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一度だけ、あの人を待った日

作者: シロトネ
掲載日:2025/05/23

大学の図書館は、雨の日だけ静かだった。


昼休みを過ぎた構内は、食堂で溢れる喧騒と、雨音が溶け合って遠くから届く。

その中で、僕はひとり、窓際の席に座っていた。


本を開いていたが、目で追うだけで、頭には何も入ってこなかった。

理由は簡単で――隣の席に、彼女が座っていたからだ。


「……それ、文学部の教材?」


彼女がそう話しかけてきたのは、たしかページを3回めくったあとだった。


声は小さく、でもはっきりしていた。


「え、あ……うん。村上春樹」


「そっか。あたしも、それ読んだ」


そう言って、彼女は自分の膝の上に抱えていた本を少し傾けて見せた。

同じ本だった。


「……偶然だね」


「ううん、偶然じゃないよ。たぶん、ここで読むならそれかなって思った」


不思議な言い回しだったけど、変には聞こえなかった。

雨の音と、本の匂いと、彼女の声がちょうどいいバランスで重なっていた。


「名前、聞いてもいい?」


「あ……うん、(たちばな) (ゆう)


「祐くん、か。私は――」


彼女は、一瞬だけ言葉を止めた。

そして、ほんの少し微笑んで、


「……楓。春日(かすが) (かえで)っていうの」


窓の外で、雨が強くなった。


その音に包まれながら、彼女は指でページをなぞるようにして、もう一度言った。


「変なこと、聞いてもいい?」


「なに?」


「祐くんは、誰かを待ったこと、ある?」


僕は少しだけ考えて――首を横に振った。


「ないかも。待たれることはあっても、待つ側になったことは、たぶん」


「……そっか」


彼女はそれ以上、何も言わなかった。


でもその横顔は、ほんの少しだけ、寂しそうに笑っていた。


◇ ◇ ◇


次の日も、その次の日も。

雨が降る日は、僕たちは同じ窓際の席で、並んで本を読んだ。


そして、何もない日々の中で、

気づけば僕は――彼女のことを、待つようになっていた。


◆ ◆ ◆


三日目も、雨だった。


例によって図書館の窓際の席は空いていて、僕が座ってページをめくっていると、

数分遅れて、彼女が現れた。


「……また、いた」


「また、来たね」


そんな会話が交わされるようになったのは、この日が初めてだった。


春日楓――彼女は、まるでこの雨を予感していたように、しっとりと濡れたままやって来た。

いつも傘をささずに。


「……雨、嫌いじゃないの?」


そう聞くと、楓は少し首を傾けて答えた。


「濡れるのは嫌だけど、傘を持つのはもっと嫌」


「それって矛盾してない?」


「うん。でも、人ってそういうもんじゃない?」


言葉の端が、どこか遠くを見ているようで。

僕はそれ以上、深く聞けなかった。


◇ ◇ ◇


「祐くんって、真面目だよね」


午後の講義終わり、食堂の外でたまたま出会ったとき、楓が突然そんなことを言った。


「……急に何?」


「だって、ちゃんとノートとってたし、なんか一人でも普通にいられるタイプでしょ」


「それ、褒めてる?」


「うーん……ちょっと羨ましい、かも」


「……楓は、そうじゃない?」


「ううん。あたしは、ちゃんとできない人間だよ」


そう言って笑う顔は、なぜか少しだけ嘘くさくて――

でも、その嘘に触れたいと思った。


「でも、ちゃんとしてない人が、ちゃんと図書館で本読むかね?」


「雨の日だけ、ね」


「それ、なんで?」


楓は少しだけ言葉を選んで、それから静かに言った。


「晴れの日って、みんな“これから”の話をするでしょ」

「でも、雨の日って、“いまだけ”に集中できる気がするから」


なるほど、と僕は思った。

たしかに、彼女の言葉にはいつも、少しだけ“何かを止めた”人のような響きがあった。


僕は思わず聞いた。


「……誰かを、待ってるの?」


楓は少しだけ目を伏せた。


「……違うよ」


でもその返事が早すぎて、

“違う”と言わなければならない理由があるように聞こえた。


◇ ◇ ◇


夕方、図書館を出たときには、また雨が降っていた。


僕は傘を持っていて、楓は今日も持っていなかった。


「入る?」


「……うん」


楓は何も言わずに、僕の傘の中に入ってきた。


距離が近かった。


濡れた前髪。

少し冷たい肩先。

静かに歩く音と、言葉のない呼吸の間に、

「もう少し、このままでいたい」と思った。


でも言えなかった。


代わりに、彼女がぽつりと言った。


「……待つの、って、こわいよね」


その言葉に、僕は返事をすることができなかった。


◆ ◆ ◆


雨の日の放課後、大学の正門前。


僕と楓は、一本の傘の下にいた。


講義が終わったあと、自然な流れで一緒に帰ることになった。

図書館でも、教室でも、なぜか彼女は僕のそばにいた。

それを拒む理由も、特別な意味も、まだ何もなかった。


ただ、今日の楓は、少しだけ歩くのが遅かった。


「……寒い?」


「ううん。祐くんの隣って、あったかいから」


傘の中、僕の指先が少しだけ揺れた。

触れそうな距離に、彼女の手があった。


僕が手を伸ばせば、簡単に届いた。


でも、できなかった。


理由は分からない。

きっと、「まだその段階じゃない」って、どこかで思ってしまったんだろう。


その代わり、僕は少しだけ傘を傾けて、楓に寄せた。


「……ありがとう」


彼女は、ほんの少し笑った。

でもその笑顔は、なんだか“期待しなかった自分への慰め”のようにも見えた。


◇ ◇ ◇


それから数日。

雨は止み、空はずっと晴れ続けた。


図書館の窓際は、静かなままなのに。

楓の姿は、そこになかった。


「……あれ?」


ある日、図書館で本を開いた僕は、違和感に気づいた。


いつも使っている席の机の隅に、小さな紙が挟まれていた。

まるで、誰かがそこに“存在していた証”を残すように――


そっと広げてみると、そこには走り書きのような文字があった。


【晴れてる日に会ったら、少しだけ他人みたいな距離になるね】

【……でも、それってきっと悪いことじゃない】

【じゃあね、祐くん】


日付も、名前もなかった。


でも、そんなものは必要なかった。


その字は、間違いなく、楓のものだった。


◇ ◇ ◇


僕は、それからしばらく図書館に通い続けた。

雨の日も、晴れの日も。


けれど、彼女は姿を見せなかった。


なのに、なぜだろう。

その頃の僕は、どこかでこう思っていた。


――また会える。

それもきっと、なにか意味のあるタイミングで。


だから、まだ手をつなげなかったことも。

名前を呼び合わなかったことも。


全部、「これから」に含まれているんだと、信じて疑わなかった。


その“これから”が、あんなにも脆くて儚いものだったとは、まだ知らずに。


◆ ◆ ◆


晴れた午後、図書館の前。


それはまるで、夢の中の風景のようだった。

もう何度も通ったはずのこの場所に、

春日楓が、立っていた。


「……久しぶり」


彼女は、少し笑ってそう言った。

前と変わらない声だった。

でも――その笑顔は、前とは少しだけ違っていた。


「……どこ、行ってたの?」


聞いた瞬間、僕は自分の声が震えていることに気づいた。

ずっと、聞けなかった言葉。

ずっと、聞きたかった問い。


楓は、それには答えず、小さく首をかしげた。


「祐くん、相変わらず真面目だね」

「そう?」


「うん。でもそれ、ちょっと安心した」


◇ ◇ ◇


図書館の中。

窓際の、あの席。


ふたり並んで座るのは、何週間ぶりだろう。

静かな時間が流れる。


でも本は、もう開かれていなかった。

ふたりとも、何も読まなかった。


楓が、ぽつりとつぶやく。


「……ねぇ、祐くん」

「ん?」


「覚えてる? “誰かを待ったことある?”って聞いたとき、祐くん、首振ったよね」

「ああ……」


「それ、あのとき、ちょっとだけ嬉しかったんだ」

「どうして?」


「だって――」


彼女はそこで言葉を止め、窓の外を見た。


そして、ゆっくりと立ち上がる。


「私、今日ここに来たの、何かをはじめたくてじゃなくて……」

「ちゃんと、区切るためなんだ」


その言葉は、まるで教室のチャイムのように響いて、

心に、終わりの予感を落としていった。


「私ね、これからしばらく、ここに来れないの」


「なんで」


「……理由は、言わない。言ったら、あたし、きっと戻れなくなるから」


僕は、何も言えなかった。

手を伸ばせば、また届きそうだった。

けれど、それはもう、手をつなぐには遅すぎた。


「じゃあね、祐くん」


「……また来る?」


楓は、少し微笑んで、

言った。


「ううん、もう来ないよ」



その日、楓が残したものは、

机の下に落ちていた、小さな紙片だけだった。


「区切るってことは、なかったことにするんじゃない。

 きっと、それでも覚えておきたいってことだと思う」


僕はその言葉を、何度も何度も読み返した。


そして初めて――

あの日、彼女が言った「待つのってこわいよね」の意味が、

少しだけ分かった気がした。


◇ ◇ ◇


昼過ぎから、雨が降り始めた。


予報では午後から晴れると言っていたが、見事に外れていた。

冷たい雨粒がガラスを打ち、大学の構内はどこか静かだった。



図書館の窓際、あの席。

祐は、いつものように本を開いていた。

……楓がいなくなっても、雨の日だけは、ここに来ると決めていた。


隣の椅子は、空いている。

読みかけの小説も、返却期限をとうに過ぎていたはずなのに、棚に戻す気にはなれなかった。


「……やっぱり、まだ待ってるんだな」


自分で呟いて、自分で苦笑する。

どこか滑稽で、でもやめられなかった。


本を読むふりをしながら、視線はずっと、入口のほうに向いていた。


誰かの足音が近づくたびに、

ドアが開くたびに、

少しだけ、胸がざわつく。


でも、そこに彼女の姿はなかった。


◇ ◇ ◇


傘を差さずに来ていた。


彼女が、よくそうしていたように。


びしょ濡れになった髪と服が、少しだけ重く感じられた。


ポケットの中には、あの時の紙片がまだ入っていた。

くしゃくしゃになって、文字の一部がにじんでいる。


【区切るってことは、なかったことにするんじゃない。

 きっと、それでも覚えておきたいってことだと思う】


何度読み返しても、その意味は完全には理解できなかった。

でも、言葉にできない感情だけは、確かに残っていた。


◇ ◇ ◇


閉館時間が近づき、館内に小さくアナウンスが流れる。


祐はゆっくりと立ち上がり、鞄に本をしまった。

隣の席には触れず、視線も向けなかった。


それが、今できる唯一の“やさしさ”のような気がした。


図書館を出ると、雨は少しだけ弱まっていた。


キャンパスの道を歩くとき、ふいに風が吹き、

濡れた髪が頬に張りついた。


そのとき、不意に胸が締めつけられるような感覚が訪れた。


あのとき、手をつなげていたら。

あのとき、「待つよ」と言えていたら。


そんな“たられば”が、音もなく心を満たしていく。


だけど、もう遅い。

彼女は、もう来ない。


それでも――


今日も僕は、君のいない雨の日に、図書館へと足を運ぶ。



図書館の窓の外に、雲ひとつない空が広がっていた。


前日までの雨が嘘のように晴れ、

光が差し込む室内は、まるで違う場所のようだった。


それでも、祐はいつもの窓際の席にいた。

隣の椅子は、やはり空のまま。


◇ ◇ ◇


本を読むふりをするのにも慣れてきた。

ページをめくっては、同じところを何度も読み返す。

物語の登場人物たちは前へ進むのに、自分だけが、どこにも進めないでいるような感覚だった。


そんな中、司書の女性がふと近づいてきた。


「あの……これ、落とし物として届いてまして」


手渡されたのは、折りたたまれた紙封筒だった。


「中身は確認していませんが、座っておられる席にあったとのことで……」


受け取って礼を言い、司書が去ると、

祐はゆっくりと封を開けた。


中には、一枚の手紙と、写真が入っていた。


写真には、図書館の窓際の席に座る楓の姿。

こっそり撮られたもののようで、彼女は気づかずに本を読んでいた。

なんでこんな写真が、とは不思議と思わなかった。


でも、その表情はとても静かで、

まるで世界からすべてを切り離して、“今だけ”を生きているようだった。


手紙には、こう綴られていた。


= = =


祐くんへ


多分、これを読む頃には、私はもうこの場所にはいません。

ちゃんと、言わなきゃいけなかったんだと思う。


あたしが、誰かを待ってたこと。

でも、それが祐くんじゃなかったこと。


それでも祐くんの傘に入った日、あたしは、

ほんの少しだけ「誰かに選ばれてもいいかも」って、思えたの。


それってすごく怖くて、でも、すごく嬉しかった。


“選ばれたかった”んじゃない。

“祐くんを、選びたかった”のかもしれない。


ごめんね。

ありがとう。


春日 楓


= = =



大学に入る直前、春日楓は一人の人をずっと待っていた。

再会を約束した誰か。

でもその人は、もう二度と現れなかった。


それでも、楓は「待つことをやめられなかった」。

だから、誰かとちゃんと向き合うことができなかった。

心のどこかに、“誰かを待つ椅子”がずっと空いていたから。


けれど、祐と出会い、

同じ傘に入った日。

本を読みながら、同じ時間を過ごした日々の中で、

彼女は少しずつ、“今”を見ようとしていた。


でも、間に合わなかった。


彼女は、自分の“過去”よりも先に進めるほど、

まだ強くはなかった。


◆ ◆ ◆


窓の外では、すっかり晴れた空に風が吹いていた。


祐は写真を胸ポケットにしまい、

そっと机の上に手を置いた。


椅子の隣には、

誰もいないままの席がある。


それでも、ほんの少しだけ、

何かが報われたような気がした。



手紙の裏面に、小さな数字が書かれていた。


【5月7日】

【午後3時15分】

【図書館、窓際の席】


祐は最初、それをただの“記録”だと思った。


でも、読み返しているうちに、違和感に気づく。

それは、ふたりが初めて出会った日付と、ぴったり同じだった。


「……嘘だろ」


彼女が“偶然を装って”そこにいたのか?

その問いに、否定の材料はなかった。


◇ ◇ ◇


手帳を開き、予定表を遡る。

スマホのカレンダーアプリも確認する。


5月7日。

講義が急に休講になった日。

図書館にたまたま寄った午後。

窓際に座って、本を読もうとした――そのとき。


彼女が声をかけてきた。


「……それ、文学部の教材?」


あの瞬間は、“偶然”だと思っていた。

でも、もしもそれが、あらかじめ用意されていたものだとしたら――?


◇ ◇ ◇


思い出すたびに、細部がくっきりと浮かんでくる。


楓の言葉。

仕草。

あのタイミング。


「……それ、読んだ」


「たぶん、ここで読むならそれかなって思った」


それは“同じ本をたまたま持っていた”じゃなくて――

「その時間に、彼がその本を読んでいる未来を、

彼女はどこかで信じていた」ような、そんな言い方だった。


祐は、机の下に手を差し入れた。

かすかに指が触れた。


細長い封筒。


その中には、折り畳まれた紙が一枚だけ入っていた。


= = =


※備忘録


5月7日、午後3時15分。

祐くんが図書館の窓際の席に座る。


――彼を見つける場所。

――彼に近づく理由。


それが、“この恋の出発点”になること。


私にとって、これが最初で最後の“選択”になること。


絶対に、間違えないように。


= = =


その筆跡は、確かに楓のものだった。


それは、まるでタイムカプセルのようだった。

彼女が、未来の自分自身に宛てた、“決意の記録”。



もう一度、祐は手紙を開いた。


言葉の裏に込められていたものを、ようやく理解できた気がした。


彼女は、偶然そこにいたんじゃない。

彼女は、誰かを待つのをやめるために、そこに来た。


そして、その“最初の相手”に、祐を選んだのだ。



窓の外には、夕方の陽が差していた。


祐は、机の上にその紙をそっと戻し、

かすかに笑った。


「選ばれてたんだな、俺……」


それは、ほんの一瞬だけ、

涙が溢れる寸前の微笑みだった。


◇ ◇ ◇


封筒の中身を読み返したあと、祐はしばらくその席に座っていた。


図書館の窓際。

何度も彼女と過ごした、あの場所。


でも、今はひとり。


静かに机の上に置かれた紙。

それを見つめるうちに、ふと彼は思った。


――あのとき、どうして気づけなかったんだろう。


「祐くんは、誰かを待ったこと、ある?」


「それって、こわいよね」


何気ない言葉たちが、今になって重たく響いてくる。


彼女は、本当は“自分が待っていた”ことを告白するかわりに、

僕に“待つ怖さ”を悟らせたかったんだ。


きっと、自分の気持ちを僕の中に投げ入れて、そこに共鳴する何かを探していた。


でも、僕はそれに気づけなかった。


◇ ◇ ◇


その夜、祐は久しぶりに夢を見た。


夢の中で、彼は図書館の席にいた。

いつもの窓際。

でも、そこには誰もいなかった。


静かなページの音だけが響く。


ふと、誰かが隣に座る気配。


振り返ると、楓がいた。


「ねぇ、祐くん。あたしのこと、もう思い出してないんじゃない?」


彼女は、いつもと変わらない口調で、少しだけいたずらっぽく笑っていた。


「そんなことないよ」

「ほんとに?」


楓はそう言って、机の上に一冊の本を置いた。


ページをめくると、すべて空白だった。


「まだ、何も書かれてないね」


「……これから書くのかも」


「じゃあ、最後のページだけ、あたしが書いてもいい?」


「……何て書くの?」


彼女は答えなかった。


ただ、優しい笑顔を浮かべて、

静かにその場から消えていった。


◇ ◇ ◇


目を覚ました祐は、ぼんやりと天井を見上げていた。


窓から差し込む光。

風に揺れるカーテン。

そして、静寂。


彼女が消えたあとも、世界は何も変わっていなかった。

でも、祐の中では確かに、何かが終わり、何かが始まっていた。


彼女が、たしかに“自分を選んだ”ということ。

それに気づいたとき、同時に――


それはもう、取り返せない過去になっていた。


◆ ◆ ◆


5月24日。午後。

雨の予報は外れ、雲ひとつない晴天だった。


講義が早く終わったその日、祐は予定もなく、ふらりと図書館に向かった。

もう何日も、楓の姿を見ていない。

彼女からのメモも、手紙も、それっきりだった。


でも、この日だけは、理由もなく“待たなきゃいけない気がした”。


「もし、今日来るとしたら、きっと今日だ」


根拠のない直感。

だけど、その直感を裏切るほど、楓は不確かな存在ではなかった気がする。


祐は、窓際のいつもの席に座った。


右隣の椅子には、誰もいない。


本を開く。

けれど、文字は頭に入らない。


何度も、入口を見た。

誰かが入ってくるたび、目が追ってしまう。


でも、彼女の姿はなかった。


◇ ◇ ◇


時計の針が、午後3時を回った。


それでも祐は、立ち上がらなかった。


周囲の席は埋まっていき、騒がしさが広がる。

図書館独特の低いざわめきに包まれても、祐はじっと待っていた。


午後3時15分。


その時刻は、彼女と初めて出会った時間だった。


でも――その日も、誰も来なかった。


◆ ◆ ◆


その頃、春日楓は、駅のホームに立っていた。


誰かを待つでもなく、行き先も告げず、

ひとりで電車に乗る支度をしていた。


スマートフォンの画面には、開きかけて消されたメッセージが残る。


『今日、祐くんに会いに行こうと思った』

『でも、それをしないってことが――』

『あたしが、あたしでいるための、最後の決意なんだと思う』


送信されることのない言葉。


ホームに電車が入ってくる音だけが、

世界の中で確かなもののように響いていた。


◆ ◆ ◆


図書館に陽が差し込む。

時計の針が、午後4時を回る。


祐はようやく、席を立った。


「……今日も、来なかったな」


呟きは、誰にも聞かれなかった。

でも、自分にとっては、それだけで充分だった。


今日、僕は一度だけ、彼女を待った。


それだけで、たしかに何かが変わった気がした。

それだけで、充分だった気がした。


でも本当は、

――きっと、違っていた。


◇ ◇ ◇


駅のホーム。


夕方のラッシュ前、ほどよく人のまばらな時間帯。

祐は、仕事帰りに何気なくその場所を選んだ。


特別な意味はなかった――はずだった。


けれど、向かいのホームに人影が立った瞬間、

すべての時間が止まったように感じた。


白いシャツ。

黒のスカート。

長い髪。

斜め下を見つめたまま立ち尽くすその姿は――楓だった。


言葉が出なかった。


声をかければ、振り向くだろうか。

手を振れば、気づいてくれるだろうか。


でも、祐は何もしなかった。

じっと、ただ彼女を見ていた。


彼女も、こちらを見なかった。

視線を上げることもなく、

ただ、静かに電車を待っていた。


◇ ◇ ◇


ドアの開く音。

人々の乗り降り。

その中に溶けるように、楓の姿が消えていく。


電車のドアが閉まる。

列車が動き出す。

窓越しに、彼女の横顔が一瞬だけ見えた。


そして、消えた。


◆ ◆ ◆


その夜、祐は机の上に置いていた古いノートを開いた。


中には、彼女と出会った日からの走り書きが残っていた。


【あのとき、傘に入れてよかった】

【隣に座ってくれて嬉しかった】

【でも、本当に伝えたかったのは、それだけじゃなかった】


【“またね”って、言えばよかった】


ページの余白は、もうほとんど残っていなかった。


ふたりの関係は、もうどこにも向かうことはない。

でも、それでも――


「なぜ声をかけなかったのか?」


それは、いまだに答えが出ない問いだった。



あの日、彼女の姿を見て思った。


「声をかけたら、泣いてしまいそうだった」


だから、言わなかった。

だから、言えなかった。


それだけだった。


◆ ◆ ◆


それからの日々、

祐は「楓」という名前を、どこでも口にしなかった。


話題に出ることもなければ、誰かに語ることもない。

スマホの連絡帳には、今も彼女の名前が残っていたけれど、

開くことはなくなった。


会いたくないわけじゃない。

忘れたわけでもない。


ただ――名前を呼ぶことが、いちばん彼女を遠ざける気がした。


◇ ◇ ◇


ある雨の日。

図書館の前を通りかかる。


ふと足が止まり、傘をたたんで中へ入った。

窓際の席には、当然誰もいない。


けれど、その空席の形だけは、祐の記憶に焼きついていた。


あの日、彼女が本を開いていたときの姿。

小さな息遣い。

めくるページのリズム。


もう、どれも音としては残っていないはずなのに――

なぜか耳の奥で、微かに鳴っている気がする。


彼は何も言わず、

静かにその隣の席に座った。


本は持っていなかった。

読みたい気持ちも、もうなかった。


ただ、そこに座ることでしか、

彼女に触れる手段がなかった。


◇ ◇ ◇


「名前を呼ばないで」と言ったわけではない。

でも、そう言われたような気がしていた。


彼女の記憶は、いまも確かにそこにある。

だけど、それに縋るように“名前”を呼んでしまったら――


それはもう、“今”ではなくなってしまう。


彼女がこの世界にいたことを、

誰かに証明する必要は、きっともうなかった。


それでも、彼女がこの世界にいたことを、

忘れたくなかった。


だから、

もう名前は呼ばない。


でも、いつでも思い出す。


それが、祐にできる、たったひとつの“やさしさ”だった。



◆ ◆ ◆



仕事から帰宅し、靴を脱いで玄関を閉める。

いつも通りの静かな夜。

誰もいない部屋。

いつものように、テレビもつけず、部屋着に着替える。


ふと、ポストの中に小さな封筒が届いていた。

差出人はなかった。


消印もない。

おそらく、誰かが直接入れたのだろう。


中には、メモリーチップがひとつ。


文字もない。説明もない。

けれど、祐は何もためらわずに、それを再生する。


◇ ◇ ◇


音だけが、静かに流れ始めた。


最初に聞こえたのは、図書館のページをめくる音。


次に、雨の音。

そのあいだに、微かな呼吸。

そして、やわらかな声。


『……ねぇ、祐くん。これを聞いてるってことは――』


『あたしは、もう、どこかへ行っちゃったあとなんだろうなって思う』


笑いながら、でも少し声が震えていた。


『手をつながなかった日。

名前を呼ばなかった日。

それってきっと、“失った日”なんじゃなくて――』


『“忘れないでいるために、黙った日”だったんだと思う』


雨の音が少しだけ強くなる。


『だから、もう名前を呼ばないで。

でも、私を思い出して。

忘れないで。

そうやって、そばにいてくれるなら――それで、いいの』


しばらく沈黙が続いた。


最後に、小さく笑って言った。


『またね、とは言わないよ』

『……でも、誰にも聞こえないなら――言ってもいいよね』


間を置いて、

ほんの少しだけ、風の音が通り過ぎる。


そして、かすれた声で――


『またね、祐くん』


◇ ◇ ◇


再生は、そこで終わった。


祐はしばらく立ち上がれなかった。

目を閉じ、椅子の背に身を預ける。


窓の外は、雨はもう降っていなかった。


でも、あの声は、いまも部屋のどこかに、残っている気がした。


そしてその夜。

誰もいない部屋の静寂のなかで――


ピンポーン。


玄関のチャイムが、

一度だけ、

小さく、鳴った。


祐は立ち上がらない。

玄関には行かない。

何も言わず、ただ、目を閉じたまま。


音は、二度と鳴らなかった。


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