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海底の甲羅侍(2)

 日が沈み、昨夜よりも早い時刻。漕島は戦闘の身支度を整えて、境内に出る。二人の姿はまだない。気だるい暑さを感じる夜だった。生暖かい空気が頬を撫でる。漕島は空を見た。雲は一つとしてなく、星が消えてしまいそうな程、月明かりが眩い。ガラリと、玄関の開く音が、静寂の闇に響き渡る。千代はどこか不安げな顔をしていて、千歳はニコニコ顔をしていた。


 漕島は片手を挙げる。


「よう、お先」

「こんばんはぁ」


 そして千代が、不安げな顔から一変、意を決したように告げた。


「攻めます」


 漕島は訊く。

「それは……二人で相談してか?」


「違います。私が、よくよく考えて、二人に賛成することに決めたんです。それと、父からの許可も貰いました。流石に今回ばかりは、私たちの裁量で決行するわけにはいきませんから」

「わかった。不肖ながら、こき使ってくれ。言い出しっぺだしな」

「もちろん、そのつもりよ。使い潰してやるわ。今夜を──」


 千代は深呼吸をして続きを口にする。


「──最後の闘いに、するためにも」


 千歳が「おー!」と気合いの声と共に握り拳を高く挙げる。促され、他の二人も後に続いた。


 退魔師らは井戸の前まで移動した。本殿の後ろにも茂る、鎮守の森の浅いところに、それはある。雑草と苔に覆われて、緑の臭いがしている。石造りの蓋のみが、真新しいものだった。


 千代が説明を始める。


「まず龍宮城の本拠地は、海底にあるものと考えて良いわ。正確に言うと、海底の一部に異界があって、そこね。これは何度か、親から聞かされたことがある」

「異界……」

 漕島にとって未経験の領域だった。


 知識として知っているのは、妖気が満ちている場所で、その空間を支える核のようなものが必ずあるということ。閉鎖的なものもあれば、逆に開放的で、人が迷い込むのを常に待っているようなものもある、ということ。そのくらいだ。


「海から潜って行くのは難しいわ。海底と言っても、そんなに深いわけじゃないけれど、異界内部に入るのは許可がないと無理らしいの」


 龍宮城の異界は閉鎖的な部類のようである。


「だから、攻め込むなら、本当に井戸しかないわ」

「今思ったんだが、向こう側からも封印されてる可能性ってあるよな」


 ハッとした顔で千歳が頷く。


「確かにあるかもぉ。でも、そのときは、そのときで、また別の方法考えればいいよ」

「私は封印術──あるいはそれに準ずる力──の使える妖怪は、龍宮城にいないと思うけれど。もしも進攻不可なら、千歳の言うとおり、切り替えましょう」

「ん、了解した」

「浜辺に尖兵が現れるまで、まだ時間があるわ。今のうちに行きたいと思う」


 漕島、千歳が首肯する。


「あっちに意識が向いているうちに、ってわけだな」

「防御が手薄かもしれないもんね!」

「ええ。……では、井戸の封印を解きます」


 そう宣言し、千代は井戸の前に立った。手で刀を作り、宙を九度切る。それから井戸の蓋に触れて、口の中でごにょごにょとなにかを呟いた。どこからか、氷が割れるような音がした。


 漕島はその音が、封印が解けた証なのだろうなと察した。千代がふっと息を吐く。


「これで終わりです」

「意外と簡単なんだな」

「解くのは簡単、掛けるのは難解なのよ。……よっと」


 千代が石造りの蓋に手をかけた。漕島、千歳も慌てて力を貸す。


「こっちの蓋の方が開けるの大変だな」

「めちゃ重いねぇ、これ。トタンにしようよぉ」

「私たちが小さいときに、誤って落ちたりしないようにしたらしいわよ」


 三人がかりで蓋をずらして、中に入れるだけの隙間を作ると、今度は誰が向こう側の様子を窺うのかという話になった。汐杜の巫女二人でも、井戸の先にある異界が、どのようになっているかわからないと言う。


「一応、父と母には訊いてみたんだけれど、なにせ大昔のこと過ぎて」


 敵地に攻め込もうというのにそれでは、不安が大きすぎる。元より厳しい闘いだ、少しはリスクを軽減したかった。


 千代がまず自ら行くと言い出したが、漕島はそれを止めた。

 むっとした顔で彼女は反論する。


「危険なのはわかってるわよ。でも、他に適任いる? いないじゃない」

「わたしは平気だと思うけどぉ。黒蛸あるし」

「いや、そこでなんで、俺に行かせるっつー発想がないんだよ」

「こういうとき、第一線に立ってこそ、神社の長たる者よ」


「単身偵察だぞ? 指揮する立場の人間がすることじゃない。人手が足らないから、前線に立つのは良いとしても、ここは、俺が行くべきだ。使い潰すって、さっき言ったばっかだろうが」


「それは、売り言葉に買い言葉みたいなものだし……」


 だがこの議論に費やすような時間もない。こうしているうちにも、浜辺には妖怪が迫っているかもしれない。うかうかしていたら、結局、そちらへ行って撃退せねばならないことになる。彼らの侵略がどこにまで及ぶかはわからないのだから。その点において、三人の気持ちは一緒だった。


 そこで。念のため井戸の先を確かめる、という行程そのものを省くことに決まった。みんなで行けば、なにが起きても、それなりに対処できるだろう。真か偽かはさて置いて、そういう理屈付けだった。


「二人とも、準備は良い?」

 訊きながら、千代は拳に鉄刺拳を嵌める。


「わたしはいつでもー」

 千歳が証にと法螺貝を見せる。


「俺も」

 漕島は兜蟹を掲げた。


 三人は井戸のへりに足をかける。そして、


「せーの……っ!」


 千代の号令で、三人は井戸へと身を投げた。


 僅かな間の自由落下を経て、着水。冷たい水に全身を包まれる。漕島は思わず目を瞑った。今度は、ゆるやかながら、沈んでいくようだった。やがて瞼越しに明るさを感じる。それと同時に、水の存在感もなくなった。不思議な感覚だった。確かに水の中にいる、そんな冷ややかな感触が肌にはある。しかし、まとわりつくような抵抗感や、圧力のようなものはない。空気の代わりに、水があるようだった。


 漕島は目を開けた。身体はまだゆっくりと真下に向かって沈み続けている。


「お、おぉ……!」


 そんな感動の声を思わず漏らすと、呼気の代わりにあぶくが飛び出した。


 海の底は想像以上に明るく、薄緑色に輝いている。エメラルドのよう。その中で色とりどりの魚が、それぞれに群れを成して泳いでいる。遠目から見るそれらは、カラーリボンに似ていた。海の色は青色だと人は言う。けれどそれは、表面でしかなかった。その内側には無数の色彩が漂っていた。


 ゆっくりと、漕島は海の底に着地する。突如現れた人間に驚いたようで、小さな蟹が一目散に逃げて行った。その一方で、マイペースに、漕島の目の前を横切る一匹の魚もいる。ここには、陸とは違う時間が流れている。漕島はそのように感じた。敵地だとは到底思えない。実際、妖怪の姿は辺りになかった。


「漕島さん、酔ったんじゃないでしょうね?」


 呆気にとられていると、千代に肩を叩かれた。


「いや、ちょっと見惚れていただけだ。こんな景色、テレビでしか見たことないからな」

「そうね。敵地であることを忘れそう」

「……妹は忘れているみたいだぜ」


 千歳は目を輝かせて、興奮していた。


「うっわぁ! うわぁ! 凄い凄いっ! お姉ちゃん見て見て、魚が泳いでる!」

「泳いでるわね、鰯が」

「水族館みたい!」

「水族館が海みたいなのよ」

「あ、そっかぁ。……あ! 蟹が歩いてる!」


 千歳が遠くにいるそれへ向かって、駆けだす。


「ちょっと、もう! はしゃぎすぎ!」


 それを追って、千代も慌てて走り出した。ひとまずここは安全そうだとしても、単独行動は大問題である。だが、すぐに足を止めることになった。千歳が急に尻餅をついたのだ。その様子はまるで、見えない壁にぶつかったかのよう。


「いったぁい!」涙目で額を摩る千歳。


 その彼女のことは姉が担い、漕島の方は千歳が顔をぶつけたであろう空間に、手をやった。そこには確かに、壁のようなものが存在していた。よくよく見れば、足元の砂も、その壁の向こう側と手前側とでは、僅かに色が違っている。手前側の方が白く乾いているようだった。おそらく、この見えざる壁が、異界と通常の世界との境界線なのだろう。


(反対側もそうなんだろうな。まぁトンネル型の水族館みたいな感じか)


 漕島は兜蟹を右肩に担ぎ直した。


「二人とも、そろそろいいか?」

「千歳、もう痛くない?」

「うん、だいじょぶ」

「よし。それじゃあ、行くぞ!」


 海と海に挟まれた回廊──この先に龍宮城があるに違いない。どれほどの距離があるかはわからないが、急ぐ身である。三人は走り出した。その並びは、先頭に漕島、次に千代、最後が千歳となった。千代は妹を守りたいし、漕島は双子を守らなくてはならない。両者の思惑を満たす、完璧な布陣である。


 回廊は遮蔽物はまるでなく、直線的であり、視界は良好だった。妖怪は配置されていないようである。この様子なら、敵の本拠地までは難なく行けるかもしれない。消耗も少なく辿りつけたなら、それに越したことはない。


 この決戦には、時間も大事な要因である。海岸線に行った敵妖怪が、そこに神社勢力がいないと知れば、怪しんで帰還するかもしれない。そうでなくとも、瞬く間に海岸を支配して帰るだろう。妖怪群が海岸に着くのと、退魔師らが龍宮城に着くのとが、同じくらいであるのが、理想的だった。


 走り出してからほどなく、千代に呼び止められた。


「待って! あの岩……」


 彼女が指さしたのは、およそ百メートル先にある、大き目の岩石だ。道の左右に二つ。


 立ち止まった二人に千代は、囁くような声で続ける。


「あれを越えた先に、妖怪が視えるわ」

「あの向こうに?」


 漕島は目を凝らしてから、首を傾げた。この見晴らしが良い一本道で、妖怪の影がまるで見えないなど、あるだろうか。だが千代を疑う気は起きなかった。ここは既に異界、敵地なのだ。


「数はわかるか?」


 漕島が訊き返すと、千代は「えっ?」という表情を浮かべた。

 けれどすぐ我に返って答える。


「……二か、三ってところかしら。距離は岩からそう遠くない」

「手薄だな。位置も良い」

「あの……漕島さんは、妖怪、視えてないわよね?」


 千代が、どこか戸惑いがちに問うた。

 それを疑問に思いつつも、漕島は答えを返す。


「当たり前だろう」


 千代は誰にも聞こえない声で「……なのに信じてくれたんだ」と呟いた。


「磯魚妹は?」

「ううん、見えない。けど、あの岩が、一種の結界になってるのはわかるよぉ。あの二つの岩を基点にして、間に膜みたいに張ってるんじゃないかなぁ」

「結界?」

「効果は視界妨害だろうねぇ。まぁ門と言うか、関所の役目なのかなぁ。昔の名残じゃない? 通る時に危ないことはないと思う、たぶん」


 漕島は再び意識をそちらへ向けてみた。


「……うん、やっぱり俺にはわかんねえ」

「千歳は結界術や封印術の適正が高いから、私より。まだ修行中だから、使える術はないけど」

「そうなのか。にしては、さっき頭をぶつけなかったか?」

「しゅ、集中しないと、わかんないから……」


 千歳は気まずそうに視線を逸らした。

 漕島と、千代が揃って呆れたような溜息を漏らす。


「わたしのことはいいの! それよりお姉ちゃん! お姉ちゃんは、妖気の感知能力が高いんだよ」

「なるほど。それで見えるっつーか、分かるのか。ちなみに妹の方は、どのくらいわかる?」

「言われたら、まぁわかるかなって」

「んじゃ、こっちの索敵レーダーは磯魚姉だけか。頼みの綱だな」


 次に、この関門をどう突破するかという話に移る。この相談はすぐに終わり、三人はまた列を作った。並びに変化はない。千代だけが索敵役としても、今の並びが最良だろう。


 漕島は槍を振り回しやすいよう、身体の前で構えた。そして今度は短距離走のつもりで、駆け抜ける。岩と岩の間を抜ける時には、薄いベールのようなものを突き破る感覚が、全身に走った。千歳が指摘した結界だろう。道を作るそれとは大違いだ。


 妖怪らは、突然の闖入者に驚いたようで、固まっていた。そこを剛槍で斬り裂く。


 一瞬の出来事だった。


「ほいっと。制圧完了」

「お見事ぉ」

「この調子でお願いするわ」


 それからも、退魔師らは順調に敵地の奥へ進んでいく。誰もいなかった第二関門は当然ながら、五匹が潜んでいた第三関門も、容易にクリア。ここで疑問に生じたのが、果たして、あと幾つの関門があるのかという点。双子巫女に一応訊ねてみたが、やはり、彼女たちも詳しいことはわからないらしい。元々、人間と妖怪との交遊を目的していたのだから、まさか十や二十あるとは、漕島には思えなかった。多くても七つではないだろうか。


 第四関門に突入する前、千代が慌てた様子で止まれの指示を出した。


「どうした……?」

 漕島の声音も心なし、低くなった。


 千代は緊張の面持ちで答える。


「この先、凄い妖怪の数よ。数えきれない」

「……冗談きついぜ」

 乾いた笑いしかでてこない漕島。


 だがすぐに気を取り直して「少し待て」と二人に言うと、彼はそっと結界の膜があるだろうところに近寄り、そっと顔だけを、その向こう側へと突き出した。


「これは……クラゲか?」


 青白い半透明の球体が、ぷかぷかと宙に浮いている。千代の言うとおり、一匹や二匹ではない、夥しい程の大群である。球の部分は人の頭ほどの大きさで、それから肘から手首ほどまでの長さの触手が垂れ下がっている。


 漕島は顔を引っ込めて、今見たものを説明した。すると千代と千歳は、互いの顔を見合わせホッと安堵の溜息を吐く。


水母火くらげびね、それは」

「うん。そんなに危険性はないかなぁ」


 聞き覚えのない名だ。漕島が訊ねると、千歳が得意げに解説を始める。


「見た目は水母だけど、名前に火とあるように怪火の一種で、海の上をふわふわ飛んでることが多いかな。だいたいの怪火は、やっぱり火って感じがするけど、水母火は、なんかべとべとしてて、触るとぱぁんって弾ける。風船ガムみたいな感じ」


「んじゃあ、向こうから攻撃はてこないんだな」

「うん、平気。……あ、でも! お姉ちゃんは小さい頃に──」


 慌てた様に、千代がその先を遮った。


「そ、その話はいいから!」

「おいおい、そこでやめられたら気になるじゃねえか」

「だよねぇ」


 千歳はいたずらっ子の笑みを浮かべ姉から逃れるように漕島の背後へ回った。

 そして漕島の耳元にそっと語りかける。


「小さい頃、水母火が顔に貼り付いて死にかけたことがあるんだよ、お姉ちゃんは」

「だから言わないでって、もう! というか、死にかけてはいないわよっ」


 漕島は笑いを堪えながら「気を付けてな」と言った。


「う、うるさい! とっとと列を正す!」


 隊列を整えた三人は、水母火の群れ湧く第四関門に突入する。無害とは言え顔に貼り付いてはたまったものではないし、ここは走ることなく慎重に進む。宙をぷかぷか浮かぶ水母火は、時折、すぃーすぃーと縦や横に移動する。それに気を取られて足を止めることもしばしば。三人が群れを抜け切ったときには、一種の達成感めいたものがあった。


 第五関門に急ぐ。大幅な時間ロスだった。境界前で千代が言う。


「次は一匹よ。少し遠いけど、間違いない」

「よーし、なら楽勝だな。問題は本拠地まで、あとどれくらいかだが……」

「そろそろ浜の方には出てきてるかもねぇ」

「意外と長いよなぁ、この回廊」


 三人がベールを越える。漕島は目を丸くした。後ろから息を飲む気配があった。

 千代が気色ばんだ声を出す。


「あれが……龍宮城ね!」

「ふわぁー、お城だぁ」


 孤高に聳える天守の姿が、そこにはあった。真っ白な漆喰の壁に、真っ黒な瓦。そして頂点には黄金色に輝く龍が横たわっている。あれが終着点に違いない。


「結界越しだとわからなかったけど……あの城から、強い力が視える」

「わかった。急ごう。最後の闘いだ」

「だね! 今なら、きっといけるよぉ!」


 そのまましばらく行くと、漕島は遠くに人間のような影を認めた。無論、この空間にヒトがいるとは思えないから、漕島は人型の妖怪であると判断する。互いの顔がはっきりと視認できる距離になったとき、背筋にぞわぞわするものが駆けていき、彼は足を止めた。


 その妖怪は、つんと鼻筋の通った顔立ちで、清流のような色艶をした黒髪を後頭部で結っている。美青年といった具合の風貌。男らしいが、妙な色気がある。着流しを纏い、なにやら亀甲らしきものを背負っている風だった。そして腰には刀をぶら下げている。


 漕島は鈍い。妖気のほどはわからない。

 だがそれでも、あの妖怪は強者であると、直感した。

 言うなれば本能によって。


 しかし、千代は止まらなかった。

 漕島をを追い越し、猛然と、その妖怪目掛けて駆ける。


 千歳が叫ぶ。


「お姉ちゃんを止めて! あいつは──!」


 言われるまでもなく漕島は姉巫女を追っていた。

 追いながら止まるよう声を掛ける。だが、まるっきり聞く耳持たない。

 完全に我を失っているようだ。


 漕島は舌打ちを一つした。

(くそっ! あいつが親玉なのか!? だから暴走した! 無茶だ、馬鹿なのかよ!)


 彼が目を通した資料には、人語を解す妖怪について具体的な特徴は記述されていなかった。

 たった一匹、それが首魁なのだろうと思っていた。城の外で会うことなど、想定していない。


「絶対に死なせはしねえからな!」


 漕島は大地を強く蹴り、加速する。

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