第20話:そして歴史は、動き始める。
遅れて申し訳ありません。
これは、ほんの数分前の話。
少女はパーグ大時計台の天辺に着かなければならなかった。時計台は薄い緑色の靄が掛かっていて、誰かが魔法をかけていることも分かっていた。しかしその靄は安定せず、恐らくあと10分もせずに切れてしまうだろう。急がなければならない。
上からは相も変わらず瓦礫が降ってきていた。降ってくる程度の激しさは、豪雨に勝るとも劣らない。少女の周囲で何度も土砂が落下し、その破片が飛び散り、地面のあの美しい石畳は見る影もなかった。住宅は屋根も壁も無数の穴ができており、全体としては見るも無惨な廃墟街と化していた。
何人かの勇猛果敢な男達はこの震天動地の出来事に、必死に対処しようと試みていた。上に向かって「攻撃の魔法」をぶっ放したり、少数の逃げ遅れた人々を「防御の魔法」で守ったり、「大声の魔法」や「通信の魔法」で情報共有をしたり……。その表情は一様に苦虫を噛み潰したようであり、明るさなどというものは決して感じられなかった。土砂物の雲はまだまだその重厚さを保たせており、寧ろここからが本番で、街の男達もどうすることもできず、それを実感しているのか、避難の完了したところから次々に、逃げ出していた。
その最中で、
「あははははは!!」
少女は、笑っていた。
堰き止めていた何かを一斉に放つように、狂気を孕んだ声で笑っていた。当然「防御の魔法」は使用しているものの、まるで生を諦めてしまったかのような、異様な状態であった。子どもの笑顔だと言うのに、ここまで薄気味悪いものはなかった。微妙に引き攣っており、それは三日天下の如き無常観を彼女に悟らせているかのようであった。
そこに何度目かの、大きめの瓦礫が降ってきた。
「変化の魔法:光化!」
瓦礫は、少女に触れるより先に光の粒になっていった。レイン・ブラックローに土砂で埋められた時と同じ技で、瓦礫を回避した。
少女は、その幼い頭で一所懸命に、熟考した末に、
「そうだ!自分の脚のジャンプ力を上げればいいんだ!」
と合点した。幼子特有の陽気さであった。
少女は両の脚に踏ん張る姿勢をして、次の瞬間、
「変化の魔法:跳躍力上昇!」
と、跳び上がった。白いスカートもふわっと捲れた。そこまでは良かった。問題は力の加減と、空中でのコントロールであった。前者は過大で、後者はそのための手段を持っていなかった。
「あれ?」
そのことに気付いた時はもう遅かった。やはり少女は年相応の頭脳しかなかったらしい。強すぎる衝撃に瞑った眼を開くと、時計台は遥か下にあった。それを、意識することしかできなかった。あとは、重力に依る。少女の幼体は当然の如く、自然落下していく。
「わああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そうして前話の、最後の場面に至る。
「引寄の魔法!」
パーグ大時計台の屋上、クロック・アルデヒドはホシイカを咥えつつ、少女の身体をこちらに引き寄せた。上から降ってくる土砂物に注意を払いながら、それは繊細な作業を求められた。そのために一時的に「修理の魔法」を止めざるを得なかった。今行っていることがあの雪の日の時計台の除雪作業のようであり、瓦礫もゆっくりと降り積もる雪のようであった。アルデヒドは、そう感じた。
「わっ……!」
少女は思わず声を発した。勝手に動いてゆく自身の身体に驚きつつも、魔法で引き寄せられていく方向を見れば、それは時計台の頂上、少女から見ればやや左下の方向であり、そちらに淡い緑色に輝かせた右手を振っている男性が見えた。
この時、空気の抵抗により花弁の如く開いてしまう短丈のスカートを、前後、手で必死に抑えた。裾は上下左右に元気よく動いており、したがって抑えていない横方向からは足の付け根まで見えてしまっていた。そのデリケートな部分もワンピースの下に白肌を隠す衣服が無く、足の付け根のあの輪郭の曲線美をその柔らかさと共に、どんなに深いスリットの服よりずっと露わにし、晒してしまっていることが嫌でも分かってしまう。
そして服の中で、空気が下から上へと、肌に沿って通ってくる。身体に密着してくれる衣服が無いため、少女を守ってくれるものはなく、ワンピースのスカートの中、空気が直接の肌を擽ってゆく。少女の幼体にはそれが妙にこそばゆくて、ふふっと笑ってしまっていた。下から入ってきたこの疑似の風は、ノースリーブの袖又は艶めかしい鎖骨の見える首元から出ていき、服そのものをはためかせるのだが、それで袖や胸元から服の中の一部の白肌が露わになってしまう。脇や首元を風が愛撫し、それが一番こそばゆかった。
アルデヒドの表情は、やや険しかった。彼にとっては、その顔つきは無意識のものであったが。対する少女には、アルデヒドの眉間の皺が谷のように深く思えた。筋肉の付きすぎた身体とその表情に、少女は子どもながらの好奇心を抱いたが、落ちてゆく瓦礫を見て、我に返るのだった。
数十秒掛けて、少女は漸く時計台の屋根の上に辿り着いた。瓦礫には一度も当たらず、奇跡的であった。アルデヒドは救出を終わらせると、必死に肺の膨張と収縮を繰り返していて、口からは嗚咽を含んだ息を吐きだしていた。
少女の息は、整っていた。しかし、空中に投げ出された恐ろしさはあったらしい。べったりと足を地面につけて座って、息とは違う自身の心地を整えていた。胸をしきりに上下させ、やや前屈みになり、顔は俯いていた。その姿によって服の首元の部分はダランと下に垂れてやや開いてしまっており、中の生肌、特に胸の辺りがチラチラと見え隠れしていて、時にはへそまで覗けそうであった。反対に、後ろの裾の方はずり上がって、付け根まで見えてしまっていたから、慌ててスカートを引っ張っていた。
少女の肌の所々は、土砂のせいであろうか、茶色く汚れていた。それが歴戦の傷にも見受けられた。
「君は……」
それはクロック・アルデヒドからの、微かに調子を落とした声であった。
「一体何をして……」
「この町の人達を助けに来ました。」
勇者の如きセリフを、さも当然の如く即答するのだから、その時の少女の不自然な程に上がった口角を見て、アルデヒドはその猜疑の念をより一層深めた。それは、少女を敵視するという意味合いではなかった。かと言って少女を叱り付けるというものでもなかった。説教とは満ちた者から満ちていない者への一方通行であるとアルデヒドは心得ており、少女のただならない様子を目の前にして、その領分には至らないと思ってしまったからである。思考の上での判断であった。
高層特有の気性の荒い風だけが、2人の間を取り持っていた。無音の、不気味な風であった。土砂の雨は止んでしまったかのように、不思議とそれらの音は地に沈んでいった。
「もう、時間がありません。失礼します!」
少女が、駆け出した。目的地は屋根の真ん中であった。所々の落ちている瓦礫を避けて、数秒の内に到着した。着くや否や、少女は空を見上げた。視界に入ってくるのは土達が落ちてくる、皮肉にも幻想的な風景だった。その奥には雲と化した瓦礫達。あれが、まだまだ落ちてくる。降ってくる土砂物は段々と多くなり、もはや視界の中に土砂を見つけない方が困難なほどであった。これより非現実的な風景はないであろう。少女は、目を細めた。木にもたれ掛かって気絶しているあの青白い男を、もう一度殴ってやりたい衝動に駆られた。ぎゅっと血の出るほどに握りこぶしを作って、その感情を抑え込んだ。
少女は両の手を上にかざすと、
「防御の魔法!」
と唱えた。透明な防御壁が、現出した。しかしそれは少女を守る程度の広さと厚さでしかなく、何の秘策でもなかった。
流石のアルデヒドも看過はできなかった。考えるよりも前に、叫んでいた。
「何をやっているんだ!早く!下に降りるんだ!そうしないと…」
死んでしまうぞ、という言葉は飲み込んだ。子どもに掛ける言葉ではなかったからだ。語尾は段々と小さくなっていき、最後は瓦礫の雨音に掻き消された。まるで線路を挟んで叫ぶ男女に、列車が轟音を立ててその甘い声を破っていく無慈悲さであった。今であれば甘い声というのは説教になっていたが、少女の安全を思う気持ちは、子供への「甘さ」であろう。事実、アルデヒドはこの危険な状況でも子どもを見捨てる男ではなかった。保身という思考よりも子どもへの愛が先行していたのだ。それは確かに天性のものであった。
アルデヒドの口にあったホシイカは、自身の声で落ちてしまった。目線は、少女の白い細腕に向いていた。流石に身体は鍛えられているからか大分息は整っていたが、筋肉質の身体は汗を吹きだして、だらけていた。吐かれた鼻息は初夏であるというのに、白さを帯びているように見えた。
少女は、アルデヒドの方を振り向かなかった。思えば、助けてくれたことのお礼もしていなかった。余裕がなかったのだ。ただ上の瓦礫を睨みつけて、それをどうしようかと考え込むばかりであった。
「おい、聞いているのか!」
子供に掛ける声の温かさはなかった。アルデヒドは少女の不思議な佇まいにも、その思考を巡らすことができない。このままではいけないという焦燥が、身体を震わせていた。
アルデヒドの声に、少女は漸く答えた。
「私は」
それは率直な思いであった。
「この街を助けたいんです。」
その答えは、救世の天使のようであった。
言い終わった直後、まるで両者の隔たりを表すかのように、一際大きな瓦礫が少女とアルデヒドの間に落下した。落ちてくる音は空を切る独特のものであり、その不気味さは誰もが恐怖する程であった。屋根に当たって瓦礫は砕け、鼓膜を破るが如き轟音と散っていく破片たちが同時に両者を襲った。一瞬、アルデヒドは細目になって、腕で自身の顔を覆った。大きな砂嵐に遭ってしまった、そういう感触が身体中を襲う。それが、数秒続いた。
感覚としては、数秒よりずっと長く感じた。寒空の下に自身の肝が投げ出されたかのようであった。幸い、両者に大きな怪我は無かった。が、鍛え上げられた自分でもそれほどまでに危険が迫っているのだ。幼い少女にはどうであろうか。一層、アルデヒドの焦りは大きくなっていく。
「何を……馬鹿なことを……!」
アルデヒドは、大人の現実主義に浸っているからこそ、信じられない。それが当然であった。少女の行為が子どもの勇者ごっこの、その延長にしか思えなかったのだ。
ただ、瓦礫の一軒があっても、少女は不動であった。
よく見ると、白い柔肌の数十箇所が青紫か、茶色くなっていた。それが治れば、どんなに綺麗な姿であろうか。少女の服も左の脇腹の辺りが破けていて、その部分が露わになっていた。切り傷は体の無数にできていた。足の裏はじくじくと痛みが伴い、膝も腿も同様であった。嫌な汗が、身体中から噴き出していた。
けれども、諦めない。
「私は、お母さんみたいになりたいんです……!!」
少女の手は白色に強く光った。その強度にアルデヒドは思わず目を瞑った。時計台に装飾されたイルミネーションの、どの光よりも強かった。
街の者たちは、その光を思わず見つめた。この国が半ば忘れてしまった光への信仰心の、その一端を本能的に感じ取ったのであろう。街の者たちの瞳は、微かに輝いていた。少女はその微かな光になっていたのである。
「変化の魔法:防御!!!」
少女がそう唱えると、光は収まった。と同時に、少女の手の平から出ている防御壁は、街一帯に届くまで巨大化した。厚さは、王城の正門のそれを想起させた。何物も守るという少女の覇気の表れでもあった。
この防御壁の豪壮さに、一介の時計屋は少しずつ後ずさり、やがて腰からへなへなと倒れた。手の平で地面を押さえた為、身体へのダメージは無かった。が、自身の「考えること」を上回るような出来事の数々に、次第に何の力も湧かなくなっていた。少女の小さな背中が、唯一の望みに見えていく。それは、確かに微かながらも光芒のように見えた。
少女の出した巨大な防御壁により、街の破壊は止まった。しかし土砂物は防御壁の上に留まったままである。
「逃げてください!!!」
少女の声が時計台の頂上から響いた。大声の魔法を使ったのであろう。街で逃げ遅れた者や救助をしていた者、魚屋のハマやキシですら街の端へと駆けだした。それを見て、少女はニヤリと笑った。最初から時間稼ぎをするつもりであったのだ。少女の姿を傍から見れば、腕を天に伸ばして雨乞いをするかのような姿であるのに、降ってくるものと言えば、土砂物のみであった。
この作戦の最大のメリットは、街の人間を安全に逃がせることである。が、最大のデメリットは、少女自身は瓦礫につぶされ、殆ど確実に死ぬということである。
幼い少女にこのような決断ができるわけがないと、そう思われるかもしれない。確かに小説という創作の奇であるように思われる。
外にいる少女というのは、つまり少女の中の少年性の表れであった。少女は、街の中では変装をして少年に成り、少年であることを成立させ、つまりは少年の明るさを保っていた。しかし実際はあの廃家の中に居る時、即ち少女の姿で居れる時、少女は独りで泣き、遂には号哭した。それは決して外では見せることができない。見せれば、不本意にも大人に保護される。誰にも本当の気持ちを出せずにいたのだ。服の中のようなものであった。
英雄という存在は、物語の最後に死ぬことが度々ある。世界を救ってその代わりに死ぬ。少女の母親が、そうであったように。少女はもう、苦しみたくなかった。街の人にも、少女としての姿を見られてしまった。この状況を少年特有の明るさで誤魔化すには……。それが少女の、駆けだすときのあの陽気さ、時計台の根元での狂った笑いに繋がり、最終的には自身の命を捨てる決断をしてしまったのだ。それが、少女のこの現状である。
母親のように、英雄のようになれる。これで、母親の下に逝ける。その純粋なまでの黒々とした感情が、爆発していた。
「お母さん!!!お母さん!!お母さん!お母さん。お母さん……!おかあ……さん……!」
両手の光は、その言葉と共により一層輝き始めた。少女は全ての魔力を使い果たすまで、止まる気はなさそうであった。幼い子どもにとって、親という存在は一種の「神」のように見えるのかもしれない。くりくりとした両目からは大粒の涙を流して、その上さらに顔を引き攣らせているのに、大きく開けた口から出てくるものといえば、笑い声と「おかあさん」という言葉だけ。落涙にも関わらず、目は大きく開けていた。
当然魔力は減り続けている。身体から、力が抜けていく。それは余命を告げられた患者の、金を浪費していく哀れな姿に似ていた。
異常なバランスでこの街は保たれていた。そこには狂気も含まれている。幼子の健気さからは大きく逸脱して、それがかえって全体を見れば神秘的ですらあった。神秘的であったから、少女の、最も近くに居るアルデヒドは未だに放心し続けていた。
1分ほど経過して、異変が起きた。
防御壁に積もる量は次第に増えていき、止みそうになかった。質量が、増していく。防御壁のいくつかの箇所にヒビができ、ミシミシという瓦礫の跫音が街に響いていた。それが次々に発生していたのである。
街は不気味さに支配されていた。1人の幼い少女に今街から逃げている者たちの命運が掛かっていることは、恐怖を通り越して滑稽ですらあった。その滑稽さを体現するかのように、少女は苦悶の表情を一切せず、ニヤリと口角を上げるのであった。ただし、額から頬にかけて冷たい汗が垂れていたし、眉間の皺はより深くなっていた。
少女は、より手の平に魔力を込めた。大きく掲げている腕の、少しずつ大きくなっている震えを止めるためでもあった。弱まりそうになった光は再び輝きを取り戻すが、やがて強いと弱いで点滅した。それは救難信号のようであった。
さすがの少女も、顔を苦くした。腕の震えは止まらない。瓦礫と瓦礫のぶつかる轟音が、少女の脳の奥にまで届いていた。今に折れそうな細腕を上げ続けなければならない。底をつきそうな魔力を出し続けなければならない。この時、ブラックローの譲渡した魔力すら枯渇しそうになっており、魔力不足で身体はふらついて、痺れが脚を侵し続けていた。
その様子を見て、アルデヒドはハッとした。神秘的なバランスの崩壊に、気を取り戻したのである。
「何をしているんだ、俺は……。」
考えることは、一旦捨てた。パーグ街の時計屋としての誇り、これだけは何度考えても、アルデヒドにとっての絶対的な正義であった。
「使命感に駆られたらそのことをなりふり構わずやって下さい」
「私は一瞬の判断の遅れで、一生の後悔をしました。思考は大切ですが、時機は逃さぬように」
イロアス国王の言葉を思い出した。思い出したときには、すでに身体は動いていた。今にも崩れそうなこの絶妙な均衡を、取り戻さなくてはならない。少女の下へ急いで向かって、掲げている右腕の前腕部を跡が少しできそうなほどに、強く掴んだ。
少女は驚いて、後ろを振り返った。そこには1人の伝統ある時計屋の主人が冷や汗を浮かべながら、格好よく少女に笑いかけていた。砂味のホシイカをしゃぶりながら、
「修理の魔法!!」
と、透明な防御壁に緑色の靄をかけた。すると、防護壁のヒビのある部分や今にも割れそうな所が、直っていく。やはり魔法のような奇跡であった。これにより、少女の身体に掛かっていた圧も随分軽くなり、少ない猶予が生まれた。
その瞬間、アルデヒドの身体にどっと重く、何かが伸し掛かった。物理的なものではなかった。魔力を相当に削られ、身体が重く感じたのである。
まじかよ……この子は、この負担をずっとこの幼体に掛けていたってのか……?
それを思えば、自然とゴツゴツとした手の平を少女の頭の上にのせ、
「遅れてすまない。よく、頑張ったな。」
と、撫でていた。サラサラとした紫色の髪が、微かに乱れてしまう。それにお構いなく、アルデヒドとしては優しめに撫でている。その裏で彼は少女に見えないように、唇を強く噛み締めるのだった。
一方の少女は頬を膨らませて、むすっとした表情を見せるけれども、頬の色は仄かに紅かった。アルデヒドの奥底の気持ちには、気づいていないようであった。アルデヒドもまた、少女の辛く苦しい過去のことを知っているわけではない。
この可愛らしい少女は両手を掲げないといけないという歪な姿勢をとり続けなければならなかったから、撫でる手を払いのけることもできず、されるがままであった。それがやや不満であった。けれども、大人と苦労を共にすることができた。それが少女の、一つの安堵でもあった。
「俺はクロック・アルデヒドと言う。街の時計屋をしてるんだ。この時計台を、代々継いでいる。」
少女はアルデヒドの頬の辺りを、真面目な顔で見つめている。
「もうダメかと思ったぜ。でも、誇りは何とか保てそうだ。ありがとうよ。」
どうすればいいのか分からなかった、というアルデヒド本来の苦悩を彼は発しなかった。それは目の前の人間が子どもであっても、女性であるということからの強がりからきているのかもしれない。子に対しての大人としての威厳を保つという意味ではなさそうである。
眼前の弱気に満ちた英雄に、少女はしっかりと、強く頷いて見せた。声は掛けなかった。少女の耳の小さな側面が赤く染まった。
アルデヒドは後の取材で、
人間は、どうしようもなく欲深いかもしれません。全く完全でない。それを自罰的に直していく者が大勢居ります。その行為は傍から見れば可笑しなものであり、矛盾するという意味で滑稽ですらあります。しかし、飽くなき欲とそれに対する修正の積み重ねが人類の歴史を作り出してきたのだと、私は思っています。まるで、時計の刻む時がズレて、それを修理していくように。世界の時計は今を流れるこの時間、それしかありません。
普通なら何かを否定し、薄ら笑いし、大きな存在の陰に隠れて、あるいは安全圏でやり過ごして、いつの間にかそれを追跡するだけの道しかありません。しかし、それこそ最も滑稽であると私は思います。自身が進歩するためには、前へ前へと進む道しか無いのです。
少女と協力したこの時の話を、こう答えている。しっかりと瞑想の如き深慮をして至った考えであり、それは熱意に満ちた熟慮であった。が、実際この時はそんな大層なことは考えていない。いい意味でも悪い意味でも我武者羅であった。
では、考えてきたことが無駄であるかというと、そうではない。彼は時計と時計台、家族だけは格別に愛していた。我武者羅に動くために自身にとって芯となるものを、しっかりと規定していたのだ。だからこの時、咄嗟に動いて、少女を見捨てず助けることができたのである。
彼の人生を先に書いておくのであれば、彼自身の規定した芯は絶対に狂わない時計のように、その人生において一ミリたりともブレることはなかった、と言えよう。
そうして更に数分、あの悪夢のような瓦礫達から耐えることができた。少女が助けていなければどれほどの被害が出ていたか、筆舌し難い。
魔法壁の壊れた箇所をアルデヒドが修復していく。これにより少女の負担を大分減らした。が、まだ土砂を留めているだけである。いま少女が魔法を解除すれば、上に貯まった土砂が一気に襲ってきて、街は地獄絵図と化すだろう。そのことは透明な防御壁の傘に積もっている土砂の量、それは一面に覆っており防御壁の透明さを全く無駄にするほどであったから、容易に想像ができる。
「こっからが本番だ。どんどん量が増える。で、この後どうするんだ?」
アルデヒドは何か策があるだろうと思って、正面の少女に聞いた。
「え、このままですけど……。」
「えっ…………。」
二人は、向かい合ったまま固まった。その時、再び高層特有の強い風が流れた。突き刺すように吹く風は、意外なほどに生暖かく、2人の肌を撫でた。
アルデヒドは良いが、少女は違った。真っ白のワンピース1枚である。強風は丈の短いスカートでも用意に捲り上げ、それは先程の「引寄の魔法」の時と同じであった。ワンピースの中を、風が撫でてゆく。しかし先程と異なって、両手は上げ続けなければならない。スカートはフワッと舞い上がってみぞおちの辺りで踊ることもあり、隠れていた生肌を強制的に晒してしまうのに、その両手は上げ続けたまま。短丈に袖のない服であるから、余計に肌が出ているというのに……。服を直すことはできず、スカートを抑えることもできず、せめて露わになっている部分、各種の恥態となる所を隠そうと躍起になるがこの状況では座ることも、脚を上げることもできない。肩幅に開いたままであった。
この恥ずかしさに加えて、風がずっと全身を擽って笑わせてくるのだ。1枚の服の中には何も体を守るものはないと、中は全てお見通しだと、言わんばかりである。短丈かつ薄い服の無防備さを嫌でも意識させられた。それがたとえ、少女にとって大事な服だとしても。
されるがままであり、風の奴隷になってしまっていた。この状況に少女は顔を真っ赤にして耐えていた。耐えるしかなかった。目をぎゅっと瞑ることもあった。上げている両腕の筋肉はプルプルと限界を迎えているが、それは悔しさの表れでもあった。
何度かアルデヒドの方を見て、頬は紅く染めたまま、ぷくっとふくれっ面をした。アルデヒドの優しい視線が痛々しいのだろう。少女の眼差しはくりくりとした可愛さを保ったまま、ほんの少しだけ鋭くなった。ただし。子どもながらの思考や感覚であるからか、この風の状況が痴態と言うべきものであると、少女は思えていなかった。
この危険極まりない状況において、意外とか呆れとか、そういった類の感情がアルデヒドに流れた。これほど漫画的なことはないであろう。神秘性が崩れたのち、それを更に砕かれたのだ。とはいっても、アルデヒドはその神秘性とやらをイロアス国王以外で期待したわけではない上に、少女に幻想した神秘性とやらは現実的な想像の範囲内での英雄であったから、宗教の根底が崩れたとか少女を聖女の如く思っていたものを捨てたとか、そういう話ではなかった。
「あぁ……子どもに任せすぎた……。」
アルデヒドの内での単なる悔やみを、独り言として話しただけだが、
「あっ……ごめんなさい。」
と、大人から信頼の情を向けられていないことに軽くショックを受けた。顔がアルデヒドを向いたまま口を少し開けていて、呆けたまま固まった。姿勢を変えることができないから、表情のみのリアクションである。
「いいんだ、いいんだ。」
と、アルデヒドはやれやれとした顔つきで、少女を少し励ました。
死に直面する時、こういう軽い会話ができることは、一種の諦めでもあるのかもしれない。1つだけ事実を述べることがあるとすれば、少女の計画性の無さがこの悲劇を生んだと言うことである。それを、幼い彼女は未だに自覚できずにいた。
そして遂に、ブラックローの加護、そのすべてが切れた。雲と化していた土砂物が、一斉に降り落ちてゆく。街を完全に崩壊させるほどの量である。プールをひっくり返したかのように、瓦礫も土砂も一斉に降り落ちた。
防御壁はその衝撃に完全に割れて、同時に少女の魔力は殆ど無くなってしまった。力なく身体は落ちていき、手をつき膝をつき、前のめりになり、倒れそうになる。が、途中で止まった。アルデヒドが少女の身体を後ろから抱きかかえたのである。少女は怪我をせずに済んた。振り返って、「ありがとう」と表情を少しだけ柔らかくして、呟いた。
アルデヒドは少女を抱き上げて、時計台の屋内に入ろうとした。ここまでスローモーションのようであった。2人の走馬灯であった。
上から落ちてくる無数の土砂の砲弾が、街全体をを暗くした。不思議と、音は無かった。少女は天を仰ぎ、その絶望的な光景を見て、顔を下げ、頭を腕で守り、ぎゅっと目を瞑った。アルデヒドは時計台の屋上の入口に必死に駆けるも、雨のスピードには敵わず。前のめりになり、少女を自身の筋肉で守る体制を瞬時にとった。包まれた暖かさに少女はぎゅっとアルデヒドの上着を掴んだ。掴んで離さなかった。
が、恐らく人間の身体ではあの落石群は耐えきれないだろう。魔力も殆ど尽きている。もはや、ここまでか……。
どうか、助けてください……!
その時、天が光った。時計台の頂上の、暗闇に居る2人まで届く強烈な光であった。落雷を思わせたが、それよりずっと強い光であった。目が潰れてしまうほどであった。そこに荘厳な音が天に響き、地を震わせ、それが声だと認識するのに数瞬遅れた。
「崩星の魔法!」
ローブを着た1人の男が土砂よりも遥か上の空から、脚に光を纏わせ、時計台目がけて蹴りを入れた。すると白い光が土砂達よりも先に時計台の頂上に到達し、そこまでの土砂物は光となって消え失せた。その光が連鎖してゆき、あの辛苦の塊ともいうべき大量の土砂物達を血脈のように光を入れ、そこから崩れた土砂物達は光によって消え失せてゆき、一瞬で全ての土砂を消し去ってしまった。
土砂が除かれた空は見事に星達が煌めいていた。月も同様である。それらの光が、全く明るさの無い時計台の頂上を照らし、2人の身体をほんの少し、白黄色に染めていた。まるでこの街の英雄たちを星達が歓迎しているかのようであった。
白く強い光の正体は、男の脚の輝きであった。これほど強力な攻撃であるのに、時計台にはふわっと着地した。埃すら舞わなかった。着地した直後、脚の白い光は薄らいでいって、終には消えた。
男は少し格好付けて、着地のポーズをとっていた。そのポーズに2人が気づいたのは、自分たちの身が安全であると分かった、その十数秒後である。それまでずっと、ポーズをとっていた。が、この意味不明な状況に、少女もアルデヒドも困惑して、何も言いだすことはできなかった。男が2人を救ってくれたことは確かだろうけれども、あっという間の話であり、状況が呑み込めなかったらしい。天に瞬く星達の美しさに見惚れ、現実逃避を行うことが良いように思えた。
無視されているというべきか、2人が何も言えない状況に陥っており、そのことにローブの男が気づくと、そちらの方は一旦無視して、まず周りを、街の様子を見ることにした。
上空から見ても光は無かったが、時計台の頂から見ても町は真っ暗であった。人は避難して、ゴーストタウンと化していた。住宅街の屋根は瓦礫によって穴が空き、壁は剥がれ、酷い場合は家という形すら保っていないものもあった。死の街の様相であった。怪獣が一暴れしたかのような状況で、しかし実際に暴れていたのは南側隣国の、1人の哀れな男である。パーグ街はこの1人の男によって壊滅的な被害を受け、結果、地獄と化したのである。
「可哀想に……。援助が必要だな。」
これほど、治世者として優しい声はなかった。
ローブの男は、後ろに組んでいた手を取って、フードを捲った。黒髪、西洋風の高い鼻、赤く燃えている口、全体としては花顔。それがフードを捲る度見えていく。
途端に、クロック・アルデヒドは膝をつき、顔を伏せた。先程までの緊急事態はどこ吹く風。顔には再び緊張が戻り、しかしながら目には涙を浮かべていた。口を歪ませ、しかしそれは感涙と微笑みの混ざりあいであったから、むしろ幸福の絶頂であることが見て取れた。
「国王陛下……!イロアス国王陛下……!!」
それは千年もの時をこの国の王として君臨し、数々の難を乗り越え、大陸一の英雄と言われ、数多の歴史書に載り、全ての人から敬愛される男。タルヴァザ・イロアスその人であった。
少し余談であるが、この国王は国王として少し変わっており、伴侶は生涯作ったことがないし、自然血の繋がった子どもや子孫は居ない。千年経った今となっては、それらを認めるわけにはいかないほど神格化されているという現状もある。が、やはり人間の欲望とはすさまじいもので、その金、人気、そして権力に目がくらみ、あるいは真に愛している者も居るが、婚約についての話は絶えない。イロアス国王としては、
「相手方が先立たれてしまうから、それを思って生活をすることは、実際に死んでしまう時より一層悲哀の情が深くなってしまう。」
と表向きはそう返答している。婚約に関わらず、国王と何か特別な関係を築きたいという輩は多く、それを捌くのにも余計な体力が居る。養子関係やその他親族に関わることは全て拒絶している。例外を挙げれば、フィデルは側近であるため特別な関係と言えるが、これについては後に述べるとしよう。ともかく、親類などというものは、この国王には存在しないのであった。
閑話休題
少女は相変わらず呆けていた。が、時計屋から名前が出た瞬間に、昼の記憶と合致した。変化の魔法を使って変装し、ここからどうにかして逃げなければならないと、そう直感したのだ。魔法を唱えようとし、灰色の靄を自身に掛けようとした。顔を見せないように、国王に対しては後ろ向きである。
「国王陛下!速すぎます!!って、えっ……?」
後ろで青年の、若々しい声がした。今しがた上空から到着した、側近フィデルであった。彼の感覚は鋭かった。小さな背中を向けた少女が手のひらで見せている淡い灰色の光を見て、何らかの魔法を使おうとしているとすぐに気づいた。
「国王陛下に、仇なす気か!?」
と、早とちりした。少女と国王の間に割って入った。フィデルの鮮やかな青色の瞳が、少女の全身を捉え、とりわけ手の平に注意した。真っ直ぐな敵視であった。
咄嗟のことに、非戦闘員のアルデヒドは何も分かっていない様子であった。私は敵ではありませんと、両手を挙げる格好をとった。が、当然フィデルはそちらを無視している。
灰色の靄が全身を覆いそうになる時、フィデルが
「まさか変化の魔法か!?」
とまるで未来を読んだかのように叫んだ。事件の犯人が「変化の魔法」という、怪しい者しか用いない魔法を使用しているという情報があったために、余計に眼前の少女を警戒した。佩剣を突き刺さんが如き姿勢であった。
ドキリと少女の心臓が動いた。その鼓動を直に感じた瞬間、脂汗が額や首から流れ落ち、その緊張により、うんと魔力を込め、急いだ。が、結局魔法を使うことはできなかった。ゴツゴツとした大きな手に一瞬で手首を掴まれ、魔力が手のひらに流れなくなったからである。魔法の靄はスーッと煙の如く消え失せた。
舞踏の要領で、小さな身体はその手の主の方に向けられた。ぎゅっと掴まれた手は、痛くはなかった。しかし、相当強く掴んでおり、成人男性に比べて非力な少女には振りほどけそうになかった。手錠のそれより、力は強大であった。
半回転させられた少女の赤い瞳に、一回りも二回りもずっと大きい身体が映った。国王イロアスである。最初は、身体の震えが止まらなかった。けれども不思議と、目の前の相手の表情をじっと見ることができた。千年経っているとは思えない若々しい肌に、この危機的な状況にも関わらず少女は不思議に思って、首を左に傾げた。イロアスも鏡のように、首を左に傾げた。他人に害を及ぼす状況でなければ、異常なまでの呑気さというものがこの2人の共通の項であった。
イロアスの目は少女の顔と全身に向けられ、瞳は本当の魚の如く泳いでいた。口をもごもごしていて、国王の威厳はどこか遠くに置いてきたかのようであった。全身を何度か見た後に、もう一度顔を見ようとする。が、俯き気味でよくは見えない。
少女の小さな顎は、もう一方の国王の手で持ち上げられた。細い首筋が綺麗に伸びた。強引に上の方に顔を向けさせられ、品定めのようであった。少女は気をつけをして、意外にも無抵抗であった。直立不動の姿勢では、親指の付け根に丁度ワンピースの裾が当たるようであり、そこを握ったり放したりして指遊びをした。少女の小顔は少しだけ紅くなって、目線だけはプイと他の方を向いた。向いた先には、星達が綺麗に輝いていた。その時だけは、住宅街の悲惨さは少女の眼に入らなかった。
実は、品定めとは相異なっていた。イロアスは少女の何かを分析していた。そのため彼は今、脳の全てを動かしている。すると身体が一切動かなくなるようであった。動かない国王に手を掴まれているので、少女も動くことはできなかった。動かずに相対していたけれども、お互いに目を合わせることはできていなかった。
フィデルには国王の後ろ姿しか見えないが、このような姿を見るのは初めてであった。フィデルすらもその異様な光景に、何もできなかった。剣の柄を強く握りしめたまま、閉口している。
アルデヒドは、この状況にそもそも置いていかれていた。
数分、この状態のまま膠着した。
街の端々からは歓声が遠く聞こえていた。星々は先ほどの暗闇のせいで、それらは落ちてくるような印象を受けた。落ちてきて、少女と国王の2人だけを典雅に照らしている。神秘的で幻想的な世界が、2人を包み込んでいた。月光を受けて少女のネックレスも煌めいているから、一際そう思えた。
数分に及ぶこの沈黙は、国王により破られた。
「君、名前は?」
男の声は、甘美に満ちていた。
「…………ルーチェ……です。」
少女……いや、ルーチェは小声ではあったが、思わす答えてしまった。警戒はしつつも、体の奥の温かさにまどろむような感覚を覚えた。
暫くして国王は少年の如くニカッと笑い、ルーチェに告げる。それは大陸中を震撼させる、歴史を動かす出来事であった。
「ルーチェ。」
少女と国王の、目が合った。
「君、私の養女にならないか?」
第1章 完結
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まだまだ続きます。




