視点変更、三人以上の会話
人称とキャラ。
一人称とか三人称の書き方(なんか二人称もあるみたいだ)を考えたい。
その前に人称とは何かを確認する。
人称とは地の文の視点です。
はい終わり。
一人称なら地の文に書かれるのがキャラの視点。
三人称なら地の文に書かれるのがナレーターの視点。(キメラアント編みたいな)
<一人称と三人称>
とりあえず例文出すよ。
[例 5]――
とある日のことである。私は沖縄に旅行に行っていた。
海に出てみると――いや、これ海か――赤かった。
どうやら私に見つめられることが恥ずかしいらしい。
「可愛い奴め」
私は裸になり、海へ飛び込んだ。
流れる血のように温かく、恋人の鼓動のように落ち着く。
そうして私が海から上がると、私は誰にでも惚れる体質になってしまった。
「なにあの恰好……」
私を見ては驚く人々。
やっぱり沖縄は最高だぜ。
――――
[例6]――
とある日のことであった。男は沖縄に旅行に行っていた。
男が海に出てみると――赤かった。
それを見て何故か赤面する男。
「可愛い奴め」
男は裸になり、海へ飛び込んだ。
流れる血のように温かく、恋人の鼓動のように落ち着く。と男は感じた。
そうして男が海から上がると、男は誰にでも惚れる体質になってしまったらしい。
「なにあの恰好……」
男を見ては絶句する女たち。口を覆い、吐きそうな顔であった。
気持ち悪いな。と女たちは感じていた。
やっぱり沖縄は最高だぜ。男は思った。
飛び跳ねながら宿へ向かって行った。
――――
内容はおいておいて。
例5、一人称はキャラの視点に立って地の文を進めている。
これによってキャラの心情を描写しやすい。というかしなければ意味を持たない。
ゆえに気持ちを知りやすいが、知りすぎてしまう。
キャラには主人公、ヒロイン、その他。
一人称で小説を書くと基本的に主人公の視点にしかできない。
なぜならばヒロインの視点になるとヒロインしか知らないことを読者が知れる。
それは主人公が知らない事であるから、ネタバレになる。
一人称にすることで心情が描けて説得力がかなり出るが、作者の見えている景色ではなくキャラの見えている景色しか描けない。
私はそれに対して窮屈に感じる時もある。
ただ一人称のほうが書きやすい。
例6、三人称はナレーターの視点に立って地の文を進めている。
これは物事を客観視できる。
あといろいろ融通が利く場合がある。
三人称にするとすべての視点を自在に移動でき、在るものを在るように描ける。
その代わりに感情が抜けるので殺風景な感じになる。
いわば論文っぽくなる。無感情なのだ。
キャラの心情はその態度と言論でしか表現できず、やはり固い文になる。
しかしてこれは完全に三人称、つまりそこにあるものだけを書く場合。
三人称で感情を入れることは可能である。
<三人称>
例5と例6の違い。
それは主人公の見えるもの、見えないものがある。
例6では吐きそうな女性が描かれる。
これは男が目を逸らしたものであり、見ていないもの。
また女の気持ちも入れられている。これも男がわからないもの。
三人称では一般的な視点とキャラの心情を覗ける。
それを利用すればすべてのことを描ける。
やはり自由度が高い。
ただ一つ欠点なのは、普遍的すぎて感情移入は難しい。
強めに言うのであれば、神は感情を持てない。平等にするために。
これが固くなる理由だろう。
<視点移動>
視点にはキャラと神がある。
作品の中でその視点を変える方法を考える。
また視点移動ができれば神の視点に置いてキャラの心情を語る必要はない。
より自然にリアルにキャラに触れられる。
[例7]――
神は死んだと僕は思った。
なぜならば目の前の電柱で神と書かれた服着た外人が頭をぶつけたからだ。
「oh my god!」
なにがオーマイゴットだ。お前がゴットだろうに。
頭おかしいのか。
「どうしてどうして……」
――どうして私は嫌われてる。
この電柱はいつも私にぶつかる。
私が歩く道の先にはこの電柱がある。
「ああ、どうしてどうして」
――知ったことないよ。
僕はなんとなく隣にいる猫を叩いた。
「にゃあああああああああにするじゃ!?」
「しゃべったあああああああああああああああああああああ!」
「シャベッタアアアアアアアアアアアアア!」
なんで猫がしゃべってんだよ。
ありえない。
「ありえないなんてことはありえないにゃ」
これだから人間は窮屈。
当たり前にとらわれるから自由になれにゃい。
「my name is tom ヨロシクネ!」
「よろしくにゃ」
なんで外国人仲良くなれるの。
これがグローバルってことか。
「時代は違うな」
遠い空の下、三匹の物語はここから始まった。
外人は悩んでいた。
「どうしてこうなるんだよ!」
昨日もダメで今日もダメで。
やっぱりここは合わない。でもアニメ見たい。
「なんてことだ!」
家では普通に話すタイプであった。
――――
はい。
とりあえず、これは攻めた文です。
まず確認すると登場人物は二人と一匹。
私、外国人、猫。視点で言うなら神も。
これの移動をかなりしている。
移動方法は以下。
A.「」を挟んで――で視点を変える。(直前に話した人の視点に移動、あるいは神へ)
B.「」を挟んで視点を変える。(直前に話した人の視点に移動、あるいは神へ)
C.場面転換で視点を変える。
大体は「」を挟む。
地の文の途中で――もあるかもしれないが、見にくい。
不自然になる。この書き方だと。
そうなると「」以外にはない。
場面転換をすると視点を変えられるが、基本としては時間軸が変化するため、同じ出来事の中での視点変更に用いると、非常にややこしい。
この書き方には合わない。スペースばかりになって見にくい。
どうやって視点の変更がわかるか。
それはルールがわかればいい。
この場合なら「」で視点が変わるとわかっていれば読める。
ただそのときに主語がいる場合はある。私とか書かないと神視点に誤解されるため。
砕けた文なら神視点とはならないだろうが、風景の描写などではわからない。
<三人以上の会話>
またさらに言うと三人以上の対話において誰が話しているか問題。
大体二人だと順番で分かる。
しかし複数人だと順番が混在するため、わかりにくい。
そんなときも判別できる条件があればいい。
A.主語と語尾、話し方。
B.あるいは自然と予想できること。この意見はこの人しか言えないと流れで理解できる会話。
C.キャラの理解。
Aはわかりやすい。「ニャン」とか、「ごわす」とか固有のものを付ける。
ゆえにこれが基本。
Bはちゃんと読まないとわからないやつ。
例えば四人いたとして会話の命題に対する肯定派と否定派の二人ずつに分かれるとする。
すると主張で二分割でき、そこから主語などで分割する。
すれば誰が話しているかわかる。
Cはもっとも人を選ぶ。
そのキャラの性格を理解すれば、どの人が話すかわかる。
つまりはBの強化バージョン。そのキャラの主義を理解していれば、そのキャラの主張だとわかる。
例えば常に弱気な人と強気な人、中くらいの人の三人の会話に置いて
弱気な人は強気な言葉はなかなか言わない。強気も同じ。
中くらいの人が仲を取り持つキャラなら、それに従うはず。
ゆえに誰のセリフか見えてくる。
しかしてこれは難しい。
こんなものは小説の仕事と言えるか微妙。その範疇を超えている。
そんなときは地の文で誰しゃべったかを描写すればよい。
[例8]――
私は夜空を見ていた。
いくつもの星々が綺麗。
「綺麗だね」
隣にいる渡辺を見てそう言った。
「そうだね」
渡辺も返した。
月よりも小さく、だけれでも目を奪う美しさ。
それは人の命のように儚く、鈴虫のように色のある。
「ああ、いい空」
「そうだね」
「おーい、コカ・コーラ買ってきた!」
走ってくる後藤。
手には三本の瓶を指にくわえている。
ほんと、純粋な笑顔だな。
「何飲む?」
「どれも一緒だろ」
「僕は水でいいよ。買ってこい」
「えー、せっかく行ったのに」
辛辣すぎるってそれは。
片道三十分だぞ。
いつもこうだ渡辺は。
「あれってどうなったっけ?」
後藤がコーラを渡しながら訊いてきた。
「あれって?」
「ああ、あれだろ?」
「そう、どうなったっけ?」
―――
さて、この例を見て行こう。
これは話の流れをスムーズに考える。
その風景が見えていれば誰が話したかわかるだろう。
その「」の前にスポットアップされた人物。その人が「」を話している。
という読んでいるときに見ている人が話している。という解釈。
カメラ向いてるよってことです。
ただその例外として別の人の場合は地の文で書く。
すれば一応は読める。
しかしやはりキャラが確立されていない複数の会話は地獄だ。
この三人はほぼ同じ人格。似た者同士。
「」だけでわからないのだから判別しにくい。
<まとめ>
正直、感覚的。
しかしそれにも仕組みはある。
たぶんそれはカメラの向きとか自然の流れ。
上手く使いこなせば表現しやすいけど、失敗すれば難解。
また読者に慣れが必要だったり、誰でも読める文じゃなくなってくる。
だから基本的に視点変更はせずにいればいい。
その回数を減らしたり、無理な時は地の文。
視点変更はわかりやすく、できるときにする。
というかできるような物語を書く。
あと他にも方法があれば知りたいものです。
|ω・)チラ