↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

影引き

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/28

夏祭りの夜は、影が濃い。


境内から参道まで提灯が何列も吊られているせいだろう。右へ伸びたと思った影が数歩進めば左へ回り、屋台の前では足元へ縮み、神社の石段では背中から長く這っていく。


「お前、影ふたつない?」


隣を歩いていた健太が言った。


「は?」

「ほら、そこ」


焼きそばの容器を持ったまま、健太が俺の足元を指さす。


見れば、確かに二本あった。


一本は俺の影。もう一本は、その脇に重なるように伸びた細くて小さな影だった。背丈だけなら、小学校低学年くらいだろうか。


俺が一歩動けば、それも動く。


「提灯いっぱいあるからだろ」

「まあ、そうか」


それだけで話は終わった。


太鼓が鳴っている。笛が鳴っている。境内の奥では盆踊りの輪が回り、焼きとうもろこしの焦げた匂いと、かき氷の甘いシロップの匂いが混ざっていた。


子どもが走り、その後ろから親が名前を呼ぶ。屋台の親父が声を張り上げ、金魚すくいの水面で赤い尾が揺れる。


暑い。人が多い。うるさい。


夏祭りなんて、そんなものだ。


俺たちは射的を冷やかし、金魚すくいを眺め、最後にラムネを買った。


健太が瓶の中のビー玉を転がしながら言う。


「そういや、影引きって知ってる?」

「何それ」

「この辺で昔やってた遊び。夜に誰かの影を踏んで、そいつの名前呼ぶんだって」

「で?」

「呼ばれたやつは振り向いちゃいけない」

「振り向いたら?」

「知らん」

「知らんのかよ」

「ばあちゃんが言ってたんだよ。昔、祭りの日に影引きやって、一人いなくなったって」

「いつの話だよ」

「それも知らん」


何も知らないじゃねえか、と笑った。


健太も笑った。


そのときだった。


「――直人」


後ろから、名前を呼ばれた。


近かった。


耳のすぐ後ろで呼ばれたような気がして、反射的に振り向いた。


誰もいない。


いや、人ならいくらでもいる。浴衣姿の親子も、綿菓子を持った子どもも、うちわを扇ぐ老人も、俺の横を普通に通り過ぎていく。


ただ、俺を呼んだ人間だけがいなかった。


「何?」


健太が怪訝そうに見る。


「いや、今、呼ばれた気がして」

「影引きじゃん」

「やめろよ」

「しかも振り向いたし」

「お前だろ」

「俺じゃねえって」


健太は笑いながら先に歩いた。


俺もその後を追う。


しばらくして、妙なことに気づいた。


太鼓が聞こえない。


演奏が終わったのかと思って境内を見ると、櫓の上ではまだ男が太鼓を叩いている。


腕が上がる。


ばちが落ちる。


太鼓の皮が沈む。


音だけが、しない。


「……健太」


返事がない。


隣を見ると、健太は何か喋っていた。こちらを見ながら口を動かしている。


声が聞こえない。


「おい」


自分でもそう言ったつもりだった。


何も聞こえなかった。


笛も、太鼓も、屋台の呼び声も、子どもの笑い声も消えている。鉄板の上で焼きそばを混ぜる音も、下駄が石畳を叩く音も、風に揺れる提灯の紙の擦れる音さえしない。


自分の呼吸まで聞こえなかった。


それなのに祭りは続いている。


人々は笑い、話し、食べ、歩いている。


音だけが、俺のいる場所から消えていた。


健太の肩を掴もうとした。


手が届かなかった。


ほんの半歩先にいるはずなのに、腕を伸ばしても距離が縮まらない。


「健太!」


叫んだ。


声はない。


健太はこちらを見なくなった。


そのまま人混みの向こうへ歩いていく。


追いかけようとして、足が止まった。


重い。


足元を見る。


俺の影がある。


その後ろに、もう一本。


さっきの小さな影。


今度は重なっていなかった。


明らかに、俺の後ろに立っている。


振り向く。


誰もいない。


もう一度、足元を見る。


影だけがいた。


小さな頭。細い肩。


片腕がゆっくり伸びてくる。


その手が、俺の影の足首を掴んだ。


身体が後ろへ引かれた。


違う。


引かれているのは身体じゃない。


地面に貼りついていた俺の影が、少しずつ後ろへずれている。


それにつられて身体まで傾き、石畳に手をついた。


痛い。


なのに、手を打った音すらしなかった。


前では祭りが続いている。


誰も気づかない。


提灯の下を人が歩き、屋台では客が笑い、櫓の周囲では盆踊りの輪が回っている。


影が、ずるりと動いた。


俺の身体より先に。


もう一度。


ずるり。


やめろ。


声にならない。


影の足が、俺の足から離れた。


次に腕が離れた。


輪郭が少しずつ俺から剥がれていく。


代わりに、小さな影が近づいてくる。


それが俺の足元へ重なった瞬間、提灯の明かりが一斉に遠ざかった。


目を開けると、自分の部屋だった。


朝だった。


蝉が鳴いていた。


壁の時計が秒を刻んでいる。階下からは食器の触れ合う音もする。


音が戻っている。


俺はしばらく布団の上で動けなかった。


昨夜のことを思い出す。


祭り。健太。消えた音。影。


夢だったと思いたかった。


けれど膝には、石畳で擦ったような傷が残っていた。


階段を降りると、母が味噌汁をよそっていた。


「あ、起きた」

「……俺、昨日どうやって帰ってきた?」

「どうって、普通に帰ってきたけど」

「何時ごろ?」

「十時前じゃなかった? 健太くんと途中まで一緒だったんでしょ」

「俺、何か変じゃなかった?」

「別に。ちょっと静かだったくらい」


母はそれ以上気にした様子もなく、朝食を並べていく。


冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐと、母がちらりとこちらを見た。


「あんた、氷入れないの珍しいね」


コップを見る。


「……そうだっけ」

「いつも山ほど入れるじゃない」


そう言われて、氷を二つ入れた。


冷たい麦茶を飲んでいるうちに、少しずつ昨夜のことが現実味を失っていった。


帰ってきた。


少なくとも、俺はここにいる。


そう思ったところで、母がスマホを差し出した。


「そうそう。健太くんのお母さんから送られてきたよ」


昨夜の写真だった。


境内の前で、俺と健太が並んでいる。


二人とも笑っていた。


撮られた記憶はない。


「いい写真じゃない」


母はそう言って台所へ戻った。


俺は画面を拡大した。


写真の中の俺の足元に、影が二つあった。


一本は、小さな子どもの影。


もう一本は俺の影。


そこまでは覚えている。


違ったのは、その先だった。


小さな影は、俺の足元から伸びていた。


俺の影は俺の身体から外れ、写真の端へ向かって長く引き延ばされている。


暗がりの向こうへ。


誰かに足を掴まれ、そのまま引きずられていくように。


スマホを落とした。


カタン、と床で鳴った。


母が振り返る。


「どうしたの?」

「……なんでもない」


窓から朝日が差していた。


俺はゆっくり足元を見た。


床に影が伸びている。


ちゃんと、俺の足元から。


ただし、小さい。


どう見ても子どもの影だった。


俺は右手を上げた。


影は動かなかった。


少し遅れて、小さな影が腕を上げる。


そして、


昨夜、祭りがあった方角へ手を振った。

夏祭りの季節も、そろそろ終わりつつありますね。


賑やかな祭りの帰り道ほど、急に静かになると少し怖く感じます。


そんな夏の終わりに、ひとつだけ影のお話を。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。