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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

そして、勇者は死んでゆく

作者: 周防まひろ

 怪物が潜む遺跡の回廊、その闇の中に佇んでいるのは勇者ただ一人であった。

 否、一人というのは正確ではない。彼に連なる仲間には賢者、剣士、そして魔道士の三人がいる。彼らは既に、見えざる魔物の強襲を許してしまった。漆黒の中、幾人かの苦痛の喘ぎが重なって微かに耳へ入る。一人はもう虫の息に近い。

 そして今、人一人近寄らない古の遺跡の奥で、苔の生えた柱の物陰に潜み、魔物の目から難を逃れたのは勇者の他に誰もいない。

 二の腕に虫が這うのに気づき、勇者は唇を歪め少し顔を曇らした。湿ったこの場所、そして肌の上を闊歩する感触から考えて、おそらく蜘蛛だろう。

 彼は蜘蛛が生理的に嫌いであった。狼狽するほどではないが、複数の足とくびれのある胴体、そして黒い複眼が光る異形の顔は、少年期を過ぎて久しい現在でも、その姿を目にする度にやはり虫唾が走る。

 だが、それを追い払う余裕など、今の勇者には皆無である。 

 砂利、石畳から生えた草を踏みしめる僅かな足音を片時も聞き洩らす事なく、勇者は神経を尖らしている。視界はなくとも、過去の戦いで培った五感によって、怪物が近くを歩けば大体分かる。しかし、その正体が不明である以上、無闇に斬りかかれば、たちまち仲間の二の舞になる。それは火を見るより明らかだ。

 勿論、ただ隠れているだけでは埒が明かないのは、重々承知である。それに仲間の安否も気懸りな彼はいつでも心の準備はできているつもりでいた。

 だが、如何にして助けるかが重要である。ただ私情に従って愚行に転ずるのは、やはり仲間思い且つ命知らずの愚者だけだ。賢者はいつもそんな言葉を語っているのを耳にした。冷静に物事を判断してから冷徹に行動しろ。煎じ詰めればそうなる。だが、そんな正論もいざ現実に置き換えると、机上の空論になる。

 五里霧中の勇者は、つまり、次に取るべき一手を導き出せずにいたのだ。

 なぜだ。どうしてこんな事になった。遺跡の麓に住む村人達の依頼を聞き、ここまでたどり着くまではよかった。しかし、遺跡の奥まで進んで先頭の自分が松明を灯した途端、姿の見えない大きな怪物が自分達パーティの背後から襲いかかった。あっという間に仲間は呆気なくやられた。

 最初にやられたのは、賢者。勇者より一回り年上のまだまだ若く静かな物腰の青年で、哲学や医療を始めとする学問、戦術、薬草、そして怪物に対する博識ぶりは他者を圧倒する貴重なパーティの頭脳でもある。しかし、潤沢な知識や含蓄に引き替え、実戦の力は乏しい。普段は戦いの後方から指揮を執りながら、博覧強記の戦略でパーティの勝利を導いてきたはずだった。

 その次の犠牲者は、剣士。筋骨隆々の肢体を誇るが、パーティの中では最年長となる中年の男である。戦いの中で見せる、どんな強敵も一撃の下に葬る剣さばきと、瞬時に下す最善の判断、そして体の至る所に刻まれた古傷は、数知れない修羅場を経験してきた事を意味している。しかしすべては、体力の衰微を物語る動きの遅延を少しでも補うためであろうと、勇者は勘付いていた。

 その老練さが、怪物な爪の一振りから逃れるのに報いる事はなかった。

 そして三人目は、魔道士。師から免許皆伝を授かり、色の濃いローブと純白の法衣を着るようになって間もない若い魔女。年齢は勇者とそう変わらない。実戦では賢者の指示の下、仲間には回復の魔法を、敵のモンスターにはその属性に適した攻撃呪文を繰り出す。未熟であるが、高名な魔族の血を引いており、その才能は計り知れない。先刻から漏れる虫の音の主は、彼女からである。

 ところで先ほど、勇者が先刻から賢者の忠告に準じて動かずにいると言ったが、実は理由はそれだけではない。普段は一寸ほども抱いてこなかった一つの思いが、現状の置かれた窮地に至り、ここに来て初めて、心の内奥で小さく芽生え知らず知らずのうちに胎動し始めていたのだ。

 彼は動かずにいるのではなく、正しくは動けずにいる。感情が、その実行を許さないのだ。まるで、海底に沈む重量の碇のように、それは彼の体中の神経を完全せき止めて、その指令が鍛え抜かれた肢体に到達するまでに遮断させて、操り糸の切れたマリオネットみたく彼の体を金縛りにさせた。

 勇者が抱く小さな恐怖は、それと比例するように、その顔に滝の汗を流れさせる。それを手でゆっくりとした動作で一滴残さないように拭い、目を閉じた彼は全神経の集中に努める。幼さが仄かに残る、端整な顔を魂の抜けたデスマスクに変え、周りの世界の漆黒に見事なまでに溶け込んだように見えた。

 だが、それで事態が好転するわけでもない。

 右の腰に下げた無銘の剣は、まるで罪人の鎖で繋がれているかのように重い。

 その時、柱の真横で足音が止まった。微かに長い沈黙の刹那、勇者の体はただ直感に従い、柱から大きく跳躍していた。小動物のような身のこなしで離れた直後、それが真ん中から斜めに亀裂が入り、轟音と共に天井を支えていた上半分の柱が崩れるのが分かった。そして廃墟全体が崩壊してもおかしくないほどの大音響に耳で塞ぎ、彼は対岸にある別の柱に向い、微かな光と頼りに疾走する。

 だが、その途中、何か大きなものに足を引っかけしまい、体勢を崩す。躓いた際に、小さく漏れる野太い呻き声と大柄な体型から、相手が剣士だと分かり、彼は小さく舌打ちを漏らした。

 うどの大木が。思わず浮んだ言葉である。

 しかし、勇者はそれに気に留める余裕もなく立ち上がり、体全体でぶつかるように柱へ殺到すると、身を隠すためにその後ろへ回る。そして、心臓が張り裂けるほどの激しい鼓動が外に漏れるのを恐れるように、古傷が疼く右手で慌てて口を塞いだ。

 しばらくの長い沈黙が過ぎた。その間、右の平たい中指が今になって痛み出す。しかし、いくら待っていても怪物の定期的な足音が全く聞こえてこない。どうやらこちらを見失って立ち止まっているのか、別の部屋に出ていったのか、若しくは――。

 勇者は、咄嗟に柱の上や天井に目を向けるが、そこに見えるものは何もない。怪物の気配は完全に消失した。否、こちらが見失ってしまったという方が正しいか。

 腕にまとわりついていた蜘蛛は、いつの間にかどこかへ消えていた。

 回廊を包む常闇は、相変わらず目に慣れるのを許そうとしない。ただ、数か所、光が僅かにいくつかの箇所から漏れているが、さすがに時間までは窺い知れない。少なくとも、今はまだ夜にはなっていないという程度である。

 勇者は、気慰みから白檀が刻まれた剣の柄を左の指で何度もなでている。

 しかし、柱にもたれながらも決して緊張を緩和させる事なく、周囲に神経を研ぎ澄ませていたはずだった彼の意識にふと、昔日の記憶が鮮明に甦った。

 民衆の間で伝わるものと似て非なる勇者がそこにいた。

 

 勇者は樵の家に生まれた。それ自体は事実に相違ない。だが、その父親は民衆が彼にまつわる物語に出てくるような人格者では決してなかった。弱き者がいれば無差別に手を差し伸べ、人の道を説き、悪しき者を挫く正義を薦めた事など一度もない。ましてや剣術の手ほどきなど、民衆の夢物語に過ぎない。

 また逆に、まだ幼い彼を谷底に投げ落とし、ライオンの仔のように這い上がるのを試すとか、折檻を以って鍛錬を強いる冷血漢でもなかった。

 勇者の父はただの凡人だった。木を切っては無銘の薄く濁ったワインを度々ラッパ飲みし、少し働けばまた怠ける。その日暮らしを無為を過ごしていた男。仕事で得た金で酒場に出入りし、仲間と賭博に興じるも負けの一方で、たまに勝っても次の勝負でそのすべてを使い果たす始末。その反面、納税を誤魔化し小金を貯める強かさには余念のない小悪党。当然、家に入れる金も雀の涙に等しかった。

 そんな、樽のように肥った男が、勇者の父親であった。

 もっとも、その父親の自堕落な生活の根本には、彼の妻すなわち勇者の母親が産後の肥立ちの悪化が原因で死んだ、という過去が内在していた。以前は、同じ凡人でも働き者で誠実な男であったと、後に勇者は父の親戚から聞いて初めて知った。

 だが、それがどうしたというのだ。その過去はともかく、今の自分の人生がこんなに絶望的な退屈であるのは、母の死を後生大事に引きずる父にあるという一つの事実こそが、勇者には限りなく腹立たしかった。

 それは所謂エディプス・コンプレックスから来る父親への憎悪ではない。あくまで、生まれ持っての環境の不遇への不満、凡俗な父と同じ血を受け継いでいる事に対する嫌悪感に他ならない。誰もが一度は経験する苛立ちである。

 勇者が少年の日々を終えようとしていたある時、前触れもなく父親が事故で死んだ。当時、その場にいた彼は今でも脳裏に焼き付いている。いつものように酒に酔った父は、狙いが定まらぬまま大木に斧を横に振った際、誤って柄の部分が幹に当てた。その衝撃で斧は真っ二つに折れた。刃の付いた半分は小さく回転し、そして何の偶然か、その刃先を父の顔面にめり込ませた。

 捉え方によっては、あまりにも滑稽な死に方だと、今でも勇者はそう思う。笑いに肥えた宮廷道化も、ゲラゲラ腹を抱えて転げ回るかもしれない。

 父親の死後、彼はすぐさま家を出た。父の家業を継ぐつもりは毛頭なかった。その故郷の村も、数ヶ月後に人気のない廃墟と化したと、後の噂で知った。

 世間では、ちょうど数年前に突然世界中で大発生した異形のモンスター達が猛威を振い、国中の人々は恐れ苦しみ喘いでいた。怪物達の席捲により、勇者のいた故郷を始めとする小さな町や村の多くが廃墟と化した。

 しかし、望郷の念は起きなかった。もっと、大きな関心事があった。

 国は、モンスターという未知の天災に対処すべく、怪物殺しの戦士、賞金稼ぎを公の職業として認可し、間を空かずしてその法律が施行された。怪物の討伐に成功すれば、恩賞である金貨と、英雄としての名誉が手に入る。

 貧しい暮らしを宿命づけられた少年が、物心を持つ頃から勇者になる夢を密かに抱くのは、ある意味では当然の自己実現であった。

 樵の少年が勇者になるまで長い時間がかからなかったのは、奇しくも彼にその才気と強運があったからである。森の中で走って育った彼は、常人と比べると運動能力は秀でていた。頭も良くて飲み込みが速かった。二年も経たないうちに顔が売れるようになり、勇者の武勇伝も伝播していった。

 ずっと深い森の中で父の手伝いを強いられた長い鬱屈をエネルギーにして、生まれ持っての強運と天賦の才、若者特有の並々ならぬ野心、勇者という称号への名誉欲などが備わっていた。それにしても、それらに加え彼に父親に負けず劣らずの狡猾さ、直情径行の精神も備わったのは皮肉であろうか。

 そして、彼が勇者を目指したのには二つの理由がある。それは、愚鈍な父親とは地位も能力も比べ物にならない、独立した一人の成功者という高見への憧憬と、廃墟に溢れた死骸や村人を弱者であるなら、自分はその上に立つ強者であるべきという自身の観念からである。ともあれ、彼にとって勇者は天職になった。

 旅すがら彼の噂を聞き、多くの猛者が旅の道連れを願い出てきた。本心では一匹狼の方が気兼ねしないのでよかったが、その反面、何かと不便な事も多い。あまり拘りはなかったので、今の仲間はどちらかと言えば、色々な成り行きの結果で一緒になったというのがほとんどだった。だがそれは、旅立ちから順風満帆であったはずの小さな世界に陰影が差す発端となった。

 人にもよるが、才能は残酷な代物である。凡人と非凡とを比較すれば、後者の方が秀でるのは言うまでもないが、当然ながら非凡同士にも才能の優劣はある。

 勇者の選んだ仲間は、彼と同様、皆が才気に溢れている。最初は歯牙にもかけていなかったが、彼は徐々に自分が多士済済のパーティの中でずば抜けているどころか、実は遜色する格下だと気づいていった。

 確かに、小賢しい知恵も賢者の聡明さには敵わない。踏んだ場数も、老練な剣士となら話にならない。魔術に関しては多少血筋によるので仕方がないとは言え、剣とは違う不可視の力には劣等感を抱いた。

 勇者の中で、最近になって抱いていた疑惑が明確な輪郭を帯びていた。

 そもそも、このパーティにしても彼らがいる事で、実はここまで強くなったのではないか。強いモンスターに遭遇すればするほど、勇者の中でその答えが見え始めていた。遅れを取ってしまい、自分の本当の技量が少しずつ露呈していく様は、耐え難い屈辱より恐怖に近かった。どこからか仲間達の、果ては父の嘲笑が聞こえる。咳で隠した苦笑が混じり、失望の入ったため息とともに耳に入って来る。

 やはり、お前は樵の方が似合いだ。なのに、なぜこっちへ来たのだ。

 黙れ。現実に戻った彼は現状を忘れ、もう少しで叫びそうになった。心を落ちつかそうとしても、恐怖を超えて湧き上がる新しい絶望が、揺るぎないと今日まで信じて疑わなかったはずの信念が歪に曲がる。闇と共に培養した仲間の幻影が表面の金箔を剥ぎ取って、その内に籠る凡才たる己を暴いていく。

 一体何のために、あの森と父から逃げてきたのか。裸一貫のまま外の世界を渡り歩きながら世間智を体得した末、ついには天職を手にしたと思った。広がる名声、宿町の若い娘達の眼差し。そして金と名誉。

 そう、初めのうちはよかった。しかし、仲間を得て旅を続けるうち、越え難い境界が自分と四人の間にあるのを知った。結局、自分は井の中の蛙だった。だが、それにしても今の状況はなんだ。有能なはずの仲間達は怪物に引き裂かれ、残るは、恐怖と疎外感に縛られたままの軟弱な自分。

 もしかすると根本的に、勇者など目指すべきではなかったのかもしれない。   

 かつての父のように、やぶ蚊が飛ぶ森の中を安い酒を飲みながら安い賃金のために木を切り、それを賭けと家に費やして、烏合の衆の混じって猥雑で下品な話で盛り上がり、そして酒を飲む。凡人のまま死んでいく人生の方が、人間の本当の幸福である。もしかすると、父はそんな本質を見抜いていたのではないのか。

 しかしそれでは、あの無能な父と同じ轍を踏む。一番なりたくなかったはずの存在に自分はなってしまう。それが嫌ではなかったのか。だが凡人であったなら、恐ろしい人外を相手に剣を持って立ち向かうなどという、きちがいじみた行為などはたしてするだろうか。荒唐無稽な夢など持たぬ方が、人は道理に適っている。自分よりも、遥かに勇者と器量のある者だって山のようにいるのだ。

 だからと言って、当人にはどうしようもない生まれた氏や身分に、ただ阿呆の従えと言うのか。その結果、あの父のような末路に至れと言うのか。愛する妻に先立たれたウジウジ生きた揚句、石榴のように顔を割って死ぬのが人生の幸福か。それとも、怪物に襲われ村ごと野垂れ死になって果てるのが弱者の生きる道か。それに終生付き合わされる自分のような理不尽な子供はどうなるのだ。

 勇者の心は、いつ終わるか分からぬ二律相反の渦に飲み込まれていった。


 そのまま時間だけが無為に過ぎ去るかと思われた。しかし、その終わりは唐突に来た。長い時間をかけて勇者の背後に回り込んだ怪物が、その獲物に手を伸ばそうとした際、微弱だが気配と息使いが生じた。ずっと闇の中で索敵に全神経を研ぎ澄ませていた勇者には、それが十分なほどに感知できた。そして瞬時に、怪物の位置を完全に把握してしまう。怪物の複数の足の一本が勇者の背後に迫る直前、それを回避して屈みながら、彼は左に持った刃を横に薙ぎ払った。勇者の得物は、怪物の足を切断する手ごたえを彼に与えた。予期せぬ反撃に、高を括っていた怪物は狼狽し断末魔を上げる。その機会を逃さず、勇者は走りながら次々と敵の足を切り落としていく。全部で八本。さらに高く跳ねて、その胴体の括れのちょうど真ん中辺りを刺し貫いてから一気に横に切り裂いた。怪物が大地に伏す音が回廊中に反響する。

 すべては瞬間写真のような電光石火の早業だった。長い膠着の末に訪れた、形勢逆転とも言える決着にしては、あまりにもあっけない幕切れであった。


 数本の松明を周辺の柱に引っ掛けて、遺跡内に明かりを灯した。剥がれた石畳、崩れかけた柱、高い天井、回廊の奥に大きな女神像が祀られている事から、昔は神殿か何かだったのだろう。勇者は自分の体は怪物の黒い血を全身に被っていた。酸性の生臭い鼻につく。それから床に伏したいくつもの物体に目を向けた。

 所々で横に伏した四人の仲間、そして、半身を真二つにされても尚、不規則に蠢いている巨大な蜘蛛の怪物。その周囲に拳ほどの子蜘蛛が群がる。おそらくこの怪物は母親であろう。高い天井にはクモの巣で覆われ、白骨体がいくつも吊るされ、その中にはまだ血肉を残した者の死体も幾人か見えた。

 ほとんど衝動に近く、勇者の中で激しい赤い炎が差した。闇の回廊で抱いた屈辱や孤独感は、明るみに出た今、闇への恐怖とは対をなす攻撃的な感情に転化した。無数の子蜘蛛を踏みつける。勝利への快感のために、何度もその周りを歩く。それらのすり潰される音を聞きたいがためだ。

 仲間がいなくとも、やはり俺は一人でできるのだ。この才能は紛い物ではなかった。そして俺の選択は間違ってはいなかったのだ。

 彼は、倒れている母蜘蛛の顔に剣先を突き立てる。いくつもある種のような小さな目のあまりにもグロテスクさに改めて不快に感じたので、右端の目を突き刺した。キィィッと人ならぬ絶叫を上げる。見た目は駄目だが、まるで女が上げる声に少し似ているな。勇者はまたそれを聞きたくなり、別の目も突き刺した。そしてその隣の目も刺した。結局、すべての目を空洞にした。どす黒い血が涙となって滴り落ちる。

 母蜘蛛は知らぬ間に絶命していた。こんな虫に恐怖を抱いていたさっきの自分が別人のように思えた。子蜘蛛達も手当たり次第殺してやった。これで臆病な村人達がギャアギャアと喚く事もないだろう。

 やはり勇者は恐怖に屈してはいけない。自らが恐怖になるのだと、この時彼は思っただろう。その是非を問う事は、今の勇者にはない。

 それから、勇者は負傷した仲間達の元に駆けつけた。失いかけていた連帯感が甦ってくる。今までの孤独から沸き出た劣等感は、猜疑心に囚われた自分が垣間見た白昼夢だったと、自らに強く言い聞かせようとした。

 しかし、先刻のわだかまりは違和感として残る。自分が皆より強いのか。皆が偶々死角を取られ、皆より劣った自分が“偶然にも今回は”功を奏しただけなのか。

 それぞれ倒れている位置は離れていないので、目に入る順番に最年長の剣士から確認していく。僅かに灯っていた優しい火が、その凄惨を目に入れた時、大きく揺れた。老剣士がすでに息絶えているのは、ポッカリと胸に大きく空いた空洞で明らかだった。おそらく怪物の爪に貫かれたのだろう。

 なぜか悲しみは湧いてこない。代わりに浮かぶのは、なぜか生前の彼のある言動についてだった。未熟者の内は経験者に黙って従え。いつ頃からか、勇み足を踏もうとする勇者を捕まえては、いつも決まって吐き捨てるようになった。そしてその口癖に加えて、神経を逆なでさせる、あのしたり顔から浮かぶ死人の顔。どこか亡父の面影に似た、その顔を切り刻んでやりたいと何度も思った。

 勿論、剣士に悪意はない。あくまで老婆心から来る、若い戦士を諌めるためであったし、他の者にも言い聞かせていた。 “元”王室御用達の“元”凄腕剣士。過去の肩書をひけらかす老人。彼の眼に映る剣士の真実はそれしかなかったのだ。

 剣士の傍らに転がる賢者は、グニャリと銅を正反対に捩じらせている。同じく死んでいるとみて間違いない。学者ぶった銀の眼鏡はどこにも見当たらない。いつもそれのずれを直しては、涼しい顔でいつも自分の意見に異議を挟んでくる長広舌には、決まって論破される側の勇者にとって前々から鼻持ちならなかった。

 勿論、それは何も彼に対して限った事ではない。賢者自身も勇者や仲間の身を配慮しての、合理的な作戦を打ち立てているだけである。それは知識や知恵の割には、言葉のあやに欠ける賢者なりの不器用な心配りであった。しかし勇者の耳には、歪曲して自分に非を前提にして聞こえていた。

 すべては、日々の劣等から生まれた彼の妄想に過ぎない。

 二人の遺体を並べた後、少し離れた所に倒れている女魔道士の元に駆け寄る勇者の足取りは先ほどよりも軽くなった。パーティの紅一点が、その体を地べたに投げ出して横たわる姿を見て、落ち着いていたはずの鼓動がやや早まる。

 普段は綺麗好きで、毎日の沐浴を欠かさない彼女が今、だらしなく赤い唇を開き、埃と砂が混じったこんな不衛生な所で身を沈める光景は、官能的でさえある。女魔道士の、法衣やローブをすべて脱ぎ捨てた、一糸まとわぬ小柄な裸体を幻視する。

 以前から、勇者は女魔道士に対して欲望の目を向けていた。長いローブから生える細い脚線と踝、法衣の表面から薄く浮かぶ滑らかな肢体。豊満なそれとは、また異なる色気を感じる。首は、思わず手で絞めてやりたくなるほど、小枝のように弱弱しそうに細い。そして、勇者と同じく幼さが残る小柄な童顔。

 勇者は旅の途中、沐浴をする彼女を覗き見したい衝動に何度も駆られた事があった。その都度、自尊心を糧に律してきた。彼の望む勇者はそんな下劣ではない。しかし、心に劣情が巣くうのも事実である。この矛盾の均衡を辛うじて支え続けたのは、仲間や他人の目、そして父とは違う清廉潔白な自画像への妄執に他ならなかった。

 今この場で彼を監視する者などいない。勇者は彼女に覆いかぶさり、衣服越しにその体を存分に物色した。勇者には肖り知らぬ事実であるが、女魔道士もまた、彼の知らぬ間に、その姿を見つめる事が度々あった。しかしその瞳は、勇者の肉欲に満ちた視姦と違い、純粋な恋慕を常に秘めていた。

 それに加え、いつ頃かの戦いで、未熟さ故の失敗から窮地にあった自分を庇ったために、一生の傷害を余儀なくされた勇者に対する負い目もあった。

 無理やり口づけを重ね、唾液が垂れた唇から虫の息は漏れない。今はもう静かな心臓の鼓動が、離れた間隔で微かに聞こえるのみ。おまけに医療に長けた賢者も死んだ。自分ではもはや手の施しようがない。

 ならば最期に、女としての悦びを味わらせてやろう。口当たりのいい口実を並べ立て、自らの暗い欲望を優先する人面獣心に、自制心や道徳心など無意味である。

 だが女魔道士が纏うローブを内側の衣服ごと一気に引き裂いた時、女魔道士の瀕死の原因を目の当たりにした。むき出しになった欲望の塊が徐々に萎えていく。      

 白い腹部が横に裂かれ、そこから血肉に塗れた内臓が溢れ出ているのだ。絡み合うような細長い腸が、腹の上に盛ったように飛び出している姿は官能とは程遠い。彼は、穢れから逃れるように、慌てて彼女から離れた。

 勇者の中で性の対象であった女魔道士は、他の二人同等もしくはそれ以下になり下がった。もうこいつらは用無しだ。さて、どうしたものか。そう考えながらも、勇者の脳裏には簡単な答えが既に浮かんでいた。

――潮時だな。勇者は美しくも冷たい微笑を浮かべる。

 まず、二人の遺体と瀕死の彼女を大蜘の近くまで運び、無造作にその横に向かって放り捨てた。そしてその時に彼らの財布や物品を頂戴する。

 もはや死人には必要ないものばかりだ。まだ生きている者が手にしてこそ、死者に報いる。形見分けと同じと思えばいい。

 さらに死体の山の周囲に、松明用の油を満遍なく一滴残さずかけて、最後に近くの柱に刺さった松明を、利き手に慣れた左手で一本抜いた時だった。微弱な視線と気配が、自分を射抜くのを感じた。死体の山に目を向けると、やはりそれが女魔道士だと分かった。顔は朦朧としていながら、困惑と悲哀が籠る瞳はしっかりと開き、燃え盛る松明を持つ彼をまっすぐに見据える。そこに怒りや咎めが見出せない。

――どうして……?彼女の目が問いかける。

「悪いな。俺は元々こういう人間なんだ」

 一切の躊躇もなく、勇者は松明を放った。


 すべてが灰燼に伏すのを確認せず、青年は遺跡を後にした。火の手が上がる廃墟を背に、彼は麓の村へ向かう。勿論、恩賞と休息が目的である。

 片手には、かつての仲間達の装備や金品を入れた荷物を、もう片手には怪物の討伐の証しとする母蜘蛛の生首を携えている。

 まるで新しく生まれ変わったような爽快感に満ちていた青年は、上気分で今後の方策を練っていた。今度の仲間は少し愚鈍で思慮に欠ける者で十分だ。そして、盾に徹する独壇場に走らぬ都合のいい奴を探すとしよう。今回の戦果が流布すれば、また大望を抱く愚か者達が自分の元に集まるだろう。勇者の御傍に居られるだけで幸せですと言うに違いない。それと、金で股を開く娼婦もいいが、新しい女の道連れも欲しい。同じ仲間でも知恵の鈍い女の方が何かと便利だ。

 彼らには申し訳ないが、三人は無能だったからではなく、有能さ故に死んだ。死の順番に優劣など関係ない。要は流れに乗る事だ。すなわち個人の能力が及ばない、適者生存こそが世の理なのだ。今回の件は、学ぶ事や得たものがあまりにも多い。失ったものも、また手に入る。

 鉄面皮の展望をまき散らし、彼は淡々とした足取りのまま麓へ下りた。


 それから、青年は新たな仲間と共に、数知れぬ戦果を得て、ついには王国の謁見を受けるまでに至った。そしてそれからも、多くの戦いに身を投じてはその勝利と共に、民衆の間での物語はその枠を広げていった。勇者の伝説は、耳から耳、口から口へと脚色され膨張しながら、果てにはその死後以降、後世まで受け継がれた。

 しかし、青年の“それから”を真に語れる者はいない。

 この世に、真実は永遠に残る事はない。ただ、そこに事実が積もり、それを軸に虚構が紡がれる。皆にとって、それは知る必要のない事である。

 人が事実と虚構を通して彼を見たとしても、その姿はあの青年のものであり、かつての勇者とは言い難い。遠い昔のあの日、山の上に立つ古い神殿で三人の人間と大蜘蛛の親子だけが死んだ。はたして、そうだったのだろうか。

 今はもう、彼の真実はどこにもない。


               

                       (了)


いかがでしたか?本作が初投稿になります。

冗長な拙作ですが、読了頂きましたら作者冥利に尽きます。

世界観はファンタジーですが、ジャンルは一応、文学です。

今後は、定期的に同じ短編を二作予定していますので、

また、お時間があればお立ち寄りください。


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