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食堂に着くと、客はすでにいなくなり、厨房の方では昼に向けての仕込みが始まっていた。
「マーサさん! 茶を二人分頼む」
ハルは厨房に声を掛けた。「はーい」と返事があり、暫くしてポットとカップ二つが運ばれてきた。
「はい、お待ちどう! あらっ、この子初めて見る顔ね? 名前は?」
「あ、ウンノと申します。隊長の従者しています」
「あらそうなの! あの隊長さんの! あらあら良かったわ~。隊長さん、人の世話ばっかりで自分の事は無頓着だから丁度いいわね」
ここの親父さんと同じく、大分ふくよかな体を大きく揺らして笑った。ハルは苦笑して「その通りだな」とちらりとこちらを見た。
そ、その目線はなんだ! と動揺してしまい、カップに注いでいたお茶を少し零してしまった。
その時厨房から
「おいっ! お前これなんだ! 腐ってるじゃねーか」
と親父さんのがなり声が聞こえ、慌ててマーサさんが「あら~今行くわ!」と答えて、私達にペロッと舌を出しながら厨房に消えてった。マーサさんなかなかお茶目だな。
「あら~……うっかりしてたねえ。魚の塩漬けがすっかり崩れちまった」
「おいおい困ったなあ。お前、これ処分しとけよ」
「残念だけど仕方ないね」
声が筒抜けだ。……魚の塩漬け? ひょっとして!
私はガタンと椅子の音を立てて立ち上がり、一目散に厨房に突入した。そして、二人が検分していたモノに注目する。
「あら? ウンノ、どうしたのさ」
「マーサさん、これって魚を塩漬けしたもの?」
「ああ、そうだけど。あたしうっかりしてて腐らせちまったよ。見てごらん、もう形も分からない程の液体になってるだろ?」
「うわー! マーサさんやったあ! 僕にこれください!」
私の喜びように、親父さんもマーサも仰天した。突然厨房に駆け込んだ私を追いかけてきたハルも「何でそんなものを?」と驚いていた。
「これ……魚醤ですよ! いい具合に発酵してるー!」
きゃっほーいと喜ぶ私の傍で、三人がポカーンとしていた。
――こちらに来る前のホテルでの送別会にて。懇意にしていた厨房の料理長が、酔うと雑学を語りだすというやっかいな癖を持っており、数人リストラ対象であった中で一番年若い私が料理長の講釈のターゲットとなってしまったのだった。
更に返事をしないと無限ループに陥るという悪癖でもあるので、適当な相槌でやり過ごすという事もできず、ひたすら耳を傾けなければならない。その時語っていた一つの話がまさに「魚醤」。日本では『いしる』『しょっつる』など、海外で言えば『ナンプラー』『ニョクマム』と呼ばれる物だ。
これらは生魚を大量の塩で漬けて発酵させ、魚が液化した所で漉したものが魚醤となる。
大豆、小麦、塩で作る醤油ではなく、魚で作る醤油のような物なので、ちょっとした和風味が期待できる。嬉しい! 料理長ありがとう、役立ったよー!
「こんな……腐った汁なんてどうするんだい?」
マーサさんが不思議がっていたので、私は調理台に乗っていた野菜を借りてサラダを作ってみた。レモンぽい物を絞り魚醤をそれと同量に入れ、砂糖少々入れて混ぜる。そして生で食べられる野菜はどれか聞いて、ざくざくっと切って作った液をかけておしまい。簡単魚醤サラダの出来上がりだ。
「どうぞ食べてみてください」
親父さんとマーサさんは、おそるおそるといった体で一口食べた。すると二人で顔を見合わせ「美味しい!」と目を見開いた。
「ウンノと言ったね? こんな美味しい味になるだなんてワシは何て今まで勿体無いことをしてたんだ! うーん魚のダシが効いてるな。塩気がまたいい。マーサよ、この液体……魚醤と言ったか? 瓶に移しておけ!」
「あらあら~。急いで用意しますね。でもあなた、お昼の仕込みも終えてないのに……」
「ああしまった! 時間が無い……ううむ」
料理人魂に火が付いたらしい親父さんだったけど、昼の営業が迫ってる事もあってどうにももどかしそうだ。
「ハルさん、隊長達まだ帰ってきませんか?」
突然話を振られ、戸惑ったハルだったが「そうだな、昼には戻ると思う」と答え、それを聞いた私は提案をした。
「親父さん、わた……僕、仕込みを手伝います! 隊長戻って来るまでですが。その代わり、その魚醤少し分けてもらえませんか?」
「あ、ああ……いいとも? 元はといえばウンノが教えてくれた物だ。いいのかい手伝うだなんて」
「はい、僕こういうの得意なんです!」
言うなり、私は腕まくりをして戦闘準備へと移った。
魚醤は大きいスーパーなら売ってると思います。
んが、量を誤るとしょっぱくて魚臭いのでお気をつけください。