邪視
最初のうちは泣いて抵抗していた朋子も、何度も何度も愛撫を繰り返すうちに大人しくなった。政弘に飼い慣らされていた朋子の体は、驚くほど簡単に優生の愛を受け入れたのだった。
時間をかけて朋子を弄んでいた優生は、朋子が喘ぎ声も出せなくなるほどになってようやくその体を解放した。疲れきって身も清めぬままに寝入ってしまった彼女の髪を撫で、優生は自分のスマートフォンの発信履歴を開いた。一番上に表示されているのは、先程、非通知でかけたこの家の固定電話の番号だ。
(まさか、かけてもいない電話に怯えてしまうとは思わなかったけど……)
だがその妄想おかげで、あの時スマホからかけた電話が最後の一押し、朋子を手に入れる仕上げになった。政弘の計画ではイタズラ電話で不安を煽り、そこにつけこんで不倫関係にもつれ込む予定だったのだが……優生はそれだけでは足りないとさらに工夫を加えた。
かねてより仕掛けていた盗聴器で効果的なタイミングをはかったり、早々に塞がれてしまったポストへのイタズラ、ずっと前から続けていた盗撮の写真を使う機会ができたのも良かった。
一方では思う存分にこれまで溜まりに溜まった朋子への愛を姿を隠したままでぶつけ、一方ではその行為を卑怯だとなじって怯える朋子を慰めた。いつバレてしまうかわからない、そんなギリギリの駆け引きはとても楽しく、ずっと続けていたかったが朋子は思ったよりも強情だった。優しくしてやればすぐに靡くだなどと、そんな政弘の言葉は大外れだ。なにせ、理由は分からないがずっと以前から朋子は優生を警戒していたのだから。
今回のことでそれが変わるかと考えたが、そうはならなかった。結局、あのイタズラを考えた犯人が政弘であると暴露しなければ、朋子は優生に身を任せたりしなかっただろう。生まれたての雛が最初に見た動くものを親だと思うように、朋子の心には最初の男である政弘しか映らない。まるでインプリンティングだ。政弘のような男へ一途な信頼を寄せるなんて。なんて馬鹿なのだろう、なんて周りが見えていないのだろう。なんて……純粋なのだろう。
優生は大学時代から朋子を想ってきたが、彼女の傲慢な恋人政弘は、他の女に手を出すくせに彼女を手放そうとはしなかった。ずっと恋い焦がれてきて、どうにか奪おうと策を練ったこともあった。だが、政弘はそれをひとつずつ潰していった。
昔から意地の悪い奴だった。
優生が気に入ったものを先回りして手に入れるだけに飽きたらず、見せびらかし、「もう捨てちまおうか」と言いながらずっと握っているのだ。その政弘が、ようやく朋子を譲ってくれる気になったのだ。ようやくだ! もちろん、一も二もなく飛びついた。おこぼれを頂戴する犬のようだと嘲られようが構わない、政弘の代わりに朋子の横に立ち、政弘の代わりに朋子からの笑顔を、キスを、愛を受け取れるならすべてがどうでもよかった。
今はまだ、朋子も戸惑いの方が大きいだろう。何と言っても、ずっと信じてきた夫と親友に裏切られたのだ。政弘と清美を失って、朋子には優生しか残らない。だからこれからは、朋子は優生だけを頼りにして生きていくしかないのだ、優生の隣で。そう思えば、これまでの苦労も、政弘に味わわされた屈辱も、朋子のよそよそしい態度も、すべてを許せる気になるのだった。
「もう四時半、か……」
優生は大雑把に衣服を身につけると、シャワーを浴びるために階下へと向かった。仮眠して出社してから、タイミングを見て休もうと考えながら。まず先にキッチンに寄ってグラスに浄水器の水を注いだ。ぐっと呷って粘ついた口内を潤す。ひと息ついたところで優生は視線を感じた。
「…………?」
振り返っても、見えるのはキッチンからまっすぐ伸び、そして玄関へ向かう廊下の暗闇だけだ。気のせいか、と優生は首を捻った。風呂場へ行くにもそこを通らねばならない。電灯のスイッチを入れ……
「あれっ」
点かない。球切れだろうか。スマートフォンを枕元に置いてきたことを彼は後悔したが、古い家だから仕方がないと、優生はそのまま風呂場へ向かうことにした。朋子には全く似合わない家だ、もし朋子と結婚したらもっと可愛らしい洋風の家を建てよう。そんな風に夢想しながら。
ハミングしながらゆったりと歩いていた優生の足が止まる。
息の詰まったような音が板張りの廊下に響いた。
「うっ……ぐ、がっ……! だ、だれ……だっ…………っ!」
優生の体は膝から頽れ、ごとん、と頭蓋の立てる重い音を最後に沈黙した。静けさが満ちた。
* * * * * * * * *
清美は切られた電話をベッドに放り投げた。政弘がシャワーを浴びている音が向こうにも聞こえてしまっただろうか、そんなことを不意に考えてしまい、彼女は自嘲した。別にもう朋子にバレるかなんてことを気に病む必要はないのだ。
電話が鳴った時には、情事の後の気怠るい心地好さをぶち壊しにしてくれた朋子に腹を立てていた清美だったが、あの鼻持ちならないお嬢様が取り乱した様子に溜飲が下がった。
「ほんと、馬鹿な子……」
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
バスローブに身を包んで現れた政弘に笑顔を振りまき、清美はこれみよがしにシーツをはだけた。政弘の好色な視線が胸の膨らみに注がれるのを誇らしく受け止めながら、雑に放り捨てられた黒の下着を拾い集めてバスルームに向かう。政弘はもう寝るだけだろうが、清美には髪を洗ったり美白パックをしたりと、やることが残っているのだ。
急にメールが届いた時にはびっくりした。「月曜日が休みだったことを忘れてた」と、迎えに行った駅のホームで政弘は悪びれもせずに笑っていた。「どうしてもお前に会いたくなってさ」と言う政弘だが、遊べる女が見つからなかっただけの話だろうと清美には分かっていた。余計な時間と金を使わずその体だけを差し出してくれ、不倫の関係にのめり込まず文句も言わない清美のような女が。
政弘との泥沼の関係は学生時代からだった。入学式で隣り合わせた朋子と意気投合し、すぐに親友と呼べるまでになった。県外の大学に進学してまっさらな人間関係に不安と期待を感じていた清美と、友人と一緒に受験したにもかかわらずひとりだけ合格してしまった朋子は、まさに会うべくして出会ったのだろう。性格のキツイ清美を柔らかな朋子が包み込み、そのおかげで円滑な交友関係を構築していった。二人はいつも一緒だった。
同じ講義を受けていたことがきっかけで、政弘と優生と知り合いになった。新歓コンパの時から気になってはいたのだ。清美から声をかけ、それからは四人で行動するようになった。思えば、この頃から政弘は清美の気持ちに気づいていたに違いない。それでいて朋子を恋人に選んだのだ。
『俺たち、つきあうことになったから。どうせだし、二人もくっついちゃえば?』
清美には不意打ちだった。どうせ朋子は二つ返事でオーケーしたに違いない。相談されていれば反対した。悔しさを押し隠して優生とつきあいだしたが、全くと言っていいほど合わなかった。清美は政弘、優生は朋子を見ていたのだから当然だ。政弘に誘われた時にはチャンスだと思った。断るはずがなかったし、政弘も断わられると思っていないような態度だった。そこからすべては始まったのだ。
政弘にとって、朋子という女はどこまでも便利だった。遠くにいる大伯父夫妻の他には身寄りがなく、大学からそこそこ遠いくらいの場所に広い日本家屋を持っていた。遊ぶ金だけでなく場所も提供してくれ、見目もよく政弘との体の相性もバッチリだった。寂しがり屋でよく甘えてくる、そんなところも可愛いし何より男を必要としている女だったのだ。
男のために家を整え、料理をし、その体で尽くすことこそが生きがいのような女だった。政弘が誉めてやればいくらでも見返りを与えてくれるのが朋子だった。悪意に鈍く、疑うことを知らない朋子は扱いやすかった。留守の間に女を連れ込んでも、約束をすっぽかしても、八つ当たりで怒鳴り散らしても、二人の関係にヒビは入らなかった。
とても上手く行っている関係だった。政弘が株式の運用に失敗して焦げつかせてしまうまでは。リスクは分散していたはずだった。同時にこけても何とか立て直せるはずだったのだ。当初の計画では。朋子の結婚前の口座から金を引き出し、穴埋めをした。だが、穴は広がっていくばかりだった。
政弘に従順な朋子も、妙なところで頑固だったりする。彼女に理解できない株やなんかで財産を失ったとなれば、さすがに政弘に愛想を尽かすかもしれなかった。その前にどうしても残っている金を吐き出させる必要があったのだ。朋子に長年ご執心な優生を使い、不貞を犯させれば、慰謝料を請求するなり朋子の罪悪感に付け込むなりできると考えたのだ。
「優生のヤツ、いつまでグズグズしてるつもりなんだ……」
政弘は煙草の灰を乱暴に落としながら呟いた。それを聞いてベッドに寝そべった清美が笑う。
「そろそろじゃない? あの子、だいぶ参ってたわ。冷たくしちゃったから、優生に電話してるはずよ」
「おいおい、大丈夫か? 疑われないためにはお前にいい友人でいてもらわなくちゃ」
「わかってるわ。どうとでも誤魔化すわよ。これまでだって、そうしてきたでしょ?」
「だな。……寝るか」
「そうね。明日はどうするの? あの子に会って帰る?」
「まさか! そんなことしてやる必要ないね」
政弘は鼻で笑ってベッドに入った。そしてそのまま眠り、朝が来ても二人が起きてくることはなかった。