癒しの銭湯
2014/12/25投稿
立ち並ぶ高層ビルの一角に、ポツン、とその『銭湯』はあった。
『癒しの銭湯』と掲げられた看板に、「心のコリによく効きます」というキャッチコピー。
そもそも、こんなところに、こんな銭湯あったのだろうか? と、遠野明子は首をひねる。
建物は古びていて全く新しさはない。もう何十年もの月日がすぎたという外観で、建物からぼんやり漏れてくる光もどことなくレトロだ。
今日はクリスマスだというのに、ツリーひとつ飾ることもなく、日々の営業を地味に営んでいる。
――クリスマス、か。
思い出したくないことを思い出してしまった。
本当なら、今日、この時間は、高級レストランで、隆と食事をするはずであった。
「ごめん。仕事で出張が入って、帰れない……」
連絡をもらったのは、三日前。
話を聞いた時は、納得したものの、時間がたつにつれて、それは不審に変わっていった。
隆は、昔から女性にモテた。それなのに、真面目だけが取り柄のような明子の告白に応えてくれて、交際が始まったこと自体が、夢のような出来事だった。
――遊ばれたのかな、私。
クリスマスに、本命の女のオッケーをもらうと、キープしていた女をいとも簡単に捨てる。そんな鬼畜な男のドラマを見たことがある。
――そんなひとじゃない。
そう思いつつも。明子はもう二十八。盲目的に愛を信じられる年でもなくなった。
――心がコルってこういうことかしら。
ほぼ、魔が差したといってもいい。明子は、銭湯ののれんをくぐった。
中に入ると、そこは『昭和な銭湯』の風景であった。
男湯と女湯ののれんの真ん中に番台があって、人のよさそうな中年の女性が座っている。
「一回、五百円ね」
柔らかな微笑みとともに、ロッカーキーを渡される。
「あの、タオルとかは借りられますか?」
よく考えたら、会社帰りに風呂に入るつもりなんて全くなかったから、着替えどころかタオルも持っていない。この寒い時期にわざわざ銭湯に寄って帰るなんて、自分はどうかしている、と明子は思った。
「タオルとバスタオルね」
女性はみるからに、ふんわりとしたタオルを番台にのせた。
料金を支払い、脱衣場に入っていく。パラパラと数人の客が着替えている。
年齢層はバラバラ。オフィスビル街にもかかわらず、老婆や、受験生っぽい世代など統一性のない女性客たちが、うっとりとした優しいまなざしで、着衣を整えていく。
「新顔、だね」
品の良い老婆が、明子に声をかけてきた。
「はい。この銭湯、いつからあるんですか?」
明子の疑問は間が抜けていたかもしれない。明らかに古い外観だし、どうみてもこの老婆は常連っぽい。
「ふふ。昔からあるといえばあるし、ないといえばないね」
謎のような言葉を唇にのせ、にこやかに笑う。
「ここは、本当に不幸な人と、本当に幸福な人はこない。そういう場所さ」
穏やかにそう告げると、老婆は荷物を手に去っていった。
明子は首を傾けたが、タオルを手に浴場へと続くガラス戸を開けた。
ガラガラガラ
いかにも、な、音がした。湯煙がホワンと広がり、視野がはっきりしないが、洗い場といくつかの浴槽があるのが見えた。
――まあ。せっかく来たんだし。
なんとなく、洗い場で体を洗い始める。
洗い始めると、隆とのやり取りが脳裏に浮かんできた。
もともと、隆はクリスマスの食事会は乗り気ではなかった。仕事が忙しいから、休日のデートもままならず、明子は師走に入ってから、ほぼホッタラカシにされている。メールも電話も、以前からマメなひとではない。
レストランを予約したのは、明子だ。自分がおごってもいいから行きたいと、懇願したのだ。
クリスマスイブのそのレストランは、眼下に、大きなクリスマスツリーのイルミネーションがみえ、ピアノのコンサートが開かれる。明子は、ずっと、その夢のような食事会にあこがれていた。
――最初から、私だけが行きたいと思っていたのよね。
髪の毛を洗い流しながら、頬に涙が流れるのを感じた。
――ま。レストランが銭湯に変わったら、お値段はお安くなるわね。
顔を拭きながら、口元を歪める。
明子は、洗い場を清め、浴槽へと向かった。
湯煙で、視野がぼんやりとしていて、他にもいるであろう人影が見当たらない。
『信頼の湯』
ヒノキでできた浴槽の上に、そんなプレートがついている。
――ずいぶん、変な名前。
明子は首をひねりながらも、ゆっくりと浴槽に浸かった。
暖かい。
外が寒かったせいもある。少し温度が低めではあるものの、乳白色のお湯は、優しい香りもして、こわばった身体をほぐしていくようだ。
明子はゆったりとした気分になり、目を閉じる。
隆が、車の運転をしている。渋滞の中、イライラを隠せない。時計の針を気にしている。
助手席に置かれた携帯の発信履歴に、明子の名前……。
「あー、なんでだよ。畜生」
悪態をつく隆。
――何かしら。今の。
明子は顔を上げた。湯煙に包まれ、再びぼんやりと目を閉じた。
不意に、三日前の電話を思い出す。
食事に行けないと言われて。
「そっか。じゃあ、仕方ないよね。気にしないで」
言いながら、頬に涙が伝った。悲しみも寂しさも押し隠して、物分りのいいフリをして。
嫌われるのが怖かっただけで、「仕事」という言葉を信じたわけじゃなかった。
だから、辛い。辛さの根源は、自分を映す鏡だった。
――私も、結構、ひどい奴だよね。
騙されてもいい。最後まで私は信じよう。
そう、決めると、明子の心はすみずみまで軽くなった。
すっきりした気持ちで、風呂から上がった。
――来てよかった。
心から、明子はそう思った。
ロッカーキーを開けて、身体の水分を柔らかなバスタオルでふき取ってから、携帯電話の着信履歴に隆の名前を見て驚く。ここに入った直後にかかってきていたようだ。
慌てて電話をかけてみたが、つながらなかった。なんとなく、がっかりしながら、服装を整えていると、電話のベルが鳴った。
「はい。遠野です」
『明子』
電話の向こうで、ほっとしたような隆の声がした。
『今、どこだ?』
「銭湯」
反射的に応えて、明子はあわてて、説明する。
「会社のそばにある、お風呂屋にいるの。ごめんね。さっき出れなくて。」
『風呂屋?』
不思議そうな隆の声が受話器からもれる。
「うん。なんか、急に入りたくなっちゃって」
明子は苦笑交じりに応える。
『お前の会社の近くなのか?』
「うん」
頷きながら、首をひねる。ここは、本当にいつも見慣れた会社の近くの路地なのだろうか。
『今から、そちらに行くから少し、会えるか?』
少し心配そうな隆の声に明子は首をひねる。
「大丈夫? 忙しいなら無理しなくてもいいよ」
『無理なのか?』
「ううん。私はぜんぜん大丈夫だけど……」
『だったら、十五分後に駅のロータリーで』
隆はそれだけ言うと、慌てたように電話を切った。話から推測すると、車なのかもしれない。
時計を見ながら、大慌てで髪を乾かして、軽くメイクをした。
「お嬢さん」
タオルを番台に返すと、中年女性が柔らかく明子に話しかけた。
「コリはとれましたか?」
明子はドキリとした。女性は何もかも見透かしたような、それでいて暖かな眼差しで明子に微笑む。
「え? はい。」
思わず、笑みを返す。
「疲れたら、またいらっしゃい。」
何もかも許してしまうような、深い慈愛に満ちた笑顔で、女性はそう言った。
駅のロータリーで、明子は隆を見つけた。いつもと違う車だった。
隆は、明子を見つけると、明らかにホッとした顔をした。
「仕事で、遅くなるって……」
明子がそう言うと、隆は車に乗るように促した。
「約束の食事の時間には間に合わなかった」
ぼそり、と、隆は呟く。
「さっき、電話、掛けたけどつながらなかったから、つい、焦った」
ゆっくりとアクセルを踏みながら、隆は首を振る。
「……お前が、他の奴と食事に行ったかと思った」
明子は隆の言葉に驚いて、絶句する。
「今月入ってずっとほったらかしだったし、レストラン、すごく行きたがってたのに、俺が仕事だっていったら、あっさり諦めるって言うし……」
「だって」
「ごめん。俺、お前が俺に飽きたと疑った。お前が俺を信頼してくれて、文句を言わないのに。俺は、お前を信頼してなかった。」
意外な言葉に、明子は驚いた。
「謝らないで。私、本当は信じてなかった。捨てられたのかなって思ってた。私、我儘言って、嫌われたくなかっただけ」
明子の言葉は、涙声になった。
ふと、脳裏に『信頼の湯』というプレートがよみがえる。
「隆のこと大好きだけど、信じてなかった。本当にごめんなさい」
コリのほぐれた心は、びっくりするくらい素直になれた。
「……それ聞いて、ちょっとホッとした」
隆はにこやかに笑う。
「どういう意味?」
「お前、俺には出来すぎの女だって、思ってたからさ」
街灯から差し込む光で、垣間見える隆の顔は赤く染まっていた。
「ねえ。どこ行くの?」
迷いもなく車を走らせる隆に、明子は問いかけた。
「会社。コレ、社用車だから。」
慌てて帰ってきた、と隆は自慢げに話す。
明子は、心にできていたコリが、綺麗にほぐれたのを感じた。
街の片隅に、ポツンと見える灯り。
『癒しの銭湯』は、レトロな雰囲気をかもしだす。
暖かい湯に浸かれば、身体も心もほぐれて。
見つからなかった何かを見つけられるかもしれない――そんな銭湯。




