星空をみあげてみれば
「こういうビルを見るだけで気後れするな」
城崎は、都心のビジネスビルを見上げて呟いた。企業の役員といえば聞こえがいいが、社員の殆どが役員という地方の小さなIT企業で昔からの伝手でどうにか仕事を続けてこられていた。
今日は仕事で上京したついでに学生時代からの友人に連絡を入れ、気安く仕事がないかと言ったら会社で会ってくれることになったのだった。
「やあ、待たせてすまない」
銀縁の眼鏡をかけた、すらりとした男が城崎が独り座っていた会議スペースにやってきた。小太りで白髪交じりの城崎と違って、見た目は四十前後くらいに見えるが、城崎と同い年の沢渡という学生時代からの友人だった。
「いや、時間通りだよ」
立ち上がって城崎は沢渡と握手した。几帳面で時間には正確な男で、学生時代は勉強ができる男で今は仕事のできる優秀な男になっていて、某電機メーカーのIT部門が独立した企業の役員をしていた。城崎と同じ役員でも立場は段違いだった。
「いま進めているA商事のシステム更新で、昔のシステムと言語に詳しいエンジニアが不足しててね」
「ああ、そういう話は聞くな」
「それで、A商事のシステム構築に関わった会社を調べさせてたら、偶然お前の名前を見かけてね」
「え、俺の?」
沢渡が言うには、幾つかのプログラム設計者の名前として城崎の名前があったという。城崎の方は、そんな二十年以上前の仕事なんてすっかり忘れていた。
「なんだ、忘れてたのか?」
「いやあ、まあ、業務経歴書にはA商事のシステム開発をしたことは載せてあったとは思うけど……」
「そういうところは相変わらずだな」
沢渡が笑う。集中してやる時にはやるが、過ぎたことは忘れる、それも仕事の場合なら猶のこと、というのが城崎だった。それは学生の頃から変わらない。
「まあ、そんな訳で、そっちの会社にチームを組んで参加してもらいたいんだが」
「え、いいのか?」
「詳しい話は後日、うちのシステム開発部から連絡がいくと思うから」
一年くらいは続く開発案件を貰えて、城崎は喜んだ。
「ありがとう。助かるよ」
手を付けていなかった湯呑の茶を口に運ぶ。笑顔の沢渡のしているネクタイにも目が行くようになった。
「そのネクタイ、星座の柄か。今でも星を見てるのか?」
「ん? ああ。これは娘からのプレゼントでね。嬉しいけど、どっかに星とか何か入ってりゃいいだろ、みたいなとこも無くはないかな。昔は一緒に星を見に行ったものだけどもう相手にされないからな」
ネクタイに手を触れながら愚痴なのか自慢なのか分からないことを言う。
「娘さんは高校生だっけ。うちの娘は星が好きでね。うちとは逆だな」
「そっちも高校生だったな。お前の影響じゃないのか?」
「俺の? いやあ、おれの母親が好きだったからその影響じゃないかな」
「なんだ、俺が星を見るようになったのは、お前の影響なんだがな」
「ええ。どうして?」
城崎は初めて聞くような話だった。
「なんだ、そのことも忘れてるのか」
沢渡は呆れたような顔をした。
※ ※ ※
学生時代。城崎はとある女性に恋をしていた。A子という明るく可愛らしい女性で、人気者でもあった。野暮ったい城崎とも気さくに話しかけてくるような子で、男女数人中の良い者同士、グループで付き合っていた。
そのグループ内でも、城崎と一緒にいることが多く、
「A子と城崎君、最近怪しくない?」
と冗談めかして女友達が言うと、
「そうかなぁ」
とか言いながらA子は城崎と腕組んでみたりと、思わせぶりな態度を取ったりした。
そんなときには城崎は何も言えずにどぎまぎしていただけだった。
そのうち二人で食事をしたり映画を見に行ったり、すこしづつデートらしいこともするようになって、
――少なくとも嫌われてはいないだろう、いや、好きなんじゃないかな?
とか思うようになっていた。モテたことなどない城崎だったが、ちょっと調子に乗っているのでは? と自分でブレーキをかけようとしてみたりしたが経験の無い若い男にそんなことが出来るわけもなく、気持ちだけ盛り上がって行った。
そのうち、自分の気持ちを伝えなければ、とか思うようになった。ほぼ毎日のように顔を会わせて親しく話をしてもいるし、二人きりになることもあったがなかなか言い出せない。それに、がらにもなく、ロマンチックな雰囲気が良いかも、とか思ってもいた。
そんな時に、田舎の母親と電話で話をした時の事。母は星を見るのが好きで、今日は月食があるとか、なんとか流星群の日だとか、そういうことをよく話題にしていた。この日も世間話から星の話になった。
『そうそう、明るい彗星が見られるそうなのよ』
近所のだれそれに子供が出来た、というような調子で母は話をする。
『ここ十年くらいで一番明るくなるそうだから、楽しみでねぇ』
――彗星か。
綺麗な星空の下、好きな女の子と星を眺める、なんていいんじゃないか? そんなことを考え出した。母親に彗星の情報を教えてもらって、自分でも天文台に電話して聞いてみたりと、そんなことまでして情報を集めた。見るにはどんな場所がいいか。
父親が山登りが好きで、付き合わされて山に登ったりしたときに泊った別荘というか、コテージのようなものがあることを思い出した。あそこなら星が綺麗に見えるだろう。実家からも近い。だが、宿泊なんてOKしてもらえるものだろうか?
若者の妄想は暴走する。あるとき二人きりになったときに、勢いで城崎はA子に彗星の話をした。
「何十年か一回にしかみられないような彗星が近づいているんだってさ」
それを見に行かないか。二人で。
「みんなと一緒じゃだめなの?」
上目遣いで、ちょっと困った様な表情のA子。
「えっと、二人で行ってみたいかなって」
それを聞いてA子は俯いた。
「城崎君て、私のことが好き?」
「え? あ……うん」
急に聞かれて、狼狽えたがそれだけ口に出せた。
「……そう。それって、Loveの方?」
「え。……と、そう、かな」
「私はも城崎君のことは好きだけど、Likeの方」
横を向いてA子はそう言った。
「今まで通り、皆と一緒に楽しくやってくのじゃ、ダメ?」
潤んだ目で見つめられて、城崎は何も言い出せなかった。
「ちょっと、考えさせて」
自分でも間抜けな言葉だと思ったが、今まで通りなんて無理だろう。考えたってしょうがない。どうしてこうなった?
余計なことをして居心地の良い関係を壊してしまっただけなのではないのか。何も考えられなくなって、暫くA子と顔を会わせるのも避けるようになった。
そうしていても時間は過ぎていく。下宿の部屋のカレンダーには彗星の最接近の日が記されている。予定ではその前の週末に出かけるはずだったが、もう月曜日になっていた。彗星が一番地球に近づく最接近は明日。それを見ていて、まあ、どうせ独りなら、最接近の日に山に彗星を見に行ってもいいか、と出かけることにした。
三月ももう終わろうかという頃だったが、標高の高い山にはまだ雪も残っていた。登山道には雪は無かったが、日陰には凍った雪が白く見えている。それを見ながら城崎はザックを背負って歩いていた。久しぶりに山道を歩くので息が上がった。春の日差しの中、吐く息は白い。山頂を目指すわけでもないので、ロッジのある場所から少し上った見晴らしのいい場所へ行くだけだった。昼の間にそこを見ておいて、夜になったらもう一度でかけることにした。一旦ロッジに荷物を下ろすと、軽装になって少し上った見晴らしの良い峠の方に出た。晴れて遠くに雪をかぶった峰々が見え、眼下には春霞の中に麓の村が見えていた。この景色が見られただけでも、城崎は少し気は晴れた。
夜。城崎はオペラグラスをポケットに入れ、ヘッドランプを付けて峠に上がった。ロッジを出たときから、空は降るような星空だった。ただ、寒い。冬の装備でカイロも持っていたが、あまり長い事外には居られそうも無かった。それでも暗い道を登って峠についてほっとしたとき、道の向こうに、黒い人影のようなものが浮かんでいた。
城崎の背筋が寒さだけではなく、ぞくっと震えた。人影は、城崎のヘッドランプの明かりに気が付いたのか、こちらの方を向いたようだった。
「だ、誰ですか?」
狼狽えた声が寒さだけでなく震える。
影は暫く動かなかったが反対側を向いたりして、すこし逡巡している様子も見えた。それから、ゆっくりと城崎の方へ向かって歩いてきた。ヘッドランプの明かりの中にその人物が入ってきた。
「ん、もしかして、城崎か?」
ヘッドランプの明かりに浮かび上がったのは、眼鏡をかけた青年。自分の名前を呼ばれて城崎は戸惑ったが、よくよく相手の顔を見ると、高校の同級生の沢渡だった。割合仲の良い方だったが学校以外で付き合いがあるような友人ということもない関係だった。
「さ、沢渡? どうしてこんなとこに?」
「どうしてって……そっちこそどうしたんだ?」
ほっとすると同時に、誰もいないと思った場所に知り合いがいたことに戸惑った。
「いや、おれは彗星を見に来たんだ。もしかしてお前も?」
「すいせい?」
沢渡はなんのことだか分からない様子だった。
「あれだよ」
城崎は空を指さした。
「え?」
沢渡が見上げた先には。
ぼうっと薄い青緑色に輝く丸い星から、細く長い煙のようなものがたなびいていた。それがそらの半分ほどに伸びている。
「え、なんだこれ……」
沢渡はあっけにとられたように夜空を見上げている。
「なんだよ。空も見てなかったのか」
城崎は呆れて笑いが出た。自分も綺麗に晴れ渡った星空に浮かぶ彗星を見上げた。ロッジからは尾の一部しか見えていなかったが、峠からだと彗星の全貌が見渡せた。ポケットからオペラグラスを取り出して覗いてみる。子供の頃に夏休みで泊った夜に見た星空も綺麗だったが、今はそれに肉眼でもはっきりと見える彗星が彩を添えている。
そうそう見ることができるわけでもない、見事な天文ショー。
「……すごいな」
沢渡が感嘆の声を上げる。
「すごいだろ」
沢渡に教えてやったことが自慢の様に城崎は言った。
「へっくし!」
沢渡が盛大にくしゃみをする。腕組みをして震えている姿は、街中で見るようなジャケットを羽織っただけの姿だった。
「大丈夫か? この後どうするんだ。夜中に歩いて帰れるのか?」
春とはいえ、雪の残る山にいるような恰好でもなかった。沢渡は何も言わずに下を向いている。
「下に、俺が泊ってるロッジがある。そこまで行くか」
ロッジでストーブに当たって、城崎の持ってきていたカップ麺を食べると、沢渡も人心地ついたらしい。ぽつぽつと、どして夜の山に来たのか話し出した。
沢渡は東京の国立大学へ入学してからあまり親と連絡はとっていなかったが、久しぶりに母親からきた連絡は父と別れるという離婚の連絡だった。
両親の仲が悪いのは知ってはいたが受験でそのことは考えないようにしていたし、そこまでこじれているとは思っていなかった。父親の浮気で、相手には子供出来ているという。そんなときに、自分は親から仕送りが無いと大学生活を送れない、という心配が先だったことに自己嫌悪もあって、田舎に帰って母親から話を聞いた後に歩き回っているうちに気が付いたら山の中まで来ていたのだという。
聞いていた城崎は、自分の悩みよりも重い話に、単に彗星が見たくて来たことにしよう、と、振られた話は黙っておいた。
翌朝、山を下った二人だったが、沢渡の方は、もう一度彗星が見たいな、とか言い出した。
「あれ、写真とかに撮れないかな」
「いやあ、天体写真は結構難しいらしいぞ」
「城崎は写真を撮ったりしないのか?」
「おれはそんなマニアじゃないから」
物事の取り組み方は、万事適当な城崎と違って、熱心に物事を突き詰めていく沢渡は、こんどは自分もちゃんと装備を整えて、また城崎と一緒に山に登った。その時はカメラも携えて写真撮影もしていた。それから沢渡は一年もしないうちに天文雑誌に投稿するほどになっていった。
※ ※ ※
「そういえば、こんど結構明るい彗星が接近するらしいぞ」
沢渡はスマートフォンをちょっと操ると、城崎に向けて画面を見せた。
「熱心だなぁ。おれはあれから彗星なんて見てないよ」
「そうなのか? じゃあ、久しぶりにあの峠に見に行ってみないか?」
「いやあ、家族で行けばいいんじゃないか? それに、あのロッジ、親父が亡くなったんで引き継いだんだが、いろいろと面倒で売ったんだ」
古いロッジには維持するだけでも城崎には結構負担だったし、そこそこの値段で買い手が見つかったのでこれ幸いと売り払ったのだった。
「そうなのか。じゃあ、俺の別荘にこないか。引退したら星を見て過ごそうと思って、夏休みとか休日には地元の人を呼んで観望会とかやってるんだ」
なんでも星空案内人という資格もあるらしく、それを取得したのだという。
「やっぱり、すごいな、お前は」
呆れるというか、感心して城崎は言った。
――あのとき、A子に振られてなかったら、沢渡と親しくなることもなかったんだろうな。
それに今こうして仕事を貰ったりもできなかっただろうし。
人生何が幸いするのかは分からないものだった。