序
肩からずり下がるバッグを、よいしょ、と気合を入れて抱え直し、電車のホームをよろめきながら歩く。
通勤ラッシュから外れたこの時間は、普段なら利用客もまばらで緩やかな空気が流れている。
これから旅行へ行くらしい老夫婦、柱の傍には大学生が本を読み、ベビーカーを押すママが小さな声で赤子に話していた。
そんななか、荷物を詰め込んだ一抱えもあるバッグを持つ私は、あまりに不自然な姿だろう。
「もうっ……電車も予定通りにいかないんだから」
定刻を過ぎてもやってこない電車は、今の私にとって苛立ちが増すばかりだ。
事故か何かあったのかと、ホームから電車のやってくる方向をのぞいてみるけれど、そこには線路が続いているだけで電車の影もなにもない。消化されないホームの利用客は、時間と共に続々と増えていった。
遅延を待つ乗客たちの邪魔にならないようにと、私は乗降の多い階段の傍から離れ、電車の最後尾へと足を進める。
その途中、コーヒーショップのガラスが反射したのかキラリと光り、ふと目で追うとそこには私の姿が映り込んだ。
中肉中背の体に不釣り合いな大きさのバッグを持った、私。
髪は黒く、後頭部で一本に括った毛先は背中の半ばまである。黒髪にこだわりがあるわけではなく、単に染めるのが面倒で、長い方が頻繁に美容院へ行く必要がないという節約に特化した髪型だ。
一張羅のリクルートスーツに身を固め、ややきつめな形をした目が、鏡越しに私と視線を合わせる。
これが私。海野翔子。
二十三年間見続けてきた己の姿だけど、いまは情けない顔をしているな、と苦笑した。
手元の時計を見ると、定刻から三十分以上過ぎている。
どうやら電車の窓がなんらかの原因で割れて、点検の為に運行を休止しているらしい。駅員さんが忙しない様子で、詰め寄る乗客へ説明をしていたところを小耳にはさんだ情報だ。
「参ったなー、これじゃ間に合わないかも」
私はこれから新しい職場へ向かう途中だった。
家財道具一式――といっても大きなバッグ一つだけ――を持って電車移動し、職場の寮へ向かう予定だ。
決められた時間に余裕を持って間に合うよう、早め早めに出てきたが、三十分のタイムロスでは早めの意味がなくなった。更に運行開始されるまでのアナウンスがないために、遅刻は確実だ。
仕方ない……と、スマートフォンで先の職場に【電車遅延の為遅れます】と電話をいれた。そんな交通事情では仕方がないと先方が言ってくださり、ほっと胸をなでおろす。
こうなったらあとは待つだけなので、電車が来るまでの間のんびりコーヒーでも飲もうと、私が映るガラスの向こうのコーヒーショップへ足を進めた。
どこの駅でもよくある至って普通のコーヒーショップチェーン店へ、もう一度よいしょとバッグを抱えなおして、足を向ける。
ラテにしようかモカにしようか考えながら歩き、目の前の自動ドアを開ける。
――えっ?
見慣れた店内、よくあるカウンター、テキパキ働く店員がいるはずだが、足を踏み入れた途端、そこは真っ暗な闇に覆われていた。
「停電……? それにしても暗すぎじゃないの?」
たとえ停電だとしても、窓ガラスが大きく据えられた店内は、外の光が差し込むはずだ。
それなのに店内は恐ろしいほど暗い。妙な雰囲気に、私はホームへ戻ろうと踵を返したけれど、自分の手が見えない程に一気に暗闇へ呑み込まれた。
黒のインクに落とされたように、絡みつく闇。
自分の目が閉じているのか開いているのかすら判別が難しくなってきた。
「え……ちょっと何? 店員さーん!」
経験したことのない暗さに、今まさに入ったはずのコーヒーショップ店員を呼ぶが、まったく返事がなく、気配もない。キィン、と無音状態になり、耳が痛くなってきた。
これは……一体、なに……!? 何が起こっているの?
理解不能の状態に陥り呆然と立ち尽くしていたが、ふ、と小さな音を耳が拾う。
そちらの方に首をめぐらせると、小さく点のような明かりが見えた。どうやらその辺りから声がしたようだ。
明かりが見えた! と、むやみに飛びつくのは危険だと頭の片隅で警鐘を鳴らす。しかし、真っ暗な闇の中にいたところで埒が明かないので、明かりを目指して走る。
こんなところにいたら、私の就職が叶わない!
肩にかけていては走りづらく、私は大きなバッグを胸前で抱えた。
は、は、と自分の呼吸音の合間に、わずかな音を耳が拾う。
「……ちゃん……ねーーちゃーーーーん」
聞き覚えのある声。これは……?
光が徐々に大きくなってきた。あと少しで光の正体がわかる!
「ねーちゃん、こっちーーーー!」
「えっ? 翔!?」
なぜ弟の声が?
と思った拍子に、足元の何かに躓き、頭から光に飛び込んだ。
パパパッ!
閃光が私の目に刺さり、思わずぎゅうっと瞼を閉じる。
何かにぶつかるかと身構えたのに、次に感じたのは、まるでジェットコースターの始まりのようなふわんとした浮遊感――もつかの間、一気に深淵へ落ちていく。
「っきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
このまま地面に叩きつけられて死ぬの⁉ と覚悟した瞬間スピードが一気に緩み、柔らかく人に抱きとめられる感触があった。
人間一人持ち上げたのに、それを感じさせないほど逞しい腕に、私はこれは俗に言う【お姫様抱っこ】状態? と、場違いな感想を抱いてしまった。
ぎゅうと閉じていた目を恐る恐る力を抜くと、目の前に飛び込んできたのは漆黒の髪だ。
誰……?
確認しようと視線を動かすと、こんどは深い海の色をした瞳が見えた。
恐ろしく顔が整っていて、しかし精悍さの方が際立つ男性の容姿は、一度見たら忘れようがないほどの端正な顔立ちだ。しかし、どんなに記憶の糸を引いても、この男性に見覚えはない。
あなたは一体、誰なの?
問いかけたはずの言葉は声にならずに空回りをし、落下した衝撃で、吐き気を伴いながら気が遠くなってきた。
「ねーちゃん、いらっしゃーい」
なんて、のんきな翔の声をかすかに聞きながら、私の意識は薄れていく。