五話
ぼんやりする頭を抱え早めに家を出た。ぐずぐずしていたらきっと、仕事になんか行けなくなる。いつもと違う時間の駅は、それでも似たような顔を見せていた。
同僚とすれ違うことなくオフィスまでやってくると、大きめの白い封筒を持ったお局様がはさみを使っているところだった。目が合ってしまったので一礼すると、デスクに着く前に呼び止められた。厳しい顔で手招かれ、急いで荷物を置いてそちらに向かうと、まさにそのA4の白い封筒を渡された。
「あの、これは……」
「あなたねぇ、社に私用の郵便物を送らせるなんて何を考えているの?」
「そんな、私はそんなことしてません」
「どうだか!」
……どうしてこの人は私に対してこんなに攻撃的なんだろうか。私は何か悪いことをしてしまっただろうか? 手元に目をやると封筒には印字された私の氏名。ふと気づく。私個人に宛てられた郵便物なら、どうして主任が開封しているの?
「主任、これ……開いてますけど、中身を見たんですか?」
「は? み、見てないわよ! 間違って開けただけよ!」
「でも……」
「あのね山田さん、まさかあなた、わたしが盗み見ようとしてたとでも言うつもりなの? たまたまよ、変な言いがかりはよして頂戴!!」
「いえ、私は……」
主任の手が封筒に当たり、私の手中から滑り落ちたそれから、勢い良く出た中身が床に散らばる。それは普通サイズの写真だった。いったい何十枚あるのか……。そのどれもに、私の姿が映っていた。
「………………」
「……私、あの……ちょっと、失礼します……!」
ぎょっとした顔の主任の横をすり抜けて、私は手洗い場へ駆け込んだ。
落ち着いてからフロアに戻った私を出迎えたのは課長補佐だった。それから別室へ移り、様々なことを聞かれた。警察に相談してあると言うと、どこかホッとした様子だった。そのまま私は帰され、今は最寄りのカフェにいるのだった。とにかく今は甘いものが欲しいと、注文したのはホイップクリームがたっぷり乗ったアイスココアだ。場所は違うが同じチェーン店で、よく清美と飲みながらおしゃべりしていた大学時代を思い出す。
(帰りたくないなぁ……)
心の中でそっと呟く。
急に仕事を取り上げられても、行く場所なんてどこにもない。家には帰れない――帰りたくない。ずっと暮らしてきた我が家だというのに、あそこはもう私にとって安全な場所ではない気がする。
平日の昼に話せるような友人もなく、やりたいこともなく。時間を潰すと言っても何をしたら良いかも分からない。
辺りを見回せば、ミーティングなのか五、六人で固まっているスーツ姿の男女や、学校はどうしたのかと聞きたくなるような高校生たち、ノートパソコンで作業中の若者。何だか私だけが場違いのようで、早くここから出ていかなければいけないような気持ちにさせられてしまう。
ダメで元々という気持ちで清美にメッセージを送ると、『仕事終わったら迎えに行く! 電話、選ぼうね!』とすぐに返信があった。ちょうどお昼どきだったんだろうか。私を慰めるようなハートマークとキラキラの乱舞。丸いフォルムのゆるキャラのスタンプに涙が滲んだ。
待ち合わせの場所には当然のように優生もいて、少し遅くなるという清美を彼の車の中で待つことになった。助手席のドアを開けて座るように促される。いつもの私の席だ。
「コーヒー、飲む?」
「ありがとう」
二人して缶に口をつけている間、沈黙が下りる。わずかに甘さを含んだコーヒーを飲み干すと、少し気持ちが楽になった気がした。
「電話だけど、どんな物にするとか、決めてある? 値段とか、大きさとか」
「ううん。でもいいの、どうせ政弘が帰ってきたら買い直すんだもの」
「え?」
「私が選んだ物って、どうしてかどれも気に入らないみたいなの。何かが足りないっていうか……」
「……政弘ってそういうところあるよな」
「男の人って、家電にこだわりがあるものだもの。普通よ、きっと」
「なら、僕が選ぶよ。それなら政弘も文句ないさ。ね?」
「うん……」
優生はこう言うけれど、政弘はどう思うか……。きっと私が選んだものでなくたって文句を言うんじゃないだろうか。それは優生も分かっているだろう。分かっていて、私が責められるのを防ぐために「僕が選ぶ」と言ってくれたのだ。思えば昔から、優生は政弘に合わせていた。
「そうだ。清美から聞いたんだけど、写真、見せてくれないかな。気持ち悪いだろうけど、何か分かるかもしれないし」
「あ……。そういえば、渡されてないわ……」
「えっ? じゃあ警察に?」
「わからない……。でも、私が警察に相談してあると言ったら、安心していたみたいだったから……」
「それって、もしかして通報されてないんじゃ?」
「………………」
優生の表情が険しくなる。
「朋子」
「ごめんなさい……」
「あ、いや、朋子が謝ることじゃないよ。ただ、もうちょっと自分を大事にしなきゃダメだ」
優生は厳めしい顔を崩して、優しい声で私に微笑んだ。まるで保護者みたいに。いつも私を子供扱いするんだから……。でも、その甘さが今は心地よかった。
「もっと甘えていいんだよ、朋子。僕も清美も、迷惑なんかじゃないさ」
「でも……」
「こんな時くらい頼ってよ。そうだ、土日はどうするんだい。清美は泊まりがけでストーカー対策するって息巻いてたけど」
「うん、清美が来てくれるの。いつぶりかしら。二人で映画見て夜更かしする予定なのよ」
「僕もお邪魔していい?」
「いいけど、寝るとこないわよ」
「オッケー。じゃあ、決まり」
優生が楽しそうに手を打った。私や清美の選ぶ映画はいつも恋愛ものやホームドラマばかり。政弘の趣味に合わないそれらも、優生は文句ひとつ言わずに一緒に見てくれる。清美と優生が互いに持たれあって座り、私はクッションを抱いて座る。大学時代にはそんな夜を過ごすことが多かった。
ぼんやりと思いを巡らせていた私を優生の声が呼び戻す。
「朋子。政弘がいなくて、寂しいよね」
「……うん。すごく、寂しい。不安になるの。一人じゃ、ダメね」
「会いにいかなくて、本当に平気なのかい?」
「行っても……、政弘は外泊できないから。来るなって言われてるし、きっと怒らせちゃうわ。だから、いいの。私には清美がいてくれるし。それに、イタズラもそのうち飽きてやめるわよ。だから、大丈夫!」
努めて明るい声を出す私に、優生は見透かしたような微笑みを向けたけれど何も言わなかった。本当はほんのひと目だけでもいい、会えるならば飛んでいきたいのだ。政弘の胸にすがって思いきり泣きたい。抱き締めてほしい。いつもみたいに「俺がついてないとダメだなぁ」と言って頭を撫でてほしい。
どうして今、隣にいるのが政弘じゃないんだろう。
優生がこんなにも親身になってくれているのに、私はそう思わずにはいられない。
思わず左手の薬指にはまった結婚指輪に触れていた。これがある限り、優生は私の中まで踏み込んで来ない。節度ある、適切な距離を保ってくれると信じている。だからこそ、甘えられる……。
私は弱くて卑怯で、彼の優しさを踏みにじっていることに気がつきながらも、それをやめることができないでいる。だって、政弘を除けば、私には清美と優生しかいないから。優生を遠ざけて、万が一にも清美まで失ってしまったら、友達と呼べる相手がいなくなってしまう。頼れる相手がいなくなってしまう。それだけは避けたい。避けたいのだ。