一日千秋
「……さま……お客様? どうなさいましたか?」
気遣わしげな声にハッと顔を上げたら、そこは……。
呆然と立ち尽くしていたこの場所は、見覚えがある。――そう、あちらの世界に行く前に入ったコーヒーショップ。
「お客様?」
店員に再度話しかけられ、慌てて「な、なんでもありませんっ」と自動ドアから表に飛び出した。
「あ……」
声を失う私の目の前に広がるのは「日常」。ずっとずっと、これが当たり前だと思っていた文明社会。膝から力が抜けそうになるのをぐっと堪え、ベンチへフラフラと歩いて座った。
腕時計を見ながら足早に過ぎるサラリーマン、デパートからの帰りだろうか、主婦達が談笑しながら電車を待つ。携帯画面を一心に操作する大学生など――――全くの日常風景。
駄目だ、思考が動かない。
暫くぼうっと景色をただ目に映していた。まるで人形のように座って……どのくらい経った頃だろうか、突然携帯電話が鳴り出した。
ビクッと飛び上がりながらもバッグから取り出し、見覚えの無い番号だったけど通話ボタンを押して耳に当てた。
「は、はいっ」
「えっと、海野さんですね? こちら○○ホテルの採用担当、佐藤です」
「……あっ、お、お世話になります!」
ああ、そうだった。あちらの世界に行く前、このホテルの仕事に就く為電車を待っていて……遅延で到着が遅れるとの電話をこの担当者の人に連絡したんだっけ。
「すみません、まだ電車が来なくて……」
構内アナウンスは点検整備が遅れていると繰り返し放送されていた。その旨を伝えると……。
「あの……大変申し上げにくいのですが、この度の採用……無かったことにしていただけませんか」
「えっ?!」
「ごめんなさい、ここからは私のオフレコとして……。海野さんの前の職場の方から圧力かかりまして……採用するならば私どもの方と提携打ち切る、と」
――――思い当たる節は、一つだけあった。
そう、前の職場。リゾートホテルのオーナーの息子。
告白されて、でもそんな付き合うとか考えられずに振った形となってしまったが、まさか……今回のリストラ対象や関連企業への根回しをしたのは、彼なのだろうか。
申し訳ない、そんな声が滲む担当者になんとか承諾の意を伝え、電話を切った。
「は……あ……」
空虚な心が色々な事態を飲み込めなくて空滑りしていく。
一人ぼっちになった今、何をしたらいいのだろう。
ふと、奥底からこみ上げて溢れそうになる気持ちを無理矢理押さえ込んで、とにかく横になれる場所……自宅へと戻ることにした。
着ていた侍女服は、古めかしいデザインだけど目を引くほどでもなくて良かった。母親名義で借りているアパートへと、高速バスや路線バスを乗り継いで久し振りの自宅アパートへと着いた。
このアパートは母親と翔と私の拠点ともなっていて、都合がつけばこのアパートでたまの再会を喜んだ。翔も私も職場の寮に住んでいたし、母親は月に半分もここに住んでいないから借りているのが不経済だと私は言ったけれど、そこは母親が押し切った。
充分すぎるほど賃金も貯蓄もある母親に逆らえるわけもなく、そのまま契約を更新していたあのアパートなら身を寄せるには丁度いい。
県庁所在地ではあるけど、乗り換えのための主要駅から三十分もバスに揺られればそこは田舎といって差し支えない風景。バス停から重いバッグを抱えて徒歩五分で、我が家ともいえるアパートが見えてきた。
二階建て2LDKの全四戸が入居するこのアパートは、他に三棟が連なっている。
チャリッと音を立て鍵を取り出し、一階東側のドアに差し込んだ。開錠の音が聞こえ、ドアノブを回して開ける……あれ、こんな薄いドアだったかな? 随分とあちらの重厚なドアに慣れていたらしい。貧弱な作りに、でも確かに記憶では間違いないと気持ちを納めて中に入る。
途端締め切った室内に篭る空気が纏わりつき、開けられる窓という窓を開けて入れ替えをした。
――へんなの。泣いて泣いてどうしようもない程取り乱すかと思ったのに。
自分の心は確かに凍りついたままだけど、体は日常生活に戻っている。
それは、翔が最後に「迎えに行くから」と言ったからだと思う。
そうじゃなかったら……とてもこんな落ち着いていられない。だって私、ジェネと「またね」と一言も交わせなかった。別離の挨拶すら誰とも出来ず、突然にポンと帰されたから。
あちらの世界は、夢ではない。
あちらの世界は、本当のこと。
今身に着けている侍女服もそうだけど、耳に彩る六つの宝珠、そして……体に残る繋がりの証。どれもが現実だと訴えていた。
――迎えに来る。それを私は待つだけ。
一週間目は、久し振りの日本を満喫できた。
二週間目は、人恋しくて前の職場でできた親友のサヤカに電話した。
三週間目は、気力でなんとか乗り越えた。
四週間目は――――引きこもった。
遅すぎじゃないの……?
夜が来るたびに、静か過ぎる室内で一人ベッドに寝るのは堪える。
こんなにかかるのならばアルバイトでもすればよかった。だけどいつ迎えに来るかわからないし、勤め始めてすぐ辞めるなどそんな迷惑は掛けられない。
幸い貯金が好きだったので、資金に関しては心配が無い。気分転換に散財してやる! と、デパートに出かけても、普段から節約が身についた私は値段を見ただけで尻込みしてしまい、結局何一つ買えずにいた。かわりに目に付くのは……
こんな服着たら、似合うだろうな。靴のサイズ、どのくらいかな。この革のベルトなら違和感なく付けてくれるかな――。
「その商品は人気がありますよ? ほかのお色もございます」
店員に声を掛けられ、慌てて退散した。
そして、背が高く体格がいい人がいると、つい目で追ってしまう。
一人でちょっとオシャレなお店に入って美味しそうなランチを注文しても、ああ、こういうの作ってあげたいな、と……。
どうしても、どうしても、どうしても。
離れない。思考のすべてがイコールになっている。
いま、何してるのかな? いま、あの部屋で書類を睨んでるのかな? いま、私の事考えてくれているかな?
駄目なのに。いくら考えても私には待つことしか出来ないのに。
――――ジェネシズ!
何度目か分からない程心の中で叫ぶ。大好きで愛しくて焦がれてやまない彼の名を。
とっくに涙なんて枯れてる。毎晩毎晩ベッドに横になるだけで溢れていた涙は、私の心と同じ様に枯れてきたのかもしれない。
食欲……なんて一向に湧かないけど、もし迎えに来たらすぐに飛び出せるよう機械的に口には運んでいる。味なんて全くわからないけれど。同じ理由でシャワーだけは浴びている。乱れた格好で再会なんて恥ずかしいから
料理をしても掃除をしても買い物に行っても、なにもかも楽しくない。
朝が来る度今日も来なかった、と落胆する自分が嫌で雨戸もカーテンも閉め、真っ暗な室内でただベッドに転がったり膝を抱えて座ったりして。
愛する人から離れただけでこんなにも駄目な自分になるだなんて思いもしなかった。一度味わってしまった喜び。自分が作った料理を「美味しい」と食べてくれたあの顔や、剣にかけて誓ってくれたあの真摯な表情、普段は誰に対しても鉄面皮だけど、私には僅かに緩む目元と口角。そして――私を全て満たしてくれた心。その喜びが突然遮断されてしまった。あれは夢だったんだよって言われるにはあまりにも現実過ぎるのよ!
そして、昼夜分からない中とろとろと睡魔が訪れる。
――今、何日目だろう? ん……どうでもいいんだけど。
ふと目が覚めて、ぼおっとした頭であれから何日経ったのか考えた。四週間まるまる経った事は間違いないだろう……ほぼ一ヶ月? いや、もう過ぎた?
水を一杯飲もうと、力の入らない足で立ち上がり台所へフラフラ歩いた。何もしなくても喉は渇く。コップに蛇口から水を注いで、一口飲んだ所で――――。
――――トントン。
玄関ドアにノックする音が聞こえた。普段だったら訪問販売かと思って居留守を使うけれど、玄関にある呼び出しチャイムではなく何故かノックというのが妙に気になった。
―――――トントントン。
……?
何故か、聞き覚えのあるノックのタイミング。――――まさか?!
コップをシンクに置くのももどかしく、玄関まで小走りに、そして飛びつくようにドアスコープを覗いた。
まさか。まさかまさか。
そこに見えたのは――――!
鍵もチェーンも焦るあまり余計に時間がかかりながら外し、ドアを開けると。
「……っ! ジェネ!」
一番に会いたい人が、そこにいた。
闇色の髪、背が高く筋肉による厚みのある体は騎士団の制服に包まれ、そしてその――深い海の底の色をした瞳は私を見つめ、心なしかじわりと揺らめいていた。
「おそいよっ!」
後から思えばとっても酷い言い方だったけど、ジェネについぶつけてしまった。しかし、ジェネはただ緩く目を細め、一歩前に踏み出して、私の腰辺りに手を回して抱き締める。
「――すまん」
そう言って私の頭を何度も撫でてくれた。
やっと、やっと、やっと! ――――私は、この手この体この声を待っていたの。
心がバラバラになりそうだったけど、耐えられたのはこの手の温もりを覚えていたから……。
完結まで残り一話となりました。
明日には出せるかと。