記憶と食事
三題噺もどき―ろっぴゃくじゅういち。
外は雨が降っているのか、窓を叩く音がしている。
この音は嫌いではなかった。
むしろ心地よく、耳に触れるその音は、集中を妨げることはせず、ほどほどに掻き立ててくれるものだった。
「……」
時計の針の音と。
キーボードを叩く音が。
雨音に混じり、室内を満たしていく。
「……」
昨日の、嫌な記憶を消すように、仕事に集中している。
何かをしていれば、思いださずに済むのだ。
ふと、何かが途切れた瞬間に襲い来る苦い記憶が、仕事の邪魔をする。
「……」
それなりに年齢を重ねて、今自分がいくつかなんて数えてもいないのに、記憶というのはなぜこんなにも残るんだろうと首をかしげたくなる。
それもすべて、いやなモノばかり。楽しかった記憶など、確かにさほど持ってはいないが、それなりにあるはずなのに。
邪魔をするのは、いやなモノばかり。
「……」
仕事に集中する。
音に満たされた部屋で、暗い部屋で。
一人、淡々とキーボードを叩く。
「……」
昨日のことを思い出しては、更に幼い頃の事まで思いだし。
仕事に切り替え、目の前のことに集中する。
また思いだしては、集中する。そんな繰り返し。
「……」
これでは進むものも進まない。
そんなことは分かっている。
終わるものも終わらない。
そんなこと自分が一番分かっている。
「……」
けれど、記憶を思い出さないようにするには、今は、こうするしかない。
無理に詰めた仕事だから、実のところやらなくてもよかったりするが。
それとこれは別としてもらって。
何かをしていないと、忘れようとしていたことまで思いだしてしまう。
「……」
拘束されたことも。幽閉されたことも。死にかけたことも。殺されかけたことも。追われていたことも。毒を盛られたことも。信じていたものに裏切られたことも。それもこれも。全部全部。忘れて箱に詰めて仕舞い込んで押し込んで流してしまえればどれだけ楽か。
「……」
そうしていても、年に一度。こうしてあちらに出向く限りは、記憶はいつまでも繰り返す。
ならばやめてしまえと言うかもしれないが、そう簡単にもいかなくて。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「ご主人」
「……なんだ」
声だけで返事をして、手は動かしたまま。
「昼食ができました」
「……後でもらう」
今は、記憶をかき消すのに精いっぱいだ。
食事など、本来いらないはずのモノに時間を割いている暇など
「ご主人」
先程とは違い。
少しだけ、怒気をはらんだような、低い声だった。
「……なんだ」
パソコン画面から視線をそらし、開かれた戸の方へと向く。
そこには、見慣れたエプロンをしたアイツが立っている。
あそこにいる間は、誰にも見せないこの姿。
この家でだけ、私とコイツ二人のときだけ、この姿でいる。
「昼食です。朝食も食べてないんですから、何か口に入れてください」
「……いらないだろう」
「…………ご主人」
「……」
「なににご執心されているかは知りませんが、食事は二人で摂るものだと言ったのはご主人です。」
「……」
「おかげで僕も朝食を食べて居ません。このまま餓死でもしたらどうしてくれるんですか」
―主人としての役目を放棄するんですか。
暗に明に、そういいながら、こちらを見据える。
そういえば、そんなことを言った。
幼い頃、一人でいることが当たり前だった私にできたこの従者に。食事を共にするようにと、言ったことがあった。それもかなり昔のことだ。
「……よくそんな事覚えている」
「何か言いましたか」
「……いや、頂くよ」
「その前に顔くらい洗ってきてくださいね」
そう言い残して台所へと戻っていった背中は小さいが、確かにそこにあると。
一人ではないと、言い聞かせるようで。
「……」
全く。
ほんとに。
どちらが主人なのか、分からなくなるな。
「「いただきます」」
お題:拘束・雨・台所