1 対峙
私はまだ陽が昇らず薄暗いなか目を覚ました。すうっと息を吸い込むと、澄んだ清浄な空気が入ってくる。
朝の、匂いだ。
もそもそと起き上がり、持っている荷物の中から男物の服を取り出した。濃紺の綿のシャツを着て、生成りのズボンを履く。上下の服を革のベルトで締め、皮のブーツは紐で編み上げた。
仕上げに―――― 背の半ばまである髪をゴムで無造作にひっつめる。
それから水を一杯飲んで、いつもより大きく深呼吸。パンッと両頬を叩き気合を入れた。
中庭に続く腰高窓を開けて、それ程高さもない窓枠に手を置き、足を引っ掛けて降りようとしたら、薄暗くてずるっと手が滑った。
「わっ!」
ぎゅっと目を瞑って落ちた衝撃に備えたけど、何故かふわりと抱えられる。
…… 抱えられる?
「おはよう、ウンノ」
「きゃ…… ジ、ジェネ?」
危うく悲鳴を上げそうになった所を慌てて手で押さえ、声の主に目をやるとジェネシズが私を抱えてくれていた。腰高窓の下背を壁に預け、座っていたジェネに私は落ちたらしい。
なんで……??
「こうしていると、初めてウンノが召喚されて来た時の事を思い出すな」
穏やかな目を向けながら、初めての出会いを話すジェネ。あぁ、なんだか遠い昔のような気がする…… じゃなくて!
「ちょ、ジェネ! どうしてここにいるの?!」
「こうなる気がしたから。待ってて正解だな」
「いつからここに? ずっと座ってたんですか?」
「ずっと、というほどではないな。会議が終わってからそう時間は経っていない」
でも、私に触れるその手や服はひんやりと冷たかった。初夏とは言え朝方はまだ冷える。会議が終わって、そのままこの窓の下で見張っていたのだろうか。
抱えられたままでは居心地悪く、それに私には行かなければならない所がある。このままジェネとくっついていたい誘惑を断ち切り立ち上がろうと身じろいだけど、体ごと抱えられている為うまく力が入らない。
「下ろして。私ちょっと用事があるんです……」
「用事? 何の」
「あー…… えと、ちょっとそこまで」
「ちょっと? そこまで?」
そういうとジェネは私に顔を近づけて、至近距離で視線を絡ませる。
「どこに行く気だ? こんな早朝、一人で」
深い海の底の色をした瞳。私が大好きな瞳。
私がこれからどこへ何をしに行くか、ジェネは予想はついているようだった。
だからといって、止められる訳には行かない。
「―――― いいじゃないですか、私の勝手です。大丈夫です。だから離して下さい」
「駄目だ」
堂々巡り……。
ジタバタしてみても鋼のような腕はびくともせず、しまいには抱えられたまま立ち上がってしまった。 うわわわわ、お姫様抱っこ……!
「では俺も勝手にさせてもらおう。なに、俺が好きで付いて行くだけだから気にするな」
「気にします!」
「―――― 俺じゃ頼りにならないか?」
それ、卑怯だよ……。
ならないわけない、むしろ全てを委ねたい。でもそうしたら『私』の意味が無くなってしまう。私が行かなくては意味がない。
「それは別の問題ですっ。私は……」
「出来ることならば、このまま閉じ込めて置きたいんだ。すべて終わるまで安全な場所に居てもらいたい。…… だがウンノはそれをよしとはしないだろう? せめて傍に付き守らせて欲しい。目の届く範囲で」
やっと私を下ろしたかと思うと私の足元に片膝を付き、左手を自分の胸へ、右手は私の右手を取りキスをした。
「”私は貴女を守ることを魂に掛けて誓う”俺に守らせてくれ、ウンノ」
手から唇を離し、じっと私を見上げるジェネ。この騎士の礼、ラスメリナの王城でジェネが私に誓ってくれた。それを目の前で再現されて……。
―――― ああ、もうっ。
立ったままだった私は、勢いよくそのままジェネに抱きついた。ぎゅうっと首に手を回して頬を寄せる。
「ずるいよジェネ! 今そんな事されちゃ私……!」
「どうなるんだ? 言ってみろ」
「…… 嫌です」
「では、言う気になるまでこうしてやる」
そう言うとジェネは私の顎を手で捕らえ、私の唇をジェネのそれで塞がれた。
「!」
前にされたキスよりも強引で、荒々しい。
幾度も角度を変え、なぞられ、踏み込まれ。
呼吸もままならず吐息が交わる。四肢に力が入らなくなり、しがみ付くようにしながらジェネを感じていた。奥に怯えるようにしていた私のそれも、いつの間にか応える様に絡ませて……。
おそろしく長くもあり、一瞬だったのかもしれない交差。
唇が離れ、くたりとジェネに凭れていると、ジェネが私の髪をゆっくりと撫でながら私を窺う。
「すまない。…… つい我慢が出来なくて。嫌ってくれて構わないが、俺はどうしてもウンノの気持ちが知りたいんだ」
「き、嫌いな訳ないじゃないっ!」
私が嫌う? 何故そういうことをいうの?! あまりに意外な言葉を聞いて思わず反論した。
「嫌いだったら…… 嫌いだったらこんな事しないっ! 私は……」
「言ってくれ。ウンノがどうしてその先を言えないのかを」
懇願するようなその深い海の色をした瞳に、ついに私は心の底にあった思いを吐き出した。
「だって……。元の世界に戻ったら、絶対またジェネの所に帰れるって約束できないからっ! 言葉を残すとジェネが困る! …… 縛りたくないの! 私なんかに縛られて欲しくないの!」
溜まっていた言葉を一気にジェネにぶつけたけど、すべて吐き出したら高ぶった気持ちは急にしおれてしまう。
「…… でもね、私はここがいいの。ジェネの傍がいい。傍に居させて欲しいの。契約した召喚だから、一度は戻らなきゃいけない。でも、また戻ってこれたら。その時は……」
「ウンノ!」
「きゃっ」
ぎゅうっと抱き締められ、私はジェネの腕の中にすっぽりと包まれた。
「また戻れるよう、一緒に方法を探そう。一緒に、だ。…… だから、俺と共にあってくれ」
一旦体を離し、私の頬を大きくて少しザラッとした無骨な手で沿わせる。
その掌が少しの湿り気を帯びていることに気付いた。。
―――― ジェネも緊張してたんだ。
それが分かり、ますます私の心臓は高鳴る。ジェネの瞳に今映るのは私だけ。
居場所、見つけた。
私を、求めてくれる。丸ごと、求められている。
―――― 嬉しい。
「それでも『今』は私の気持ち、言葉にできません。でも。でもね? 一つだけ…… ジェネ、私の名前呼んでください」
「ウンノ?」
「ううん。翔子って」
「…… ショーコ? ショウコ……」
「私はショーコがいいな。ジェネだけ、私の名前ちゃんと呼んで欲しいな」
「―――― ショーコ」
少し舌足らずに聞こえるわざと言わせた『ショーコ』。その名前がジェネの口から発せられるだけで、私の中の足りないピースがカチリとはまったように満たされた。
両頬をジェネの手で挟まれ、伝わるその温もりに心地良さを感じる。
―――― 最初から、私はジェネに甘えていたのだと思う。頼りにもしたし、姿が見えなければ不安を覚える。だってそれは『好き』だから。
でも今は『好き』と口に出せない我儘を許して欲しい。これも甘え、かな?
「ショーコ。好きだ」
ジェネはその瞳の奥に炎を宿しながらゆっくり顔を近づけ、私は目を伏せて再び受け入れた。