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イグニフィリアのゆりかご  作者: 江竹 郁花
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一角獣の月...入学式Ⅰ




 馬の蹄の響き、御者の振るう鞭の撓り、車輪の回転する軋み。それらを心地良く聴きながら、彼女は窓から差し込む暖かな日差しにまどろんでいた。あふ、と欠伸を噛み殺す。いけない、と思いながらも、堪えきれず繰り返す欠伸を手のひらで隠した。

 彼女はサリ・ヴェ・エルフェニウス。このレギュスト国のリスタ王の唯一人の娘。齢はもうすぐ十六。賢妃と誉れ高い麗しき王妃リシスの面差しに似て、その姿は可憐で愛らしい。国民にも妖精のようだと称えられ崇拝者も多く、新聞にその御姿が載った日などは販売部数が跳ね上がると評判だ。隠し撮りの写真が高値で売買されているという実しやかな話まである。まるで今流行りの舞台女優やオペラ歌手のような扱われ方だが、彼女はいずれ女王として起つことが定められた、この国で最も高貴な姫君である。

 だが、その貴き生まれも春の陽気には形無しだ。しっかりしなければと自らを律しようとすればするほどに、睡魔が彼女を夢の世界へと手招きする。こくり、こくりと頭を揺らし、白旗を掲げて船をこぎ始めたその時、

 窓の向こう前方に人影を見つけ、サリは目を瞬かせた。

 景色が流れる窓の外に注視する。長閑な田園風景を真っ直ぐ切り分ける一本道。舗装されていない小道の端を歩く、ひょろりと背の高い男。ピンと伸びた背中、艶のない胡麻灰色の髪の色。そして、馬車が彼の脇を追い抜く際に見えた、その横顔は。


 間違いない、あの偏屈な顔。


 サリは嫌なものを見た、と言わんばかりに眉根を寄せた。見て見ぬふりをして通り過ぎるに任せた。目を伏せ唇を引き結び、まるで歯痛を我慢しているような顔で堪えた。

 堪えていたのだがそれも十数秒の間のこと。サリは良心の呵責に耐えられず小さく溜息をついた。御者に停めてちょうだい、と声をかけ、再び溜息をこぼした。それから大きく息を吸い込んで、まもなくピタリと停止した馬車の扉を自ら押し開け、来た道を振り返った。彼女の緩く編みこんだ髪のひと房が肩から落ちた。

 視線が、絡んだ。 

「何故こんなところを歩いているの、馬車はどうしたのよ」

 自然と咎めるような声音になった。それに気づいて、サリは取り繕うように咳払いした。

「何かあったの」

 努めて案じるような表情を作って見せたのだが、相手は不機嫌そうに顎を少し持ち上げ、目を細めて返した。

「大したことはございません、途中で車輪が外れた、それだけでございます」

 抑揚のない、低く唸るような声でそう言い、気にせず行ってくれと続けて一礼した。

 サリの唇の端に失笑が漏れた。既に取り繕う気も失せた。

 予想はしていたけれど、とサリは馬車を止めたことをひたすら後悔した。この男の血肉は慇懃無礼という言葉で作られているに違いない、と奥歯を噛みしめる。己の身分や貴き生まれを盾にしたりひけらかすような真似は絶対にしない、普段はそう努めているのだが、彼に会う度話す度に思ってしまう。

 この男は、国王の娘を、後に女王となる私を、一体何だと思ってるのか。

 そうとも、昔からこうなのだ、この男は。最低限の礼儀はする、するのだが、敬いなど欠片もないその態度。公の場では膝を折って跪きもする、だがそれだけだ。父王に対するような礼節や敬意がまるでない。

 つまり、姫だから、次代の王だから礼はするが、私はお前など認めない、というあからさまな侮蔑。

(たかが荘園管理をしている貧乏貴族の息子のくせに!)

 サリはそう叫んでやりたいのを笑顔で誤魔化して、そう、それじゃ、と扉を閉めた。行って、と御者に伝えて座椅子の柔らかな背もたれに体を埋める。

 疲れた。一日の始まりに、新しい環境の始まりに一体何の試練か、とサリは本日何度目か知れない溜息をついた。

 男の名はシダ・ヴェ・ゲルガナ。過去に宰相を幾度も輩出した、由緒あるゲルガナ家の嫡男だ。

(そう、歴史とプライドだけは無駄なほど抱えた没落貴族の筆頭、あのゲルガナだ)

 サリは渋い顔で目を伏せた。

 このレギュスト国に現エルフェニウス王朝が興る前から権勢を振るい、常に時の権力者の傍らに寄り添って土地と財産を肥やしてきた一族。なのにどこで采配を間違えたのか、数代前から地位も財産も少しずつ、何もかも削ぎ落として、一時は食べることにも貧窮する有様だったらしい。だが十数年前、サリの父にして現国王リスタ王と、彼の父でありゲルガナ家の当主スニ・ヴェ・ゲルガナが同じ学び舎で同級として学んだ縁で、放置されていた小さな荘園の管理を任された。以降、彼ら一族は表舞台から退き、そこに移り住んでひっそりと暮らしている。

 けれど、とサリは瞼を持ち上げる。彼らの困窮を救ったのは父王の慈悲だが、それは諸刃で、彼らの矜持を著しく傷つけたであろうこともまた事実だ。

(父はお優しい方だが、どうにもそういう気配りだとか、つまり配慮に欠けているのだ)

 年に数度、貴族の義務として、式典に出席するために登城するゲルガナの当主とその嫡男。一昔前の流行の礼服、農民のように浅黒く日焼けした肌、ごつごつとした荒れた手。周囲からの聞こえよがしの嘲笑と、親子達の感情の及ばない暗い双眸。

 遠い昔、贅を尽くして美しく着飾った幼いサリを、鋭い目で見据える質素な成りの少年が、そういう境遇にあると乳母に聞かされたのは、一体いつのことだったか。自分よりも幾つも上に見えたその少年が、自分と同じ年齢と知ったのは。

(それに)

 サリは溜息を落とす。今日はまだ始まったばかりなのに嫌気が差すほど溜息ばかりだ。呪われているのではないか、とまた溜息を吐いて、もう一度御者に停めてくれと頼んだ。

(……零落していく貴族は、ゲルガナに限ったことではない)

 そう、例えば。


 このエルフェニウス王朝ですら、明日も知れない。


 次代の女王陛下と誉めそやされても、私が最後の王に、いや王位に就けるかどうかも怪しい。そんな私が、彼の何を罵れるのか。

 サリはもう一度馬車の扉を開けて、だいぶ離れてしまった彼に向けて声を張り上げた。

「お乗りなさいな、行き先は同じなのだから」

「結構です。そんな恐れ多い」

 即座に返されたのは棒読みの台詞。遠く離れていても彼の声はよく通った。

(……前言撤回、あの男の性格と態度の悪さについては罵る権利があると思うわ)

 サリは口の端を引きつらせたが堪えた。大丈夫、腹立たしいがもうだいぶ耐性はついている。幼い頃からあの顔と突き合わせているのだ、慣れはしないが我慢はできる。そして対応の仕方もわかっている。

 サリはもう一度声を上げた。それはもう怒鳴り声に近かったが、もうどうでもいい。知るものか、こんなやりとりは顔を合わせる毎の風物詩だ、この男に今更何を取り繕う必要があるというのか。

「私が乗れって言っているのよ、これは命令よ!」

 そうとも、盛大な舌打ちが聞こえようが知ったことではない。無視に限る。いかにも嫌で仕方ないとのろのろ歩くのならこう言えばいいのだ。

「早くなさいよ、私を遅刻させたいの!」









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