暁の八宝丸(3)
漕島はふと目を覚ました。
東の空が白んできている。
どうやら浜辺で、敵が来ないものだから、そのまま寝てしまっていたようだ。
と、なると。
「神社の方に集中しちまったんじゃ……!?」
その可能性に気付いた彼は、慌てた様子で砂に埋もれた武器を手に立ち上がった。急いで神社に向かわなければ、そう思い、塀を駆け上るようにする。そのとき、目の端になにかを捉えた。漕島は足を止めて、その方向をじっと見る。海、沖合の方。そこに一隻の船の姿が窺える。漕島の顔色が、また別の意味で、青ざめた。どちらにせよ、行く先は神社である。
鳥居が見えるところまで来て、そこにトラックが止まっているのに気付いた。フロント部分に、漁業会の三文字が書いてある。先ほどの船と、思考の線で繋がった。
ちょうど神社の中からも、どたどた慌てた様子で、人影が三つ出てくる。
千代、千歳、そして、ムニエルの漁師であった。
漕島と目が合うと、その漁師は驚きのあまり目をまんまるくする。
「お前、スーパーで会った兄ちゃんか! なんでこんなところに!?」
すぐに、その驚きは疑念の色に変わった。漕島は落ち着いた声で言う。
「俺も、そっちの巫女二人と同業です。所属は違いますが」
「……そうなのか?」
怪しんだまま、漁師が双子に問うた。
それぞれから是との答えが返ってくると、彼は表情を和らげる。
「そうか、兄ちゃんもか。なら問題はねえな! さぁ、とっとと乗ってくれ!」
事情を聞く暇もなかった。
トラックは小型のもので、その荷台は箱型ではなく平坦なものである。荷台に人が乗ることは、基本的に法律で禁じられていることだが、構わず退魔師たちを荷台に乗せて、トラックは走り始めた。
荷台で揺られながら漕島は二人に軽く説明をしてもらう。
「要するに、漁ができないことに辛抱できなくなった人たちが、勝手に船を出してしまったの」
千代の説明は極めて簡潔だった。
「おまんまの食い上げだからな、わからんでもない」
漕島は思った通りのことを述べる。
「一応、補償がでるようになってるんだけどねぇ」
と千歳は苦笑い。
「これが十年、二十年も海に出れないってなってたら、漁師を辞める道もあるだろうけどな」
「いずれ、すぐにでも再開するかもしれない。そういう期待があればこそ、ってわけね」
千代の言に、漕島も頷く。
それから気になってたことを訊ねてみる。
「そっちに妖怪は?」
二人とも首を横に振る。
「そうか。こっちもだ。……妙だな」
「ええ、不気味」
「もうすっかり毎晩の闘いが身に染み付いちゃってるもんねぇ」
三人揃って首を傾げるはめになった。何故、昨夜は井戸からも浜辺からも、龍宮城は来なかったのだろう。遂に首魁から直々に「殺す」宣言までされたのだから、絶対に来るはずだと、誰もが思い覚悟もしていた。約束をドタキャンされたような気分だった。
トラックが港に停まる。ムニエルの漁師──千代曰く「生水さん」──に従うがまま、今度は船に乗り換える。彼ご自慢の八宝丸に掛かれば、沖合の船にはすぐに追いつけるとのことだった。
漕島は船に乗るのは初めてのことだが、いわゆる船酔いの恐れはなさそうである。今朝の波は穏やかなもので、揺れも小さい。それでも車よりは遥かに揺れるものだが。
「問題は」
と千代は顔を曇らせた。
「私たちが行くまでに、何ともないと良いんだけれど」
「ね。お願いだから、見逃してくれないかなぁ」
「案外、あるかもしれないぜ。昨日は攻めてこなかったしな」
「そうね。だとしたら、漁師さんの説得の方が骨が折れるかもしれないわ」
全くもって同意見だと、漕島と千歳は頷く。
八宝丸と先を往く船との距離は、どんどん縮んでいっている。それは、この漁船の推進力が勝っているからではなく、相手の船が停止していたからである。三人ほどで網を下ろし始める姿も見える。そのうちの一人が、八宝丸の存在に気付いたようだった。彼は他の仲間を手招きし、漕島らの方を指差す。それとは別の男が、大きな声を張り上げる。
「生水さん! 今更、止めたって無駄っスよ!」
おそらくは、その男こそ此度の主犯なのだろう。生水さんよりも、だいぶ若い男だった。
生水さんがエンジンを停止させ、赤鬼が如く顔をして運転席から出てくる。
「馬鹿野郎どもが! 今すぐ戻れ! 死にてえのか!」
「戻ったって、このままじゃ飢え死にしちまいますよ! 俺たちゃ漁師なんスよ!? 海に出るのをビビッて、なにが漁師っスか!」
「うるせえ! 俺の言うことが聞けねえのか!」
「そういうのをオーボーって言うんス!」
二人の漁師のやり取りを傍で聞きながら、退魔師らは退魔師らで相談していた。
議題は、如何にして、あの漁師たちを連れて帰るかである。
このまま生水さんによる説得を続けても効果は薄いように思えた。
「となると、力づくか?」
漕島が言うと、千代と千歳も頷く。
「とりあえず、連れ帰ることを優先した方が良いわ」
「だねぇ。今のところは平気そうだけど、いつ妖怪に狙われるかわかんない」
「方法は?」
「まぁ船を接近させて、あっちに乗り込んで、殴って大人しくなったところを八宝丸に」
「あッ!?」
唐突に千歳が甲高い声をあげた。
次いで千代も顔色を変えて船底を睨み付ける。
「戦闘準備!」
誰ともなく放った言葉に従うより前に、三人はそれぞれ臨戦態勢へ移っていた。
漕島は剛槍から布を取っ払い、千代は拳に鉄刺拳を取り付けて、千歳もまた法螺貝を巫女服の袖から取り出す。
その直後、轟く爆音。
「なっ!?」
漕島は目を見張った。
もう一方の船が炎上し、沈み始めている。船員たちは爆風に吹き飛ばされて、海に落っこちてしまったらしく、海面から顔を出し助けを求めている。それを見た漕島は、危険な試みと頭では分かっていても、海に飛び込んだ。ほとんど無意識の行動。義務感に突き動かされたのだ。
本物の海は、先日の異界とは、なにもかも違う様子だった。まず視界が暗い、海面近くでもそうだ。より深く潜ればなにも見えなくなるだろう。また水の抵抗がある。剛槍を地上にいるときのように振り回すことは難しいだろう。兜蟹を船の上に置いてきていたのは、正しい判断だった。目が痛むのは塩の所為か、これは我慢できる。最大の問題は呼吸ができないこと。
(急がねえと!)
漕島は五分が限界だと自己判断する。
目を凝らし、船員を探す。まず一人、見つけた。漕島は必死に足を動かして推進する。
耳に聞こえる、ごぼごぼという水の音。それに混じって、どこかで聞いたような音が聞こえる。それは非常に低い音で、彼は幼き頃に、ビンの口に向かって息を吹きかけて鳴らし遊んだことを思い出した。
それをよくよく聞けば、辛うじて、人の言葉のように聞こえなくもなかった。
(これは……法螺貝か! 芸の細かい奴だな!)
漕島は思わず口元を綻ばせる。
その音色を通して千歳が一方通行に語ってきていた。
「船員は三名のはず! それから敵も三体!」
漕島は奥歯を噛みしめた。この状況で、三体の妖怪、浜辺でなら──そして侍なしなら──問題ないと言える数だが、フィールドは海中なのだ。厳しいな、と漕島は素直に思う。
ひとまず船員の元に、漕島は辿り着いた。爆発の衝撃で気を失っているようだ。ある意味、運が良い。妖怪という非常識を知らずに済むのだ。その男を抱きかかえ、今度は上を目指す。海面に頭を出して、漕島は「ぷはぁっ!」と盛大に息を吸う。そこに浮輪が放り込まれた。
「漕島さん! 妖怪は!? どんな奴!」
千代の問いに漕島は首を横に振る。
「まだ見てねえ!」
答えながら、漕島はロープ付の浮輪に男を嵌め込む。
「よし、引け!」
巫女たちによって、一人目の船員の回収は無事に済むだろう。
漕島は、息を目いっぱい吸い込んで、また海へ潜る。
目の前に、真っ赤な姿があった。
「──んんっ!?」
完全に虚をつかれた形。
しかし漕島が驚愕の表情とは裏腹に、そいつの顔を狙って拳が動く。
躱された。
そして背中に熱を感じる。冷たい水の中でもわかる、熱。肩越しに背後を見遣れば、赤いなにかが海藻の如く揺らめいていた。血だ、斬られたのだ。それから妖怪の姿もハッキリと見た。あの侍ではない。
(こいつ、カニか! カニ人間!)
化け蟹、カニ男などの名でも呼ばれる。全長は平均的な成人男性ほど、真っ赤で、ざらざらした質感の甲羅に全体を覆われている。頭部はまさにカニそのもの、目がぴょんと上向きに飛び出している。鋭い鋏のような両手は、今の瞬間に、首を撥ねることもできただろう。
(それをしねえってことは、そもそも俺を脅かす辺りから考えても、こいつの性格は!)
残忍、かつ、陰湿。獲物をいたぶり愉しむタイプ。
それに相違ないと漕島は直感した。なぶりものにして殺す心算がバレバレだった。背中のものも致命傷ではなさそうだ。
(なら好都合! 殺される前に、残りの二人を救う!)
漕島はカニ男を無視して、目を凝らし、更に二人の姿を捉える。だいぶ下の方に行っていた。炎上する船の様子はどうか。距離はあるものの、完全に沈没する際の影響はどれほどのものか、漕島には想像がつかなかった。渦が生じて、大変な目にあうかもしれない。
急がなくては。
漕島は海水を、攻撃するつもりで力強く蹴った。さながらイカのように、直進する。
それを阻むように、カニ男が現れ、今度は泡を吹き出す。
(やべえ!)
漕島は妖怪・カニ男の吐く泡には、物を溶かす性質があることを思い出した。
右手で水を殴りつけ、その反動で横移動する。蟹はけらけらと笑い声をあげた。
「あの人間を助けたいのなら、俺たちを倒すことだぜ。不可能だけどなァ」
人語を解す妖怪は、甲羅侍や姫様だけではなかったらしい。海は人材ならぬ妖材の宝庫か。
更に、漕島を囲うようにして、他の二匹の妖怪も姿を現す。
一匹は、魚人。全身に鱗があって、人の首から上を魚──クロマグロとそっくり──と、すり替えたような姿をしている。手には三又の槍が握られていた。
もう一匹は、まるでワカメを身体に巻きつけた人のような姿をしている。隙間なくワカメであるから、ワカメが集合して人型を為しているのかもしれない。初めて見る妖怪だった。
漕島はカニ男を狙って、拳より氣を飛ばす。遠当の妙技は、水の抵抗少なく、地上と変わらぬ速度で飛んでいった。だが、またしても躱される。それを漕島は見ていない。遠当を飛ばすと同時に深く潜っていた。遠当は、ただの牽制。漁師二人を目指す。
それを追う三匹。やはり海中での利は彼らにあるらしく、速かった。ワカメ男のワカメが伸びる。漕島は脚を捕えられた。
即座に「フンッ!」と手刀でもって、ワカメを断ち切る。
だがその隙にクロマグロ男とカニ男による連携攻撃。
「ぐぁ!」
二つの裂傷が、漕島の肉体に刻まれた。
カニ男が下卑た声で言う。
「クロちゃんよォ、気つけてくれよ? 人の肉はなぶった方が美味いんだぜ?」
マグロ男はエラをぱくぱくさせつつ答えた。
「お前こそ、楽しみすぎて壊すんじゃねえぞ。人肉の熟成には恐怖が必要だ。海の恐怖がな」
ワカメ男は何も言わない。喋る能力はないのか、単に寡黙なだけなのかは不明。
ある意味、なにを考えているかわからないワカメ男が、最も恐ろしく思えた。
(どうする? 流石に苦しくなってきた。このままじゃ漁師どころか、俺までやべえ)
前門の蟹とマグロ、後門のワカメ。漕島はちらと、船員たちを見遣る。それから上に。人命救助か、呼吸か。迷いは一瞬だった。水を蹴って進む。
「お?」
カニ男が鋏を構える。
漕島が目指したのは、前方だった。カニ男に逼迫して、拳を振るう。カニ男が視界から消える。躱されることはわかっていた。だから元より狙いはそこに大量にある水だった。殴打の反動を利用し後方へ、身を捻りつつ。
「なに!?」
背面を奪わんとしたカニ男に体当たり。
仮にそうならなければワカメ男でも良かったが、文句のない結果だ。
漕島は体当たりから、組み付いて、カニ男の関節を極める。次の瞬間、奴は絶叫した。
「やっぱり蟹は、足の身だな」
冷ややかに漕島は言う。彼はカニ男の両腕を力任せに捻じり切ったのだ。
呆然とするほか二匹。それはひとまず置いて、漕島は船員を目指す。辿り着いたら、まず生存の確認をする。どちらも生きているとわかれば、
「痛かったらすまねえ!」
一方の腹部を殴りつける。寸止めだ。それによって生じた水圧により漁師は急浮上していく。続けて、もう一方も同じくする。海面にまで上れば、巫女たちがどうにかしてくれるだろう。
我に返った妖怪二匹が、漕島を両サイドから挟むようにする。漕島の呼吸は今にも限界だが、倒さずに自らも浮上することは難しいだろう。
そのときだった。二匹の妖怪が、それぞれに奇妙な挙動をしだす。マグロ男はやけに素早くエラをぱくぱくさせ、ワカメ男は胸を掻きむしる。
一体何事だと、漕島は不思議に思うが、すぐあることに気付いた。
(法螺貝か!)
最初の一方的な通話より、ずっとその音は、声ではなく音色として、鳴り響いている。千歳が使う法螺貝には、音色に霊力を込める特性があることは、初対面の際に聞いたことだった。音に乗って拡散する微量なる霊力は、妖怪にとって毒にも等しい。遅効性の毒が、今、少しばかり効いてきたのだった。まさに僥倖、間一髪。
苦しむ二匹を傍目に、漕島は浮上を試みる。
もうすぐ海面、というところで、カニ男が立ちはだかった。泡攻撃である。
それを漕島は冷静に、遠当で相殺する。
そして即座に追撃の遠当を力の限り連打。
「おっ、おおお!?」
カニ男は、そんな叫び声をあげて、海中より空へと撃ちだされた。弧を描き、遥か彼方に着水する音。倒しきることはできなかったようだが、しばらくは戻ってこないだろう。少なくとも、漕島が船にあがるまでは。
「なんとか……なったか……」
顔を出し、新鮮な空気を取り込んだ漕島は、ぐったりとした表情で言った。
「それにしても……磯臭えったらねえな」
いつまで経っても慣れないものだ。
そこに船、八宝丸が近づいている。
「おぉーい!」
船頭で手を振る千歳に、漕島は手を振り返した。
その瞬間、彼の身体が海に沈む。
「がぼがっ!?」
咄嗟のことで、海水を飲み込んでしまう。
驚愕に染まる漕島の目が捉えたものは、足を掴むワカメ男。更に奴は、ワカメを新体操のリボンが如く、しかも水の抵抗を感じさせない動きで振り回し、あっという間に簀巻きを作り上げてしまった。
「久々の人肉! 逃がさん!」
マグロが威勢の良い声を挙げて、槍を振りかぶる。
そこにどぼんっと飛び込んできたのは、千代だった。
彼女は左手で、マグロの突きをいなして、右手から霊力の塊を放出する。まるで遠当である。以前から使えたのか、今初めてやってのけたのか。漕島のものとはやや形状が違い、河豚のように細かな棘の生えた氣泡だった。鉄刺拳を装着していたため、その性質が移ったのだろう。相手にぶつかると氣泡は弾けて、棘が飛び散り、身体の奥深くにめり込んだ。
更に千歳まで飛び込んできた。黒蛸の八本の触手がたちまちワカメ男を捕獲する。悶絶したマグロ男も、だ。彼女の辞書に生け捕りの言葉はない。どろどろの物質と化して、母なる海に戻っていった。
「助かった。マジでやばいとこだった」
船に上げられワカメから解放された漕島がすることは、二人に頭を下げることだった。
千代はやはり「ふんっ!」と鼻を鳴らして、そっぽを向く。
千歳の方は「いいよぉ」と照れくさそうに笑った。
「それで、漁師の方たちは?」
漕島が訊くと同時に、運転席から弾んだ声が届く。
「ほんとによくやってくれたぜ、兄ちゃん!」
その言葉だけで、答えは充分だった。
「みんな気絶していたから、何があったのかもわかっていないでしょうね」
千代が付け加える。心なしか、ほっとした顔をしていた。
漕島は頷く。
「ああ、世の中には、知らない方が良いこともある」
かつて師に言われた言葉だった。
船は急ぎ足で陸に帰る。水平線の彼方に、太陽が赤く輝いていた。




