、人のよさそうな中年の女性が座っている。

「一回、五百円ね」

 柔らかな微笑みとともに、ロッカーキーを渡される。

「あの、タオルとかは借りられますか?」

 よく考えたら、会社帰りに風呂に入るつもりなんて全くなかったから、着替えどころかタオルも持っていない。この寒い時期にわざわざ銭湯に寄って帰るなんて、自分はどうかしている、と明子は思った。

「タオルとバスタオルね」

 女性はみるからに、ふんわりとしたタオルを番台にのせた。

 料金を支払い、脱衣場に入っていく。パラパラと数人の客が着替えている。

 年齢層はバラバラ。オフィスビル街にもかかわらず、老婆や、受験生っぽい世代など統一性のない女性客たちが、うっとりとした優しいまなざしで、着衣を整えていく。

「新顔、だね」

 品の良い老婆が、明子に声をかけてきた。

「はい。この銭湯、いつからあるんですか?」

 明子の疑問は間が抜けていたかもしれない。明らかに古い外観だし、どうみてもこの老婆は常連っぽい。

「ふふ。昔からあるといえばあるし、ないといえばないね」

 謎のような言葉を唇にのせ、にこやかに笑う。

「ここは、本当に不幸な人と、本当に幸福な人はこない。そういう場所さ」

 穏やかにそう告げると、老婆は荷物を手に去っていった。

 明子は首を傾けたが、タオルを手に浴場へと続くガラス戸を開けた。

 ガラガラガラ

 いかにも、な、音がした。湯煙がホワンと広がり、視野がはっきりしないが、洗い場といくつかの浴槽があるのが見えた。

――まあ。せっかく来たんだし。

 なんとなく、洗い場で体を洗い始める。

 洗い始めると、隆とのやり取りが脳裏に浮かんできた。

 もともと、隆はクリスマスの食事会は乗り気ではなかった。仕事が忙しいから、休日のデートもままならず、明子は師走に入ってから、ほぼホッタラカシにされている。メールも電話も、以前からマメなひとではない。

 レストランを予約したのは、明子だ。自分がおごってもいいから行きたいと、懇願したのだ。

 クリスマスイブのそのレストランは、眼下に、大きなクリスマスツリーのイルミネーションがみえ、ピアノのコンサートが開かれる。明子は、ずっと、その夢のような食事会にあこがれていた。

――最初から、私だけが行きたいと思っていたのよね。

 髪の毛を洗い流しながら、頬に涙が流れるのを感じた。

――ま。レストランが銭湯に変わったら、お値段はお安くなるわね。

 顔を拭きながら、口元を歪める。

 明子は、洗い場を清め、浴槽へと向かった。

 湯煙で、視野がぼんやりとしていて、他にもいるであろう人影が見当たらない。

『信頼の湯』

 ヒノキでできた浴槽の上に、そんなプレートがついている。

――ずいぶん、変な名前。

 明子は首をひねりながらも、ゆっくりと浴槽に浸かった。

 暖かい。

 外が寒かったせいもある。少し温度が低めではあるものの、乳白色のお湯は、優しい香りもして、こわばった身体をほぐしていくようだ。

 明子はゆったりとした気分になり、目を閉じる。


 隆が、車の運転をしている。渋滞の中、イライラを隠せない。時計の針を気にしている。

 助手席に置かれた携帯の発信履歴に、明子の名前……。

「あー、なんでだよ。畜生」

 悪態をつく隆。


――何かしら。今の。

 明子は顔を上げた。湯煙に包まれ、再びぼんやりと目を閉じた。


 不意に、三日前の電話を思い出す。

 食事に行けないと言われて。

「そっか。じゃあ、仕方ないよね。気にしないで」

 言いながら、頬に涙が伝った。悲しみも寂しさも押し隠して、物分りのいいフリをして。

 嫌われるのが怖かっただけで、「仕事」という言葉を信じたわけじゃなかった。

 だから、辛い。辛さの根源は、自分を映す鏡だった。

――私も、結構、ひどい奴だよね。

 騙されてもいい。最後まで私は信じよう。

 そう、決めると、明子の心はすみずみまで軽くなった。


 すっきりした気持ちで、風呂から上がった。

――来てよかった。

 心から、明子はそう思った。

 ロッカーキーを開けて、身体の水分を柔らかなバスタオルでふき取ってから、携帯電話の着信履歴に隆の名前を見て驚く。ここに入った直後にかかってきていたようだ。

 慌てて電話をかけてみたが、つながらなかった。なんとなく、がっかりしながら、服装を整えていると、電話のベルが鳴った。

「はい。遠野です」

『明子』

 電話の向こうで、ほっとしたような隆の声がした。

『今、どこだ?』

「銭湯」

 反射的に応えて、明子はあわてて、説明する。

「会社のそばにある、お風呂屋にいるの。ごめんね。さっき出れなくて。」

『風呂屋?』

 不思議そうな隆の声が受話器からもれる。

「うん。なんか、急に入りたくなっちゃって」

 明子は苦笑交じりに応える。

『お前の会社の近くなのか?』

「うん」

 頷きながら、首をひねる。ここは、本当にいつも見慣れた会社の近くの路地なのだろうか。

『今から、そちらに行くから少し、会えるか?』

 少し心配そうな隆の声に明子は首をひねる。

「大丈夫? 忙しいなら無理しなくてもいいよ」

『無理なのか?』

「ううん。私はぜんぜん大丈夫だけど……」

『だったら、十五分後に駅のロータリーで』

 隆はそれだけ言うと、慌てたように電話を切った。話から推測すると、車なのかもしれない。

 時計を見ながら、大慌てで髪を乾かして、軽くメイクをした。

「お嬢さん」

 タオルを番台に返すと、中年女性が柔らかく明子に話しかけた。

「コリはとれましたか?」

 明子はドキリとした。女性は何もかも見透かしたような、それでいて暖かな眼差しで明子に微笑む。

「え? はい。」

 思わず、笑みを返す。

「疲れたら、またいらっしゃい。」

 何もかも許してしまうような、深い慈愛に満ちた笑顔で、女性はそう言った。


 駅のロータリーで、明子は隆を見つけた。いつもと違う車だった。

 隆は、明子を見つけると、明らかにホッとした顔をした。

「仕事で、遅くなるって……」

 明子がそう言うと、隆は車に乗るように促した。

「約束の食事の時間には間に合わなかった」

 ぼそり、と、隆は呟く。

「さっき、電話、掛けたけどつながらなかったから、つい、焦った」

 ゆっくりとアクセルを踏みながら、隆は首を振る。

「……お前が、他の奴と食事に行ったかと思った」

 明子は隆の言葉に驚いて、絶句する。

「今月入ってずっとほったらかしだったし、レストラン、すごく行きたがってたのに、俺が仕事だっていったら、あっさり諦めるって言うし……」

「だって」

「ごめん。俺、お前が俺に飽きたと疑った。お前が俺を信頼してくれて、文句を言わないのに。俺は、お前を信頼してなかった。」

 意外な言葉に、明子は驚いた。

「謝らないで。私、本当は信じてなかった。捨てられたのかなって思ってた。私、我儘言って、嫌われたくなかっただけ」

 明子の言葉は、涙声になった。

 ふと、脳裏に『信頼の湯』というプレートがよみがえる。

「隆のこと大好きだけど、信じてなかった。本当にごめんなさい」

 コリのほぐれた心は、びっくりするくらい素直になれた。

「……それ聞いて、ちょっとホッとした」

 隆はにこやかに笑う。

「どういう意味?」

「お前、俺には出来すぎの女だって、思ってたからさ」

 街灯から差し込む光で、垣間見える隆の顔は赤く染まっていた。

「ねえ。どこ行くの?」

 迷いもなく車を走らせる隆に、明子は問いかけた。

「会社。コレ、社用車だから。」

 慌てて帰ってきた、と隆は自慢げに話す。

 明子は、心にできていたコリが、綺麗にほぐれたのを感じた。


 街の片隅に、ポツンと見える灯り。

 『癒しの銭湯』は、レトロな雰囲気をかもしだす。

 暖かい湯に浸かれば、身体も心もほぐれて。

 見つからなかった何かを見つけられるかもしれない――そんな銭湯。

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