嵐の前(1)
漁師たちが巻き起こした騒動から、二日の時が過ぎようとしていた。
海の向こうで日が昇り、漕島は眩しさと傷の疼きで目を覚ます。浜辺であった。今日も、龍宮城は来なかった。姫と侍が境内に現れて以降、ぱたりと、侵略は止んでいる。汐杜神社は困惑していた。嵐の前の静けさのような、不気味さがある。
しかし、どうしたものか。
昨晩の会議では、千代が、やたら血気盛んで再度の進攻を提案したものだが、今度は漕島と千歳が反対に回った。
漕島は、最初に失敗したからというのも一つの理由だが、千代の体調を案じてもいた。どちらも自分の所為であるから尚更である。
千歳は、向こうが攻めてこないことをむしろ理由にした。つまり防御が万全であるだろうと。
結局、千代が折れ、相手の出方を待つことに。神社側が不利であることには何ら変わりない。
漕島はスマホを取り出して時刻を確認した。そろそろ姉妹も起き出すだろう。
ついでにニュースや天気予報などにも目を通した。
「げ。明日の夜から雨かよ」
そうなると野宿は辛いだろう。漕島は拝殿の軒下でも借りることにしようかと思案する。浜辺の異変を感じ取ってから飛び出すのでも遅いことはない。
ふと背筋に冷たいものが流れた。まさに悪寒とも呼べるものだ。脳裏でなにかが警鐘を鳴らしている。しかし、それがなにかはわからない。漕島はスマホの画面をじっと見つめて考える。一体全体、なにに引っかかったのか。先ほどの行動を再度なぞってみる。
二度、三度繰り返して、漕島はハッとした。慌てて足元の槍を引っ掴んで、塀をよじ登り、神社を目指す。
ちょうど良く、新聞を取り出しに出ていた千歳と鉢合わせした。
「あれっ、どうしたの? そんなに慌てて」
「大変なことに気付いた──かもしれん。姉は?」
「うん。まだ部屋に。あ、でも……」
「わかった!」
急いで彼女の部屋へ向かう。
千歳がまだなにか言っていたようだが、漕島は聞いていなかった。
部屋の前にやって来て、
「磯魚姉! 起きてるか? 緊急の話がある。入るぞ!」
「え、ちょ」
漕島は返事も待たずに襖戸を引いた。
二人の間に冷たい空気が流れる。
千代は寝間着から巫女服に替わる途中の姿で、いつになく肌色が多い。下着は上下とも純白、腕や太腿には包帯や湿布の白も点々とある。思いのほか、メリハリのある肢体を、している。巫女服を着ているところばかり見ているから、気付かなかった。
「いつまで見てるつもり?」
唸るような声で言われ、漕島はすかさず戸を閉めた。直後、襖越しに怒号が響く。
「逃げたら殺す!」
彼はやむなく、廊下で、土下座の姿勢で、千代の着替えが終わるのを待つことにする。
追ってきた千歳がそれを目の当たりにして「あーあ……」と呆れたような表情を浮かべた。
「ダメだよぉ、人の話は最後まで聞かなきゃ」
「師匠にもよく言われたぜ」と、そのままの姿勢で。
「ダメダメな弟子なんだねぇ」
「師匠の言うことだけは、最後まで聞くようになったな」
「……ダメダメだねぇ」
ぴしゃんっと襖が開く。漕島と千歳が思わずビクンと身を震わせる。額を床につけた漕島からは見えないが、流石の千代も、まさか既に土下座をして待っているとは思わなかったようで、真っ赤な顔に幾らか、困惑の色を浮き上がらせた。こうして最大限の謝罪を先に示せば、相手の怒りはだいぶ軽減されると、漕島は経験から知っていたのである。
目論見通り、千代の震える拳が段々と鎮まっていった。
千代が「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「相手が千歳じゃなくて良かったわね。そのときは本当に殺してたかもしれないもの! 私が!」
なんておっかない姉だ。思うも口にはしない。今は謝罪だけだ。またもや経験が生きた。
「本当にすまなかった。……怪我のことも含めて」
「ふんっ! それで? 緊急の話って?」
「ああ、それは……」
漕島は場所を居間へと移し、テレビを点けてから、その話をする。
「これは確認なんだが、海の妖怪は水がないところには行けない、だよな?」
対面に座る巫女らは揃って頷き、千歳が言う。
「そうだよぉ。海のというか、水棲の妖怪だね。川に棲んでるのとかも」
「だから彼らは陸に上がるときに、自分たちの足元に水を流し込む。けれど水源から離れ過ぎたら、それも難しくなるわ。龍宮城が海岸線を引っ張り上げようとするのは、そういうわけ」
漕島は「だったら」と言う。
「雨の日はどうなる?」
巫女二人が顔を見合わせた。しん、と。居間が静まり返る。テレビが淡々と今週の天気を伝えている。明日の夜頃から、ここら一帯に、雨が降るらしい。
巫女らは双子らしく息ピッタリで、漕島に向き直る。
「それは」
「まずいかも!」
これまた息ピッタリ、二人の声が重なった。
「やっぱり、そうか。そうなのか」
漕島は、何故龍宮城が攻めて来なくなったのか、納得する。雨の日に全ての決着をつける、そういう考えに違いない。きっと、その日は総力戦になるだろう。三人だけで、どうにかなるだろうか。あるいは、もう一度、龍宮城に攻め込んで、先に叩くべきか。二人の巫女は、どのような考えを出すだろうか。
思案する漕島に、千代は意を決したように口を開く。背筋を伸ばし、次期磯魚家当主として。
「漕島さん、実は……貴方に言ってないことがあります」
「なんだ?」
思い当たることがなく首を傾げた。
「私たちの家にまつわる話です」
「……もしかして、妖怪の子孫だとかいうあれか? ここに来る前に、ちょっと、そういう噂を小耳に挟んだが」
これしかないと漕島は思っていたが、しかし、千代は静かに首を横に振る。
「まるで関係ないわけではありませんが……」
そう前置きして、彼女は話し始めた。
磯魚家の遠い過去から、それは始まる。
「かつて、龍宮城と汐杜は一時的に友好を結んだと言いましたね」
「ああ、聞いた」
「その際に、一人の人間と、一匹の妖怪が尽力しました」
人間の方は磯魚家の嫡男。妖怪の方は、当時、龍宮城を支配していた海神の娘であった。その娘は名を恵姫と言い、乙姫の姉にあたる。
「ってことは、そのときの海神はもう死んでて、代替わりしたのか」
「そうみたいね。私たちも、知らなかったけど。妖怪の寿命は長いから」
ましてや神である。もっとも、ここで言う神とは土地神のことである。なにかしらの理由で、住まう土地から偉大なる自然の生命力を供給される状態にある妖怪、動植物、あるいは人間を指す。なんであれそれは、元の存在を超越した者──即ち神と呼ばれる。こうなると、滅多なことでは死なない。と、漕島は師に教わったことがあった。
先代の死因のことはさて置き、千代がほのかに頬を染めて話を続ける。
「二人は……その……こ、恋仲だったそうよ」
そういう話には免疫がないようだった。
千歳がうっとりとした顔を浮かべた。
「ロミジュリみたいだよねぇ。敵対する家同士、叶わぬ恋!」
こちらはむしろ、そういう話が大好物らしかった。
「で・も。そこを叶えちゃうのが、うちのご先祖様! 流れを変えたんだよぉ、きっと!」
「……まぁそれはどうかわからないけど、とにかく戦争は終わり、友好を結べたの」
現代ではまた敵同士になっているけれど、と千代は自虐的に笑った。
「だから私たちが妖怪の子孫と言うのは間違ってない」
「でもぉ、間違ってもいるんだよ」
「どういうことだ?」
「恵姫様は人間になったの。それで人間の男と結婚した」
「妖怪が人間に……?」
にわかには信じられない話だった。その逆ならば大いにありえる。例えば、幽霊なども妖怪の一種である。もっとも、だからと言って、街中に幽霊が蔓延っているわけではない。死んだ者全てが幽霊に変化するわけではないからだ。幽霊となるのにも、才能、素質が要るのである。
「本当のことです。そしてそれを実現させたのが──神器〝玉手箱〟」
どんな願いでも叶えられる箱だと千代は言った。
それもやはり信じられないことだった。
「私も〝なんでも〟ってのは嘘くさいと思ってるわ。でもそういう言い伝えなの」
続けて千代は言う。
「元々は龍宮城のものです。友好の証に、二人の結婚、そして神器の交換を行ったそうです」
「交換……。じゃあ、汐杜にも神器ってのがあったのか?」
「神器と言えるほどのものではありませんけどね。〝玉串〟って言って分かる? 神事に用いる榊の枝のことなんだけど。我が家にあったのは鎮守の森を操ることができたそうです。もしも汐杜が、磯魚が私利私欲のために玉手箱を使おうとしたら、それで防ぐようにという、決意表明だと伝え聞いています」
漕島は、そこでもしやと思うことがあった。
その感情の機微を察し千代は頷く。
「玉手箱を使うしかない。私は、最早、そう思います。玉手箱の力で龍宮城を滅ぼす」
「ちなみに封印は、磯魚家の人間ならいつでも誰でも解除できるよぉ」
決心が、千代からは見てとれた。波の眼がない漕島でもわかるほど確かな決心が、その双眸には宿っていた。
だが、と彼は思う。
「……確認するけどよ。龍宮城の狙いってのは、玉手箱、だよな? 間違いなく?」
「ええ、それは間違いありません。正確には玉手箱の力でなにかをしようとしている。もっとも恵姫様の血を絶つことも、その次くらいには思っているようですが」
「坊主憎けりゃ、か。危ういところだったな」
もしも逆だったならば、漕島が汐杜神社に来ることはなかっただろう。その前に滅ぼされた。
「考えなしのおばかさんじゃなくて良かったよぉ。あの人たちは、封印なんか後でどうとでもなるとは言ってたけど──わたしもそう思うけど──もしもの可能性は捨てきれないもんね」
千代が「それで?」と漕島の先を促した。
「お前たちを追い詰めて追い詰めて、封印を解かせるのが、あいつらの狙いなんじゃねえか?」
二人の顔色がさっと変わる。その可能性については、まるで考えていなかったらしい。
「今まで神社側に死者が出なかったのもさ、追い詰めるためなんじゃねえか? 殺したことで、弔い合戦の気運を高めてしまうのは怖い。手負いの獣は怖いとよく言うしな」
それに、と漕島は続ける。
「玉手箱を使おうとしたら、龍宮城がすぐに察知するんじゃねえか?」
千代が答えた。
「恐らく。私利私欲で……とは言っていますが、実際は、封印を解けばでしょうね。……でも、時間は掛かるかと。そのうちに願いを叶えてしまえば」
「玉串の効果範囲は? 海底からでも、箱を使おうとする奴を妨害させられるんじゃねえのか? そうじゃねえと、今回でなくとも間に合わないだろ」
千代も、千歳も黙りこくった。
やがて千代が口を開く。
「でも、そういうことなら、どうすれば良いのかしら」
その問いには、漕島も答えられない。結局、振り出しに戻っただけである。
(どうにも……否定ばかりで良くねえな。もしかしてビビッてるのか?)
自己嫌悪に陥りそうな漕島だったが「……そうだ」とある考えが閃いた。
「先に奴らの願いを叶えさせるのはどうだ? そのあとに箱の力で滅ぼす。んでもって、奴らの願いもキャンセルする」
千代が静かに首を振った。
「玉手箱はなんでも叶えられるけど、なんでも叶えられないんです」
「どういうことだ?」
「例えばねぇ、わたしが、秋刀魚が食べたーいって願うでしょ?」
「……食べたいの?」
「うんっ。でね、そうしたら玉手箱は秋刀魚を出してくれる、旬のおいしいやつね。そうしたら今度は、キャビアが食べたいって願うの。箱はそれも叶えてくれる」
けれど。と、千歳は続ける。
「わたしが、永遠の命が欲しいって願うでしょ?」
「欲しいのか?」
「ううん、全然っ。例え話だよぉ。で、それは叶う。でね、そのあとに、お姉ちゃんも同じように願おうとするでしょ? そうしたら叶うかどうかはわからない」
「あー……願い事の内容によって、使われる力の量が違うから……って理解で良いか?」
二人が頷いた。
「だから龍宮城の願いごと次第では、そのあと、なにも叶わなくなるかもしれない。恵姫様が人間になって以来、箱が開けられたことはありませんから、だいぶ力を蓄えているはずですが」
「箱は自然とかの生命力を、ちょっとずつ吸収してるんだぁ。数百年分だから結構溜まってる」
「でも実際のところ、どういう願いなら、どのくらいの力が消費されるか、わからないわ。秋刀魚を食べたいなんて願いでも、全力で叶えてくれるのかもしれない」
「大漁かなぁ」
「なるほどな。……くっそ、いい案だと思ったんだがなぁ」
漕島は机に突っ伏した。
千代がなにか言いたげにするが、それより先に、千歳が「あ!」と叫んだ。
「良い流れが来るよ!」
「流れ……?」
そう言えば、いつだったか、彼女が同じことを言って撤退をせがんだのを思い出した。
あのときはそれどころでなく聞けなかったが、どういう意味なのか。漕島は首を傾げる。
それを見て千代が「忘れてたわ」と言った。
「私たちには、もう一つ、秘密があったわね」
そうして漕島は、二人の青き眼、それがいわば魔眼のようなものであると聞かされた。
「わたしはねぇ、運の流れって言ったらわかるかなぁ? それが視えるっ」
「麻雀とか、ギャンブルで言うあれか?」
「うん、だいたいそんなイメージで良いと思う。自分でもよくわかんないんだぁ。良いもの、悪いものが流れてくるのが視えるから、これがいわゆる〝流れ〟なのかなって」
「それは常に視えてるのか?」
「ううん。視えたり、視えなかったり。って言うか、なにか変化があったときにわかる感じ。こうしたら良くなる、こうしたら悪くなるってのが、それをする前にわかる……みたいな!」
「なんとなくわかった。千代の方は?」
「波が視える。例えばだけど、力が上がったり下がったりするのが視えるわ。あとは感情とか。だから私に嘘は通用しないのよ」
漕島の背に冷や汗が落ちていった。
「あら? なにか後ろめたいことでもあるの?」
「いや、なにも?」
初日にもしも嘘を吐いていたら、どうなっただろう。とは考えていた。
「それは嘘ね。まぁ安心して。思考の中身まで視えるわけじゃないから。嘘を視抜けるのも、経験によるところが大きいもの。焦りや緊張の波形がこうなら、嘘ってね」
「でね、今、ちょーっとばかし、良い流れが視えたんだ」
不意に宿坊の電話が鳴った。慌てて千代が取りに行く。
すぐに安堵の微笑みを浮かべ戻ってきた。
「櫂さんたちが退院するそうよ、今日! 午後に!」
「ほんと!?」
双子は手を取り合って、飛び跳ねながら喜んだ。




