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AI作文_仮題:銀河経済の興亡  作者: OZONE
第四章 恒星市場の庭師
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第一部 未来を植える者

第四章 恒星市場の庭師

第一部 未来を植える者


 恒星には、まだ名前がなかった。


 銀河開発公報上の識別名は、E-LYS-4372候補系。オルビス・ガーデン社の社内呼称では、エリュシオン候補系。ユグドラ・インデックス社の一次評価表では、開発前資産群第八七一二分類、投資待機恒星系、SFI暫定値六二・四。


 けれど、榊ミオが最初にその星を見たとき、そこには数値も分類もなかった。


 観測室の壁一面に投影された恒星は、白金色の小さな脈動として輝いていた。周囲には未整備の小惑星帯、二つの大型ガス惑星、内側に三つの岩石惑星、外縁に氷質天体群。入植に適した惑星はまだ確定していない。軌道都市を置くなら第三惑星外側のラグランジュ域。資源帯の採算は中程度。恒星活動は安定。大災害リスクは低いが、航路接続性は悪い。


 条件だけを見れば、悪くない。


 だが、それだけでは未来にはならない。


 未来とは、星そのものではない。そこへ誰を送り、何を建て、何を禁じ、何を許し、どの失敗を制度の中に残すかで決まる。ミオの仕事は、恒星系に都市を置くことではなかった。恒星系が、百年後、二百年後、千年後に、どのような人生を許す場所になるのかを設計することだった。


 オルビス・ガーデン社では、そういう仕事をする者を恒星庭師と呼んだ。


 庭師。


 美しい呼び名だと、入社した頃のミオは思っていた。庭師は荒れ地に手を入れ、光と水と土壌を整え、まだ見えない花のために今日の配置を決める。乱暴な開拓者でも、投機家でも、支配者でもない。未来を育てる者。


 だが今のミオは、その呼び名に少しだけ違和感を持っている。


 庭師は、植えるものを選ぶ。


 伸びすぎる枝を切る。


 他の植物の栄養を奪う芽を抜く。


 庭として美しく見えるよう、育ち方を先に決める。


 未来を育てるという言葉は、未来を選別するという意味を、いつも内側に隠している。


 観測室の背後で、評価通知が鳴った。


 《SFI一次再計算完了》

 《対象:エリュシオン候補系》

 《総合評価:六二・四》

 《推奨:設計修正》

 《主因:人的流動性過多、契約継続率不安定、世代債務固定性不足、反乱予測値の不確定幅過大》


 ミオは、その表示を見ても表情を変えなかった。


 変えないように、訓練されていた。


 彼女の隣で、補佐設計士のリノ・タカハラが息を呑んだ。まだ二十代前半で、候補系を丸ごと扱う案件は初めてだった。リノは端末を抱えたまま、ミオの横顔を見た。


「六二・四……低すぎます」


「低いわね」


「事前モデルでは七四を下回らないはずでした。資源帯の補正も、恒星安定性も、居住候補惑星の環境回復コストも、全部想定内です。どこで落とされたんですか」


「人間」


 ミオは短く答えた。


 リノは一瞬、意味を理解できなかったように瞬きをした。ミオは評価詳細を開いた。青白い表示が観測室の床にまで広がり、恒星系の未来が、項目ごとに切り分けられていく。


 職業変更許容率。


 居住区移動自由度。


 教育再選択枠。


 移民契約再交渉周期。


 出生後適性再分類の拒否権。


 長期医療債務の再編可能性。


 共同体離脱時の違約負担。


 標準外居住区の合法化余地。


 ミオの設計案では、これらの項目が高く設定されていた。移民は一度選んだ職業を一生背負わなくてよい。子供は親の移住契約に完全には縛られない。教育債務は一定周期で再計算できる。医療負債は世代間で自動継承されない。居住区を変える権利には、一定の保障がある。失敗した人間が、別の区画でやり直せる。


 ミオにとって、それは人間社会として当然の安全弁だった。


 ユグドラ・インデックス社のモデルにとっては、違った。


 《未来収益固定性:低》

 《債務回収予測:不安定》

 《労働人口配置効率:中》

 《職能拘束係数:不足》

 《教育投資回収期間:長期化》

 《世代間契約継続率:低》

 《投資家説明可能性:低》


 リノが小さく言った。


「……選び直せるようにしたから、評価が落ちたんですか」


「そう」


「でも、選び直せない社会は、長期的に壊れます」


「壊れるかどうかは、モデル期間の外側にある」


 ミオは投影された恒星を見た。


「SFIの一次評価は、百二十年までを強く見る。二百年以降は割り引かれる。三百年以降は、ほとんど神話みたいな扱いになる」


「恒星系開発なのに」


「恒星は長く生きる。でも投資契約はそうじゃない」


 リノは黙った。


 ミオも黙った。


 観測室の中央で、まだ名前のない恒星が白金色に瞬いている。恒星にとって百年など、呼吸にも満たない。だが市場にとって百年は長すぎる。人間の人生はその中間にある。短すぎて星には見えず、長すぎて契約には入らない。


 ミオは、その中間を設計する仕事をしていた。


 それが今日、低評価を受けた。



     *


 オルビス・ガーデン社の本社軌道庭園は、恒星間航路の交差点に浮かぶ巨大な環状施設だった。


 社名に合わせるためか、中央区画には本物の樹木が植えられている。もちろん、銀河後期の軌道施設で樹木を維持することは、贅沢というほどではない。だが、恒星開発会社の本社が、あえて土と水と根を見せることには意味があった。


 私たちは植民ではなく、栽培をしている。


 私たちは搾取ではなく、成長を支援している。


 私たちは星を使い捨てるのではなく、庭にしている。


 そういう物語が、来客通路の根元から天井まで、丁寧に設計されていた。


 ミオはその通路を、足早に歩いた。両側の透明壁の外には、遠い星々と航路標識が流れている。彼女の視界内端末には、ユグドラ社からの正式面談通知が表示され続けていた。


 《エリュシオン候補系SFI評価説明会》

 《出席者:オルビス・ガーデン社未来資産設計部、ユグドラ・インデックス社上級評価局》

 《主査:アルバ・セリオン》


 アルバ・セリオン。


 名前は知っていた。


 銀河中枢圏の高採算恒星系をいくつも再評価し、資本流入を加速させた人物。辺境系の失敗案件を短期間で切り捨て、損失を抑えた人物。指数の冷徹な守護者。未来を感情から守る男。


 そう呼ばれている。


 ミオは、そういう評判をあまり信用しない。人間は肩書きで単純化されるほど便利ではない。ただし、便利でない人間ほど、制度の中ではより危険になることがある。


 会議室は、庭園区画の最奥にあった。


 扉が開くと、そこにはすでにユグドラ社の人間たちが座っていた。全員が黒に近い灰色の服を着ている。社章は樹木ではなく、枝分かれする指数線。成長ではなく、分岐と収束を意味する紋章だった。


 中央に座っていた男が立ち上がった。


 アルバ・セリオン。


 年齢は四十代前半に見える。銀河標準医療の時代では、外見年齢にあまり意味はない。髪は淡い銀色で、目は薄い琥珀色。冷たい印象ではあるが、嫌悪感を煽る冷たさではなかった。むしろ、よく整った礼儀正しさがある。


「榊ミオさんですね」


「はい。オルビス・ガーデン社、未来資産設計部、エリュシオン候補系担当、榊ミオです」


「アルバ・セリオンです。本日は、あなたの設計案について話し合いに来ました」


 その声は穏やかだった。


 穏やかであることが、逆に厄介だった。


 怒りや軽蔑は、反論しやすい。穏やかな合理性は、反論する側にだけ感情的な色を与える。


 会議が始まると、アルバはすぐに本題へ入った。


「結論から申し上げます。エリュシオン候補系は、現行設計のままでは主要資本の一次募集対象に入れません」


 オルビス側の役員席に、硬い沈黙が降りた。


 ミオは端末を開いたまま、アルバを見た。


「理由は、SFI六二・四という評価ですか」


「正確には、その内訳です」


 アルバが手を動かすと、会議室中央に評価モデルが展開された。恒星系は美しい図ではなく、収益曲線、人口移動線、教育債務回収グラフ、医療負担指数、反乱確率分布、離脱リスクマップへ分解された。


 ミオの設計した未来が、無数の線に変わる。


「資源、恒星安定性、初期居住性、航路拡張余地。これらは悪くありません。むしろ辺境系としては優秀です。問題は人的設計です」


「人的設計」


「ええ。あなたの都市計画は、移民個人に過剰な選択余地を残しています。職業変更、教育再選択、居住地変更、契約離脱、債務再編、共同体再所属。これらが自由に近い形で設計されている」


「自由に近い形ではありません。一定周期の審査と保証基金を伴う制度です」


「市場から見れば同じです。将来収益を固定しにくい」


 ミオは、一拍置いた。


「人間の人生は、固定する対象ではありません」


 アルバは、ほんの少しだけ目を細めた。


 怒ったのではない。


 むしろ、その答えを予測していたようだった。


「理念としては理解します。ですが、恒星系開発は理念だけでは成立しません。移民船団、初期都市、生命維持、航路保険、教育機関、医療供給、長期資源回収。すべてに資本が必要です。資本は、予測可能な未来に集まります」


「予測可能にするために、人間を縛れと?」


「縛るのではありません。安定させるのです」


 アルバは、表示の一部を拡大した。


 そこには、修正案が並んでいた。


 職業変更権の初期十五年停止。


 教育債務の家族単位継承。


 移住契約の二世代固定。


 医療負債の居住権連動。


 共同体離脱時の補償倍率引き上げ。


 非正規居住区の完全排除。


 適性指数による出生後教育経路の自動割当。


 ミオは、修正案を黙って読んだ。


 よくできている。


 それが最初の感想だった。


 嫌悪ではない。怒りでもない。恐怖でもない。よくできている。人口は安定する。職能配置は読みやすくなる。教育投資は回収しやすい。医療費は個人ではなく家族単位で吸収される。移動コストは下がる。反乱は短期的には抑えられる。SFIは上がるだろう。


 だからこそ、ミオは嫌だった。


 悪い設計なら、切り捨てればいい。


 これは、良い設計だった。


 市場にとっては。


「この修正案を採用すれば、SFIはいくつになりますか」


「八一・七まで上がります」


 役員席の一人が、小さく息を吐いた。


 八一・七。


 それは、辺境候補系としては破格の値だった。資本募集は成功し、オルビス・ガーデン社の株価は上がり、エリュシオン候補系は正式開発へ進む。多くの人間が移住できる。都市が建つ。学校ができる。病院ができる。航路が伸びる。ミオの設計した星系は、現実になる。


 ただし、人間の選び直しを削れば。


 アルバは、静かに続けた。


「誤解しないでください。私は人間の自由を軽視しているわけではありません。ただ、自由は量を誤るとリスクになります。選択肢が多い社会は美しい。だが、選択肢が多すぎる社会は破綻する」


 ミオはアルバを見た。


 その言葉に、演説の熱はなかった。


 本気でそう考えている人間の声だった。


「人間は自由を求めるが、自由な人間の群れは未来を壊す。だから未来は、設計されなければならない」


 会議室の空気が、わずかに重くなった。


 ミオは、自分の手が机の下で軽く握られていることに気づいた。


 怒りではない。


 もっと厄介なものだった。


 理解できてしまうことへの抵抗。


 アルバの言葉は間違っていない。無秩序な自由は社会を壊す。契約も、教育も、医療も、航路も、安定した予測なしには維持できない。未来を設計する仕事をしているミオ自身、それを知っている。


 問題は、どこまで設計するかだった。


 人間が生きるための土壌を整えるのか。


 人間が育つ形まで指定するのか。


 庭師と支配者の境界は、意外なほど細い。


「検討します」


 ミオはそう答えた。


 リノが驚いたようにミオを見た。


 アルバは表情を変えなかった。


「よい返答です。即答しない設計士は信用できます」


「即答できるほど単純な問題ではありませんから」


「ええ。その通りです」


 会議は形式的な確認へ移った。数値、日程、再提出期限、修正案の範囲、資本募集の延期可能期間。未来は、事務的に保留されていく。


 ミオは、会議室中央に浮かぶエリュシオン候補系を見ていた。


 まだ誰も住んでいない恒星系。


 まだ誰も生まれていない都市。


 まだ誰も選んでいない職業。


 まだ誰も失敗していない人生。


 それらに、今、値段がつけられようとしている。



     *


 会議後、ミオは本社庭園の下層へ降りた。


 下層には、来客に見せない本物の根がある。上層の樹木が美しく見えるよう、栄養液、微生物管理、根圧制御、排水、枯死枝の処理が隠されている。庭園の美しさは、見えない管理で支えられている。


 ミオは、この場所が嫌いではなかった。


 むしろ、上層の飾られた緑より、下層の配管と湿った土の匂いの方が信用できた。


「検討します、ですか」


 背後からリノの声がした。


 ミオは振り向かなかった。


「そう言ったわ」


「採用するつもりですか」


「まだ決めていない」


「でも、あれは……」


 リノは言葉を探した。


「人間を、最初から逃げられない形にする設計です」


「そうね」


「なのに検討するんですか」


「エリュシオンが開発中止になれば、誰もそこへ行けない」


「それは……」


「都市が建たなければ、自由もない。学校もない。病院もない。選択肢もない。ゼロよりは、縛られた未来の方がましだと考える人もいる」


 リノは黙った。


 ミオは根の間を歩いた。透明な管の中を栄養液が流れている。枝葉は上で風を受け、根は下で計算された液体を飲む。自由に伸びているように見える樹木も、この施設では一本ごとに成長速度を管理されている。


 それでも、葉は光を向く。


 管理された根でも、枝は予定外の方向へ伸びる。


 ミオは、その誤差が好きだった。


「リノ」


「はい」


「あなたは、庭師の仕事は何だと思う」


「星を育てることです」


「星は勝手に育つわ。恒星は燃えるし、惑星は回る。私たちが育てるのは、星ではなく、人間の生活圏よ」


「はい」


「生活圏を育てるということは、人間が生き延びるために必要な条件を整えること。でも、条件を整えすぎると、人間はその条件から出られなくなる」


 リノは、根を見下ろした。


「じゃあ、何を基準に決めるんですか」


 ミオはすぐには答えなかった。


 基準。


 それがあれば、苦労はしない。


 彼女は数字を信じている。数字は嘘をつかない。ただし、何を数えるかを決める人間は嘘をつく。もっと正確に言えば、嘘をついている自覚なしに、世界を切り落とす。


 SFIは未来を数える。


 だが、選び直しの価値をどれほど数えているだろうか。


 失敗した人間が戻れること。


 適性が間違っていたと認められること。


 契約した親から生まれた子供が、別の人生を選べること。


 故郷を出ても、戻ってよい場所が残ること。


 それらは、短期収益にはならない。だが、社会が壊れないための余白になる。


 ミオは、その余白を数式にしたかった。


 道徳としてではなく。


 祈りとしてではなく。


 市場が無視できない形で。


「基準は、まだ作れていない」


 ミオは正直に言った。


「だから、作る必要がある」



     *


 その夜、ミオはエリュシオン候補系の設計室に戻った。


 設計室は、個人用というには広すぎる空間だった。恒星系全体を立体投影するため、天井が高く、床は透明な演算面になっている。中心に恒星。周囲に惑星軌道。資源帯。航路候補。将来都市ノード。教育圏。医療圏。文化消費予測。人口流入曲線。出生率。死亡率。債務継承率。


 すべてが光で描かれている。


 未来は、美しい。


 まだ誰も苦しんでいないからだ。


 ミオは、ユグドラ社の修正案を一つずつ設計図へ重ねた。


 SFIが上がる。


 資本流入が増える。


 都市建設時期が早まる。


 航路保険料が下がる。


 教育機関の参入数が増える。


 医療供給契約が安定する。


 移民募集が容易になる。


 一方で、職業変更可能人口が減る。


 居住区離脱コストが上がる。


 教育債務の家族継承率が上がる。


 医療負債による移動制限が増える。


 出生後適性分類の固定率が上がる。


 三世代目以降の心理破綻予測が増える。


 ただし、心理破綻予測はSFI主要項目ではない。


 反乱予測は、短期的には低下する。


 長期的には、データ不足。


 データ不足。


 ミオはその言葉をじっと見た。


 データがないものは、存在しないものとして扱われる。


 だが、データがないのは、まだ誰も記録しなかったからかもしれない。あるいは、記録される前に死んだのかもしれない。


 第1章の軌道エレベーター時代、宇宙への道は企業の門になった。通った貨物と、待たされた貨物があった。門の外側に残ったものは、記録されなければ存在しない。


 第2章の月面では、呼吸が残高になった。OXY腕輪は空気を数字にした。だが、数字にできない呼吸の不安は、誰かが書かなければ残らない。


 第3章の火星では、企業規格の違いが扉を閉じた。MARS-COMMONは、誰のものでもない扉を開けるために作られた。標準とは、効率のためだけでなく、見捨てないためにも存在する。


 それらは、ミオの時代では歴史だった。


 歴史は、便利な参照資料として扱われる。だがミオには、ときどきそれが警告灯に見えた。


 同じことが、形を変えて繰り返されている。


 門。


 腕輪。


 扉。


 そして今、未来。


 どれも最初は便利な仕組みとして作られた。だが、便利な仕組みは、誰を通すかを決め始める。


 ミオは資料庫を開き、古い公共緊急規格群を呼び出した。


 MARS-COMMON。


 表示された規格番号は、銀河時代の最新標準から見れば古かった。形式も粗い。例外処理も多い。美しくない。けれど、その最初の原則には、今読んでも奇妙な強さがあった。


 《緊急時、所属・残高・契約状態・企業IDに先立ち、生命維持接続を優先する》


 ミオは、その文を声に出さずに読んだ。


 所属に先立ち。


 残高に先立ち。


 契約状態に先立ち。


 企業IDに先立ち。


 古い言葉だった。


 火星の砂の中で作られた言葉。


 死者の後に残された言葉。


 今の銀河では、多くの標準がMARS-COMMONを祖先に持つ。だが祖先は、利用されるほど忘れられる。便利な機能だけが残り、なぜ作られたかは削られる。


 ミオは、エリュシオン候補系の基礎生命維持レイヤーに、その原則を組み込む案を呼び出した。


 すでに提出案には入れていた。


 ユグドラ社は、それを非効率項目として減点していた。


 緊急アクセスの無条件性は、契約統制を弱める。


 最低生命層は、債務回収力を下げる。


 居住者が契約不履行でも生存できる仕組みは、規律を損なう。


 ミオは、笑いそうになった。


 規律。


 人間が死なないことを、規律低下と呼ぶモデルがある。


 モデルが悪意を持っているわけではない。悪意がないからこそ、たちが悪い。モデルは、与えられた目的関数に忠実なだけだ。未来収益を最大化せよ。予測不能性を減らせ。債務回収を安定させよ。契約履行率を高めよ。


 その目的関数の外側に、人間がいる。


 ミオは別の資料を開いた。


 古い生命維持IDの系譜。


 OXY腕輪は、今では博物館級の技術だった。月面開拓期の粗い端末。酸素残量、労働契約、居住権、支払能力を腕に表示する装置。銀河時代の統合生体IDから見れば、原始的で、危険で、露骨だった。


 だが、思想は消えていない。


 現在の移民端末は腕輪ではない。皮膚下端末、視界内ID、神経認証、居住契約クラウド。見た目は洗練され、痛みは隠された。だが、生命維持アクセスと契約状態の結合は、形を変えて残っている。


 人間は、古い鎖を嫌う。


 だから新しい鎖は、見えないように作られる。


 ミオは、エリュシオン候補系の移民端末設計を開いた。


 彼女の案では、緊急時の酸素、水、医療、避難権は契約状態から切り離されている。平時の居住区、職業、債務処理、教育アクセスは契約と結びつくが、生命維持の最低層だけは別だ。


 ユグドラ社は、それを不安定要因と呼んだ。


 ミオは、その項目に新しい注釈をつけた。


 《最低生命層は、反乱予測低減のための保険として再評価可能》


 道徳ではなく、保険。


 自分で書いて、少し嫌になった。


 だが、道徳のままでは市場に読まれない。祈りのままでは指数に入らない。人間を見捨てないためには、ときに見捨てないことに値段をつける必要がある。


 それは矛盾している。


 だが、矛盾の中にしか入り口がない。


 ミオは、さらに古い航路データを開いた。エリュシオン候補系へつながる可能性のある旧式航路、廃止された移民中継点、歴史的参照値のみ残った星系。大半は低収益で、現在のSFIモデルではほとんど無視される。


 その一覧の中に、一瞬だけ、奇妙な記号が表示された。


 《SOL-0》

 《分類不能》

 《収益評価停止》

 《歴史的参照値のみ残存》


 ミオは指を止めた。


 SOL-0。


 聞いたことのない名称ではなかった。銀河標準史の最初期、軌道物流、OXY生命維持、MARS-COMMON、AST-COMMONなどの古い規格群を調べると、ときどき現れる。だが、説明はいつも曖昧だった。


 起源系。


 旧分類。


 参照停止。


 歴史的候補。


 市場の資料では、それ以上の意味を持たない。


 ミオは詳細を開こうとした。


 その瞬間、通信通知が割り込んだ。


 《未登録航路痕跡を検出》

 《対象:エリュシオン候補系外縁小惑星帯》

 《認証:不明》

 《推定:非正規船団》


 SOL-0の表示は、背後の資料層へ沈んだ。


 ミオは目を細めた。


 エリュシオン候補系は、まだ正式入植前の星系である。資源調査船と自動整備機以外の航行は制限されている。非正規船団が入っているなら、それは重大な契約違反だった。


 彼女は追跡ログを開いた。


 航路は細く、古い。


 正規の航路保険網を通っていない。通信タグは複数回書き換えられ、船籍は隠されている。けれど、移動パターンは密輸業者のそれとは少し違った。資源を抜き取る軌道ではない。施設破壊の接近でもない。


 人を隠す航路。


 ミオは、そう直感した。


 その航路の末端に、小さな署名が残っていた。


 《K.L.》


 カイ・ルナール。


 契約破り。


 非正規航路案内人。


 指数不適合者を逃がす男。


 ミオは、その名前を知っていた。開発会社の危険人物リストに、何度も出てくる。過剰契約社会から脱落した人間、債務移民、職業固定契約の逃亡者、医療返済不能者、教育債務を背負った未成年者、家族単位で移住契約に縛られた人々を、正規航路の外へ運ぶ。


 企業から見れば、契約秩序の破壊者。


 逃げる人間から見れば、最後の航路。


 ミオは椅子に背を預けた。


 ユグドラ社が、選択肢が多すぎると評価を下げた恒星系。


 そこへ、選択肢を失った人間たちが、すでに逃げ込んでいる。


 偶然にしては、できすぎていた。



     *


 翌朝、オルビス・ガーデン社の安全審査部は、非正規航路の即時封鎖を提案した。


 提案書は短かった。


 《対象船団を不法侵入と認定》

 《外縁小惑星帯の暫定居住痕跡を排除》

 《SFI評価前の指数汚染要因を除去》

 《ユグドラ社再評価前に開発区域の清浄性を回復》


 清浄性。


 ミオは、その言葉を見て、軽く眉を動かした。


 人間を汚染と呼ぶ文書は、たいてい整っている。


 整った文書ほど危険だ。


「榊さん、どうしますか」


 リノが尋ねた。


 ミオは安全審査部の提案書を閉じた。


「現地確認に行く」


「え」


「不法侵入かどうか、開発リスクかどうか、書類だけでは判断できない」


「安全部は反対します」


「反対するでしょうね」


「ユグドラ社に知られたら、さらに評価が下がります」


「もう十分下がっている」


 リノは返答に困ったようだった。


 ミオは外縁小惑星帯の立体図を開いた。非正規航路の先には、小規模な隠れ場所がある。資源価値の低い岩塊、通信反射の多い氷片群、古い調査ドローンの残骸。隠れるには向いている。長く暮らすには向いていない。


 それでも、誰かがそこにいる。


 なぜか。


 答えは、たぶん簡単だった。


 そこ以外に行く場所がないからだ。


 ミオは自分の端末に、臨時調査権限を発行した。表向きの目的は、開発候補区域の不正利用確認。同行者はリノ、保安ドローン二基、航路技師一名。


 だが、ミオは内心で別の目的を持っていた。


 SFIの評価表に入らない人間を、見に行く。



     *


 外縁小惑星帯へ向かう小型艇の窓から、エリュシオン候補系の恒星は小さく見えた。


 近くで見る恒星は未来の中心に見える。離れて見ると、ただの光点になる。人間の計画はいつも近くで大きすぎ、遠くで小さすぎる。


 小型艇は正規航路を外れ、航路保険網の端を越えた。警告が鳴る。


 《正規航路外》

 《保険適用範囲低下》

 《救助応答保証なし》


 ミオは、その表示を見つめた。


 救助応答保証なし。


 銀河時代になっても、救助には保証範囲がある。


 MARS-COMMONの時代から、人間は少しは賢くなったはずだった。所属や残高より先に扉を開けるための規格を作った。月面では、残高を見ない最低生命層を作った。軌道エレベーター時代には、門の外側を記録する者がいた。


 それでも、ここには保証範囲外がある。


 範囲外は、いつも制度の影に生まれる。


 小型艇が目的地に近づくと、隠れた居住痕跡が見え始めた。氷質小惑星の影に、小さな船体が三隻。外板は古く、規格は混在している。補修跡だらけの気密チューブ。廃ドローンを改造した通信中継器。小型の水再生装置。空気循環器は古いが、丁寧に保守されている。


 貧しい。


 だが、雑ではない。


 生き延びるための場所だった。


 通信を開く前に、向こうから回線が入った。


「オルビス・ガーデン社の船だな」


 男の声だった。低く、少し笑っているような響きがある。


「こちらは榊ミオ。エリュシオン候補系開発担当です」


「肩書きが長い。逃げるには向いていない」


「逃げる予定はありません」


「予定して逃げる人間は、あまりいない」


 ミオは、少しだけ沈黙した。


「カイ・ルナールですね」


「危険人物リストでは、そう呼ばれている」


「あなたは開発制限区域に不法滞在者を入れています」


「不法滞在者じゃない。帰還不能者だ」


「法的には同じです」


「法的には、たいていの人間が何かと同じにされる」


 回線の向こうで、微かな雑音が混じった。古い通信器のノイズ。けれど、途切れない。よく調整されている。


 ミオは、視界内に相手船の映像を開いた。小型船のハッチ付近に、一人の男が立っている。黒髪に近い濃い茶色の髪。片頬に古い傷。装備は統一されていない。航路作業員のジャケットに、別の企業規格の生命維持端末、手製の認証バイパス器。年齢は、外見だけなら三十代前半。


 目だけが、妙に古い。


 多くの場所を見てきた人間の目だった。


「こちらに乗船を許可してください」


 ミオが言うと、リノが隣で「本気ですか」と口だけ動かした。


 カイは映像越しに笑った。


「恒星庭師が、雑草を見に来るのか」


「私は人間を雑草とは呼びません」


「呼ばないだけで、抜くことはあるだろう」


 ミオは答えなかった。


 答えないことが、答えになることもある。


 カイは数秒、彼女を見ていた。


「武装なし。保安ドローンは外に置け。補佐は一人まで。こちらの空気は高い」


「空気代を請求されるとは思いませんでした」


「空気に値段をつけたのは、こっちじゃない」


 その言葉は、軽い調子で言われた。


 だが、軽くなかった。



     *


 カイの船の内部は狭かった。


 正規船のような快適な通路はない。配管がむき出しで、壁面のパネルは複数企業の中古品を組み合わせている。照明は低く、空気には金属と再生水の匂いが混じっていた。


 だが、子供の声がした。


 ミオは立ち止まりかけた。


 通路の先、小さな共有区画で、五、六人の子供が古い教育端末を囲んでいた。端末には、軌道力学の簡単な問題が表示されている。隣では、若い医療技師らしき女性が、老人の腕の端末を調整していた。別の男は、破れた気密服を手縫いで補修している。


 逃亡者。


 不法滞在者。


 指数汚染要因。


 そう呼ぶには、あまりにも普通の光景だった。


 普通であることが、ミオには痛かった。


 カイが隣に立った。


「期待外れか」


「何がですか」


「もっと犯罪者らしい場所を想像していたかと思って」


「犯罪者かどうかは、まだ判断していません」


「慎重だな」


「仕事です」


「庭師の仕事か」


 ミオは彼を見た。


「あなたは、なぜエリュシオンに来たんですか」


「まだ誰の未来でもないからだ」


「ここはオルビス・ガーデン社の開発権下にあります」


「権利上はそうだ。だが、まだ都市はない。契約も完全には張られていない。逃げ込むなら、未来が固まる前の場所がいい」


「この人たちは、どこから」


「いろいろだ。高SFI星系からも来た」


 カイは皮肉っぽく笑った。


「投資家に人気の、きれいな未来からな」


 ミオは共有区画を見た。


 子供の一人が、ミオの視線に気づいて顔を上げた。片目に古い医療補助レンズ。視界補正の規格が古い。正規医療ならもっと良いものに交換できるはずだ。


「医療アクセスは?」


「正規契約がない」


「緊急医療権は」


「元の恒星系では、親の医療負債と結びついていた。子供本人の契約に切り替える前に逃げた」


「逃げた理由は」


「視覚補助手術の代わりに、認知労働適性契約を二十年延長される予定だった」


 ミオは言葉を失った。


 カイは続けた。


「向こうのモデルでは、それが合理的だった。医療投資を回収するには、視覚補助後の高認知労働に固定した方がいい。教育債務と医療債務を統合すれば、返済効率も上がる」


「子供の意思は」


「適性指数上、本人の選好は将来ノイズとして処理される」


 ミオは、会議室で見たユグドラ社の修正案を思い出した。


 出生後適性分類。


 教育債務の継承。


 職業経路の固定。


 数字の上では、きれいだった。


 ここでは、子供の片目に古いレンズとして現れている。


「あなたは、彼らをどこへ連れていくつもりですか」


「決めていない。決めないことが、今のところ一番大事だ」


「それでは生活できない」


「決められすぎても生活できない」


 カイは共有区画の壁に背を預けた。


「榊ミオ。あんたたちは、未来を設計する。きれいな仕事だ。都市を置き、学校を作り、病院を置き、航路を引く。だが、きれいに設計された未来ほど、逃げ道がない」


 その言葉は、ミオの中に、静かに刺さった。


 反論はあった。


 設計がなければ、人は死ぬ。航路がなければ、物資は届かない。教育がなければ、次世代は育たない。医療がなければ、弱い者から倒れる。未来を設計しないことは、自由ではなく放置だ。


 だが、カイの言葉も間違っていなかった。


 設計された未来は、設計から外れた人間を嫌う。


 庭は、雑草を嫌う。


「私の設計案には、選び直しの制度を入れています」


 ミオは言った。


「職業変更、債務再編、教育再選択、居住地変更。あなたが連れている人たちが、正規に入れる余地を作ろうとしている」


「知っている」


 ミオは少し驚いた。


「知っているんですか」


「だから来た」


 カイは平然と言った。


「エリュシオン候補系の草案は、非正規網にも流れている。あんたの設計には穴がある」


「穴?」


「逃げ込める穴だ」


 ミオは、その言い方に複雑な感情を覚えた。


 彼女が作った余白は、制度的な安全弁のつもりだった。カイにとっては、逃亡者の入口だった。


 同じ構造を、別の側から見ている。


「ユグドラ社は、その穴を塞げと言っています」


「だろうな」


「塞がなければ、エリュシオン候補系の開発そのものが止まるかもしれない」


「塞げば、ここにいる連中はまた逃げる」


「逃げ続けるだけでは、社会は作れない」


「逃げ道のない社会も、社会とは呼ばない」


 ミオは、カイを見た。


 カイもミオを見ていた。


 敵ではない。


 味方でもない。


 彼は制度の外側にいる人間だった。ミオは制度を作る側にいる。二人の間には、簡単には埋まらない距離があった。


 だが、その距離こそが必要なのかもしれない。


 制度の中にいる者だけで制度を作れば、外へ落ちる人間の形が見えない。


「彼らの話を聞かせてください」


 ミオは言った。


 カイは少しだけ眉を上げた。


「報告書にするためか」


「最初はそうです」


「正直だな」


「嘘をついても意味がない」


「その後は?」


 ミオは共有区画の子供たちを見た。


「その後は、まだ分かりません」


 カイは笑った。


「未確定の未来か。いい言葉だ」



     *


 ミオは、その船で十二時間を過ごした。


 十二時間は、恒星系開発の時間感覚では無に等しい。だが、人間の話を聞くには十分に長かった。


 最初の女性は、教育債務から逃げていた。


 彼女の両親は、SFIの高い内縁恒星系へ移住するため、出生前教育パッケージ契約を結んだ。子供の能力に応じて、教育費を自動配分し、将来の所得から回収する契約。合理的で、広く使われている制度だった。


 だが彼女は、十七歳で適性指数を外れた。予定されていた高精度設計職ではなく、低収益の舞台芸術へ進みたいと言った。その瞬間、彼女の教育債務は「回収リスク」となり、家族全体の居住権に影響した。


 彼女は家族を守るために、契約から消えた。


 次の老人は、医療負債から逃げていた。


 生命延長治療を受けた妻の費用が、居住契約と結びついた。妻はすでに亡くなったが、負債は残り、彼の孫の教育選択にまで影響していた。法的には適正だった。契約書には、すべて記されていた。


 老人は言った。


「字は読めた。意味は読めなかった」


 別の若者は、職業固定契約から逃げていた。


 高重力環境適性が高いと判定され、外郭採掘労働に配属された。報酬は悪くない。住居もある。医療もある。ただし、三十年契約だった。彼は五年目で手の震えが出た。再分類を求めたが、契約違約になると言われた。


 彼は自分の手を見せた。


 まだ震えていた。


 ミオは聞き続けた。


 話はどれも、極端な虐待ではなかった。


 むしろ、制度としては整っていた。


 契約書はある。説明義務もある。補償もある。医療も教育も住居も提供されている。SFIの高い星系ほど、制度は洗練されている。


 ただ、選び直せない。


 間違ったと気づいたとき、契約はすでに未来を押さえている。


 ミオは、記録を取った。


 カイは、横で何も言わなかった。


 彼は、話を盛らない。被害を劇的に演出しない。淡々と、誰がどこから来たかだけを補足する。逃亡者たちも、ミオを信用してはいない。それでも話す。彼女が設計士だからではない。たぶん、誰かに記録される必要があったからだ。


 門の外側。


 腕輪の残高外。


 扉の向こう側。


 未来の契約欄の余白。


 歴史は、いつも同じ場所に人間を落とす。


 ミオは、十二時間後、小型艇へ戻る前にカイに言った。


「あなたたちを、すぐに排除するつもりはありません」


「会社はそう言うか?」


「言わせます」


「強いな」


「強くはありません。まだ権限があるだけです」


「権限は、使わないと腐る」


「使い方を間違えると、人を潰します」


「だから見に来たんだろう」


 カイは、船のハッチ脇に立っていた。


「榊ミオ。あんたは、まだ庭師だ。人を植える場所を決める側にいる」


「否定しません」


「なら、せめて根を切る前に、根がどこまで伸びているか見ろ」


 ミオは頷いた。


「見ます」


「見るだけでは足りない」


「分かっています」


「本当に?」


 ミオは少し考えた。


「分かっていないかもしれません。だから、もう一度来ます」


 カイは、初めて少しだけ本当に笑ったように見えた。


「約束はするな。契約になる」


「では、予定にします」


「予定は破れる」


「破れる余地がある方が、少しは人間的です」


 カイは肩をすくめた。


「庭師にしては、ましな答えだ」



     *


 本社へ戻ると、ミオの端末には三種類の通知が届いていた。


 ひとつ目は、安全審査部からの警告。


 《非正規居住痕跡の放置は開発区域の統制リスクを高めます》


 ふたつ目は、ユグドラ社からの再面談要請。


 《人的流動性項目の修正案について、追加説明を希望します》


 三つ目は、オルビス・ガーデン社経営会議からの内部招集。


 《エリュシオン候補系SFI改善方針会議》


 ミオは、端末を閉じなかった。


 逃げたくなる通知ほど、開いたままにする癖があった。閉じても問題は消えない。見えないところで、問題は制度になる。


 彼女は設計室へ戻り、エリュシオン候補系を再投影した。


 恒星。


 惑星。


 軌道都市予定地。


 資源帯。


 航路。


 教育圏。


 医療圏。


 労働人口。


 債務曲線。


 そして、外縁小惑星帯に小さな点を追加した。


 未登録居住群。


 安全審査部の分類なら、排除対象。


 ユグドラ社の分類なら、指数汚染要因。


 ミオは、その点に別の仮名をつけた。


 《選択余白観測点》


 リノが横で表示を見て、少し困った顔をした。


「これ、会議資料に入れるんですか」


「入れる」


「怒られます」


「怒るでしょうね」


「ユグドラ社にも?」


「もちろん」


「SFIがもっと下がるかもしれません」


「一時的にはね」


 ミオは、新しい設計レイヤーを開いた。


 《人生再選択権》


 仮称。


 まだ法的な形はない。金融商品としても定義されていない。都市規約にも、移民契約にも、標準規格にも落とし込まれていない。


 ただ、概念だけがあった。


 人間が、未来の主要な選択を後から変更できる権利。


 職業変更。


 居住地変更。


 教育再選択。


 債務再編。


 契約離脱。


 医療アクセス。


 共同体からの離脱と再所属。


 家族形成の再設計。


 それらを、慈善ではなく、恒星系の長期安定性を守る保険として定義する。


 ミオは、名称欄に指を置いた。


 人生再選択権。


 悪くないが、弱い。


 市場には読まれない。


 権利という言葉だけでは、指数企業は倫理項目として脇へ置く。自由という言葉では、投資家は不確定性と読む。余白という言葉では、契約書に入らない。


 市場に読ませるには、市場の言葉がいる。


 オプション。


 将来の選択権。


 価格変動や不確実性に対する権利。


 金融の言葉としては古い。だが、人間の人生にも当てはまる。


 今すぐ転職する権利ではない。


 将来、転職が必要になったとき、それを不可能にされない権利。


 今すぐ故郷を離れる権利ではない。


 将来、離れる必要が生じたとき、契約で閉じ込められない権利。


 今すぐ契約を破る権利ではない。


 将来、契約が人生を壊すものになったとき、再交渉できる権利。


 ミオは名称を入力した。


 《ヒューマン・オプション権》


 文字列が、設計図の上に浮かんだ。


 リノが小さく読み上げた。


「ヒューマン・オプション権……」


「まだ仮称よ」


「でも、分かります。市場の言葉ですね」


「市場に対抗するには、市場が読める言葉で書く必要がある」


「自由を金融商品にするんですか」


 リノの声には、微かな抵抗があった。


 ミオは頷いた。


「そう見えるでしょうね」


「それは……危なくないですか」


「危ない」


 ミオは即答した。


「自由をオプションとして定義すれば、いつか誰かがそれを売買しようとする。選び直す権利に値段をつけ、持っている人と持っていない人を分けるかもしれない。権利が、また商品になる」


「じゃあ、なぜ」


「今の市場は、自由を価値として読まない。読まないものは削られる。削られないためには、まず読ませる必要がある」


 ミオは、外縁小惑星帯の小さな点を見た。


「完全な方法ではない。でも、制度の外へ落ちた人間を、制度の中へ戻す入口にはなる」


 リノは黙った。


 ミオは、ヒューマン・オプション権の初期モデルを組み始めた。


 短期収益は下がる。


 債務回収は遅れる。


 労働配置効率は落ちる。


 だが、長期的な離脱者発生率が下がる。反乱リスクが低下する。医療放棄による死亡率が下がる。教育不適合者の再投入率が上がる。技術創発が増える。人口維持率が安定する。世代間憎悪が蓄積しにくい。


 数値はまだ粗い。


 データも足りない。


 だが、何もないよりはいい。


 記録されなかったものから順に死んでいく。


 火星の古い言葉が、ミオの中で形を変えた。


 評価されなかったものから順に、未来から消えていく。


 ならば、評価させる。


 人間が選び直せることを、未来価値として。



     *


 翌日の経営会議で、ミオは最初から不利だった。


 役員たちは、ユグドラ社を恐れていた。恐れているというより、逆らえない構造の中にいた。SFIが下がれば資本が集まらない。資本が集まらなければ開発できない。開発できなければ、理想も制度も存在しない。


 その論理は正しい。


 ミオは、その正しさを認めたうえで、別の資料を出した。


 《エリュシオン候補系人的安定性再評価案》

 《ヒューマン・オプション権導入による長期崩壊リスク低減モデル》


 会議室が静かになった。


 最初に口を開いたのは、財務担当役員だった。


「榊さん。これは、ユグドラ社修正案への回答ですか」


「はい」


「回答にしては、逆方向に見えます」


「短期評価ではそう見えます」


「短期評価ではなく、資本募集の現実です」


「承知しています」


 ミオは投影を切り替えた。


 カイの船で聞いた話は、個人が特定されない形でデータ化してある。教育債務離脱者、医療負債逃亡者、職業固定契約不適合者、家族移住契約による未成年選択制限。すべて、SFIの高い星系から発生していた。


 高評価星系は、安定している。


 ただし、落ちた人間を外へ出しているだけかもしれない。


 ミオはそれを示した。


「現在のSFIモデルは、契約社会から離脱した人間を、元の星系の長期コストとして十分に計上していません。脱落者は、非正規航路、辺境居住区、医療放棄、教育喪失、治安リスク、反市場運動として外部化されています。つまり、高SFI星系の一部は、人的破綻を外部へ輸出することで高評価を維持している可能性があります」


 役員の一人が顔をしかめた。


「それを今ここで言う意味は?」


「エリュシオン候補系を同じ構造にしないためです」


「理想論です」


「いいえ。保険論です」


 ミオは、ヒューマン・オプション権のモデルを表示した。


「人間が人生を選び直せる余地は、短期的には収益固定性を下げます。しかし長期的には、脱落、反乱、医療放棄、人口流出、技術停滞、世代債務不履行を低減する保険として機能します。これは道徳的配慮ではありません。恒星系資産の長期破綻を避けるためのオプションです」


 財務担当役員は、表示をじっと見た。


「自由を、オプション価値として扱うのですか」


「はい」


「危険な定義ですね」


「危険です」


「自覚はあると」


「あります。ですが、自由を価値として定義しなければ、自由はコストとして削られます」


 会議室の空気が重くなった。


 その時、別の通知が全員の端末に入った。


 《ユグドラ・インデックス社、追加評価声明》

 《エリュシオン候補系外縁部における非正規居住痕跡を確認》

 《人的統制リスクを暫定加算》

 《SFI暫定値:五八・九》


 リノが息を呑んだ。


 ミオは表示を見た。


 五八・九。


 六十を切った。


 主要資本募集どころか、開発延期圏に入る。


 会議室の視線が、一斉にミオへ向いた。


 安全審査部の提案を即時実行しなかった責任。


 非正規居住痕跡を確認しながら、排除しなかった責任。


 ユグドラ社の修正案に従わず、逆に選択余地を増やす案を出した責任。


 責任は、いつも未来より早く届く。


 ミオは端末を閉じず、静かに言った。


「これで、はっきりしました」


「何がですか」


 役員の声は硬かった。


「ユグドラ社のモデルでは、逃げてきた人間がいるだけで、恒星系の未来価値が下がる。つまり、彼らは人間ではなく、指数汚染として扱われています」


「榊さん、言葉を選んでください」


「選んでいます」


 ミオは会議室中央のエリュシオン候補系を見た。


「この星系を高く売るために、彼らを排除することはできます。職業変更権を削り、債務再編を狭め、教育再選択を遅らせ、医療アクセスを契約に戻し、非正規居住区を消せば、SFIは上がるでしょう」


 誰も否定しなかった。


「その場合、エリュシオン候補系は未来資産として成功します。ただし、人間が失敗できない場所になります」


 ミオは、少しだけ息を吸った。


「私は、その設計には署名できません」


 会議室の奥で、誰かが小さく舌打ちした。


 それでも、ミオは続けた。


「代替案を出します。エリュシオン候補系の初期都市ノードを、ヒューマン・オプション権の実証区として再設計します。名称は、ノード・ゼロ。正式SFI承認前の限定都市実験区です。基礎生命維持にはMARS-COMMON由来の緊急互換層を採用し、OXY系生命IDの契約連動を最低生命層から切り離します。移民契約には、一定周期の職業・居住・教育・債務再選択権を組み込みます」


 財務担当役員が低く言った。


「ユグドラ社は認めません」


「でしょうね」


「資本が止まります」


「一部は止まります」


「会社を危険にさらすつもりですか」


「会社を守るために人間の未来を固定するなら、私たちは恒星庭師ではなく、未来債務の販売会社です」


 言った瞬間、会議室の空気が変わった。


 言い過ぎた。


 ミオ自身もそう思った。


 だが、取り消すつもりはなかった。


 沈黙のあと、社長席に座っていた老女が初めて口を開いた。オルビス・ガーデン社代表、エルザ・ノヴァク。これまで黙ってミオと役員たちのやり取りを見ていた。


「榊さん」


「はい」


「ノード・ゼロ案は、どの程度の規模で始められる」


 会議室の何人かが驚いた顔をした。


 ミオも少しだけ驚いた。


「最低限であれば、外縁資源帯の仮設居住群と第三惑星軌道上の初期施工拠点を接続する形で開始できます。正規移民募集前の技術者、医療者、教育者、契約再編対象者を含む小規模都市実験です」


「ユグドラ社抜きで?」


「正式なSFI承認は得られません。ただし、開発権はオルビスにあります。限定実験区としてなら、法的余地はあります」


「資本は?」


「通常募集は無理です。保険企業、辺境星系組合、移民権団体、長期リスクファンドに個別提案します。短期収益ではなく、人的破綻リスク低減のデータ取得として」


 エルザは、ミオをじっと見た。


「成功すると思う?」


 ミオは答えに迷った。


 成功する、と言えば嘘になる。


 失敗する、と言えば始められない。


「分かりません」


 ミオは言った。


「ですが、失敗を制度の中で扱える都市にします」


 エルザは、小さく笑った。


「庭師らしくない答えね」


「庭は、失敗した枝を切る場所です。でも都市は、人間が失敗した後も生きる場所であるべきです」


 エルザはしばらく黙り、やがて頷いた。


「七十二時間あげます。ノード・ゼロ案を正式な内部草案にしなさい。ユグドラ社への回答も同時に作る。採用するかどうかは、その後決めます」


 会議室にざわめきが広がった。


 ミオは、頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は早い。これは許可ではない。猶予です」


「承知しています」


 会議が終わると、リノがミオの隣に駆け寄った。


「七十二時間で作るんですか」


「作る」


「寝られませんよ」


「未来設計士の悪いところね。未来のために現在を削る」


「笑えません」


「私も」


 ミオは設計室へ戻りながら、端末を開いた。


 カイへの通信回線を選ぶ。


 応答はすぐだった。


「排除命令か?」


「違います」


「では、警告か」


「協力要請です」


 回線の向こうで、カイが沈黙した。


 ミオは続けた。


「ノード・ゼロを作ります。エリュシオン候補系の最初の都市です。正式承認前の実験区。契約から落ちた人間が、ただ隠れるのではなく、制度の中で選び直せる場所にする」


「きれいな言葉だ」


「まだ言葉だけです」


「言葉は危ない。契約の種になる」


「だから、あなたにも見てほしい」


「俺に?」


「制度の外にいる人間が見なければ、外へ落ちる穴がまた見えなくなる」


 カイは、長く黙った。


 ミオは、その沈黙を急かさなかった。


 やがて、彼が言った。


「榊ミオ。あんたは、自分が何を始めようとしているか分かっているか」


「たぶん、半分も分かっていません」


「ユグドラ社は、指数の外にある未来を嫌う」


「でしょうね」


「会社も、いつまでも守らない」


「分かっています」


「逃亡者たちは、あんたを信用しない」


「それも分かっています」


「なら、なぜやる」


 ミオは、設計室の扉の前で立ち止まった。


 中では、まだ名前のない恒星系が待っている。


 いや、もう名前はあった。


 エリュシオン。


 ノード・ゼロ。


 そして、まだ形にならないヒューマン・オプション権。


「未来を設計する仕事をしているからです」


 ミオは言った。


「設計するなら、逃げ道も設計しなければならない」


 カイは、短く笑った。


「変な庭師だな」


「よく言われます」


「まだ一度も言っていない」


「これから言われると思います」


 回線の向こうで、カイが息を吐いた。


「分かった。見に行く。ただし、俺は庭の飾りにはならない」


「期待していません」


「雑草扱いもごめんだ」


「それも、しません」


「なら、一つだけ条件がある」


「何ですか」


「ノード・ゼロの最初の規約に、こう書け。戻ってもよい。出ていってもよい。失敗しても、記録から消さない」


 ミオは、その言葉をメモした。


 戻ってもよい。


 出ていってもよい。


 失敗しても、記録から消さない。


 都市の規約としては、あまりに粗い。


 だが、最初の文としては悪くない。


「検討します」


「またそれか」


「設計士なので」


「なら、俺も言っておく。約束はしない。だが、予定はしておく」


 通信が切れた。


 ミオは設計室に入った。


 恒星系が、闇の中で立ち上がる。


 中心に白金色の恒星。


 その周囲に、まだ誰も住んでいない惑星群。


 外縁に、小さな非正規居住点。


 そして、新しい都市ノードの仮配置。


 ミオは、その都市に名前を入力した。


 《NODE-0》


 ノード・ゼロ。


 ゼロは、無ではない。


 起点だ。


 まだ何も完成していない。


 指数は低い。


 資本は不安定。


 会社は揺れている。


 逃亡者たちは信用していない。


 ユグドラ社は、必ず潰しに来る。


 それでも、そこには未来があった。


 高く売れる未来ではない。


 最適化された未来でもない。


 選び直せるかもしれない未来。


 ミオは、最初の規約草案を開いた。


 白い空欄が、静かに光っている。


 彼女は一行目を書いた。


 《この都市は、未来を固定するためではなく、未来を選び直す余地を保存するために設計される》


 書いた瞬間、それはただの文だった。


 市場はまだ読まない。


 指数はまだ評価しない。


 法律もまだ認めない。


 だが、文は残った。


 門も、腕輪も、扉も、最初は誰かが残した文から始まった。


 ミオは次の行を書き始めた。


 エリュシオン候補系の恒星は、まだ名前のない光として輝いていた。


 その光の下に、人間が未来を植えようとしている。


 ただし今度は、育ち方まで決めきらないために。


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