三話
仕事はミスをしないように集中してやった。昨日の今日で怒られたくなかったからだ。そのおかげで午前中はスムーズに進んだというのに、誰もが私を避けているように感じた。隣の相田さんも話しかけてこない。
お弁当を作る気にもなれなかったので、昼食はどこかに食べに行くつもりだったのだけど、そんな元気もなくコンビニでスパゲティサラダとおにぎりを買った。普通では考えられないことだ。政弘に電話をかけて、やっぱり繋がらないことを確認する。「夜に電話します」とメールしたけれど、彼が読むのはいつになることやら……。
午後も何事もなく終わり、足取りも重く帰り路を行く。ああ、スーパーに寄って食材を買わなくちゃ。でも……もう、疲れた……。
そう、もう何もかもに疲れてしまって、まともに家事をする気力が湧かないのだ。とにかく何でもいいからお腹に入れておかなくちゃ、
政弘に電話したい。声が聞きたい。優しく慰めてほしい。会いたい。会いたい……! 政弘と繋がったのは、夜の十時を回ってからだった。
「遅くなってごめん、お袋がうるさくてさ。朋子、おまえ昨日の夜、電話に出なかったんだってな。どこ行ってたの?」
「え……? 清美たちと夕飯を食べに行ってて……ごめんなさい、いつかけてきたの、お義母さん」
「十九時と二十時と二十一時だってさ」
「そう。ならちょうど出先だったんだわ。それで、用件は?」
「そんなこと、俺が知るかよ。どうせどうでもいいことだろ?」
だったら、そんなどうでもいいことで私の時間を無駄にしないでよ、と……喉まで出かかった言葉を飲み込む。本当に義母は間の悪い人だ。きっと私のことを、「息子が居ない間に遊び歩いている嫁」だとでも思っているんだろう。昨夜はたまたまだったのに……! 大人なんだから外食したら二十一時を越えるだろう。そもそもが政弘の通勤に便利だからと私の持ち家に住んでいることや、私が働いていること、単身赴任させていること、それらすべてに不満があるのだ、あの人は。きっと次に話すときに嫌みを言われるだろう。間を置かずに謝った方がいいのだろうが、用事もないのにこちらからかける気にはなれなかった。
「ねぇ、やっぱりスマホにかけてくるように言ってもらえない? 用事があるなら留守電に吹き込んでもらってもいいのに。何度もかけてもらうのも気を使うじゃない」
「え~、俺に言うなよ、だから。朋子から言えよ」
「言ったわよ、何度も。でも、お義母さん私の言うことなんて聞いてくれないんだもの」
「ん~~。そう言われても困るよ。とにかく、上手くやってくれよな。頼むよ」
「………………」
政弘はいつもこうやって無茶ばかり言う。そんなの、無理だと分かっているくせに。どうして貴方に御しきれない人を私が上手く手綱を取って仲良くやれるというのだろう。
「それで? 用事ってなに?」
「……イタズラ電話のことなの」
「えっ、あれまだ続いてたの?」
私の話を聞いて、政弘は深く溜め息を吐いた。
「もう、出るな。それ」
「うん……。私も出たくない……」
「夜は電話線引き抜いておけよ。そんな時間にかけてくる奴なんかいないだろ」
「そういうわけには……」
「かけてくる方が悪いよ!」
ぐずる私にイラついたのか政弘の声が大きくなる。そうは言っても大伯父の具合が良くないのだ、「せめて最期に挨拶を」と知らせがあったときに繋がらなかったら、それこそ後悔してもしきれない。
「それか電話買い替えろよ」
「えっ、私が……?」
「そりゃそうだよ、俺は戻れないんだしさぁ。休みの日にトンボ帰りなんて、金銭的にも時間的にもキツイよ。それに朋子にだって電話くらい買えるだろ? な?」
「うん……」
「とにかく電話さえ何とかすれば大丈夫だって。お袋にはもう電話すんなって言っとくよ。もう、それでいいだろ?」
「………………」
「なに、なんか文句ある?」
「……ううん」
政弘がどんな言い方をするつもりか知らないけれど、およそ穏便とはほど遠いものになるだろう。そうしたら、きっとその矛先は私に向くのだ。かといってそれを政弘に伝えても怒らせるだけだし……。
「会いたいよ……」
「え? ああ、俺もだよ」
不意にこぼれ出た本音は、でも、政弘には届いていないようだった。
「ねぇ、どうしても帰って来れないの?」
「あとたった一ヶ月だよ? あんま困らせないで。それじゃ、俺もう寝るわ。おやすみ~」
「あっ、待って……」
無情にも電話の切れる音がして、私はスマホの画面を確かめた。それで事実が変わるはずもなく……。私はそれでも動く気になれずに、スマホを両手で包んだままぼんやりしていたのだった。無為に時間が過ぎる内に、清美に電話する予定だったことや、お風呂に入らねばならないこと、落とし忘れていたメークのことなど、雑多なことが頭をよぎった。
お風呂に入って寝よう。清美には後で謝罪のメッセージを送っておこう、そして電話選びに付き合ってもらえないかついでに聞いておこう。電話線を抜くか抜かないかで迷い、結局はそのまま抜かずに寝ることにした。ビクビクしながら眠りについて、気がついたら朝だった。
スッキリとした目覚めを迎えたのは久しぶりかもしれない。門扉まで新聞を取りに出て、いつものように郵便受けに手を入れたとき……
「きゃっ! なに……?」
冷たくぬるっとしたものが触れた。水じゃない、もっと粘着質な手応え。おそるおそる指先を見てみると、半透明のぬるぬるだった。生臭さが鼻につく。
「やだっ! これ、もしかして……」
中を確かめると、口の開いたゴムがくたりと転がっていた。破れた水風船とは明らかに違う、中身の入った避妊具。私は急いで玄関に駆け込み、泣きながら手を洗った。何度も、何度も。
怒りが沸いたのは最初だけ。冷水で手をゆすいでいる内に頭が冷えると、代わりに吐き気の込み上げるほどの気持ち悪さが胸に巣食った。
どうしてこんなことをするの。どうして私なの。どうして、どうして、どうして……。
「もう、やだぁ…………」
口に出してしまったら、もう、止まらなかった。次から次に涙があふれてきて、まるで小さな子供のように泣いてしまった。