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暁の八宝丸(1)

 漕島が目を覚ましたのは、昼少し前の頃だった。


 ゆっくりと上体を起こして、辺りを見回す。客間ではないようだ。文机と座椅子があって、その傍には教科書やノート類が積み重ねられている。極めて簡素で、年頃の女の子のような瑞々しさが感じられない。唯一、部屋の隅に、ちょこんと座って(?)いるイカのぬいぐるみだけ──もしかしたら、押入れの中には少女コミックぐらいはあるのかもしれない──が、この部屋の女子力を背負っているようだ。


 隣に千代が寝ていた。彼女の部屋だろうか。


「あー……そうか、昨日は」


 毒で気を失ったことを漕島は、今、思い出した。その毒はと言うと、どうやら身体機能に重篤な問題を残してはいないようである。千歳がなんとかしてくれたのだろう、と漕島は察する。


 彼は立ち上がって、身体を軽くほぐすように動かした。フローリングでなく、畳の上であったのは幸いなことだった。敷布団がなくとも、然程問題はない。これが床だったなら、全身が軋むような痛みを訴えていただろう。


「それはともかく。千代が起きる前で良かったぜ」


 許可なく部屋に入ったと知ったら、さぞや激怒したに違いない。漕島は彼女を起こさないよう静かに部屋を出た。そして居間に行く。千歳がいた。映画を見ていたようだった。画面の中で幾つも爆発が起きている。漕島は静かに腰を下ろした。千歳は、彼をちらと見ることもせず、言った。


「おはよぉ」

「ああ、おはよう」

「具合はー? 闘える?」


 まず心配するのがそこなのか。とは言え、漕島はお客様などではないのだから当然である。


「大丈夫だ。助かった、ありがとう。この恩は必ず返す」

「んふふ。いいよぉ、これから大変だと思うからぁ。そのとき頑張ってくれれば」


 井戸の封印は、これで完全に解かれてしまった。今夜からは、井戸と浜辺、どちらからも敵が来ると考えるべきだ。神社の総力は、たったの三人、大変なんてものではないだろう。しかし援軍を頼むにしても、一日や二日では来ないだろう。最低でも三夜は、どうにかしなくてはならない。


 漕島はばつの悪い思いを抱いた。


「……そういや、浜辺はどうなってた?」

「んー、漕島さんが来た日と同じくらいかな。一回は押し戻したのがチャラになっちゃった」


 まだ砂浜──人間の領域──が残っているだけマシと見るほかなかった。


「磯魚姉の具合は?」

「打撲とー、擦り傷かな。骨とかは平気。治癒符と湿布ぺたぺたしといたら、二三日で痛みは取れると思う。入院もいらなーい」


 治癒符は、その名の通り、治療のための呪符である。そして呪符と、は霊力に反応し様々な効果を発揮する道具、霊具の一つ。この霊具というものの中には、漕島でも使うことのできるものがある。発動者の霊力に依らないタイプ、つまり前もって製作者の手によって霊力が込められているものがそうである。しかし、それらは高価である。漕島には解毒剤で精一杯だった。


「マジか。頑丈だな。結構な力でやっちまったんだが……」

「あはは。わたしもー、あのときは正直、死んじゃったかなって思ったよぉ」

「それは……すまなかった」

「いいよぉ。あいつにあのまま斬られてたら、生きてても、しばらくは入院しなきゃだし」

「誰が?」

「おとう様と、おかあ様」


 漕島は納得した。何故、あのとき、千代は一目散に奴へと向かっていったのか。首魁であろうとなかろうと、きっと、そうしたに違いない。仇なのだ。千代が馬鹿なのではなかった。


「だから、二人が一番、入院が長いかなぁ」


 一方で千歳からは、感情の制御が上手だからか、そういう雰囲気はほとんど見受けられない。おっとりしているからだろうか。それとも千代が取り乱すから却って、ということだろうか。


 業界内では、異能力があればそれだけで、優秀とされる風潮がある。つまりここの場合、千代あねより千歳いもうと。しかし、それを抜きに精神面で比較しても……。漕島はふとそんなことを思った。


 他人の男ですら思うのだ。


「ご両親、早く帰ってくるといいな」

「うんっ」


 漕島は立ち上がった。


「ちょっと買い物に行ってくるわ。昨日言ってた豚汁」

「え、でも、病み上がりだし今日は無理しない方が……」

「いやいや、そのくらい大したことじゃねえさ」


 千歳は少し考えてから「じゃあ」と言った。


「わたしもついていきますっ!」

「姉が心配するぞ。起きたときに、いなかったら」


 一瞬で撃沈させられ、千歳はがっくし項垂れる。


「それじゃあ、行ってくるぜ」

「むぅ……いってらっしゃあい」





 漕島が出掛けてから、しばらく後のことである。


 千代は唐突に目を覚ました。起き上がろうとして、全身に痛みが走る。両腕で身体を抱き悶絶した。それがおよそ治まると、彼女はよろよろと覚束ない様子で立ち上がり、居間へ向かう。


 千歳が「お姉ちゃん!?」と、慌てて駆け寄り、千代を支えるようにした。


 千代は笑みを浮かべる。


「大丈夫よ。もう、そんなに痛くないわ」


 筋肉痛よりもずっと痛かったが、千代は妹の手前そう言った。


 千歳には、姉のような眼はないものの、それが無理をした言葉であることは、その青白い顔から一目瞭然だった。とにかく姉を座らせて、千歳は飲み物を取りに行く。


 その間、千代は疲れた息を吐いて、テレビのチャンネルを回す。


「はい、麦茶だよぉ」

「ありがとう」


 戻ってきた千歳が、目の前に置いたそれを、千代はぐいっと一気に飲み干した。思いのほか、喉が渇いていたようで、それでもまだ満足いかないくらいだった。千歳は麦茶を溜めた容器ごと持ってきてくれたらしく、すぐさまコップに二杯目を注いでくれた。それも一気に飲み干す。続けて三杯目も飲んでようやく、千代の喉から渇きが癒えた。


 千代は潤った唇を開く。


「漕島さんは?」

「お買いもの行ったよぉ」

「そう」


 千代の表情は複雑なものだった。


 彼に対して怒りをぶつけたい、そういう気持ちがまずあった。彼の言葉に乗って、今まで以上に厳しい状況へと追い込まれてしまった。そのことを責め立てたいという気持ちが、起きて、まず、あった。しかし、その肝心の男は、今いない。そうすると少しは冷静にもなって、怒りも萎えてくる。肩すかしだ。運の良い男だと、千代は思った。


「……そうだ」

 千代はなにか思い出したように言った。

「千歳は、どこも怪我してない?」


「うん、わたしはちっとも」

「なら良いんだけど。……あと〝流れ〟はどう?」


 千代は、昨晩の撤退時を思い出して訊いた。意識は朦朧としていたが、彼女が流れが悪くなったというようなことを言っていたのは、確かに記憶にあった。


「あー……」

 千歳はなにやら微妙な笑みを浮かべた。


 千代の眼にも、表情と同じく、迷うような感情の波が視える。なんて言ったものか、考える者の波状グラフである。千代は思わず身構える。


「今は、まぁ、大丈夫だと思う」

 と、千歳は答えた。


 嘘を吐いている様子はない。


「……良かった」


 そして充分に安堵できる答えだった。まだ敗けは確定していない。ここから先の手を間違えなければ、敗けることだけは避け続けられる。いや挽回も可能かもしれない。〝流れ〟さえ引き寄せられれば。そのためには新たな方針、それが必要だ。


 まず、どうするか。


 千代は妹に自らの考えを述べた。

 千歳は驚いたように目を丸くする。


「辞めさせるつもりなのぉ?」


 千代は、漕島清輝の解雇を第一に、挙げたのだった。


「今回の作戦を立てたのは、あいつよ。失敗したんだから、そういうことも考えなきゃ」

「うーん……でもぉ……」


 千歳の感情に疑念が増加するのを視て、千代は内心に細波が立つのを感じた。麦茶を口に含んでから、ごくりと一息に飲み込む。喉を通り、胃に冷たい塊が落ちると、気持ちも落ち着くようだった。だが苛立ちは確かに、彼女の胸の奥でゆらゆら揺れているのだ。波とまではならなくとも、心の水面は揺れ続けている。


「別に、今すぐ帰れとか言うつもりはないわ。次の人が来るまではいてくれないと、困るもの」

「……うん」

「その間に、もしかしたら、解決するもかしれないし……」


 白々しい言葉だった。千代自身、そんなこと欠片も思っていなかった。漕島の代わりが来るまでに、およそ一週間は掛かるはずだ。その間に、事態を好転させられるなどと、淡い期待を抱けるはずがない。千代、千歳、漕島、この三人での闘いは、もう底が見えたも同然だった。これは、勝ちに向かえる組み合わせではなかったのだ。流れを変えることはできなかった、事態の悪化を招いただけ。


(次も、期待はしていない)


 根なし草が来るとすれば、尚更だ。だとしても、時間を稼ぐことはできるだろう。父や母、それから昔から磯魚に仕えてくれる三人の退魔師たち、彼らが回復するまでの時間稼ぎ。

 それさえできれば。


(……できれば、なんだと言うの?)


 千代の考える先に、勝利のビジョンは何一つ浮かんでこなかった。


 当然である。彼女のそれは、言うなれば、ただその場しのぎに躍起になっているだけなのだ。


(いや、大丈夫!)

 千代は首を横に振った。

(そう、悪い流れに乗らなければ、まだ、大丈夫)


 自らにそう言い聞かせ、少しでも不安を拭おうとする。


 対して千歳。


 彼女は、漕島が必要だと感じていた。彼の存在によって、自分たちは海底へ行ったし、そこで、悪い流れに変わろうとしたのを視た。それでも漕島が必要なのだ。


 千歳と〝渦の眼〟とは、物心ついてから考えても、十余年の付き合いになる。その中で彼女は〝流れ〟について、一つ、わかったことがある。流れを変える者が悪いから、そのような流れになるのではないのだ。彼らは小石に過ぎない。川に投げ込まれる小石自身に、川をどちらへ向かって流れるようにするか、決めることができるだろうか。あるときには流れを悪くするかもしれないが、次の機会には、良い流れにしてくれるかもしれない。


 経験的に、そのことを理解していた千歳は、漕島清輝という小石を手放したくなかった。


 上手く言語化できなくとも、なんとか姉には、そのことをわかってもらおう。


 そう思って口を開いた瞬間──、巫女二人に電流が走る。慌てて自室に向かう。


 侵入者──ほぼ間違いなく龍宮城の者だろう──が、神社の敷地内に入り込んだ、その気配を察知したのだった。退魔神社ならばどこでも、警報装置代わりの結界が張られており、所属する者はその身で知ることができるようになっていた。


「千歳!」

「うん!」


 二人はそれぞれの自室で武器を手にしてから、外へと飛び出していく。果たして、初日のときのように境内に妖怪が溢れていた、なんてことはなかった。昼の静けさ。まさか、結界が誤作動でも起こしたのか、とも思ってしまいそうなほどだ。二人は顔を見合わせ、互いに頷いた。


 そして、抜き足差し足、ゆっくりとした足取りで、井戸のある方へと向かう。拝殿の横にまで来たとき、人の話し声らしきものを耳に捉えて、千代は足を止める。千歳を手で制した。そして建物の陰から、拝殿と本殿の間にある通路を覗き込んだ。


「あっ!」

 と思わず声をあげてしまいそうになるのを、ぐっと堪える。


 そこにいたのは、あの侍と、まるで雛人形のような女の子だった。侍は女の子に寄り添うようにして立ち、女の子の方は本殿の扉にそっと手を置いていた。あの女の子こそ、龍宮城を率いる妖怪の首魁なのではないか。千代はそのように思った。妖気の波が、侍とも違う。そこらの妖怪とも違う。


 顔を引っ込めて、千代は考える。


(やっぱり龍宮城の狙いは……うちにある〝玉手箱〟で間違いないようね)


 それは汐杜神社の預かる、神器とも呼べる代物だった。ただそこにあるだけで、周囲からエネルギーを収集し、蓄えた力でもって、願いを叶えてくれる超常の箱である。


 千代は、まさかなんでも叶えられるわけではないだろう、と高を括っているが、そのような個人的な考えはさておき、誰にも明け渡してはならず、汐杜神社(じぶんたち)で使うことも、決して許されないと磯魚一族の掟で決められている。


 未開の箱でなくてはならない。そのため、他所には情報が漏れないよう──本庁でも知る者は僅か──にしているし、本殿に仕舞い込んで、厳重なる封印を掛けてもいる。だが、封印に絶対のものはない。人にしろ、妖にしろ、絶対的な封印を解くための技術や能力が、今後も生まれないとは限らないのだ。


(だから、これを狙う者は絶対に退けなくてはならない。玉手箱の守護は汐杜に生まれし者の使命なんだから。……今ならいけるかしら?)


 相手はただの二人。千歳の能力を使えば、一瞬だろう。千代はそう思い、千歳にそっと耳打ちをする。彼女はこくりと頷いた。そして二人揃って、物陰から飛び出して行き──、


「いないよっ!」

「どこ行った!?」


 青ざめる千歳と千代。

 背後に気配を感じ、ハッと振り返る。姫と侍が、そこにいた。


「ガタロウ!」

 千代は咄嗟に、千歳を庇うように前へ出る。


 同様に沫太郎ガタロウは姫の前に立ち、抜身の刀を構える。


 ツバキ姫が「うふ」と笑った。

 その顔立ちを真正面から捉えて、巫女二人はそれぞれの内心で姉妹を重ねた。


「妾がツバキ、龍宮城の主よ。昨夜は、ろくにお構いも出来ず、申し訳ないことをしたわ」


 そう言ってツバキ姫がちょこんと頭を下げる。


 千代が鼻を鳴らす。波の眼は誤魔化せない。

 ツバキの心中では怒りや憎しみめいた情念が、荒れ狂う波の如くだった。


「それで? わざわざお構いに来たくれたってわけ? それこそ、お構いなく、だわ」

「違うわ。闘うつもりはないわ。妾のものを()()()貰いたくて来たのよ」

「……それって、玉手箱のこと、だよね」


 千歳が警戒心の籠った声で訊きかえした。

 ツバキの表情が、ぱっと明るくなる。


「ええ! 今までは興味なかったのだけれど、少し必要になったのよ。元々、()()()()()()()なのだし、異論はないでしょう?」

「ふざけないで!」


 という千代の声に、侍が怒鳴り返す。


「ふざけているのは貴様らでござろう! 聞けばあれは、友好の証に、その方へ授けられたもの。ならば、友好が途絶えた時点で返すが道理でござる」

「はんっ! いきなり襲いかかってきたくせに、道理を説くなバカ侍!」


 更に言い返そうとする侍を、姫が引き止め、代わった。


「ええ、ええ。そのことは、()()()()()()()()わ。まずは書面で約束してから、交渉のための場を設けるべきだったのよね。そういう()()()()()()()()()()()()()わ」

「なにを……」

()()()()()を生じさせてしまったわ。本当にごめんなさい」


 なんて白々しい言葉だろう。つまり龍宮城は、今更、あれは奇襲ではなかったと言うのだ。あくまで会談の申し入れに来ただけなのだと。


「あんなに大量の妖怪を送り込んだ癖に、なにを言うの」


 千代はキッと睨み付けた。

 しかし姫は意に介さないばかりか、袖で口元を隠し「ほほほ」と笑う。


「だって()()は必要でしょう? ()()、その数が()()()()から、怖がらせてしまったのよね」

「浜辺を奪ったのは……」


 仮に、初めの一戦は不幸な誤解であるとしても、その後のことはどう釈明するつもりなのか。


()()()()()()()()

「姫、恐らくは、我らが()()()()()妖怪が行ったもののことでは……?」


 当然、その言葉が嘘であることが、千代にはわかった。わざらしい連中だ。


「あらっ、()()()()()が? 重ね重ね()()()。妾たちとは()()()()者がやったことだけれど、同じ海に棲む者、いえ、この海域が長──海神として謝らなくてはならないわね。()()()と言ってはなんだけど、()()()珊瑚や真珠を持ってこさせるわ。何なら、これから毎年、貴女たちが亡くなるまで、ずっと」


 だから──と、ツバキは妖気をにわかに膨らませる。


「玉手箱、()()()? 貴女たちなら、この封印を解けるのでしょう?」


 千代は殺意の波動を感じ取った。もしも解こうものならば、必ず、殺される。

 故に即答する。


「断る」


 侍が刀に手を掛けながら、低い声を出す。


「今まで、姫が貴様らを殺さずにおいてやったのは、ただ恩情があったからでござる。ただ一人の姉妹である、エキの子であるから。このような封印など、貴様らを殺してから、ゆっくり解除の方法を探せば良いでござるよ……?」


 そのような脅しに、千代は元より、千歳も屈することなかった。

 やがてツバキが溜息を吐きながら、かぶりを振る。


「残念。じゃあ、貴女──千代と言ったかしら──貴女、うちに来なさい」

「は?」


 なにを言っているのか、その真意がまるでわからなかった。

 殺意の波も、低くなっている。対して盛り上がるのは、同情心だろうか。


「妾の配下になりなさい。きっと、()()()なれるわ。だって貴女、妾と()()()をしてるもの」


 あるいは共感。いったい、なにに対してだろう。

 千代は訝しげな目を投げかける。


 姫はニコニコと笑いながら続ける。


「貴女、そこの()のこと、()()でしょう? 妾()()が嫌いなの」


 千代はいつになく動揺し、僅かに片足を引いた。

 それを誤魔化すかのように、


「ふざけないで!」


 と襲い掛かろうとする千代を止めたのは、その袖をぎゅっと掴む千歳だった。

 だから代わりに千代は叫ぶ。


「勝手なことばかり言って! なんのつもり!? お前たちの味方になんてなるわけない!」


 ツバキはくすくす笑っていた。


「あら、それもダメなの? 困ったわ、本当に貴女たちを殺さなくてはならないみたい」


 そして甲羅の侍を牽制に使いながら、鎮守の森の奥へと姿を消していく。


()()()()()()()。……あの女の子孫を殺すはめになるなんて」


 そんな言葉が最後に聞こえた。

 千代は内心で吐き捨てる。むしろ嬉しそうに視える、と。

 そして悔しげに歯噛みしながら、地団太を踏んだ。


「なんなのよ、あの女……!」


 妹のことが嫌いなんて、そんなこと、あるはずない。


(そうよ、あるはずないのよ。私は、お姉ちゃんなんだから)


 その顔を、千歳が心配げそうに覗きこむ。


「お姉ちゃん?」


 千代はハッとした。


「千歳、あいつの言うことなんか、気にしちゃダメよ?」

「……わかってるよぉ」


 一番、姉が気にしていそうだとは言わないだけの分別が、千歳にはあった。


 二人で家に入ろうとしたとき、買い物袋を引っ提げた漕島がちょうど帰ってくる。彼は一目で、二人の様子がおかしいことに気付いたらしく、真剣な顔で訊ねてきた。


「どうした?」


 千代は、先ほど龍宮の姫に向けたものよりも、強い視線を遣る。色んな気持ちが溢れそうになっていた。怒りや、悲しみ、恥ずかしさ。しかしそれを吐露することは、許せない。


「アンタのせいよ!」


 そう八つ当たりすることが精一杯で、千代はそそくさと自室に引き籠る。襖を閉じれば、その場にへなへなと座り込んで、膝を抱えこんだ。悔しさで一杯だった。感情を律することもできないほど、妖怪なんかに心を波起こされてしまっていた。


(そのうえ八つ当たり……最低……。嫌いよ、ほんと、大嫌い)


 涙が一つ、零れ落ちる。

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