沈黙のワタ
かわいそうな人たちがいました。とてもとても、かわいそうな人たちがいました。
色んな事の出来る世界でほとんど何も出来ない人たちがいました。
彼らにはモノがありません。着るものも少なく、食べる物も少ないです。ひもじく寂しい生活を続けていました。
「父ちゃん……お腹空いたよぅ」
「…………」
父ちゃんは何も答えません。子供の気持ちは痛いほど分かりますが、そういうお父さんだってお腹がぺこぺこです。苦しいのは一緒ですが、けれど子供に怒る事も出来ませんでした。
そんなある時、小さなヌイグルミを子供は見つけました。ボロボロのクマのヌイグルミは、かわいそうなほど傷だらけです。ゴミ箱の傍で捨てられていたそれを、子供は拾ってうちに持ち帰りました。
「そんなの拾ってどうする気だ」
「お友達の代わり。みんなゲーム機持ってるから」
父親は思わず叫びたくなります。みんなが買ってる新しいゲームも、それを使って遠くの友達と遊ぶためのお金もありません。遊ぶための道具が無ければ、一緒の輪に入れて貰えないのです。話していても、きっとお互いに楽しくありませんから……子供に友達はあまり多くはありませんでした。
父親は悔しく唇を曲げながら、そのヌイグルミを家に持ち帰る事を許しました。お金はかかりませんし、家の中も物は多くありません。子供の部屋に入れると狭いので、クマのヌイグルミはリビングに置きました。
よく見るとヌイグルミは、お腹に大きな傷跡が残ったままでした。他にも沢山のほつれと傷がありました。布は微妙に色が違って、つぎはぎのフランケンみたいです。遅くに帰って来たお母さんはそれを見て、かわいそうなので自分の服と一緒に、チクチクと出来るだけ綺麗にしてあげました。
「でも、どうして拾ったのだろう?」
持ち帰ってから、子供は不思議に思いました。家の中で見ると、とってもみすぼらしくて、とても拾いそうにないモノなのです。一応持ちかえった物なので、しばらくは大事にしようと思いました。
けれど、それは無理でした。ある日お父さんが凄くイライラして、クマのヌイグルミを思いっきり殴りつけました。
「――! ――!! ――っ!!!!!」
帰って来た子供は、お父さんの暴れっぷりに怯えます。何を言っているのか分かりません。分かりたくありません。ともかくものすごく乱暴な言葉を使いながら、クマのヌイグルミに暴力を振るうのです。
かわいそうだ、とも言えませんでした。もし止めたら、その暴力が子供やモノにぶつかるかもしれません。言いたいことも言えないまま、やりたいことも出来ないまま、その恐ろしい光景を黙って見つめる事しかできませんでした。
「おかあさん、あのね……」
子供はお母さんに、今日の事を話しました。お父さんが凄く恐かった事、クマのヌイグルミが可哀想だったこと。お母さんは疲れたように溜息を吐いて、クマのヌイグルミを軽くふいてやりました。
そんな日が一か月ぐらいでしょうか? しばらく続いたある日……ヌイグルミが大きくなっている事に気が付きました。なんで気が付かなかったのだろう? と思えるほど、パンパンに膨れ上がって大きくなっています。子供はたいそう怖くなって、お父さんにそのことを言いました。
「確かに大きいが、それがなんだ。むしろずっと、この方が殴りやすい」
いつものように、お父さんはヌイグルミを殴ります。顔に、足に、次々と殴っていくと、急に笑い出してカッターナイフを取り出しました。
「デカくなったら、中身を裂いて取り出せばいい。こんなに大きくなったら、邪魔だからな」
膨らんだクマのお腹に、お父さんは刃物を突きさしました。
するとどうでしょう。急に空気がすっ……と冷たくなりました。あんなに怒っていたお父さんも黙って、じっとクマの顔を見つめています。ふと、黒いおめめから何かが流れたと思った次の瞬間、裂けたお腹の中から「ひゅおぉっ!」と生ぬるい風が吹き荒れたのです。
それは沢山の、悪口や怒りの言葉でした。お父さんのだけではありません。いろんな人の、いろんな暗い感情が混ざった何かが、直接頭の中に響きます。思わず後ろに下がろうとしたお父さんですが、足がぴくりとも動きません。
ゆっくりと、ぬいぐるみの中にお父さんが引きずり込まれていきます。裂かれた中身は、まっ黒な綿が暗い赤色で、どくんどくんと脈打つようです。悲鳴を上げて振り向きますが、子供は一歩も動けませんでした。
やがてクマのお腹の中に、お父さんの手が飲み込まれていきます。必死にもがいても、暴れても、どんどん中に入るばかりで逃げられません。子供へ手を伸ばしますが、よく顔は見えませんでした。最後に、身体中がぐんぐん縮んでいってしまいました……
「あ……」
クマのヌイグルミは、拾った時と同じ大きさに戻っていました。お父さんは中身になってしまって、きっと戻ってこないでしょう。お腹に新しい傷が残っていて、きっと危ないと思いました。
お母さんと違って、糸と針は使えません。なのでテープを使ってぺたぺたと止めました。そして子供は急いで、この恐ろしいヌイグルミを元の場所に捨てました。
何も言わなくても、何もできなくても、傷つけられたヌイグルミのワタの中には、悪いモノはたまっているのです。
――最後までヌイグルミは、何もできませんでした。
次に腹を裂くのは、誰なのでしょうか。