5
「待ってください!」
母親と私が歩き出そうとしたその時、それまであまりの光景に呆然となっていたジェネが鋭い声をあげながら前に回りこむ。
「お二人で向かわれるには危険です。私が先に」
「いいえむしろ逆よ? ジェネシズ下がっていなさい」
キッパリと断る母親。私は訳が分からないまま、しかしきっとこの意見の方が正しいと直感で思う。
「ジェネ、大丈夫よ。待っててくれる?」
「しかし、ショーコ……」
前精霊姫の命令を聞くべきだろう。だけど私の身を案じ、躊躇いと心配という感情が私を見る目で伝わる。そんなジェネに、私は安心させるように一つ頷いてみせた。
その様子を見ていた母親は、ニッタリと人の悪い笑みをしたけど見なかった事にする。
…… ああ、後が怖い。
改めて、行くべき場所へ向き直った。
真っ暗に淀んで人を拒絶する意思があらわな、王太后の寝室。今でさえ気配が重く辛いのに、そこに向かえるのかどうか……。
そんな私を勇気付ける為か「私が付いているから。一緒にね?」と母親が肩を叩いた。
「じゃ、行ってきます」
決意を込めてジェネに一言残し、私はその部屋へ一歩、一歩と近づく。
…… 苦しい。濃い闇が圧し掛かり、足を動かすたびに足が、肺が、悲鳴を上げる。滲む汗が目に入ったけど、払う事すら出来ずにいる。
しかし母親は何故かケロリとして、すでに扉の前へ立っていた。
「は、ぁ……、お、母さん。どう、して、そんな平気、なの?」
息も絶え絶えになりながらも聞くと、一旦目を伏せたあと複雑な表情で笑った。
「私にはもう精霊の力がないから」
―――― だから、闇の力の影響力もさほどではない。
それってどういうこと?
何度目かの疑問が浮かんだけれど、それは後で聞く他ないだろう。口元まで出かかった言葉を無理に飲み込んだ。
私が追いついたのを見た母親はドアを二度ノックした。
「ね…… いるんでしょタチアナ。開けるわね?」
返事を待たず勢い良くドアを開けると……。
マルちゃんの部屋よりもより瘴気が満ち、どろりと淀むその空気は『妬み・恨み・嫉み』という負の感情がむき出しに表れていた。目には見えないけれど渦巻くそれらは、私の心に容赦なく突き刺さる。
痛い! 苦しい! …… 熱いっ!
例えるならば、ドロドロの溶岩がお腹に溜まりながら暴れて周囲を溶かしているかの様だ。
―――― これほどまでの感情を溜めていたの? 王太后様は……。あまりに強い感情、そして感じた事のない荒れ狂う黒い欲望に、私は悲鳴を懸命に堪えた。
その主はと探すと、闇の深淵に沈む王太后の姿が見えた。意識は無く、上半身だけ辛うじて床から出ているけれど飲み込まれるまでには時間の問題だ。
「お、王太后様っ!」
マルのお母さんが消えてしまう! と、今にも潰されてしまいそうな体を引きずって近づこうとした。しかし、「ダメ! 近寄っちゃいけないわ」と止められた。
「でもっ」
「下手に近寄ったところで一緒に飲まれるだけよ。それよりも翔子にはすることがあるでしょ? 私は時間稼ぎするから任せて。出来るだけ引き伸ばすから…… タチアナが全て飲まれたら、闇の暴走が始まる。その前に『決めて』ね?」
そして私の一歩前へ出て、王太后に向け声をかけた。
「タチアナ……? 私の声聞こえる?」
それはひどく優しい声だった。ゆっくりと語りかけるように続ける。
「私よ、リィンよ…… うーん、久し振りすぎて忘れちゃったかしら?」
もう一歩、進む。息をすうっと吸い込む音が聞こえた。
「―――― 起きなさい! どこまで自分に甘えてりゃ気が済むの?!」
どこにそんな覇気が隠れていたかと思うほど、張り上げる声はビリッと空気を切り裂く。
すると…… 王太后の瞼がピクリと僅かに動いた。完全に意識を飲まれているわけではなさそうだ。そして飲み込まれる勢いもほんの少しスピードが落ちる。
私は、私の出来ることを。
緩んだ今の内に、四人の精霊に命を下す。お願いではなく、初めて指令をした。光の精霊も一度だけの助力を約束できているので、その旨も伝える。
そして、後は私の問題。
すでに一歩も動けず跪き崩れそうになる上半身は、床に手をつき両腕で支えていた。黒い感情に翻弄される心を叱咤しながら、なんとか王太后を飲み込む闇を見やる。
そこには、光と同じ三歳児程度の大きさをした闇の子が私をじっと見ていた。黒い涙を流しながら必死に『助けて、助けて』と口を動かしている。きっと本人も制御できないほどに育った闇の力に恐れをなしているんだ。
はやく、しなきゃ!
「父親から政略結婚の道具にさせられて、王妃になったタチアナ……。欲しい物はすぐ手に入り好き勝手してたわね? そう、物だけは。…… 無関心な振りするのやめなさいよ。あんたこんなに闇が膨れ上がるまで腹に溜めてたんでしょ? せめて小出しにすれば良かったのにね。」
母親の言葉には、後悔が含まれているように私は感じた。もっとああすれば、こうしとけばという自責の念。その声により王太后の周りの黒き渦は大きなうねりとなり範囲を広げた。
―――― コレは一体?
俄かに変化が訪れた。悪い方へと。
「…… リ、ィン……」
小声で掠れて聞き取りづらい囁きが漏れた。そちらの方へ視線を向けると、僅かに開いた王太后の相貌が見えた。しかしそこに映る感情は…… 怒り。
「タチアナ?」
「今、更、何をしに来たっ!」
黒い涙を流し、怒りの声をぶつける。抜き身の剣を突きつけられたように私はゾクリと体を震わせた。
「そりゃアナタと向き合うためよ―――― 今更と言われても、これはやらなきゃいけないことだわ。お互いに」
「お互いに? ク、ククッ。―――― お前はいったい何様のつもりでこの私に口をきいているの? 道端に転がってるような薄汚い田舎娘が運よく馬鹿な精霊達を手懐けたからって、精霊姫を名乗るなどおこがましいのよ!」
王太后はおかあさんが精霊姫だった頃を、自身に抱えていた黒い感情をむき出しにして責める。
「私は…… 私はお前が憎い! 大戦のさなかいつの間にか現れて精霊姫を名乗り、英雄であるクランベルグを惑わし、あまつさえ子供などっ……!」
目からは闇の子と同じ様に黒い涙がとめどなく流れ落ちる。
「お前に私の気持ちなどわかる訳がない!」
「そうよ、わからないわ。わかってたまるかってのよ! アナタ相当甘ったれね。『ズルイズルイ』言うだけの単に子供じゃない。アナタさ、自分で何か努力した事あった? 宰相の娘であり王妃としての立場なら、色々出来たはずよ?」
「―――― 私に何が出来たというの? 私はただお父様の道具でしかなかったのだから! それでも本来なら私が…… この私が全てを手に入れるはずだったのに。お前が現れたばかりにクランベルグも精霊達も…… 何もかも手に入れてっ!」
「アナタがアルゼルを気に入っているのは知っていたわ。だから何? 自分から行動一つ起こすことなく黙っていたら何も始まらないのよ? ―――― どこまでお子ちゃまなんだか」
「私は好きでもない男に無理矢理に嫁がされて、子を生せぬとお父様に責めたてられて…… そればかりか、王はあの卑しい洗濯女に子まで生ませてっ。…… そんな屈辱に耐えていたのよ? なのにお前は全てあっさり捨てて逃げたじゃないの! あの人も、精霊達も何もかも!」
ふ、と王太后の目が危険な色を灯した。
「もう遅いのよ…… 何もかも遅いのよ。お前など、この国はもはや必要としていないの。不要でしかないお前は闇に飲み込まれて消えてしまえばいいのよ!!」
怒りの感情に身を任せたままに、手を振り上げて黒く淀んだ黒い塊を母親に投げつけてきた。
「おかあさんっ!」




