二話
仕事ではうっかりミスを連発してしまった。先輩のネチネチした嫌味を頭を下げてやり過ごす。月末が近くなるといつにも増してトゲトゲしくなるのだ。PMSだろうか。もうとっくに閉経してたっておかしくないだろうに……。うんざりしながら席に戻ると、隣の席の相田さんが椅子を滑らせて私に寄り、小さく囁いてきた。
「お疲れさま~。今日は特にひどいね、ヒステリー」
「まあ、私のミスも多かったし……」
「調子悪いの~? 辛いね~」
「うん……。実は、イタズラ電話がひどくて、眠れないの。男の人がかけてきてて……」
「へぇっ」
彼女の驚いたような声にイラッとした。何とか顔に出さずに済んだだろうか。彼女はきっとこう思っているに違いない。「もう結婚もした若くもない女が何言ってるんだろう」って。そりゃあ、私はもう二十代後半で、相田さんは四捨五入すれば二十歳だわ。けど、実際には同じ二十代であってそんなに年齢も変わらないじゃないの。三つも違えば世界が違うだなんて、そんなの学生のうちだけよ。敬語も使えない、使う気のない彼女のことを、「仲間意識を感じてくれているのかしら」なんて好意的に受け止めていたけれど、それも考え直した方がいいのかもしれない。
「あんま深刻に受け止めない方がいいよ~。怒ったり怖がったりすると逆効果だから」
「ええ、そうね。ありがとう……」
それきり会話を打ち切って、私はまたデスクに向かった。
清美たちと待ち合わせをしたのはファミリー層をターゲットから外した、少し高めでそこそこオシャレなイタリアンのチェーン店だった。私が店内に入って視線をさまよわせていると、奥から声がかかった。清美が立ち上がって手を振っている。テーブルにはデキャンタに入った赤のハウスワインと食べかけの料理。さっそく始めているようだ。
「遅いよ朋子~!」
「ごめんね、お待たせ」
「いいのいいの、こっちが早過ぎただけ。それより、こいつ勝手に頼んじゃっててごめん」
「しょうがないじゃない、何も頼まないわけにいかなかったんだから!」
「いてっ」
清美は私を奥の席に座らせるために一度テーブルの脇に立つと、向かいに一人腰かける優生をぶった。大げさに肩をさする彼の姿に、私も清美も笑ってしまった。二人は恋人同士だった時もあったのだけれど、今はもうフリーになって長い。清美は恋人ができてもすぐに別れてしまうし、優生は…………。とにかく、政弘を含めて四人が大学時代からのいつものメンバーだ。
優生が注文してくれていた私のメーンディッシュと、追加の小品、取り皿が運ばれてくる。料理を楽しみ、しばらく別の話題で盛り上がってから、私は心に引っかかっていた出来事を話すことにした。清美はまだグラスを置かず、私と優生は食後の紅茶に移っていた。
「それで? 政弘はなんて?」
「うん、それがね。間違い電話じゃないか~、って」
「なんだよそれ、頼りにならないなアイツ」
優生が非難めいた声を上げたので、私はあわててそれを否定する。
「違うの違うの、政弘は悪くないのよ」
「じゃあ、なに?」
「それが……結局昨日の電話についてはまだ話してないの」
「えっ、なんでよ」
今度は清美が呆れたような声を出す。
「昨日の電話があったのは、政弘と話した後だったから……。今日はお互い仕事だったし、時間がなくて」
「メールは?」
「どうせ勤務中は携帯電話には触れないから、夜に電話しても同じことかなって」
「そっか……」
早くも沈黙が場を支配してしまった。私の言い方のせいかと、別の言葉を探していた時、優生がテーブルの上に置いていた私の手に、その手を重ねてきた。
「大変だったね」
「あ……」
その言葉だけで、もやもやと積み重なっていた不快感がほどけていく気がした。私は目をしばたかせて浮かびそうになる涙を追い払った。
「朋子んちさぁ」
「え? なに?」
「うん? 確かまだナンバーディスプレイじゃなかったよね」
「あ、うん。そうなの。古い電話なのよ」
「着信拒否できたら、一番楽よね。確か、義理のお母さんが留守電も嫌がるとかで設定できるのにしてないんだっけ……。政弘がガツ~ンと言うべきよ、やっぱ」
「わかるよ。結婚相手の親なんて、所詮は他人だもんなぁ。諌められるのは息子だけだよね」
「その点、優生はいいよね。ちゃんと分かってるもん。朋子も、結婚するなら優生にしとけば良かったのに!」
「ちょ、ちょっと清美!」
「だよね~。どう、今からでも僕にしとけば」
「ばっかね、冗談よ冗談!」
「なんだよ~」
清美と優生のやり取りに、私はハラハラしながら、苦笑いを浮かべているしかなかった。優生の「僕にしとけば」は、確かに前からあった内輪ネタだったけれど、政弘がいない場で言われたのは久々だった。結婚してからは、彼抜きで集まることなんてなかったもの。
清美がグラスを呷ったタイミングで目配せをされ、私は曖昧に笑みを返しながら気分がまた沈んでいった。
「はぁっ! とにかく、無視が一番なんだけどさ、頭に来るよね。イタズラ電話なんて、そんな暇があったらソープにでも行けっての」
「そんなお金もないんじゃない? それにしたって最低だと思うけどさ。ああいうのって、なんなんだろね。ストレス? それとも……」
「溜まってんでしょ!」
「清美、もう出よ? 飲みすぎよ」
「え~?」
お酒が入った清美は、周りに構わず声が大きくなっていく。デリケートな話題だということもあって、このままではとんでもない台詞が飛び出しかねなかった。先に会計をしようと伝票を取ると、優生が私の手首を掴んだ。
「場所変えて飲もうよ。朋子も、政弘がいないんだし、ちょっとくらい……」
「ごめんなさい、明日も仕事があるから……」
「そっ、か……。なら仕方ないね。あ、ここは僕が払っとくから後でちょうだい。端はいいから」
「そんな、悪いわよ」
「まあまあ。お札崩しときたいんだって。清美を頼むね」
どうせクレジットで支払うつもりのくせに、優生はそう言って強引に私から伝票を奪うとレジへ行ってしまった。私は清美のバッグを持ってやり、先に出口へ向かう。こんな風にちょっとの金額が積もって、優生に奢ってもらった金額はもういくらになるだろうか。向かいにあるコンビニで、清美の分と合わせて二本、ウコンドリンクを買っておく。借りは作りたくないのだ。
「あっ、そんなの良いのに……」
「ううん、気にしないで。二人ともこれがないとダメでしょ? 今日はつき合ってくれてありがとう。話を聞いてもらって楽になったわ」
案の定、優生は私の手元を見て困ったように微笑んだ。清美はというと、ワインがようやく抜けてきたのか、緩慢な動きから一転、サッとドリンクを受け取って即座に飲み干していた。
「ありがと、朋子~。これで安心して飲めるわ!」
「気をつけてよ? 優生が送ってくれるとは言え、仕事、休めないんでしょ?」
「軽い軽い!」
すぐに酔ってご機嫌になる清美は、酔いが覚めるのも早い。長引く私とは違っていて、そこが羨ましかったりもする。
「本当に来ないの? お酒飲んで忘れて、さっさと寝ちゃうって手もアリかと思ったんだけど」
「ううん、いいの。職場の先輩がうるさいし……。また誘って?」
心配そうに覗き込んでくる優生の視線を受け止め、逃げの言葉を返す。私の意思が変わらないのを分かってか、優生は頷いて一歩引いた。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「朋子、いつでも電話してきていいんだからね! 優生に!」
「自分じゃないのかよ?」
「あはは~。でもほんとよ? 金曜の夜まで待ってよね、そしたら泊まりに行くから」
「えっ……?」
「心配なんだもん! 電話もさ、今日はあれだけど、明日かけてきてよ。夜中まで話してたら相手も諦めるっしょ」
「ありがと、清美!」
「うんじゃね~。気ぃつけて帰んなよ~」
「そうだね、タクシーで帰った方がいいよ。捕まえようか?」
「大丈夫! 楽しんできてね」
雑踏に消えていく背中を見送って、私は軽やかな気持ちで帰宅した。ゆったりお風呂に浸かって、早めにベッドに入る。…………夜中の電話は、二度、鳴った。
PMSとは
プレ・メンストラル・シンドローム=月経前症候群のこと。月経が始まる1~2週間ぐらい前から起こる、イライラ、腹痛、眠気、頭痛などに代表される身心のトラブルを指す。およそ200種類以上の不快症状が報告されており、人により程度にばらつきがある。
排卵後の女性ホルモンの変化が関係していると考えられているが、詳しいメカニズムは不明。月経の終了と共に治まる。