1 異世界にようこそ
今日、私は新しい職場に向かうはずだった。
前の職場は業績不振という事で、人員整理がされたのだ。そして、再就職の難しいおじさまではなく「君はまだ若いから」の一言で、私はサクッと切られた。寮付きホワイト会社だったのに……
寮なのでトイレバス共同、食事は寮母さんが作ってくれるので台所用品も不要だ。職場は制服があり、私個人の荷物はそれほど必要がなかった。
収納は、ダンボールでリサイクルした。器用なのよね、私。
誰が来るわけでもないし、貧乏性も手伝って、できるだけ工作などして済ませた。服も図書館で借りた「着まわしコーデ一ヶ月!」というのを参考に、似たような服を低価格で安心なお店で買う。それっぽく見えれば別に気にしないのだ。こういった、安いものを探す嗅覚は優れていると思う。おかげで「これどこのブランド?」とか聞かれることも多い。値段を聞かれたら、安物だけど「うふふ内緒」で逃げておく。
一応社会人なのでハッタリは必要なのだ。
「着まわしコーデ」のおかげで、さして多くもない衣類は一つのバッグに収まり、これにて引越し完了。
なんとか元会社の口利きもあって新しい会社に就職が決まり、これからいざ向かおうという所で電車の遅延に会い、なんだか出鼻をくじかれた次第だ。
ん……? それからどうしたんだっけ……?
ゆるやかに意識が浮上する。
直前まであったことをツラツラなぞっていたけど、現状が把握できていない。
あれー? コーヒーショップに入って、なんだか暗くて、眩しくて、落ちて、拾われて……?
「目が覚めたか」
低音の、首筋がぞくりとする声がすぐ近くで聞こえた。なんて良い声!
そちらの方へ視線を動かせば――そう、落下した私を助けてくれた人だ。
「わっ! すみません、ありがとうございま――っ」
慌てて飛び起きようとしたら、ぐらっと目の前が揺れた。
「わっ!」
あれ、ここベッド!? って、落ちるよ!
と思った瞬間、ふわりと体を支えられた。そして、壊れ物を扱うように、再び横に寝かしつけられる。
「移動酔いらしい。暫くは動かんほうがいいだろう」
そう言うと、ふと何かに気づいたように顔を上げ、少し待つよう私に言い置いて隣の部屋に向かった。その姿を視線で追いながら、内心の興奮が抑えられないでいた。
うわ……背が高い! 体格もいい! うらやましい!
自分の体が華奢なので、あの位の背格好を見るとどうしてもあこがれる。
男だったら理想の体型もいいところよね! ガチムチ過ぎず、細すぎず、そして――
って、そもそもここどこよ?
男の紳士的な態度に気を取られていたけれど、改めて自分の置かれた状況を確認しようと思う。
まず、自分の身の回りを観察しないとね。
ベッド……粗い生地のシーツに固い板張りのベッドは、現代ではなかなか見ることのないものだ。
部屋……壁紙はなく、板張りなのはわかるけれど、どこか歴史を感じさせる作りだ。
そして、彼――私を助けてくれた男性について。
当然のことだけれど、見覚えなど一切ない。
だって、だって!
俗な言い方すれば、めちゃくちゃイケメン! だから、一目みただけでも一生心に刻まれるほどの美男子振りなのに、私の記憶にはかすりもしないので、やはり初見なのだ。
さらに彼の着ている衣服にも、謎が深まる。
詰襟で、膝下まである上着には深めのスリットが入っている。その下にズボン、皮のブーツ。かっちりとした印象なので、もしかしたら制服とかそれに似たものかもしれない。
全身黒色で固められ、そこに華やかさは一切ない厳格な感じがした。
なにより、腰の所に……剣?
まず現実ではありえない代物が佩いてある。
いやいやいや、まさかね。もしかしてコスプレなのかな? ……あの物語のだったら世界中に人気だし。
頭の中には、ある超有名ファンタジー小説が浮かんでいた。
世界中の人が読んでいて、アニメ化や映画に始まり、ゲームや漫画にも発展して、いまや老若男女問わず大人気コンテンツだ。人気声優が声を当てたこともあり、その手のマニア達もこぞってコスプレをしたものだ。
それにしてもずいぶん精巧に出来ているなあ。
ぼんやりと小説の流れを思い出していたら、彼が戻ってきた。
「いま食事を頼んだ。食べられるか?」
食事と聞いて、私のお腹はグウと大きな音を立てた。
お腹の虫のほうが返事が早いだなんて!
顔から火が出そうなほど恥ずかしかったけれど、背に腹はかえられず、「お腹すきました……」と訴える。笑われてしまうかな……と心配になり、チラリと彼を見ると、驚くほど無表情だった。
思いっきり、無表情。
良い顔なのに、無表情。
あれ……なんか、私悪いことしたかな?
あまりのリアクションのなさに心配になった頃、彼はベッドの脇にあった水差しからコップに注ぎ、私に寄越した。
「とりあえず、飲むと良い。丸一日寝ていたから喉が渇いているだろう」
「え?」
そんなに寝ていたのか、私!
言われたからなのか急に喉の渇きを覚え、ゴクゴクと一気飲みした。
うわー、美味しい! 生き返る!