最終話
「もうすぐ、初盆か……」
穂積がどこか遠くを見やりながら呟くのを聞き、新田は「珍しいな」と思った。H県警の捜査一課に異動になってからの付き合いでしかないが、先輩に当たるこの人物がこのように感傷的な声音で話すのを見たことがなかったのだ。狭すぎる喫煙ルームにくゆる紫煙越しの穂積は苦々しげな表情だった。
「どなたがお亡くなりになったんですか?」
「ああ、いや……。ある事件を思い出しちまっただけさ」
穂積は真剣な面持ちで新田を見据え、不可解な言葉を口にした。
「呪い、って、信じるか……?」
新田は驚いた。まさかそんな非科学的な物を遣り手の刑事である穂積が信じているとは思わなかったからだ。穂積は結婚し、子供も二人いる四十二歳だったはず、年齢が上がれば迷信深くなるのだろうか。まだ三十手前で独り身の新田には分からないことだった。
怪訝な表情を隠しきれない新田に、穂積は力なく笑うと、「俺だって最初は信じちゃいなかったさ」と前置きし、事件のあらましを話し始めた。
最初それは事件性のない突然死だと思われた。死んでいたのは芦屋 優生(二十八歳、男性)、何の疾患もなしにこの年齢でいきなり心停止とは、いささか考え辛いが、遺体に外傷はなかった。殺人か不幸な死なのか、死んだ際に同じ建物内にいた山田 朋子(同じく二十八)に事情を聞くことになった。
山田 朋子はかなり精神面が不安定で、聴取は難航していた。同じ日に実の親のように世話になっていた大伯父が亡くなったそうだ。切れ切れに聞き出した情報によれば、芦屋 優生が死んだと思われる明け方には彼女は寝ていて、まるで気がつかなかったらしい。そこそこ大きな家の二階で寝ていたら、一階のことは分からないだろう。
「同じ日に大伯父が……そりゃあ、大変でしたね。って、待ってください、二人は同じ家で夜を過ごしたんですか? 名字が違うのは恋人同士だから?」
「いや。二人は同じ大学に通っていた友人同士だと言っていた。だが、山田 朋子は結婚していた。旦那は単身赴任で東京にいたはずだったが、その日に限ってこっちに帰ってきていた」
「ん? じゃあ……」
「まぁ、聞け」
夫である山田 政弘は、家には帰らず、市内のラブホテルに宿泊していた。相手は妻と共通の友人でもある牧野 清美だ。四人とも同年齢だな。
それが分かったのは同日の午前中、昼に差し掛かる頃だった。ホテルからの通報で、山田 政弘と牧野 清美が死んでいるのが見つかった。二人とも外傷はなく、芦屋と同じく心臓発作だ。死に顔はまたひどく歪んでいてな……苦しんだんだろう。
「それって……!」
「もちろん、毒物を疑った。不倫した旦那と親友を、芦屋に手伝わせて殺したんだと。だが、不思議なことに芦屋 優生も同じ時刻に死んでいた」
「カプセルとか! 遅効性の毒物だったんじゃ?」
「……毒物は出なかった。捜査方針を芦屋との共犯の線で進めることになったが、途中で大変な事実にぶち当たった。芦屋 優生は山田 朋子のストーカーだったんだ。奴の部屋からはものすごい量の写真や音声データ、動画、それと朋子の私物……」
「げえっ! 彼女は気づいてなかったんですかね?」
「数日前に最寄りの交番に相談している。郵便ポストに使用済みのコンドームが入れられていたという話から一応調べたところ、芦屋のDNAが検出された」
「うわ……。旦那を殺すのと一緒にストーカーも始末しようとしたんじゃないですかね」
「芦屋の遺体には性交渉の痕があった。……合意の上だと思うか?」
「不倫関係にある相手をわざわざストーカーするとは思えませんからね……」
新田は途中で言葉を切った。気まずい沈黙が流れる。
「朋子の職場にも盗撮写真が送られていてな。芦屋の指紋は出なかったが、おそらく慎重にやったからだろうとの見方が強い。会社側は警察に情報提供をしていなかった。ストーカー被害について知っていたにもかかわらずな」
「やれやれ。……それで、これが、呪いなんですか?」
「いや。ここまでじゃ、な。三人が死んだ日、夫の両親も署に来てもらっていた。事情は説明したんだが、山田 朋子を逆恨みしてか奥さんがひと騒動を起こしてな。警察官の前でいきなり朋子の顔に一発、それで大声で罵ったらしい」
「よくやりますね。傷害の現行犯じゃないですか」
「山田 朋子は精神的なことがあってか意識を失ってな。二日ほど寝たきりで聴取が出来なかった。大伯父の葬儀を終えて駆けつけた彼女の大伯母がカンカンだったよ」
「そりゃあ、まぁ、そうなりますよね。泥沼かぁ。なんだかその朋子さんて人、可哀想ですね」
「夫の両親は、その日の夕刻に交通事故で亡くなった。脇見運転のトラックにはねられて、父親は即死、母親は翌日に死んだ」
あまりにも短期間に、大勢が亡くなった事件だった、と穂積はいったん唇を引き結んだ。
朋子やその大伯母の話では、朋子の周辺では昔から妙な事件が起こっていたらしい。人死にが出たのはこれが初めてだが、怪我人は珍しくなかったようだ。「そういう血筋なんです」と年老いた婦人は厳しい表情で頷いた。『呪い』だなんて馬鹿馬鹿しい。
だが、それを裏付けるような事実もある。山田 朋子、旧姓は百家 朋子。彼女の育った場所で聞き込みをしたところ、その与太話を補強するように『呪い』の噂が多数聞かれた。曰く、「朋子に意地悪をして泣かせたり、面と向かって悪口を言うと怪我をしたり病気になる」と。
職場で朋子に辛く当たっていたという女上司も、朋子が最後に出社した金曜日――盗撮写真が送られてきた日に利き手を骨折している。
「どんな人、なんです? その山田 朋子さんって。やっぱり、こう、陰気な感じですか?」
「いいや。むしろ明るくて気立てのいい美人だよ。儚げで、思わず庇ってやりたくなるような。最初は混乱しているのか、訳のわからないことばかり言っていたが、そのうち落ち着いてからは、順序よく説明できていたし、質問にもきちんと答えていた」
「へぇ」
新田の相槌には、どこか納得したような響きがあった。美人、というところに食いついたんだろう。「そんなんじゃないぞ」と、喉まで出かかった言葉を穂積は飲み込んだ。
「彼女は釈放されたんですか?」
「釈放も何も、最初から最後まで事情聴取に協力してもらうという体だったよ。彼女が入院している間に出てきた事実から、事件性は否定された」
「じゃあ、なんでそんなに彼女を気にするんです?」
「子供がな、そろそろ生まれてるんじゃないかと、思ってな……」
「子供? それって……」
「緊急避妊薬、アフターピルが間に合わなくてな。事実を重ね合わせてその可能性に行き当たったときにはもう、七十二時間は過ぎてた」
「やっぱり、芦屋の……」
「ああ。本当に産むのかって聞いたらな、彼女、こう答えたんだ。『私には、もう誰も残っていませんから』って。夫もその家族も亡くして、友人もいなくなっちまった。大伯母も高齢だ、そりゃあ、寂しいだろうなぁ」
「そんなもんですかね」
まだ若いからか、新田は理解できないと言うように肩をすくめた。穂積もそれ以上は何も言わずに、残りわずかになった煙草を吸った。外に出て、青空を見上げて考える。
すべての聴取を終え、書類のやり取りや手続きを済ませてここを離れる時、弁護士と大伯母に付き添われていた朋子は穂積たちに「お世話になりました」と、笑顔で挨拶をした。そう取り繕えるほどには落ち着いた、ということだろう。
大伯母の養子になって、名字を変えた朋子。彼女は初盆で誰のために迎え火をたくのだろう。愛した夫の政弘か、それとも子供の父親である優生か。
田舎で、人目を避けて生きていくと朋子は言った。だが、それは難しいだろう。彼女のような人間を、放っておけないと思う者は多い。
特に、男は。
穂積は、「困ったことがあったら、いつでも電話をください」と、半ば強引に番号を交換した。まだ一度も鳴ったことはない。
『あの電話は、きっと大伯父からの警告だったんです。私はそのメッセージを上手く活用することができなかった。だから、今回のことは、私のせいでもあるんです。
穂積さんは、呪いを信じますか? 私にとって、それはとても身近なものなんです。人を呪わば穴ふたつ、って言いますよね。あれって、あの穴は、墓穴。相手の分と、自分の……。私の場合は、呪いを跳ね返してしまうんですって。邪な視線の持ち主を見つけてしまったら、その憎しみや負の感情の分だけ……いいえ、その何倍もの強いエネルギーが持ち主に返るんです』
だから彼らは死んだのだと、朋子はそう言って泣きそうな表情で微笑んだ。
彼女の番号を入れた携帯電話を胸ポケットの上から叩き、 穂積は仕事に戻る。盆休みになったら、会いに行ってみるつもりだ。彼女と、その子供に。




