四話
しばらく経ってから、職場への連絡や警察への相談など、やらなくてはいけないことに思い至った。濡れた顔もそのままに、スマートフォンから職場の番号を呼び出す。具体化的な言葉は避けて誤魔化し、淡々と要求を伝えた。あからさまに迷惑そうな声が、私の心をチクチクと責め立てる。
どうして被害者の私が謝らないといけないのだろうか、モヤモヤした気持ちを抱えたまま、ひたすら謝り続けた。私の口から警察という言葉が出たのをきっかけに、半休を貰うことができた。本当は丸一日の休みがほしかったけれど、ここで食い下がるのも疲れる。私は電話口の職員にお礼を言って通話を切った。
嫌々ながら郵便受けを掃除し、新聞をしばらく止めてもらえるよう連絡した。
一番近い交番に足を運んで、なんだかボンヤリした感じのお巡りさんに事情を話す。四十を過ぎた頃だろうか、白髪まじりの、全体的に弛んだ印象の男性だった。職場の人間へ説明するのとは違い、ここでは具体的な名称を口にしなければならなかった。「はぁ」とか「そう」とか、やる気の感じられないお巡りさんに向かって言い辛いことを説明するのが嫌で仕方がなかった。これじゃあ木のうろにでも話しかけていた方がましじゃないか……!
最初のうちはしどろもどろだったのが、段々と理不尽なものに対する怒りが芽生えてきて、最後の方は涙ながらに訴えていた。でも……
「その、投函されていた物は今どちらに?」
「あ……。捨ててしまいました」
「そうですか。ああ、おたくは警備会社に登録がありますか?」
「え? ええ、はい、加入してますけど……」
「だったら、見回りを強化しておきますね。電話には出ない方がいいでしょう」
「えっ…………」
(それだけ? これで、終わりなの?)
思わず喉まで出かけた言葉を飲み込む。あっけない対話の終わりに、肩透かしを食わされた形となった。私が気にしすぎなのだろうか。私がおかしいのだろうか。私が他人より弱いだけなのだろうか。電車に揺られながら悶々としてしまった。
社員証をかざしてオフィスに入ると、一斉に皆の視線に晒された気がした。厳しい顔のお局様に頭を下げて自分のフォルダを取りデスクに向かう。
「あれ、今日休みじゃなかったんだ~?」
「うん、半休もらったの」
「それで来ちゃったの? 真面目~。そのままサボっちゃえば良かったのに~」
「そういうわけには……」
「でも、顔色、悪いよ?」
「……ありがとう。でも、あと半分だけだから」
相田さんはまだ何か言いたそうだったけれど、黙って自分の仕事に戻っていった。
清美と政弘、どちらに電話するべきか迷って、結局清美の番号を呼び出していた。政弘に郵便受けのイタズラについて告げれば、きっと怒るだろうと思ったからだ。今は怒りの言葉より、清美の慰めが欲しかった。
何度かかけ直して繋がった電話、弾んだ声で出た清美は酔っているようだった。
「朋子~! お疲れ様~、金曜日は明日だけど、ちゃんと生きてる~?」
「っ、清美! 清美……」
「わわっ、泣いてるの? 昨日電話なかったからさ、大丈夫なのかなって思ったんだけど……」
すべてを打ち明けると、清美は黙ってしまった。私の嗚咽だけが電話を通してこだまのように聞こえていた。
「政弘は、なんて?」
「それが、まだ……。言えてないの。お、怒らせると、思って……」
「ああ……。そうだよね。その方がいいかも」
清美はどこかぼんやりとした声で言った。
「今夜、大丈夫なの? あたし行けないよ……ね、優生呼びなよ。その方がいいよ」
「でも……。やっぱりダメ、いくら仲が良くてもそんなこと頼めないわ……」
「朋子!」
「優生は男の人なのよ? 男女が二人きりだなんて……」
「だったらどうするのよ!」
「それは……」
「戸締まり大丈夫? 郵便受け、またイタズラされるんじゃない?」
「あっ……!」
郵便受けのことが頭からすっぽり抜け落ちていた。新聞は止めたけれど、このままじゃまた同じことの繰り返しだ。
「ふ、塞いでくる……。清美、電話を切らないで、お願い。すぐに戻ってくるから……!」
私は返事を聞かずに受話器を脇に置くと、台所にあったガムテープを手に小走りで玄関まで行った。外に出て、空のポストに目張りしていく。ふと、視線を感じて見回すと、遠くに人影が見えた。こちらに、近づいてくる……。
私は、どうしても視線を引き剥がすことができず、また、足も動かなかった。吸い込まれるようにその人物を、彼を、見てしまう。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
規則正しい靴音が鼓膜を震わす。
コツ、コツ、コツ、コツ……。
だんだんと近づいてくるスーツ姿の壮年男性は、私を一瞥し、しかしそのまま通り過ぎて行った。知らずに吐き出していた自分の溜め息の大きさにも驚いてしまう。うるさく打つ心臓と合わない呼吸を抱えるようにして戻り。受話器を握った。
「朋子?」
「もう無理! 私、政弘の所に行く! もう耐えられないよ……!」
「そんな……、タクシーで空港までどれくらいかかると思ってるのよ! 今から行ったって最終便には間に合わないかもしれない、席だって取れないかもしれないのよ?」
「でも、でも……!」
「優生に……」
「だめっ!」
優生は一度、酔って私にしなだれかかりながら、キスしてこようとしたことがある。あれは政弘と付き合いだしてからそれほど経っていない時のことで、優生は清美と付き合っていた。大学一年生の終わりのこと。ちょうど政弘がいなくて、清美が寝入ってしまったタイミングだった。
『好きだよ、朋子……』
彼がどんなつもりでそう言ったのかは分からなかった。でも、恋人がいながら他の女の子を口説こうとするなんて……。ショックだった。きっと清美と間違えたんだ、そう思いたかったけれど、優生は私の名前を呼んだのだ。
私が聞かなかったからか、それとも酔いと共に記憶があやふやになってしまったのか、優生は何も言ってこなかった。私は忘れたくてずっと口をつぐんでいた。それでも……ああ……。
「ホテルに……泊まるわ」
「落ち着いて、朋子。あんた明日は仕事大丈夫なの? 休めるの?」
「それは……」
「あたしは休めないけど、あてもなくホテルを探すくらいなら、ウチにおいでよ。タクシー呼んでさ。ね?」
「清美……。清美、ありがとう。私一人じゃ、バカなことばっかり考えちゃうね。今日は遅いから、もう、寝るね」
「朋子」
「相談に乗ってくれてありがとう。嬉しかった……」
「…………分かった。何かあったら、いつでも来て。電話でもいいから」
「うん」
清美に弱音を吐く内に、荒波に飲まれそうだった心も落ち着きを取り戻した。ちゃんと考えれば、今すぐ政弘の所へ行っても会えるわけではない。土曜日にならなければ休みは貰えないのだから。それに、ホテル住まいも現実的ではない。今逃げたとして、ずっと逃げ続けるわけにはいかないのだから。
清美も、ああは言ってくれたけれど、私が遠慮したことでホッとしているはず。だから、これで正しいんだ。これが……正しいの。
私は電話がかかってくるのを待った。ひと言、はっきりと言ってやりたかった。
「もう、やめてください」
毅然と断れば、きっと相手も分かってくれると思った。午前三時過ぎまで待ったけれど、なぜかこの日に限ってあの電話はかかってこなかった。