異世界のすゝめ 〜停滞した現実からの脱却〜
「田中がお前のこと嫌いだって言ってたぞ笑」
人から嫌われると心臓をめった刺しにされたような痛みに襲われる。自分の存在を許さない人がいる、その事実だけで居ても立っても居られない。顔が赤くなる。今すぐ逃げ帰りたい。どこへ?この世界ではないどこかへ。でも今はその感情を顔に出すわけにはいかない。相手を傷つけるから。押し隠して笑いを貼り付け、陽気に返す。
「何でだよ!俺田中と喋ったこともないぞ?」
「らしいな、態度が嫌いだって笑」
「否定しろよ、一応友達だろお前!」
「ああ、普通の人だよって言っといた」
「世界有数の人格者って言え!」
そんな学校での何気のない、ありふれた会話。
孤独は辛いと言うがそうだろうか。人と関わることの方がよっぽどだ。上手くできても得られるものは一時の安堵と未来に起こりうる崩壊への畏れ、失敗すると抉られるような痛みを負い消えることはない。ふとした時に思い出して自己嫌悪に苛まれるのだ。ある人に好かれようとするとその他の人に嫌われ、また逆も然り。誰からも好かれようとするのはどだい不可能だった。少なくとも俺には。
学校が終わると人は二種類に分かれる。一人でそそくさと帰るやつと、友達に囲まれ駄弁りながら帰る人。
果たして前者は一緒に帰るやつもいない可哀想なやつか?不幸だと言えるか?違うだろう。
俺は後者だ。いつの間にか周りに人が増え、(それほど多いと言うわけではないが)帰宅時、人を待ち、待たれる。それが日常化した。でもそのうち俺は人を待つ時間も、合わせて遅くなる歩みも、永遠と繰り返される予定調和の会話も、苦痛に感じるようになってくる。もともと社交性のある性格ではないから。相手は俺のことを必要としているのだろうか、していないんじゃないか?本当に俺を好んで一緒に居てくれているのだとしたら申し訳ないな。一人で帰りたいとか言ったら傷つけるだろうな。そんな事を思ってより心が痛む。
確かに人は一人で生きていくことはできない。孤独が人を殺すことだって可能だろう。でも、それは人との過剰な関わりだって同じことだ。生き方を曲げ、日々を忍耐と共に縮こまって生きるのは、自分の時間を生きていないと言う点で死そのものだ。
暖かい雰囲気を纏い、常に笑顔で人を笑わせ、話しかけると受け入れてくれる。こいつを嫌いな奴は居ないだろうなって感じの男。そいつの席に行けば自分の場所がある、そう錯覚させてくれるいい奴はいつも真っ先に家へ帰る。
ああ見えてあいつは人との関わりが苦手なんだ。一番嫌いなものは満員電車といっていたっけ。そこそこの頻度で学校へ行きたくなくなりサボってクラスメイトを残念がらせる。
そういうのに、憧れる。俺の理想だった。
俺は学校をサボるなんて発想はないし、度胸もない。あいつみたいにみんなには好かれないし、惜しまれることなんて無いはずだ。居なくても替えがきく、そういう存在。
でもあいつと俺は性格の根っこは似ているよなって親近感を覚えたりして、そんな自分がキモいな、烏滸がましいなって思ったりして、そうしてまた明日も今日と同じようになるんだろうなっていう諦観。
異世界はいい。鬱々とした現実から引っ張り出してくれる全く新しい世界、新鮮で、広大だ。可能性の塊。
そこには主人公の成長できる土台と、契機が待っている。(別にそのままの主人公が受け入れられる世界だって最高だ)
日々飽きないよう環境は変化し続け、やがて苦難が立ち塞がり、乗り越えた暁にはハッピーエンドが待っているのだ。
主人公を取り巻くキャラクターはみんな個性的で、主人公に必要とされ、主人公を必要とする。必ず一方的な関係ではなく、両方にとってならなければならない存在になっていく。誰にでも居場所があり、そこで更なる成長を遂げる。何とは限らず、関係性でも能力でも人格的にでもいい。そこに停滞はない。
異世界には退屈しないストーリーと、必ず報われる努力、綺麗な物語の終わりがある。別れるでもこのまま一緒に旅をするでもいい。そんな魅力的な終わり方なら物語の書き手が筆を置いても主人公達は歩き続けるだろう。
そんな異世界を目指して、俺は今日も生きる。
異世界行きたい。社会人(大人)になったらこんな気持ち、湧かないんですかね?