一話
「眠れない……」
誰にともなく呟いて。私は一人キッチンへ向かう。こんな日が不意に訪れては私を苦しめる。政弘がいればこんなことにはならないのに……。
単身赴任も二ヶ月目、か。ため息ばかりが出ていく。
電気のスイッチを押すとパタパタ明滅してから明かりの点く古い家。昔ながらの我が家だもの、慣れたもので構わず流しへ直行する。床下収納から取り出したるは、手頃な大きさと価格のカップ麺だった。
ああ、明日の朝、体重計に乗るのが怖い。それでも意志の弱い私は冒涜的な食事の支度の手を止めることができない。胃袋の命令には逆らえないのだ。あっという間に湯が沸いて、インスタントラーメンが出来上がる。蓋を剥いだら安物の油と合成調味料の香気が立ち上る。
「ううっ……ひとくち、ひとくちだけ……」
何をバカなことを、と頭の中でもうひとりの私が笑う。ほんのひとくちでも食べたらもうだめ、後は空になるまで啜るだけだ。そんなこと、わかりきっているのに。おそるおそるフォークに麺を絡めて口元へ。箸ではないのがせめてもの抵抗だった。
息を吹きかけてその縮れた白い麺を啜ると、そりゃあもう、胃袋も満足の至福の味がした。そうやって、またひとくち、またひと啜りと堪能していると、大きな古い電話の音が響いた。びくんと肩が跳ね上がり、スープが喉に引っ掛かってむせこんだ。仏間の固定電話だ。
時刻は零時五十三分、こんな時間に電話なんて……。まさか小父さんが、いや、もしかして政弘が!?
私はスリッパに蹴躓きながら仏間へ急いだ。ガチャリと受話器を取り上げて、努めて冷静な声で囁く。
「はい、もしもし。山田ですが。……もしもし、どちら様ですか? 何かございましたか?」
「…………………………」
相手はすぐに返事をしなかった。やはり何かあったのかと身構えたが、そうではなかった。沈黙が続くばかりで不審に思い、何度か話しかけてみたけれど、うんともすんとも言わないのだ。気味が悪い。私は受話器を戻した。
「イタズラ電話かしら……」
しんと静まり返った、誰もいない我が家。独りであることがこんなに心細いとは。真っ暗い廊下の先がひどく不気味で、ぞくりと背が粟立った。イタズラだとして誰の仕業だろう、考えてみてもまったく心当たりがない。いつまでそうしていたのか、気づけばカップ麺もすっかり冷めてしまっていた。食欲も消えてしまい、もったいなかったけれど三角コーナーに放り込んでもう寝ることにした。
政弘に電話しなければいけない。……別に泣き言をぶちまけたいわけじゃない。「こういう事があったのよ」という報告はしておかなくちゃと思っただけだ。それに最近、声も聞いていないし。ちょうどいい機会よ、なんて自分に言い聞かせて、その日は眠りについた。寝苦しく何とも言えない夜を過ごし、目覚めは最悪なのに、どんな夢を見たのかすら覚えていなかった。
政弘が夕食を終えたろう時間を見計らって電話をかける。長い呼び出し音の後にようやく出た彼の声は何だか気が抜けていて、ささくれ立っていた私の心を落ち着かせてくれた。「そっちはどう?」なんて軽いやり取りをしていると、すっかりいつもの調子に戻っていた。おかげで電話した用件まで忘れるところだったけど。
「間違い電話じゃないのか。一度きりなんだろ?」
「違うわよ、間違いだったら向こうから切るでしょ」
「はは、きっと焦ってたんだって。朋子が怖い声出すから、謝るに謝れなかったんだよ」
「ちょっと、少しは心配してくれたって、いいじゃないの」
「まぁまぁ。あんまり、気にすんなよな」
「そうだけど……。気味が悪いじゃない。ねぇ、何度もかかってきたらどうしよう」
「そしたら、そのときはまた電話して。じゃあな」
「うん……」
政弘はこれで話はおしまいとばかりに「おやすみ」と言うと、電話を切ってしまった。途端に静けさが耳を襲う。時計を見ればまだ三十分しか経っていなかった。テレビをつけてみても見る気にならず、電源を落として風呂水を溜めることにした。こんな日は読書でもして、ゆっくり過ごすのが一番だ。
軽やかな電子音が鳴り、準備が整ったことを教えてくれる。そういえば仕舞ったままになっていた貰い物のバスボムがあったと気がついて、いそいそと取り出した。ラヴェンダー、カモマイル、ベルガモット……さて、どれにしよう。
ふと目に留まったのは、カモマイルの「リラックス効果」という文字だった。手に取ると林檎に似た優しい香りがする。私はその黄色いボムを湯船に浸したのだった。ワクワクしながら服を脱ぎ、いざバスルームに足を踏み入れようとしたところを、狙ったかのように鳴り響く電話の音。
ギクリとした。
トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……
鳴り止まない。さっさと切れていたなら、それきりもう無視してしまうつもりだったのに。もしかして政弘の実家からだったらと思うと、体が動いていた。バスタオルを乱雑に掻き寄せて、前だけ隠した状態で電話口へ向かう。
「もしもし……」
「………………」
「もしもし?」
沈黙の中に、
男の荒い息が混じっている気が、した。
「いやぁっ!」
思い切り受話器を架台に叩きつけていた。勢い余って、私の手から離れたそれがぶら下がる。まるで振り子のように。
しばらくそのまま動けずにいた。息を整え、受話器を元に戻して、私は居間のテーブルに置いてあったスマホを取り上げた。ロックを外すのに手間取り、現れた画面から迷わず清美のSNSアドレスを呼び出し、メッセージを打ち込む。
『ごめん、聞いて欲しいことがあるの。いつなら会える?』
送信ボタンを押したら涙が溢れてきて、スマホを握りしめて泣いた。今から電話したら政弘はきっと呆れる。それにもう消灯の時間のハズだ。それに清美も、今の時間はまだ帰宅途中かもしれない。疲れ果ててバスに揺られているだろう彼女を思うと迷惑はかけられない。
あの電話はいったい誰が……? あの荒い呼吸はもしかして……?
ああ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! こんなこと初めてだ。父や母が生きていてくれたら……! 心細くてたまらない。こんなとき相談できる相手がいないなんて……。
一瞬、優生の顔が思い浮かんだけれど、彼に電話するのは気が引けた。きっと彼は気にしないよと笑って、何時間でも私の話を聞いてくれるだろう。でも、その好意に甘えすぎてはいけないのだ。
少し冷めてしまったお湯に浸かる。精神不安に効くというカモマイルの香りも、最初に嗅いだときよりどこか褪せているように感じた。バスタブの中で体育座りをして、温かさに抱かれていた。本当はもっと違う温かさが欲しかった。
「政弘……、会いたいよ……」
どうして今、彼はここに居ないんだろう。いつものように抱きしめて、「大丈夫だよ」って安心させて欲しかった。言葉に出した分、惨めさが募る。憂鬱な気持ちのままパジャマに着替えて、何もする気になれずベッドに入った。夜中にまたコール音が聞こえて、布団を頭まで被ってやり過ごした。
トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……
どこか他所の家のハズだ。誰か、誰か早く出て……!
耳を塞いで目を閉じて。私は必死で聞こえない振りをした。随分と長く鳴っていたそれも、やがて聞こえなくなった。その日もよく眠れなかった。