七話
どうやって二階の寝室まで戻ったのか、気がつけば私は布団にくるまって震えていた。スマートフォンを手繰り寄せ、清美の名前を探す。
「清美、助けて……清美!」
言うことをきかない指をどうにか動かして、清美に電話をかけた。
「早く……早く……」
「…………もしもし」
「清美! 清美、助けて、電話が……電話がかかってくるの! 私、もうどうしたらいいか……」
「…………着信拒否、したはずじゃない」
「でも、かかってくるのよ。電話線を抜いても電話が鳴るの! 今も鳴ってる……お願い、来て! 助けて、清美!」
唸る清美に言葉を尽くして説明する。拭っても拭ってもあふれる涙のせいで、声は切れ切れで、自分でも何を言っているかわからないところがあったりもした。それでも清美は辛抱強く、黙って私の話を聞いてくれて……
「ふっ……あんた、とうとうソッチの意味でおかしくなっちゃったの?」
「えっ」
「あ~あ、じゃあもうダメね~。失敗、失敗! もう、振り回されるのはゴメンだわ、後は勝手にやって」
「清美……? あなた、あなた誰? 清美じゃない! 清美はそんなこと言わない!!」
「あはははは! あんたバカよ、ほんと可愛い! そのくせ要領だけはやたら良くってさ、なんでも好きなものを手に入れるわよね。政弘だって、最初に声かけたのはあたしなのにさぁ!」
「清美? なにを言ってるの?」
「あはははは! あっはははは! あんたなんか大っ嫌い! 朋子、あたしはあんたが……」
「いやっ!!」
私は通話を切っていた。清美が変だ。清美がおかしい。清美があんなこと言うわけない。偽者が発した言葉なのに、同じ声で言われた「大嫌い」が胸に痛かった。
「優生……優生なら……。お願い、出て、優生……!」
何度目かの呼び出し音の後に聞こえた、優生の少し高めのなめらかな甘い声に、私は思わず泣き出してしまった。
「朋子? 大丈夫かい?」
「ゆう……!」
「今、家かい? すぐに行くから、そこを動かないで。着いたらまた、電話する」
電話はすぐに切れてしまったけれど、その優しい言葉に、やっぱりおかしかったのは清美の方なんだと、安堵して私は枕に伏した。
車の止まった音に顔を上げた私は、薄暗い階段を駆け降りた。玄関の灯りを点けて、急いで鍵を開ける。ドアが開くと、心配そうに眉根を寄せた優生が、私をぎゅっと抱き締めてくれた。
泣く私を宥めキッチンの椅子を宛がってくれた優生は、勝手知ったる様子でてきぱきと体を動かしていた。うつむく私に差し出されたグラス。琥珀色のそれを口に含むと、強いウィスキーが舌を刺した。
「っ、これっ!」
「気つけだよ、飲み干して」
笑顔で促され、私は嫌々ながらもそれを飲むことにした。その間に優生は仏間の固定電話を調べて、グラスを空にする頃には戻ってきた。
「着信拒否設定はちゃんと出来ていたよ。電話線、戻しておいたから」
「でも、電話が……」
「色々あって、疲れてたんじゃないかな。幻聴だよ、清美のことだって……」
「違う! 電話は鳴ったの! ちゃんと聞いたんだから……どうやったのかはわからないけど、電話は鳴ったのよ! 清美のことだってそう、あれは清美じゃなかったのかもしれない。だって清美があんなこと言うわけないもの。もしかしたら……清美ったら、ちょっと変になっちゃったんじゃないかしら」
「朋子」
「おかしいのは私じゃない! 違うわ!」
「わかった、わかったから……落ち着いて」
機嫌を窺うような声音に、私は彼から体を背けた。唇を噛んで気持ちを落ち着ける。おかしいのは私じゃない……私のはずがない。だというのに、清美は私を変な目で見るし、優生は腫れ物のように扱う。どうして……。
(どうして、わかってくれないの!!)
優生に説明しようと口を開きかけた時だった。固定電話の厭らしい音が私を驚かせた。
「いやっ!」
「朋子、落ち着いて」
「やだっ、助けて、優生! お願い、あれを止めて……! お願い……」
「朋子……」
三度鳴って、電話は切れた。私は優生に抱き寄せられ、その胸に顔を埋めている格好だった。
「あ、ごめ……」
「このままで。聞いて、朋子。電話なんて鳴ってなかったよ」
「うそ!」
「……朋子、もう休むんだ。僕がついているから、大丈夫。さ、二階へ行こう。ちゃんと歩けるかい?」
「でも、そんな……そんなの……」
私が躊躇していると、優生が耳元で囁いた。
「どこかホテルでも取ろうか? それとも、帰った方がいい?」
「い、行かないで! ……そばに、いて」
階段の立てる軋みが、まるで私を止めているようだった。まだ引き返せる、そう言われている気がした。
でも、このまま朝を迎えるなんて私には無理だった。今夜だけ……今夜だけ優生の優しさにすがらせてもらいたい。きっと優生なら、私が寝つくまで手を握って隣に座っていてくれるはず……。そう思った。
でも、優生は寝室に入ると、我が物顔で私たちのベッドに入り込んできた。政弘のいるべき場所に。
「な、なんのつもり!? 出てって……だめ、警察を呼ぶわよ!」
「こんな時間に僕を招き入れたのは君だよ。それに、今、電話を持ってないだろう?」
「やだ、離して! 政弘……!」
優生の胸を押し返しながら、遠い政弘に助けを求めた。すると、優生の指が私の肩に痛いほど食い込んだ。優生が笑う。その声は陶然としていて、背筋が震えた。
「可愛いね、朋子は。政弘は、僕が今ここにいることは知ってるよ」
「な……」
「全部、政弘が仕組んだことだったんだよ」
(どういう、こと……?)
政弘は優生がここにいることを知っている。政弘が仕組んだ。
それはつまり、優生がここで私を組み敷いて、好き勝手しているのは政弘の指示したことだという意味なんだろうか。私のことも優生に押しつけたんだろうか。まるで、読み終えた雑誌や、不必要になったゲームをくれてやるみたいに。
(政弘は、私が要らないんだ……。私は捨てられたんだ……)
視界が涙で滲む。
「あいつは昔からずっと、君に隠れて女を食い漁ってたんだ。全然知らなかったろう? それと、ずいぶん前から清美とも寝てるよ。二人して、君のお金で豪遊してさ。今回のことは君の不貞を理由に離婚して、慰謝料をふんだくろうっていう計画だったんだよ。でも、そんなの僕には関係ないね。有利不利なんて知ったことか! ああ、朋子、君が望むなら、いくらでも証拠をあげる、逆にあの二人を訴えよう。ね?」
「ゆう……き……」
どうして、という問いかけは唇で塞がれた。舌を捩じ込まれ、歯列を開かされ、私はすべてを貪り尽くされてしまった。私の抵抗などお構いなしに私を暴いていく男は、私を見下ろして憐れんでみせた。
「可哀想に、朋子。大丈夫、これからは僕がずっと一緒にいてあげるからね……」
「やめて……」
力強い腕が私を掴んで離さない。
「朋子、朋子! ああ、ずっとこうしたかったんだ……!」
首筋をなぞるように舌が這う。逃れられないと知って、私は、もう全部投げ出してしまった。