泡と乙女心
リオン様が帰られた後、時には息が詰まる貴族での生活の中で、唯一心が安らぐ時間がやってきました。
大理石の浴室に白い湯気が立ち込める。
浴槽に浮かぶ薔薇の花弁の甘い香りが、鼻をくすぐる。
「お嬢様失礼します」
侍女のアンが静かに傍らに立ち、コルセットの紐を緩める。息苦しさが一気に消えて、日々の責務からも解放された気分になる。わたくしの胸の膨らみも自由を喜ぶように弾んだ。
湯気に混じる蒸気が頬を撫で、湯の滴が胸や腰の曲線をそっと滑り落ちる。湯船にそっと身を沈めると、お湯が肌を優しく撫でて、思わず目を細める。
この瞬間、わたくしは白月家の令嬢でも誰かの目に縛られた存在でもない。
胸の柔らかさ、腰の丸み、指先で感じる湯の温もり。
すべてがわたくしだけのものだと思うと、自然と笑みがこぼれ、心も体も軽くなる。
「ねぇ、アン。 髪をお願いできる?」
「かしこまりました、お嬢様」
「ここでは畏まらなくていいのよ。誰も見てないんですから」
「ですが、それでも礼儀は守らねばなりません」
アンの頑固さに思わず笑ってしまう。
彼女とは長い付き合いで、時にはいい相談相手にもなってくれるのに。肩の力が抜けたこのひとときだからこそ、こんなふうに笑えるのかもしれない。
アンが白磁の小さな蓋付きボウルに、東方の香草を煮出した湯を注ぐ。ほのかな清涼感のある香気が立ち上がり、どこか懐かしさを感じる。
白月の血が異国の風景を呼び覚ましているのかもしれない。
「では、お嬢様。 失礼します」
まだ、硬さの抜けないアンに可笑しくなりながら、わたくしは湯船の縁に頭を預ける。彼女は慣れた手つきでわたくしの髪に香草湯をかけ、指先で丁寧にほぐす。
指通りの感触が心地よくて、わたくしはいつしか深い息を漏らし、自然と口を開いた。
「ねぇ、アン……応接間で二人きりになったとき、リオン様にパーティへお誘いいただいたの」
話題はもちろんリオン様。
この時侍女たちは外に出ていて、わたくしたちの会話は聞かれていない。本当なら口にすべきではないのかもしれないけれど、アンにならつい話したくなる。
「お嬢様、それは光栄なお誘いですね……」
「ふふ……実はね、今日は会いたいって思っていたの。 そしたら本当に来てくださって……まるで運命のようでしょう?」
言葉にしながら、自分でも頬がゆるむのがわかった。
胸の奥がくすぐったくなる。
けれど、ちらりと見たアンの表情はどこか浮かない。
彼女は口を開きかけては閉じ、そして、指を止めた。
湯の音だけが、静かに響く。
「……お嬢様」
「なあに、アン?」
「差し出がましいことを申し上げますが……リオン様のまわりで、最近少し気がかりな噂を耳にいたしました」
その声は、淡々としているようで冷たさを帯びていた。
「気がかりな噂?」
「公爵殿下が、華奢で可憐な……その、まだ幼さの残る女性をお好みだと。帝都では、そのお相手がシャーリィ様なのでは、と囁かれております」
「……シャーリィ様」
——シャーリィ・フォン・リーデル。
表向きはリオン様の妹。
だけど、血がつながっていないことは帝都の社交界では公然の秘密だった。
わたしくしも一度お会いしたけれど、まるで人形のように愛らしかったのを覚えている。
「き、兄妹ですものっ! 親しそうに見えて当然ですわ……」
「はい、ですが……リオン様と近しい侍女が、お二人がまるで恋人のように接していたのを目撃したとか」
「……!?」
恋人のように、その言葉が胸に突き刺さり、心臓がぎゅっと締めつけられる。口元が引きつるのを感じたけれど、湯気が隠してくれる事を祈った。
さらにアンは続ける。
「実は今日も……玄関で応対しているときに見えたのです。 公爵殿下の馬車にシャーリィ様が乗っているのを……」
「馬車に……?」
アンの言葉に、リオン様の背中越しに馬車の黒い影が揺れたのが脳裏をよぎった。
(まさか……あれがシャーリィ様だったの……!?)
胸のざわめきが、湯面に浮かぶ波紋のように広がる。
温められた身体が冷水を浴びたように強張った。
思わず目を閉じると、応接間での一瞬が蘇る。
——リオン様の銀の双眼がわたくしの胸元を捉えたのを
あのときの心臓の高鳴り、頬の熱、指先まで染みる羞恥の感覚が、また身体に浮かんでくる。
「だ、大丈夫ですわ、アン! 応接間でリオン様はわたくしの胸を熱く見つめていましたわ!!」
「お、お嬢様!?」
わたくしは思わず立ち上がり、アンに向かって胸を張って力説した。 彼女は驚きのあまり、目を丸くしてぽかんと見上げるばかりだった。
「そうと決まれば、今度の催しでリオン様を悩殺する、とっておきのドレスを仕立てますわ! 胸元も思い切り強調します!!」
わたくしの宣言に、アンはただ目を見開き口を半開きにしたまま固まっている。
そんな彼女の反応が面白くて、わたくしは吹き出してしまった。
(リオン様にふさわしい貴婦人になってみせますわ!)
湯の温もりと香草の香りに包まれながら、
わたくしは心の奥でそっと決意が膨らむ。
未来は輝いていると信じて疑いもしていなかった。
けれど、
——現実は、砂糖菓子のような乙女心みたいに甘くはありませんでした
湯面に揺れる光のきらめきに、微かに影が揺れていた。




