* 番外編 一週間 3
バスに揺られて三十分の間。
大柄のジェネには二人掛け椅子が小さすぎる為、一番後ろの席に並んで座った。ジェネは見慣れない風景への戸惑い以外は、終始寛いでいるようにみえる。
用途など見て少し考えれば分かるもの以外について、小声で私に質問が飛ぶ。
ここの地方のバスは後払いで、最初にカードをタッチするかチケットを手に取り、降りたい場所の前でボタンを押し鳴らし、降りる際にカードをタッチして、またはチケットに書いてある分の金額を支払って降りるのが決まりだ。
「しかしこちらの女性は皆薄着なのだな」
そればっかりはいくら考えても分からないらしい。まあね、私もそう言うものだと思っていたから深く考えてなかったわ。キャミソールにホットパンツなんて、真夏にはアチコチ出没する。肌を隠す文化のアチラとはそれだけでも違うから、もしヘソ出しの服や某歌手の半露出な女性を見たらどんな顔をするのか見てみたい気もする。
でも一番の違和感は――。
なぜか心の片隅にモヤモヤと引っ掛かるものがあった。なんだろう?
降りるのは営業所と車庫が一つになった最終の停留所。ロータリーをバスは大きく回って小さな屋根のついたベンチの並ぶ乗降所に停まり、ジェネと私の分の料金を支払ってタラップを降りる。
この停留所から東西に伸びる商店街。小さいながらも郵便局や銀行、スーパー、コンビニ、個人商店など品数はそれほどではないが、生活に必要な物が一度に色々揃えることができるのでとても住みやすい街だ。
「さ、こっちよジェネ」
ここから自宅アパートまでは徒歩五分。昔の名残で所々松並木がある道をのんびり歩いていく。時折、すれ違う人からチラチラとジェネに視線が向けられるけれど、不躾な感じがしないのもここの土地柄である。
すれ違う人、自転車、車……お店、服、地面、空……。
異世界の住人であるジェネのその瞳はどういう風に映しているのかな。
「はー、やっと着いた! ね、その服貸して? 皺にならないように掛けておかなきゃ」
ジェネから買った服を受け取り、チャッチャとクローゼットに仕舞う。下着などは水通しをしたいから、そのまま洗濯機に入れスタートボタンを押し、買ってきた食材は冷蔵庫へ、そして洗濯物を取り入れてやっと人心地ついた。
パン屋さんのイートインでお昼は済ませたし(ここでもジェネは恐ろしい量を食べて、店の人が目を丸くしていたのが印象的だった)、夕食は昨日大量に作りすぎた感のある料理で大丈夫だろう。
ご飯だけは炊かないと。ジェネの食欲を考えて五合炊きの炊飯器に五合フルでセットして、そうだ……と、ジェネに日用品や機械の使い方を教える事にした。
ちょっとしたイタズラ心でテレビをつけてみたら、動き出す映像に普段表情筋を動かさないジェネはテレビ画面を凝視した。そしてお約束のようにテレビの裏を確かめたり。テレビの説明? なんか電波がどうのって私自身が『そういうもの』と受け入れているからうまく説明できない。魔術師などが使う水鏡みたいなものといったら、おおよそではあるけど納得してくれた。
洗面所では、蛇口を捻るだけで水とお湯が出るシステムに感心し、冷蔵庫の説明……ガラスのコップに自動製氷機からできた氷を三個入れ麦茶を注いで「はいっ」と渡すとかなり驚かれた。
「魔術師か精霊使いの高位でなければ、このような氷は作れない。もしくは、徒歩で二ヶ月ほど北に行った大きな山にはある。この箱で出来るなど、不思議で仕方がないな」
氷そのものは知っているらしい。というか、その山に登った事もあると。ハルと一緒にアンザスの仕事をしつつ旅をしていたので、その知識はとても広くて深い。
飲み物はここから適当に取って飲んでね、と伝えて自分にも麦茶を注ぎ、二人でソファに腰掛けた。カラッとした爽やかな風がすっと部屋の中を通り抜け、私たちの頬も撫でていった。
「上の階に人の気配を感じないのだが……そもそもここの建物は貸家なのか?」
「四軒が一棟に住む集合住宅なのよ。この部屋の上階は今空き家……ええっと部屋の契約者待ちらしいわ。だから誰もいないの」
「周りの環境も穏やかで。いい……所だな。ショーコとカケルが育ったこの地は」
「うん。色々あったけ、ど……」
あ。
違和感の正体。
「――平和がなによりだ」
ジェネが生きてきた世界。
腰に佩いていた刀がない。
それなのに、私以外の気配すら気にせず熟睡した。
それは唐突に私を刺した。
――私は何を見てきたのだろう。
ジェネの生きてきたあちらは、生と死が間近にある。私の中で、どれだけ『本当』を理解できたのかな。どこかで私は『小説と同じ世界だから』と、空想世界のように思っていたのではないか。
ジェネの腰に佩いた剣は飾りじゃない、実用品。アンザスに在籍すると言う事は、つまり生死に関わる『仕事』をしていたという事。映画でもテレビでもアニメでもない現実に使っている武器。
同じ、血の通う人間がいる。
同じ、感情のある人間がいる。
同じ、生死が訪れる。
――私は何を見てきたのだろう。
今いるこの世界、戦争がないとはいえないけれど実際目にしたわけではなく、画面を通しての他国の話。過去あった戦争の話も、どこか現実味がない。犯罪もあるけれど、皆がみな剣や銃を持ち歩きなどそんな物騒な日常は見られない。平和なんだ。そう、平和。
ジェネが言った『平和がなによりだ』――その言葉に私は何故か猛烈に恥ずかしくなった。あちらの世界を見てきたくせに、何一つ理解せずどこか絵空事のように捉えていたのではないか。
――――私は、ぬるい。
気付いてしまった自らの思考の海に溺れる。
「ショーコ? どうした?」
急に黙りこくった私を不審に思ったのか、ジェネは不思議そうに見ていたテレビから振り返って、驚きの声を上げた。でも私は答える事ができない。だって、どうしたもこうしたもないんだよ!
「……いいから。ごめん。あ? わから、ない……?」
言ってることも支離滅裂だ。するとジェネは、私の肩を抱き、自らに引き寄せた。私の頭はコテンとジェネの胸に当たる。ドクンドクンと力強くも規則正しいその音が、私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
「言いたくなければそれでもいいが、泣かれると俺は弱い」
泣いてる? そう気づいたら、よりいっそう涙が溢れる様に頬へと流れた。そんな私をトントンとあやすようにジェネは背中を叩いてくれる。
「言いたくない、訳じゃないの。でも、なんだか、あやまるのも失礼な、気がするし。どうしたら、いいんだろうっ」
混乱のまま思考をなんとか言葉にすると、ジェネはそうか、と一言。それはひどく優しい声色で、私のぐちゃぐちゃで大荒れだった心の波は、緩やかに凪いでいった。
一粒涙が零れる度に、ジェネの大きな親指が濡れる頬を拭き取ってくれる。そして厚い胸に当てられた耳に響く心臓の音が、私のこんがらがった感情を次第にほぐしていってくれた。
言葉にしなければ、伝わらない。
気持ちだけで、目だけで、伝わるだなんてそんなものは。
百パーセント自分の言いたい事が伝わるだなんて思わない。実際に口に出さなければ正確に相手に伝わらないんだ。
だからうまく気持ちが纏まらないけれど、ジェネに私が感じた、そして思い知った気持ちをポツリポツリと口に出した。
その間もジェネは背中を優しく叩き続け、私の言葉を遮ることなく凝った気持ちを全てを吐き出せた。
すると。
「何だそんな事か」
アッサリとジェネは言ってのけた。
えっ?! と顔を上げると、少し西に傾いたオレンジ色の光がジェネの顔に当たって陰影を作り、とてもキラキラしていた。うわ……男性にこういうのもなんだけど、美しい。一瞬ぽぅっと見とれてしまい、慌ててまた顔を伏せた。
たった今までワーっと泣いていたのに、私ってば!
そんな私を別段気にせず、今度は私の頭をよしよしと大きな掌で撫でてくれる。
「その様な事、きにするな。俺だってこちらの世界では全くの別世界なんだぞ? それこそ夢を見ているかのようだ。むしろ俺の方は……汚れている」
汚れている、というジェネの声は苦さが混じっていた。下女との間に生まれ王位継承権第一位だったジェネシズ。マルちゃんという弟が生まれ、血筋的には申し分ないあちらに与する貴族の執拗なまでの嫌がらせにとうとう母親が力尽き、そして国を一旦は捨てて……どういうキッカケかアンザスへと入り、ジュノーに師事したんだよね。それから、マルちゃんが王位に就く……傀儡政権の始まりを知って、周りの思惑はどうあれど弟が可愛かったジェネは軍の一般募集の兵から騎士団の近衛隊長まで上り詰めて。
人を殺めなかったなんて、そんな甘い考えは持っていない。持っていないけど私は実際目にしたわけではない。ジェネが剣を持っているからといって恐怖は感じていない。いないけど……。
ジェネは左の手で私の頭に手を置きながら、右の掌を開きじっと視線を落とす。
「俺は……それこそ、何人もの人生を狂わせてきた。自ら望んでも望まなくても。ショーコにも言えない様な卑しくて無様な真似も何遍もしてきた。汚れたこの手を嫌悪もするが……反対に死線を幾度と潜り抜けているうちに、これが生きているんだと……生きている価値を体中で感じられたんだ。俺がこれまで生きてきた過去は、反省はするが後悔はしていない。それはショーコ、お前もそうだろう?」
……過去のレベルがうんと違う過ぎる気がするけど、後悔はしていない点は同じなので、一つ頷いた。
「いいんだ。ショーコはそのままでいてくれ」
え?
こんなぬるい世界にいて、あっちの世界の地に足をちゃんとつけていなかった私を?
「……そのまま?」
「ああ。俺は普通の感覚を失っているのだろう。生きて嬉しい、死んだら悲しい。そういった単純な事すら感情の揺れ幅がない。その心に気付かせてくれるのは、ショーコなんだ。ショーコが思い起こさせてくれる。むしろ……俺の方がショーコに縋っているのかもしれないな」
苦笑しながら髪を梳くその無骨な手を、私はそっと自分の手で捕らえて重ねる。節くれだって、太くてて、大きくて、温かな……大好きな人の、手。
ぎゅ、と握り締めながら上体を起こし、ジェネと顔を合わせる。
「ジェネ、手があったかいね」
「ああ、ショーコの手も温かい」
「住む場所は今まで違ったけれど、こうして触れば同じ人間だって分かるわ。これからは一緒だよ。これから、ずっとずっと」
「ショーコ」
「だから、ジェネの見てきたこと、感じた事、それから色々旅した先の話を教えて? うん、もちろんいえる範囲でいいの。ちゃんと、生の声を聞きたいわ」
「ああ」
「そうしてちゃんと私、現実にするの。現実にして、ジェネや皆と同じ世界の住人になりたいの……きゃあっ!」
の、まで言うかいわないかでジェネの手が私の体を救い上げ、ソファに座るジェネの腿の上に跨る格好で座らせれた。
ちょっと、ちょっと! メチャクチャ恥ずかしいんですけどこの格好!
ジェネの上に座ってもやや視線は上になる。ジトッと睨んでみたものの、ジェネの真摯な目に打ち抜かれた私は黙って顔を赤くした。
「ショーコ」
「な、なに?」
「では、ショーコはずっと……レーンに居てくれるんだな?」
あ……ジェネは。ジェネにも不安に思う所があったのね? その不確かな今までの流れから、ジェネはひょっとして私がこちらの文明に心残りがあって、生活基盤は基本ここ日本にして、たまにレーンに来る事にするのではないか、そんな恐れも抱いていたらしい。目をほんの少し横に逸らしながら、ボツボツと語るジェネは……恐ろしく可愛かった。うん、表現間違っていないよ。筋肉がゴツゴツしている長身のイケメンが可愛らしい不安を洩らすのは。
「当たり前よ。私は、ジェネの傍から離れたくないもん」
そういって、私は真正面から挑むようにジェネと視線を合わせた。――けど、大失敗だったかも! この体勢は安定が悪く、支える為についたジェネの腹筋から、ついあの夜のことを思い出して体中の血が顔に集まったんじゃないかと思うぐらいカーーっと熱くなった。
「やっ、あのねっ、そういう意味じゃなくてっ」
「そういう意味とは?」
「~~~っ! いじわるっ」
伏せがちになる顔を少しだけ上げて、チラッと上目遣いでジェネに文句を言うと、一気に上体を抱き寄せられた。
「どっちが意地悪だ。では……離れたくないというのを体に教えないといけないな」
「えっ」
「俺も離れたくない。ショーコから」
そのジェネの情欲が燃える瞳に、私は焼かれて啼かされて求められて――。
三日間、アパートから出なかった――違う、出してもらえなかった。