影引き
夏祭りの夜は、影が濃い。
境内から参道まで提灯が何列も吊られているせいだろう。右へ伸びたと思った影が数歩進めば左へ回り、屋台の前では足元へ縮み、神社の石段では背中から長く這っていく。
「お前、影ふたつない?」
隣を歩いていた健太が言った。
「は?」
「ほら、そこ」
焼きそばの容器を持ったまま、健太が俺の足元を指さす。
見れば、確かに二本あった。
一本は俺の影。もう一本は、その脇に重なるように伸びた細くて小さな影だった。背丈だけなら、小学校低学年くらいだろうか。
俺が一歩動けば、それも動く。
「提灯いっぱいあるからだろ」
「まあ、そうか」
それだけで話は終わった。
太鼓が鳴っている。笛が鳴っている。境内の奥では盆踊りの輪が回り、焼きとうもろこしの焦げた匂いと、かき氷の甘いシロップの匂いが混ざっていた。
子どもが走り、その後ろから親が名前を呼ぶ。屋台の親父が声を張り上げ、金魚すくいの水面で赤い尾が揺れる。
暑い。人が多い。うるさい。
夏祭りなんて、そんなものだ。
俺たちは射的を冷やかし、金魚すくいを眺め、最後にラムネを買った。
健太が瓶の中のビー玉を転がしながら言う。
「そういや、影引きって知ってる?」
「何それ」
「この辺で昔やってた遊び。夜に誰かの影を踏んで、そいつの名前呼ぶんだって」
「で?」
「呼ばれたやつは振り向いちゃいけない」
「振り向いたら?」
「知らん」
「知らんのかよ」
「ばあちゃんが言ってたんだよ。昔、祭りの日に影引きやって、一人いなくなったって」
「いつの話だよ」
「それも知らん」
何も知らないじゃねえか、と笑った。
健太も笑った。
そのときだった。
「――直人」
後ろから、名前を呼ばれた。
近かった。
耳のすぐ後ろで呼ばれたような気がして、反射的に振り向いた。
誰もいない。
いや、人ならいくらでもいる。浴衣姿の親子も、綿菓子を持った子どもも、うちわを扇ぐ老人も、俺の横を普通に通り過ぎていく。
ただ、俺を呼んだ人間だけがいなかった。
「何?」
健太が怪訝そうに見る。
「いや、今、呼ばれた気がして」
「影引きじゃん」
「やめろよ」
「しかも振り向いたし」
「お前だろ」
「俺じゃねえって」
健太は笑いながら先に歩いた。
俺もその後を追う。
しばらくして、妙なことに気づいた。
太鼓が聞こえない。
演奏が終わったのかと思って境内を見ると、櫓の上ではまだ男が太鼓を叩いている。
腕が上がる。
ばちが落ちる。
太鼓の皮が沈む。
音だけが、しない。
「……健太」
返事がない。
隣を見ると、健太は何か喋っていた。こちらを見ながら口を動かしている。
声が聞こえない。
「おい」
自分でもそう言ったつもりだった。
何も聞こえなかった。
笛も、太鼓も、屋台の呼び声も、子どもの笑い声も消えている。鉄板の上で焼きそばを混ぜる音も、下駄が石畳を叩く音も、風に揺れる提灯の紙の擦れる音さえしない。
自分の呼吸まで聞こえなかった。
それなのに祭りは続いている。
人々は笑い、話し、食べ、歩いている。
音だけが、俺のいる場所から消えていた。
健太の肩を掴もうとした。
手が届かなかった。
ほんの半歩先にいるはずなのに、腕を伸ばしても距離が縮まらない。
「健太!」
叫んだ。
声はない。
健太はこちらを見なくなった。
そのまま人混みの向こうへ歩いていく。
追いかけようとして、足が止まった。
重い。
足元を見る。
俺の影がある。
その後ろに、もう一本。
さっきの小さな影。
今度は重なっていなかった。
明らかに、俺の後ろに立っている。
振り向く。
誰もいない。
もう一度、足元を見る。
影だけがいた。
小さな頭。細い肩。
片腕がゆっくり伸びてくる。
その手が、俺の影の足首を掴んだ。
身体が後ろへ引かれた。
違う。
引かれているのは身体じゃない。
地面に貼りついていた俺の影が、少しずつ後ろへずれている。
それにつられて身体まで傾き、石畳に手をついた。
痛い。
なのに、手を打った音すらしなかった。
前では祭りが続いている。
誰も気づかない。
提灯の下を人が歩き、屋台では客が笑い、櫓の周囲では盆踊りの輪が回っている。
影が、ずるりと動いた。
俺の身体より先に。
もう一度。
ずるり。
やめろ。
声にならない。
影の足が、俺の足から離れた。
次に腕が離れた。
輪郭が少しずつ俺から剥がれていく。
代わりに、小さな影が近づいてくる。
それが俺の足元へ重なった瞬間、提灯の明かりが一斉に遠ざかった。
目を開けると、自分の部屋だった。
朝だった。
蝉が鳴いていた。
壁の時計が秒を刻んでいる。階下からは食器の触れ合う音もする。
音が戻っている。
俺はしばらく布団の上で動けなかった。
昨夜のことを思い出す。
祭り。健太。消えた音。影。
夢だったと思いたかった。
けれど膝には、石畳で擦ったような傷が残っていた。
階段を降りると、母が味噌汁をよそっていた。
「あ、起きた」
「……俺、昨日どうやって帰ってきた?」
「どうって、普通に帰ってきたけど」
「何時ごろ?」
「十時前じゃなかった? 健太くんと途中まで一緒だったんでしょ」
「俺、何か変じゃなかった?」
「別に。ちょっと静かだったくらい」
母はそれ以上気にした様子もなく、朝食を並べていく。
冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐと、母がちらりとこちらを見た。
「あんた、氷入れないの珍しいね」
コップを見る。
「……そうだっけ」
「いつも山ほど入れるじゃない」
そう言われて、氷を二つ入れた。
冷たい麦茶を飲んでいるうちに、少しずつ昨夜のことが現実味を失っていった。
帰ってきた。
少なくとも、俺はここにいる。
そう思ったところで、母がスマホを差し出した。
「そうそう。健太くんのお母さんから送られてきたよ」
昨夜の写真だった。
境内の前で、俺と健太が並んでいる。
二人とも笑っていた。
撮られた記憶はない。
「いい写真じゃない」
母はそう言って台所へ戻った。
俺は画面を拡大した。
写真の中の俺の足元に、影が二つあった。
一本は、小さな子どもの影。
もう一本は俺の影。
そこまでは覚えている。
違ったのは、その先だった。
小さな影は、俺の足元から伸びていた。
俺の影は俺の身体から外れ、写真の端へ向かって長く引き延ばされている。
暗がりの向こうへ。
誰かに足を掴まれ、そのまま引きずられていくように。
スマホを落とした。
カタン、と床で鳴った。
母が振り返る。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
窓から朝日が差していた。
俺はゆっくり足元を見た。
床に影が伸びている。
ちゃんと、俺の足元から。
ただし、小さい。
どう見ても子どもの影だった。
俺は右手を上げた。
影は動かなかった。
少し遅れて、小さな影が腕を上げる。
そして、
昨夜、祭りがあった方角へ手を振った。
夏祭りの季節も、そろそろ終わりつつありますね。
賑やかな祭りの帰り道ほど、急に静かになると少し怖く感じます。
そんな夏の終わりに、ひとつだけ影のお話を。




