海底の甲羅侍(1)
八時間の睡眠から目覚め、漕島は身体を伸ばし凝りを解して、身支度を整える。それから居間へと向かう。巫女服の二人も、ついさっき起きたばかりらしい。座卓につき、テレビを眺めながらトーストを食べていた。時刻は十時である。
「ほはよぉ」
千歳がパンに齧り付いたまま言ってきた。
「ん。おはよう」
「千歳、食べながら喋らないのよ」
「ふぁーい」
「漕島さんも、トーストで良いかしら? お昼前だし、とりあえず程度に食べているんだけど」
「あー、じゃあ、頼むわ」
千代は二つ返事で、自分のトーストが載った皿も手にして、台所へと向かった。漕島のを焼きながら食べるつもりなのだろう。
「ちなみに昼は?」
妹巫女の対面に腰を下ろして漕島は訊ねる。
千歳が答える。
「冷凍のパスタがまだあるよぉ」
昨晩とまるで同じメニューであった。
「まさか……ずっとか?」
「そうだねぇ。おかあ様と和泉ちゃん、櫂さんくらいしか料理できる人いないんだぁ」
その三人がいつ頃離脱したか、漕島は知らないが、少なくとも三日は連続していることになる。最近のものは味も良くなっているし、悪いとは思わないが、だからと言って毎日それというのも気にかかった。
『飯は手料理の方が良い。温かみもあるし、活力になる』
師がそう言っていたのを思い出す。食事を侮るな、耳にタコができるほど聞いた。
当の本人はカップラーメンを愛食していたことも思い出した。
「近くに飯屋はねえのか? 駅前とか」
「あるけどぉ、心配性なんだよねぇ」
「姉が、か」
「うん、お姉ちゃんが。まぁわかんなくもないけどねぇ」
妖怪の動きが活発化するのは夜である。しかし、昼間にまるで動くことがないわけではない。だから千代が神社を離れられないという気持ちは、わからないでもない。だが今度は別の心配が浮かんでくる。彼女の精神的疲労はどれほどのものだろう、と。ピリピリするのも限界が近いのではないか。
「ごちそうさまでしたぁ」
千歳が合掌をして、皿を片さんと立ち上がる。
それと居間の襖が開くのは同時だった。
「なに塗れば良いか訊き忘れたから、マーガリンにしたわ。あとコーヒーも、ミルクと砂糖を一つずついれたけど、文句ないでしょうね」
千代は漕島の前に皿とカップを置いて、妹と入れ替わりに、彼の対面に腰を下ろした。
「ああ。悪いな、コーヒーまで」
「ふんっ。昨夜は、まあまあ働いてくれたし、労うのは雇い主として当然のことよ」
「なら、遠慮なく。……いただきます」
両手を合わせて漕島は有難く頂くことにした。ほどよく焦げ目のついたトーストに、溶けたマーガリンの風味が食欲を刺激する。噛り付くとサクッと小気味良い音が鳴る。コーヒーも、インスタントのものだが、こだわりのない漕島には、充分心地よい香りをもたらした。
しばらくして、千歳が二人分のカップを手に戻ってきて、千代の隣に腰を下ろす。
「お姉ちゃん、わたしたちもコーヒー」
「ありがとう千歳。頂くわ」
二人揃ったところで、漕島は口を開く。
「昼飯なんだが」
「パスタよ、昨日と同じ」
「それは磯魚妹から聞いた。で、そっちが良かったらなんだが、俺が作ろうか。一人暮らしだからな、多少は料理もできる」
千歳が目を輝かせる。
「ほんと!? リクエストしても良い?」
「まぁ俺に作れるもんならな。磯魚姉はどうだ?」
千代の方は険しい顔をしていた。
「……正直なことを言えば」
「おう」
「昨日会ったばかりの人に、台所を任せるのは不安よ」
「お姉ちゃん!」
「食事は大事よ、とても。だからこそ」
「そうだな。俺の師匠も似たようなことを言っていた」
漕島がくつくつと笑いながら頷くと、千代は「そう」と返し、少しだけ考えるような素振りを見せる。それから「やっぱり……」と口にした。
「お願いしても、いいかしら?」
「お? おお、もちろん。任せておけ」
「ふんっ。勘違いしないでよ。貴方ではなく、貴方の師が信用できると思ったのよ」
会ったばかりの人間ではなく、会ったこともない人間の方が信じられるという千代の心理は理解し難いものだったが、漕島は「わかってるよ」とだけ言うに留めた。
そうと決まれば、すぐ行動。昼食担当となった漕島は、さっそく外へと繰り出す。神社を出て、そのまま右手に道なりに進めば、やがて港に辿り着く。逆側に行けば駅前へ通じる道に出る。折角、海沿いの町に来たのだから、新鮮な魚でも得たいところだが、それはできない相談だった。
海に近づくことなかれ。これが海水浴シーズンまで続けば、観光業に大打撃を受けることは必至だが、既に影響がでているのが、漁業である。海にでることも死活問題だ、しかし、でないことも同様なのだった。
やむなく、漕島は駅前に向かうことにする。スーパーになら、地元産ではなくとも魚があるはずである。千歳はどうやら魚に飢えているようで、リクエストは魚料理だった。
駅前まで来ると、幾らか人の姿も見受けられるようになる。休日だからか、若者も存外いた。適当なスーパーを見つけ、漕島はそこへ入る。カゴとカートを借り、物色を始めた。まずは野菜コーナーから良さげな食材を見繕う。やはり冷凍食品続きで、あまり採ることができないのは、緑黄色野菜だろう。その次は魚コーナーへ。
「さてと、どれが良いかな……」
ざっと眺めながら迷う。ふいに男が隣に立った。漕島自身、長躯であるが、それよりも高く、ランニングシャツのため露わな腕は浅黒く、より太い。浅黒い肌頭に捻り鉢巻をし、いかにも海の男といった出で立ちである。ちらと目が合い、漕島は会釈をした。
男は愛想の良い笑顔を浮かべて言う。
「兄ちゃん、見ねえ顔だな。旅行かい?」
「ええ、まあ。美味しい魚を食べたいなと思いまして」
「そうかい、そりゃすまねえなぁ。今は漁やってねえんだわ」
「そうみたいっスね。どうしてなんです?」
我ながら白々しい言葉だと、漕島は内心で呆れる。事情などよく知っているというのに。
「……まぁ色々あんのさ、海にはな」
「そういうもんスか。海は怖いって言いますもんね」
「おう、そういうこった。兄ちゃんも、今の時期は、海に入ろうだなんて思うんじゃねえぞ」
最後の台詞だけ、男から笑顔が消えたのを、漕島は見逃さなかった。もしや、と思う。この男もまた、事情を知る数少ない人なのかもしれない。禁止令を出すにあたって、業界内部にも理解者を置いておけば、幾らかスムーズに話も通るというもの。警察には特に多いと聞く。だが、わざわざ確認するようなことでもないから、漕島は話題を変えることにした。
「ところで、漁師さんですか? 良かったら目利きしてくれませんか?」
男は快く頷いてくれた。
「そうだなぁ。これなんか良いんじゃねえかな、スズキ。ムニエルなんかどうだ」
意外にも洋食が飛び出てきた。
「ムニエルですか。良いですね、ありがとうございます」
「いいってことよ」
漕島は男と別れて、ムニエルに合わせるタルタルソースの材料を探す。なんと磯魚家には卵すらなかったのである。完全に冷凍食品のみで乗り切るつもりだったらしく、冷蔵室はすっからかんだった。それを見た時には、流石の漕島も呆れ果てたものだ。
無事買い出しも終えて、漕島は神社へ戻った。既に正午を過ぎている。さっそく彼は料理に取り掛かる。主菜に、サラダ、トマトスープ、そしてライスである。
出来上がったそれを居間に運ぶと、千歳が「おぉー!」と歓声をあげた。
「美味しそうだね、お姉ちゃん!」
「そ、そうね……」
千代もごくりと喉を鳴らした。
「ご飯も久しぶり! お米!」
「パスタばかりだったものね……」
「炒飯なんかも美味いのあるんだから、そっちも買っとけばよかったんじゃねえか」
漕島が呆れながら二人の対面に座って言うと、千代が唇をとんがらせて言い返す。
「う、うるさいわね。ごそっとまとめ買いしちゃったんだから、仕方ないじゃない」
「そうですか。まぁ美味いからな、パスタも」
「炒飯もいいけど、やっぱり、白いのがいいんだよぉ」
「すげえわかる。とにかく、冷める前に食べようぜ」
「そだね、食べよう食べよう! ほらお姉ちゃんも、早く手合わせて」
「落ち着きなさいよ、もう」
窘める口調ながら、千代の顔も微かに綻んでいた。
漕島はホッとするような気持ちで、その横顔を見つめる。
その視線に気付いてか、千代が彼の方を向いた。
「……なに?」
「いや、なんでもねえ」
「ふぅん? ま、いいけど。それじゃあ……いただきます」三人の声が重なった。
少し遅めの昼食は、好評だった。特に食事中何度も美味しいと言っていた千歳は「明日もお願い!」と言うほどであった。漕島が「じゃあ、豚汁なんかはどうだ」と返すと、彼女は子供のように喜んだ。
そして、食後。三人の話は自然と、今夜の方針についてとなる。
まず漕島が防戦一方の現状を打破するためにと、一石を投じた。
「……相手の拠点を叩く?」
千代が探るような眼を向けてきた。
それに怯むことなく漕島は頷く。
「井戸から侵入されたんだ。なら、逆にこちらから、龍宮城に行くこともできるだろ?」
目には目を、奇襲には奇襲を。一聴すると、効果が期待できそうではある。
「それは……」
迷う様子の千代。
だがすぐさま首を横に振った。
「駄目よ、それは。駄目」
「無理ではないんだな?」
口を閉じた千代の代わりに、千歳が答える。
「井戸はねぇ、封印してあるの」
「まぁ、そりゃそうだろうな。井戸から攻め込めるなら、最初だけじゃなく今までもそうだ」
「うん。まぁ、封印自体は古いんだ、交流が途絶えてからのものだから。たぶん劣化してたんだね、それで破られちゃった。で、新しく掛け直したんだぁ、また神社の方に来たら困るもん」
「奇襲に失敗なりしたら、また掛ければいいだろ?」
「入院中の母に、余計な体力を使わせるわけにはいかないわ」
千代が強い口調で言った。
どうやら双子巫女には、封印術のノウハウがないらしい。漕島にもない。もしも一度、封印を解いてしまえば、井戸と海岸、二カ所から攻撃を受ける危険性が生じてしまう。あまりにも危険だ。漕島はなにも言えなくなった。このまま防衛戦を続けても、勝ち目はないが、それなら、ひとまず更なる援軍を要請して、来るまでを三人で持ちこたえる方が良いかもしれない。
漕島は前言撤回しようと口を開こうとした。だが頭に、ある考えが過る。
(それで結局、いつまで続けるんだ? 援軍が来て、防衛戦して、こいつらの両親や退魔師仲間が戻ってきて、また誰かが離脱して……いつ終わる? 龍宮城は諦めるのか? 泥沼の消耗戦の先に、神社の勝利はあるか?)
漕島には退魔師として、仕事を成し遂げ、人の為となりたいという思いがある。だからこそ、自分がここにいるときに、どうにかしたいと思ってしまっている。そして彼は大学生でもある。連休の後には授業があるから、離脱しなくてはならない。そのことも勘定に加えていた。本人も気付かぬうちに。
そうして撤回の言葉を口に出来ぬうちに、千歳が手を挙げた。
「わたしは、漕島さんに賛成するよぉ」
「なっ!?」
千代が驚きに目を見開き、隣に座る妹を見る。
「なんでよ!」
そして座卓を殴るようにして立ち上がる。漕島が千歳の言葉に驚く暇などなかった。
「お姉ちゃん、落ち着こ? ね?」
興奮のあまり肩で息をする姉を、千歳が宥めながら座らせた。
こういうときには、やはり同い年なのか。姉も妹もない。
千歳がやわらかな声音で姉に言う。
「確かにね、危険なのはわかるよぉ。でもそれは失敗したらでしょ? 勝てばいいの!」
「勝てばって、そんな! 敵地よ!? 向こうがどんな風になってるかもわからないのに!」
「うーん……それは資料とかないかな? 一時期は行ったり来たりしてたわけでしょ? ご先祖様が残した日記とかぁ、そういうの。あとはおとう様おかあ様に訊いてみるとか」
「あるかもしれないけど……今も同じとは限らないじゃない。どんだけ昔のことよ。二人だって、実際に行ったことはないと思うし……。それに防戦を選んだのは、おとう様だし……」
「そっかぁ、そう言えばそうだね。じゃあさ、訊くけど、これからどうするの? 敗けるよ?」
千歳にしては確固たる物言いに漕島は驚いた。千代は言葉に詰まり少しだけ目を伏せる。
磯魚千代は、きっとこの場の誰よりも、現況を理解していた。ただ父の立てた指針に従おうと言うのではない。攻め込むことの危険性も理解している。だからこそ、易々と頷けはしない。彼女は、汐杜神社の管理責任者代行の任を預かり、ただ一人の妹を持つ、姉なのだ。妹と傭兵がどんなに現況を憂いたとしても、そのことは変わらない。
漕島清輝はこれ以上、言うべきことが見つからなかった。既に千歳を感化させてもしまった。今更、前言撤回をしたところで、彼女は翻すだろうか。それに彼自身、どちらが正しい道なのかわからなくなってしまった。彼に今できることは、覚悟を決めることしかない。もしものとき、最大限の責任を取る覚悟を。そして、いかなる方針にも全力を尽くすことを自らに誓った。
磯魚千歳は流れを変えたかった。いや、動かしたかった。良くも悪くもない、なんの変化もない流れ。そんなものは流れでもなんでもない。それを視認できる者だからこそ、動かぬ流れという矛盾が気持ち悪かった。動かねば、なにも変わらない。彼女はそのことを確信していた。
重苦しい空気のまま、議論が再開することはなく、三人はそれぞれ仮眠のための床に就いた。