八話
あれは蝉がうるさく鳴く、八月のことだった。大伯父が軽い肺炎を患った後、あまり経過が良くなく家で寝付いていると聞いた私は県外まで政弘の車に乗せてもらって見舞いに行ったのだった。
「まだお前には結婚は早ぁんじゃないじゃろうか」
「そうでしょうか……。でも、みんな祝福してくれているし、向こうのご家族も早い方がいいって……」
どこからどうしてそんな話になったのか、私は政弘との仲について問い詰められていた。その政弘はと言えば、私をここに送り届けた後は、清美や優生と近くの海水浴場へと繰り出していた。
「その、政弘という男は、前にここに遊びに来た奴じゃろうが」
「そうです。あ、そうだわ、写真があります。……どうぞ。ほら、私と政弘と、友達の清美と優生です。小父さん、覚えてらっしゃる?」
「やはりいかん。悪いこたぁ言わんから、この男とは別れぇ」
「……小父さん、その人は政弘じゃ、ありません」
大伯父が指さしていたのは、私の肩に手を載せて笑う優生だった。
ぼんやりする頭の中に、電話の音が鳴り響く。最初は遠くどこかくぐもっていたものが、段々とはっきり聞こえてくるようになった。目を開けばカーテンの隙間から光がこぼれている。朝だ。
目覚まし時計は朝の五時五十分を指している。早朝だ。まだ他所の家に電話をかけるような時間じゃない。
私は眠さに呻きながら寝返りをうち、喉の痛みに咳き込んだ。腫れてしまっているのか、熱を持っている。それから、自分が裸であることや、昨日起こった出来事を思い出してひどく落ち込んだ。
「優生……」
ベッドには彼の姿はない。ホッとすると同時に怒りがこみ上げた。
トゥルルルル……トゥルルルル……
「あっ、いけない……」
長く長く鳴り続ける電話の音。不思議とそれは不快感を伴っていなかった。むしろ私に呼びかけているように聞こえた。私は鏡台の椅子にかかっていたガウンを羽織ると、階下へ急いだ。受話器を上げて耳に当てると、大伯母の声がした。
「もしもし、古賀です。早朝から申し訳ないんじゃけど、大事な用件で、朋子ちゃんは起きておられますか?」
「私です、朋子です。何かあったんですか?」
「それが……さっき病院から連絡があって、お父さんが……」
「小父さんが!?」
涙混じりで告げられた大伯父の死に、私は思わずへたり込んでいた。容態が急変して、大伯母が駆けつけた時にはもう、手を握って最期を待つしかなかったのだそうだ。大伯父はか細い声で私の名を呼んでいたのだという。実の父に勝るとも劣らない愛を注いでくれた大伯父。難しいだろうとは思っていたけれど、本当に看取ることすらできずにこの時を迎えてしまうなんて……。
「ああ、すぐにそっちに行きます。何か必要な物はありますか? 小母さんも少し休まなきゃ……」
「ええんよ、大丈夫じゃけぇ。でも、気ぃつけて来るんよ」
「はい。それじゃ…………あっ……?」
「どしたん? 朋子ちゃん?」
「あ……っ、ああっ……、優生! どうしよう、小母さん、私そっちに行けないかもしれない」
「えっ、なんね?」
「救急車……、ごめんなさい、切ります!」
「朋子ちゃ……」
ふと目をやった廊下の先に倒れている人影を見つけて、私の心臓はうるさく騒ぎ出した。通話を切り、すぐに救急へかけ直す。うつ伏せで倒れている優生はピクリとも動かない。揺すってはいけない、そう考えて必死で名前を呼び、肩を叩いた。ああ、でも、端正な優生の顔は苦悶の表情をたたえて歪んでいて、生命の残り香も感じさせなかった。
迎え入れた救急隊員のぎょっとした顔を見て、私は自分がどれだけひどい格好をしているかに気がついた。優生の処置を済ませている間に、せめて着替えだけでもと願い出たが、女性警察官を待つようにと言われてしまった。
着替えた後は連れていかれてずいぶん待たされた。大伯母に電話をかけて、今の状態を伝えた。彼女は大伯父の通夜に間に合わなくなった私を責めることなく、むしろ災難に巻き込まれたことをいたわってくれた。
優生が死んでしまった。
倒れている優生を見た時、「まさか」と思うと同時に「やっぱり」と思ってしまった。可哀想な優生……でも、優生がいけないの。私にあんなことをするから。私にあんなひどいことをした優生がいけないのよ。
だから、聴取の最中に入ってきた刑事に、政弘と清美の死を伝えられても、私は動揺しなかった。あの二人も当然、死ぬか大怪我をしているだろうと思っていたからだ。でも、悲しかったのは、東京にいるはずの政弘が、清美とラブホテルにいたという事実だった。
清美……。信じていたのに、清美も私を陥れていた。政弘と一緒になって私を騙していたのだ。あの電話が繋がった時、彼女はもう政弘と一緒だった。
「大丈夫ですか? ちょっと、休憩しましょうか」
「はい……」
外の空気を吸いたいと言うと、彼らはすぐにドアを開けてくれた。案内されてついていく途中、廊下の反対側から義母と義父がやって来るのが見えた。彼女たちもまたこちらに気がつき、ハッと口を開いた義母は足早に私に近寄ると、いきなり私の頬をぶった。
「このアバズレ! 政弘のいない間に他の男なんて引き込んで……恥知らず!」
張られた左頬が熱い。思わずそこを押さえると、チリリと痛んだ。舌先にうっすらと血の味が広がる。近くにいた警察官が義母を抑えていたが、それでも彼女はわめき続けていた。
「あんたみたいな女、嫁に迎えるんじゃなかった! あんたがしっかりしてれば、政弘はこんなことにならなかったのよぉ!! あぁぁ、政弘ぉ!」
「………………」
義母はその場に泣き崩れ、義父はその肩を抱いていた。私を見上げるその表情は、すまなさそうにも見えるし、また、私を責めているようでもあった。「どうしてこの場にいるんだ。お前と顔を合わせたばっかりにこんなことになったんだ。とんだ恥さらしだ」とでも言いたげだ。
「ぁ…………」
私は何も言えずにその場から逃げ出した。
心の中は真っ黒な感情があふれ出してきてめちゃくちゃだった。嫌われているとは思っていたけれど、まさか手を上げてくるなんて! しかも、こんなのってない。八つ当たりだ。それどころかすべて政弘が仕組んだことなのだから、むしろ私の方が怒っていいのじゃないだろうか。政弘だって清美と楽しんでいたのに、ここに呼ばれたんだから知っているだろうに、それなのに私をぶったのだ。
(あんな人、嫌い! 大嫌い! 見ているだけの義父も嫌い! どうして私をぶつの? どうして私を嫌うの? ずっとずっと、我慢してきたのに、仲良くしようと頑張ってきたのに! どうして私だけを責めるの……どうして認めてくれないの……!)
あの人たちは私の敵だ。敵なんだ。私を嫌な目で見てくる……私を憎んでいる。ダメ、そんな目で見ないで。そんな憎しみのこもった目で私を見ないで。私にそんな気持ちを見せつけないで。
その、邪な目が、私を見るその目が、あなたに返るのに。
「山田さん、山田 朋子さん? 大丈夫ですか? もしもし! いかん、担架持ってこい!」
走ったことで頭がぼんやりしてしまったところに、遠く誰かの呼ぶ声がした。水を通したように不鮮明な音の連なりに、返事をしようとして、私は溺れてしまった。沈んでいく……沈んでいく……。
『憎んじゃいけん。誰もお前を傷つけやせんけぇ、信じんないけん。目のことは忘れときんさい』
いつかの大伯父の言葉が、耳に蘇った。