一度だけ、あの人を待った日
大学の図書館は、雨の日だけ静かだった。
昼休みを過ぎた構内は、食堂で溢れる喧騒と、雨音が溶け合って遠くから届く。
その中で、僕はひとり、窓際の席に座っていた。
本を開いていたが、目で追うだけで、頭には何も入ってこなかった。
理由は簡単で――隣の席に、彼女が座っていたからだ。
「……それ、文学部の教材?」
彼女がそう話しかけてきたのは、たしかページを3回めくったあとだった。
声は小さく、でもはっきりしていた。
「え、あ……うん。村上春樹」
「そっか。あたしも、それ読んだ」
そう言って、彼女は自分の膝の上に抱えていた本を少し傾けて見せた。
同じ本だった。
「……偶然だね」
「ううん、偶然じゃないよ。たぶん、ここで読むならそれかなって思った」
不思議な言い回しだったけど、変には聞こえなかった。
雨の音と、本の匂いと、彼女の声がちょうどいいバランスで重なっていた。
「名前、聞いてもいい?」
「あ……うん、橘 祐」
「祐くん、か。私は――」
彼女は、一瞬だけ言葉を止めた。
そして、ほんの少し微笑んで、
「……楓。春日 楓っていうの」
窓の外で、雨が強くなった。
その音に包まれながら、彼女は指でページをなぞるようにして、もう一度言った。
「変なこと、聞いてもいい?」
「なに?」
「祐くんは、誰かを待ったこと、ある?」
僕は少しだけ考えて――首を横に振った。
「ないかも。待たれることはあっても、待つ側になったことは、たぶん」
「……そっか」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
でもその横顔は、ほんの少しだけ、寂しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
次の日も、その次の日も。
雨が降る日は、僕たちは同じ窓際の席で、並んで本を読んだ。
そして、何もない日々の中で、
気づけば僕は――彼女のことを、待つようになっていた。
◆ ◆ ◆
三日目も、雨だった。
例によって図書館の窓際の席は空いていて、僕が座ってページをめくっていると、
数分遅れて、彼女が現れた。
「……また、いた」
「また、来たね」
そんな会話が交わされるようになったのは、この日が初めてだった。
春日楓――彼女は、まるでこの雨を予感していたように、しっとりと濡れたままやって来た。
いつも傘をささずに。
「……雨、嫌いじゃないの?」
そう聞くと、楓は少し首を傾けて答えた。
「濡れるのは嫌だけど、傘を持つのはもっと嫌」
「それって矛盾してない?」
「うん。でも、人ってそういうもんじゃない?」
言葉の端が、どこか遠くを見ているようで。
僕はそれ以上、深く聞けなかった。
◇ ◇ ◇
「祐くんって、真面目だよね」
午後の講義終わり、食堂の外でたまたま出会ったとき、楓が突然そんなことを言った。
「……急に何?」
「だって、ちゃんとノートとってたし、なんか一人でも普通にいられるタイプでしょ」
「それ、褒めてる?」
「うーん……ちょっと羨ましい、かも」
「……楓は、そうじゃない?」
「ううん。あたしは、ちゃんとできない人間だよ」
そう言って笑う顔は、なぜか少しだけ嘘くさくて――
でも、その嘘に触れたいと思った。
「でも、ちゃんとしてない人が、ちゃんと図書館で本読むかね?」
「雨の日だけ、ね」
「それ、なんで?」
楓は少しだけ言葉を選んで、それから静かに言った。
「晴れの日って、みんな“これから”の話をするでしょ」
「でも、雨の日って、“いまだけ”に集中できる気がするから」
なるほど、と僕は思った。
たしかに、彼女の言葉にはいつも、少しだけ“何かを止めた”人のような響きがあった。
僕は思わず聞いた。
「……誰かを、待ってるの?」
楓は少しだけ目を伏せた。
「……違うよ」
でもその返事が早すぎて、
“違う”と言わなければならない理由があるように聞こえた。
◇ ◇ ◇
夕方、図書館を出たときには、また雨が降っていた。
僕は傘を持っていて、楓は今日も持っていなかった。
「入る?」
「……うん」
楓は何も言わずに、僕の傘の中に入ってきた。
距離が近かった。
濡れた前髪。
少し冷たい肩先。
静かに歩く音と、言葉のない呼吸の間に、
「もう少し、このままでいたい」と思った。
でも言えなかった。
代わりに、彼女がぽつりと言った。
「……待つの、って、こわいよね」
その言葉に、僕は返事をすることができなかった。
◆ ◆ ◆
雨の日の放課後、大学の正門前。
僕と楓は、一本の傘の下にいた。
講義が終わったあと、自然な流れで一緒に帰ることになった。
図書館でも、教室でも、なぜか彼女は僕のそばにいた。
それを拒む理由も、特別な意味も、まだ何もなかった。
ただ、今日の楓は、少しだけ歩くのが遅かった。
「……寒い?」
「ううん。祐くんの隣って、あったかいから」
傘の中、僕の指先が少しだけ揺れた。
触れそうな距離に、彼女の手があった。
僕が手を伸ばせば、簡単に届いた。
でも、できなかった。
理由は分からない。
きっと、「まだその段階じゃない」って、どこかで思ってしまったんだろう。
その代わり、僕は少しだけ傘を傾けて、楓に寄せた。
「……ありがとう」
彼女は、ほんの少し笑った。
でもその笑顔は、なんだか“期待しなかった自分への慰め”のようにも見えた。
◇ ◇ ◇
それから数日。
雨は止み、空はずっと晴れ続けた。
図書館の窓際は、静かなままなのに。
楓の姿は、そこになかった。
「……あれ?」
ある日、図書館で本を開いた僕は、違和感に気づいた。
いつも使っている席の机の隅に、小さな紙が挟まれていた。
まるで、誰かがそこに“存在していた証”を残すように――
そっと広げてみると、そこには走り書きのような文字があった。
【晴れてる日に会ったら、少しだけ他人みたいな距離になるね】
【……でも、それってきっと悪いことじゃない】
【じゃあね、祐くん】
日付も、名前もなかった。
でも、そんなものは必要なかった。
その字は、間違いなく、楓のものだった。
◇ ◇ ◇
僕は、それからしばらく図書館に通い続けた。
雨の日も、晴れの日も。
けれど、彼女は姿を見せなかった。
なのに、なぜだろう。
その頃の僕は、どこかでこう思っていた。
――また会える。
それもきっと、なにか意味のあるタイミングで。
だから、まだ手をつなげなかったことも。
名前を呼び合わなかったことも。
全部、「これから」に含まれているんだと、信じて疑わなかった。
その“これから”が、あんなにも脆くて儚いものだったとは、まだ知らずに。
◆ ◆ ◆
晴れた午後、図書館の前。
それはまるで、夢の中の風景のようだった。
もう何度も通ったはずのこの場所に、
春日楓が、立っていた。
「……久しぶり」
彼女は、少し笑ってそう言った。
前と変わらない声だった。
でも――その笑顔は、前とは少しだけ違っていた。
「……どこ、行ってたの?」
聞いた瞬間、僕は自分の声が震えていることに気づいた。
ずっと、聞けなかった言葉。
ずっと、聞きたかった問い。
楓は、それには答えず、小さく首をかしげた。
「祐くん、相変わらず真面目だね」
「そう?」
「うん。でもそれ、ちょっと安心した」
◇ ◇ ◇
図書館の中。
窓際の、あの席。
ふたり並んで座るのは、何週間ぶりだろう。
静かな時間が流れる。
でも本は、もう開かれていなかった。
ふたりとも、何も読まなかった。
楓が、ぽつりとつぶやく。
「……ねぇ、祐くん」
「ん?」
「覚えてる? “誰かを待ったことある?”って聞いたとき、祐くん、首振ったよね」
「ああ……」
「それ、あのとき、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
「どうして?」
「だって――」
彼女はそこで言葉を止め、窓の外を見た。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「私、今日ここに来たの、何かをはじめたくてじゃなくて……」
「ちゃんと、区切るためなんだ」
その言葉は、まるで教室のチャイムのように響いて、
心に、終わりの予感を落としていった。
「私ね、これからしばらく、ここに来れないの」
「なんで」
「……理由は、言わない。言ったら、あたし、きっと戻れなくなるから」
僕は、何も言えなかった。
手を伸ばせば、また届きそうだった。
けれど、それはもう、手をつなぐには遅すぎた。
「じゃあね、祐くん」
「……また来る?」
楓は、少し微笑んで、
言った。
「ううん、もう来ないよ」
その日、楓が残したものは、
机の下に落ちていた、小さな紙片だけだった。
「区切るってことは、なかったことにするんじゃない。
きっと、それでも覚えておきたいってことだと思う」
僕はその言葉を、何度も何度も読み返した。
そして初めて――
あの日、彼女が言った「待つのってこわいよね」の意味が、
少しだけ分かった気がした。
◇ ◇ ◇
昼過ぎから、雨が降り始めた。
予報では午後から晴れると言っていたが、見事に外れていた。
冷たい雨粒がガラスを打ち、大学の構内はどこか静かだった。
図書館の窓際、あの席。
祐は、いつものように本を開いていた。
……楓がいなくなっても、雨の日だけは、ここに来ると決めていた。
隣の椅子は、空いている。
読みかけの小説も、返却期限をとうに過ぎていたはずなのに、棚に戻す気にはなれなかった。
「……やっぱり、まだ待ってるんだな」
自分で呟いて、自分で苦笑する。
どこか滑稽で、でもやめられなかった。
本を読むふりをしながら、視線はずっと、入口のほうに向いていた。
誰かの足音が近づくたびに、
ドアが開くたびに、
少しだけ、胸がざわつく。
でも、そこに彼女の姿はなかった。
◇ ◇ ◇
傘を差さずに来ていた。
彼女が、よくそうしていたように。
びしょ濡れになった髪と服が、少しだけ重く感じられた。
ポケットの中には、あの時の紙片がまだ入っていた。
くしゃくしゃになって、文字の一部がにじんでいる。
【区切るってことは、なかったことにするんじゃない。
きっと、それでも覚えておきたいってことだと思う】
何度読み返しても、その意味は完全には理解できなかった。
でも、言葉にできない感情だけは、確かに残っていた。
◇ ◇ ◇
閉館時間が近づき、館内に小さくアナウンスが流れる。
祐はゆっくりと立ち上がり、鞄に本をしまった。
隣の席には触れず、視線も向けなかった。
それが、今できる唯一の“やさしさ”のような気がした。
図書館を出ると、雨は少しだけ弱まっていた。
キャンパスの道を歩くとき、ふいに風が吹き、
濡れた髪が頬に張りついた。
そのとき、不意に胸が締めつけられるような感覚が訪れた。
あのとき、手をつなげていたら。
あのとき、「待つよ」と言えていたら。
そんな“たられば”が、音もなく心を満たしていく。
だけど、もう遅い。
彼女は、もう来ない。
それでも――
今日も僕は、君のいない雨の日に、図書館へと足を運ぶ。
図書館の窓の外に、雲ひとつない空が広がっていた。
前日までの雨が嘘のように晴れ、
光が差し込む室内は、まるで違う場所のようだった。
それでも、祐はいつもの窓際の席にいた。
隣の椅子は、やはり空のまま。
◇ ◇ ◇
本を読むふりをするのにも慣れてきた。
ページをめくっては、同じところを何度も読み返す。
物語の登場人物たちは前へ進むのに、自分だけが、どこにも進めないでいるような感覚だった。
そんな中、司書の女性がふと近づいてきた。
「あの……これ、落とし物として届いてまして」
手渡されたのは、折りたたまれた紙封筒だった。
「中身は確認していませんが、座っておられる席にあったとのことで……」
受け取って礼を言い、司書が去ると、
祐はゆっくりと封を開けた。
中には、一枚の手紙と、写真が入っていた。
写真には、図書館の窓際の席に座る楓の姿。
こっそり撮られたもののようで、彼女は気づかずに本を読んでいた。
なんでこんな写真が、とは不思議と思わなかった。
でも、その表情はとても静かで、
まるで世界からすべてを切り離して、“今だけ”を生きているようだった。
手紙には、こう綴られていた。
= = =
祐くんへ
多分、これを読む頃には、私はもうこの場所にはいません。
ちゃんと、言わなきゃいけなかったんだと思う。
あたしが、誰かを待ってたこと。
でも、それが祐くんじゃなかったこと。
それでも祐くんの傘に入った日、あたしは、
ほんの少しだけ「誰かに選ばれてもいいかも」って、思えたの。
それってすごく怖くて、でも、すごく嬉しかった。
“選ばれたかった”んじゃない。
“祐くんを、選びたかった”のかもしれない。
ごめんね。
ありがとう。
春日 楓
= = =
大学に入る直前、春日楓は一人の人をずっと待っていた。
再会を約束した誰か。
でもその人は、もう二度と現れなかった。
それでも、楓は「待つことをやめられなかった」。
だから、誰かとちゃんと向き合うことができなかった。
心のどこかに、“誰かを待つ椅子”がずっと空いていたから。
けれど、祐と出会い、
同じ傘に入った日。
本を読みながら、同じ時間を過ごした日々の中で、
彼女は少しずつ、“今”を見ようとしていた。
でも、間に合わなかった。
彼女は、自分の“過去”よりも先に進めるほど、
まだ強くはなかった。
◆ ◆ ◆
窓の外では、すっかり晴れた空に風が吹いていた。
祐は写真を胸ポケットにしまい、
そっと机の上に手を置いた。
椅子の隣には、
誰もいないままの席がある。
それでも、ほんの少しだけ、
何かが報われたような気がした。
手紙の裏面に、小さな数字が書かれていた。
【5月7日】
【午後3時15分】
【図書館、窓際の席】
祐は最初、それをただの“記録”だと思った。
でも、読み返しているうちに、違和感に気づく。
それは、ふたりが初めて出会った日付と、ぴったり同じだった。
「……嘘だろ」
彼女が“偶然を装って”そこにいたのか?
その問いに、否定の材料はなかった。
◇ ◇ ◇
手帳を開き、予定表を遡る。
スマホのカレンダーアプリも確認する。
5月7日。
講義が急に休講になった日。
図書館にたまたま寄った午後。
窓際に座って、本を読もうとした――そのとき。
彼女が声をかけてきた。
「……それ、文学部の教材?」
あの瞬間は、“偶然”だと思っていた。
でも、もしもそれが、あらかじめ用意されていたものだとしたら――?
◇ ◇ ◇
思い出すたびに、細部がくっきりと浮かんでくる。
楓の言葉。
仕草。
あのタイミング。
「……それ、読んだ」
「たぶん、ここで読むならそれかなって思った」
それは“同じ本をたまたま持っていた”じゃなくて――
「その時間に、彼がその本を読んでいる未来を、
彼女はどこかで信じていた」ような、そんな言い方だった。
祐は、机の下に手を差し入れた。
かすかに指が触れた。
細長い封筒。
その中には、折り畳まれた紙が一枚だけ入っていた。
= = =
※備忘録
5月7日、午後3時15分。
祐くんが図書館の窓際の席に座る。
――彼を見つける場所。
――彼に近づく理由。
それが、“この恋の出発点”になること。
私にとって、これが最初で最後の“選択”になること。
絶対に、間違えないように。
= = =
その筆跡は、確かに楓のものだった。
それは、まるでタイムカプセルのようだった。
彼女が、未来の自分自身に宛てた、“決意の記録”。
もう一度、祐は手紙を開いた。
言葉の裏に込められていたものを、ようやく理解できた気がした。
彼女は、偶然そこにいたんじゃない。
彼女は、誰かを待つのをやめるために、そこに来た。
そして、その“最初の相手”に、祐を選んだのだ。
窓の外には、夕方の陽が差していた。
祐は、机の上にその紙をそっと戻し、
かすかに笑った。
「選ばれてたんだな、俺……」
それは、ほんの一瞬だけ、
涙が溢れる寸前の微笑みだった。
◇ ◇ ◇
封筒の中身を読み返したあと、祐はしばらくその席に座っていた。
図書館の窓際。
何度も彼女と過ごした、あの場所。
でも、今はひとり。
静かに机の上に置かれた紙。
それを見つめるうちに、ふと彼は思った。
――あのとき、どうして気づけなかったんだろう。
「祐くんは、誰かを待ったこと、ある?」
「それって、こわいよね」
何気ない言葉たちが、今になって重たく響いてくる。
彼女は、本当は“自分が待っていた”ことを告白するかわりに、
僕に“待つ怖さ”を悟らせたかったんだ。
きっと、自分の気持ちを僕の中に投げ入れて、そこに共鳴する何かを探していた。
でも、僕はそれに気づけなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、祐は久しぶりに夢を見た。
夢の中で、彼は図書館の席にいた。
いつもの窓際。
でも、そこには誰もいなかった。
静かなページの音だけが響く。
ふと、誰かが隣に座る気配。
振り返ると、楓がいた。
「ねぇ、祐くん。あたしのこと、もう思い出してないんじゃない?」
彼女は、いつもと変わらない口調で、少しだけいたずらっぽく笑っていた。
「そんなことないよ」
「ほんとに?」
楓はそう言って、机の上に一冊の本を置いた。
ページをめくると、すべて空白だった。
「まだ、何も書かれてないね」
「……これから書くのかも」
「じゃあ、最後のページだけ、あたしが書いてもいい?」
「……何て書くの?」
彼女は答えなかった。
ただ、優しい笑顔を浮かべて、
静かにその場から消えていった。
◇ ◇ ◇
目を覚ました祐は、ぼんやりと天井を見上げていた。
窓から差し込む光。
風に揺れるカーテン。
そして、静寂。
彼女が消えたあとも、世界は何も変わっていなかった。
でも、祐の中では確かに、何かが終わり、何かが始まっていた。
彼女が、たしかに“自分を選んだ”ということ。
それに気づいたとき、同時に――
それはもう、取り返せない過去になっていた。
◆ ◆ ◆
5月24日。午後。
雨の予報は外れ、雲ひとつない晴天だった。
講義が早く終わったその日、祐は予定もなく、ふらりと図書館に向かった。
もう何日も、楓の姿を見ていない。
彼女からのメモも、手紙も、それっきりだった。
でも、この日だけは、理由もなく“待たなきゃいけない気がした”。
「もし、今日来るとしたら、きっと今日だ」
根拠のない直感。
だけど、その直感を裏切るほど、楓は不確かな存在ではなかった気がする。
祐は、窓際のいつもの席に座った。
右隣の椅子には、誰もいない。
本を開く。
けれど、文字は頭に入らない。
何度も、入口を見た。
誰かが入ってくるたび、目が追ってしまう。
でも、彼女の姿はなかった。
◇ ◇ ◇
時計の針が、午後3時を回った。
それでも祐は、立ち上がらなかった。
周囲の席は埋まっていき、騒がしさが広がる。
図書館独特の低いざわめきに包まれても、祐はじっと待っていた。
午後3時15分。
その時刻は、彼女と初めて出会った時間だった。
でも――その日も、誰も来なかった。
◆ ◆ ◆
その頃、春日楓は、駅のホームに立っていた。
誰かを待つでもなく、行き先も告げず、
ひとりで電車に乗る支度をしていた。
スマートフォンの画面には、開きかけて消されたメッセージが残る。
『今日、祐くんに会いに行こうと思った』
『でも、それをしないってことが――』
『あたしが、あたしでいるための、最後の決意なんだと思う』
送信されることのない言葉。
ホームに電車が入ってくる音だけが、
世界の中で確かなもののように響いていた。
◆ ◆ ◆
図書館に陽が差し込む。
時計の針が、午後4時を回る。
祐はようやく、席を立った。
「……今日も、来なかったな」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
でも、自分にとっては、それだけで充分だった。
今日、僕は一度だけ、彼女を待った。
それだけで、たしかに何かが変わった気がした。
それだけで、充分だった気がした。
でも本当は、
――きっと、違っていた。
◇ ◇ ◇
駅のホーム。
夕方のラッシュ前、ほどよく人のまばらな時間帯。
祐は、仕事帰りに何気なくその場所を選んだ。
特別な意味はなかった――はずだった。
けれど、向かいのホームに人影が立った瞬間、
すべての時間が止まったように感じた。
白いシャツ。
黒のスカート。
長い髪。
斜め下を見つめたまま立ち尽くすその姿は――楓だった。
言葉が出なかった。
声をかければ、振り向くだろうか。
手を振れば、気づいてくれるだろうか。
でも、祐は何もしなかった。
じっと、ただ彼女を見ていた。
彼女も、こちらを見なかった。
視線を上げることもなく、
ただ、静かに電車を待っていた。
◇ ◇ ◇
ドアの開く音。
人々の乗り降り。
その中に溶けるように、楓の姿が消えていく。
電車のドアが閉まる。
列車が動き出す。
窓越しに、彼女の横顔が一瞬だけ見えた。
そして、消えた。
◆ ◆ ◆
その夜、祐は机の上に置いていた古いノートを開いた。
中には、彼女と出会った日からの走り書きが残っていた。
【あのとき、傘に入れてよかった】
【隣に座ってくれて嬉しかった】
【でも、本当に伝えたかったのは、それだけじゃなかった】
【“またね”って、言えばよかった】
ページの余白は、もうほとんど残っていなかった。
ふたりの関係は、もうどこにも向かうことはない。
でも、それでも――
「なぜ声をかけなかったのか?」
それは、いまだに答えが出ない問いだった。
あの日、彼女の姿を見て思った。
「声をかけたら、泣いてしまいそうだった」
だから、言わなかった。
だから、言えなかった。
それだけだった。
◆ ◆ ◆
それからの日々、
祐は「楓」という名前を、どこでも口にしなかった。
話題に出ることもなければ、誰かに語ることもない。
スマホの連絡帳には、今も彼女の名前が残っていたけれど、
開くことはなくなった。
会いたくないわけじゃない。
忘れたわけでもない。
ただ――名前を呼ぶことが、いちばん彼女を遠ざける気がした。
◇ ◇ ◇
ある雨の日。
図書館の前を通りかかる。
ふと足が止まり、傘をたたんで中へ入った。
窓際の席には、当然誰もいない。
けれど、その空席の形だけは、祐の記憶に焼きついていた。
あの日、彼女が本を開いていたときの姿。
小さな息遣い。
めくるページのリズム。
もう、どれも音としては残っていないはずなのに――
なぜか耳の奥で、微かに鳴っている気がする。
彼は何も言わず、
静かにその隣の席に座った。
本は持っていなかった。
読みたい気持ちも、もうなかった。
ただ、そこに座ることでしか、
彼女に触れる手段がなかった。
◇ ◇ ◇
「名前を呼ばないで」と言ったわけではない。
でも、そう言われたような気がしていた。
彼女の記憶は、いまも確かにそこにある。
だけど、それに縋るように“名前”を呼んでしまったら――
それはもう、“今”ではなくなってしまう。
彼女がこの世界にいたことを、
誰かに証明する必要は、きっともうなかった。
それでも、彼女がこの世界にいたことを、
忘れたくなかった。
だから、
もう名前は呼ばない。
でも、いつでも思い出す。
それが、祐にできる、たったひとつの“やさしさ”だった。
◆ ◆ ◆
仕事から帰宅し、靴を脱いで玄関を閉める。
いつも通りの静かな夜。
誰もいない部屋。
いつものように、テレビもつけず、部屋着に着替える。
ふと、ポストの中に小さな封筒が届いていた。
差出人はなかった。
消印もない。
おそらく、誰かが直接入れたのだろう。
中には、メモリーチップがひとつ。
文字もない。説明もない。
けれど、祐は何もためらわずに、それを再生する。
◇ ◇ ◇
音だけが、静かに流れ始めた。
最初に聞こえたのは、図書館のページをめくる音。
次に、雨の音。
そのあいだに、微かな呼吸。
そして、やわらかな声。
『……ねぇ、祐くん。これを聞いてるってことは――』
『あたしは、もう、どこかへ行っちゃったあとなんだろうなって思う』
笑いながら、でも少し声が震えていた。
『手をつながなかった日。
名前を呼ばなかった日。
それってきっと、“失った日”なんじゃなくて――』
『“忘れないでいるために、黙った日”だったんだと思う』
雨の音が少しだけ強くなる。
『だから、もう名前を呼ばないで。
でも、私を思い出して。
忘れないで。
そうやって、そばにいてくれるなら――それで、いいの』
しばらく沈黙が続いた。
最後に、小さく笑って言った。
『またね、とは言わないよ』
『……でも、誰にも聞こえないなら――言ってもいいよね』
間を置いて、
ほんの少しだけ、風の音が通り過ぎる。
そして、かすれた声で――
『またね、祐くん』
◇ ◇ ◇
再生は、そこで終わった。
祐はしばらく立ち上がれなかった。
目を閉じ、椅子の背に身を預ける。
窓の外は、雨はもう降っていなかった。
でも、あの声は、いまも部屋のどこかに、残っている気がした。
そしてその夜。
誰もいない部屋の静寂のなかで――
ピンポーン。
玄関のチャイムが、
一度だけ、
小さく、鳴った。
祐は立ち上がらない。
玄関には行かない。
何も言わず、ただ、目を閉じたまま。
音は、二度と鳴らなかった。