* 番外編 一週間 4
――今、何時?
ボンヤリと目を開ければ天井が見えた。腰に絡められた腕をのけて、けだるい上体を起こす。ベッド脇の目覚まし時計は四の所を短針がわずかに過ぎて、遮光カーテンの隙間から零れる光は……オレンジ色の混じった……。
「っ、えええ?!」
もう夕方じゃない! 今日が終わってしまう……。
ジェネが来た日は寝てしまったのでそれで終わり、次の日の夕方から、その次の日、そして今日と全く外へ出ていない、いや、出られなかった。
それもこれもあれもどれもジェネがっ!
ジェネからもたらされた数々の行為を、まざまざと脳裏に浮かべてしまい顔が火照る。寝顔を軽く睨むけれどもどこか怒れないのは、私も……それを望んだからに過ぎない。でも言ってやるもんか!
一緒に掛けていた布団をそっと抜け出し、ベッドから降りようとしたら手首を掴まれた。
「わっ! ジェネ、起きていたの?」
「ああ」
その掴んだ手首に、ジェネはちゅうっと音を立てて唇を寄せる。
再びもたらされる甘い痺れに、再びベッドへ戻りそうになったけどなんとか踏みとどまった。
「ダメダメ! もう今日はおしまい!」
「いいだろう? 邪魔するものはいないのだし」
「もうね、これ以上人として良くないと思うの! 洗濯もしたいのにもう夕方だし……」
あーあ、とカーテンの隙間から外を見ると、今日もいい天気だったようだ。ちょっと勿体無いな。
「買い物も行きたいからもう駄目!」と残念そうなジェネを諌め、ササッと服を着てタオルやなにやらを洗濯機に放り込んでスタートを押す。それから冷蔵庫の中身を確認して……。大量に作ったはずの料理は部屋に篭っていた間に全て食べ尽くし、非常用のレトルトご飯やカップ麺すら在庫が尽きた。ジェネ、結構食べるんだよね。
沢山食べてくれるのは嬉しいんだけど。
「ショーコ、この服でいいか?」
諦めたのか、ジェネも着替えたようだ。シンプルな白とグレーの重ね着風Tシャツにブルーブラックのスリムストレートジーンズ。うわ……ただでさえ端正な顔立ちで身長もあり、筋肉が実用かつ美しい形で全身を彩るその立ち姿が、一言では言い表せないほど――格好いい。
ぽおっと見惚れいてたら、ジェネは私の髪をひと掬い持ち上げて口付けた。
「ありのままのショーコも美しいが、服を着たショーコもまた綺麗だ」
「なっ」
なんて甘い言葉を吐くのっ! その顔で!
え、、あの、その、なんて動揺しながら家中の戸締りをして、財布とエコバッグを小さなショルダーバッグに押し込む。
「顔が赤いな」
――誰のせいよっ!
太陽は今だ沈まず、影だけは長く伸びていく。夏本番の入り口なのに、じわりと絡みつく蒸し暑い熱気は毎年の事なのに慣れない。
涼しい気を浴びようと、遠回りになるけど散歩がてら川の土手沿いを歩く。
規模は小さいけれど山裾際に流れるその川はとても澄んでいて、カワセミなど見かける綺麗な水質だ。久し振りに歩く土手は、夕方の常連であろうウォーキングする人たちで行き交う。それぞれが顔見知りらしくにこやかに挨拶を交わしていた。
そんな中私の隣を歩くジェネを見た人たちは、一瞬ぎょっとした表情をするけどそれでも「こんにちは、今日も暑かったですね」など声を掛けてくる。
日本人に良くある曖昧な笑いだけれど、嫌な感じはしない。相手からは好奇心しか向けられなかったからかな。
「本音を隠す笑みではあるが、いいな」
穏やかな声で私に呟く。
……あちらの城では侮蔑に満ちた野次や心無い言葉に晒されてきたジェネ。誰も「ジェネシズ・バルトゥ・レーン」を知らない世界。気が休まるのは、そういう理由もあるのではないか。
てくてくと、のんびり歩く。特に会話らしい会話もないけれど、黙って隣に添えるのがとても居心地がいい。
肩を組むでもなく、手を繋ぐでもなく、二人で並んで歩く。
――だけど二人の間は、気持ちが繋がっている。この見えない空間が、私を丸ごと包んでくれる居場所。
土手から横道にそれて住宅街を抜けると、昨日歩いた街道に出る。それなりに交通量のあるこの道は歩道が整備されて、その両側には商店が立ち並ぶ。
ジェネと降り立ったバスの停留所を通りすぎ、隣のスーパーへと入った。
籠を一つ手に取り……ちょっと思い直してもう一つ。カートの上下に籠を置き、押しながら店内へ。冷蔵品が多いから、外とは違いヒンヤリとした空気が体を包む。
「これは……まるで別世界だな」
「あはは。精霊の力みたいでしょ」
私が丈の短い服を着て外を歩くのが、ジェネは嫌だと。だから七部袖のカットソーにデニムのパンツだった私はその冷気が心地いい。
果物、野菜、鮮魚、肉、惣菜などコーナーを回る度に、ジェネが文字は読めないけれど興味津々で「これも、これも」と選ぶからあっという間に二つの籠はてんこ盛りになった。……これ、九割はジェネが食べるんだろうな。……あと残り三日だけど、間違いなく更に買い足すんだろうな。
エンゲル係数がとんでも無い事になりそうだと、これからの生活を考え……考え……。
「何か考え事か?」
ジェネが、考えにふける私の顔を覗きこむので飛び上がって驚いた。
「いっ、いやっ! なんでもないのなんでも!」
好き合って、両親公認の仲で……。それってつまりけけけけけ……。
「こら、潰れてるぞ」
「きゃー!」
手に持っていたポテトチップスの袋が……中身粉々になっていた。恥ずかしさを隠す為籠に乗せて急いでレジへ向かう。相当買い込んだので手持ちのエコバッグでは足りず、無料で持ち帰り出来るダンボールを貰ってそれに詰め込んだ。
ジェネは当然のように重いダンボールをヒョイと抱え、私の持つエコバッグまで取り上げる。どちらも左手一本で持つジェネに「重くない?」と尋ねる私に「大した重さではないな」と頼もしい返事が返ってきた。
自宅への道を再び歩いていく。
夕暮れ時のこの時間は、帰宅を急ぐ子供達や大人達でどことなくせわしない。大通りから一本入ればアパートだという曲がり角で、ドンっとジェネに誰かがぶつかった。
「うぎゃっ」
「……っと」
ジェネは揺らぎもしないけれど相手がひっくり返りそうになった。それをジェネは片腕で支える。
「わ、大丈夫ですか……ん? アキラちゃん?」
「イタタタ。えっ、翔子お姉ちゃん?」
ぶつかってきた相手は近所の空手道場の一人娘で、名前は青島アキラ。中学二年生のボーイッシュな女の子。小さい頃は……そりゃ少し男の子と見間違えるような容姿をしていたけれど、思春期真っ只中の十五歳は僅かに花が綻ぶよう綺麗に面立ちが変わってきた。
私の声にぱっと笑顔を向け、そして自分を支えている腕を見て、最後その顔を見て……。
ぽ、と頬が染まったのが見えた。
「……いい筋肉」
思わず零れたであろうその単語に「え、筋肉って」ぎょっとしていたら、アキラちゃんはキラキラした目でジェネを見つめていた。
「お、おにいさんっ! 初めまして、あたしアキラって言います。突然で申し訳ありませんがなにが武道されているんですか?!」
突然熱く語りだした少女に、ジェネは一瞬身を引いて私にタスケテの目線を送ってきた。そうよね、どう扱っていいか分からないわね。
「あー……、アキラちゃん、ちょっと落ち着こうか」
「翔子お姉ちゃん! どこでこんないい彼氏見つけたんですかっ! 筋肉だし筋肉だしカッコいいし筋肉だし! あーもう理想体型!」
「あ、あの、アキラちゃん?」
「ねえお兄さん、良かったら私の道場で手合わせを……」
「こらーー! アキラ待て!」
「げっ、有ヶ谷だ」
面白いほど顔を歪めて振り返るアキラちゃん。どうやら追われていたようだ。さっとジェネの背に隠れたアキラちゃん。そしてその前に息せき切って駆けつけたのは、アキラちゃんと同じ年頃同じ背格好した男の子だった。
「アキラっ! 逃げんじゃねーよバカ!」
「うっさい! 毎回毎回組手なんてめんどいんだー!」
「俺が勝てばそれで終わるから!」
「はぁっ? あたしに勝とうなんて寝言ってんじゃないよバーーーーカ!!」
「……」「……」私とジェネは顔を見合わせた。一体なんなのだこれは。
会話で察するに、この少年はアキラちゃんに勝ちたくて組手を申し込むけれど、アキラちゃんは面倒だと断っているんだね?
というか、この少年はただ勝ちたいだけじゃないような、そんな気がする。
「はいはい、アキラちゃん一回してあげればいいのよ」
「お姉ちゃんっ! コイツ嫌だって言っても、何度も何度もするんだよ!」
「バッ! ちょ、変な言い方すんじゃねーよ!」
「ショーコ、言い回しが人聞き悪い」
少年とジェネに言われて一瞬首を傾げた私は、急に意味が分かってあわあわと赤くなる頬を手で押さえた。だけどアキラちゃんはきょとんとしたまま、ジェネの背から顔だけ出して「イー」っと歯をむき出して威嚇する。……ちょっとアキラちゃんてば。
「悔しかったら、この彼氏さん位になってみろー」
アキラちゃん、煽る煽る。
そこでやっとジェネに目を留めた少年は、頭の上からつま先までジェネの体躯を眺め……泣きそうな顔になった。
そ、そりゃそうだよ、ジェネは現役近衛騎士隊長だしね。本気で本職の武人だしね。
「……俺、三回生まれ変わっても無理かも知れねえ」
そこまでっ?
肩を落とし落ち込む少年へ、ジェネは肩に手を置いた。
「努力と根性があれば大丈夫だ」
ジェネ、まさかのスポ根熱血教師っ?
そして私を振り返り「夕食のあと少し時間いいか?」と尋ねてくる。勿論予定はないので了承すると、自分の背後にいるアキラちゃんに向かった。
「では、後ほど道場に窺うがよろしいか」
「はっ、はいっ!! 勿論ですよ筋に……手合わせ、是非!」
心の声漏れてるよ!
先程とは打って変わってご機嫌になったアキラちゃんは、少年を小突きながら道場のある方へ駆けて行った。
――なんだろう、ちょっと脱力感が。
「ジェネ、いいの?」
「何が」
「あの子達、空手っていう武道をやっているのよ。ジェネ……見たことないでしょ?」
「ないな。しかしどの国にも体術はあるものだ。俺は剣で生きてきたが、体術も使えなくはない。新しいのを知るいい機会だ」
「そっか。じゃあ早めにご飯食べようね」
「二食分作っておいてくれ。帰ってきたら夜に備えたい」
「夜?」
…………それってー!