◇5 ゾフィー大公妃
高級将校。(推定)皇族の少女。高位の貴族の御曹司。ポーランドの貴族令嬢と町娘。
さすがにこれ以上の訪問はないだろうと考え、ファニーは寝る支度を始めた。
メイドを呼んでドレスを脱ごうとした時、密やかな音で玄関をノックする者がいた。
燭台を取り上げようとするメイドを押しとどめ、ファニーは自分でドアを開けた。
腰が抜けるほど驚いた。
「これは……F・カール大公」
皇帝の次男だ。しかし、長男のフェルディナンド大公は体が弱く、たとえ即位できたとしても跡継ぎを作るのが難しいと言われている。いずれこの国を治めるのは、この大公の息子だ。
「あれ、バレちゃった?」
オーストリア最高位の大公は、頭を掻いた。
「バレるも何も……大公のお顔を存じ上げない者は、この国にはおりません」
恭しくファニーは頭を下げた。大公は慌てた。
「あっ、いいのいいの。顔を上げて。こんな時間に訪問して悪かった。だが、明るいうちは後をつけられやすいから」
そうでなくても、暇な市民や記者など、ウィーンのあらゆる人たちが彼の一挙手一投足を窺っている。中には、兄を差し置き弟が即位するのではないかと疑う者もいたが、彼には全くその気がないようだった。それどころか、皇位になぞ就きたくない、自分は次男でよかったと、などと豪語する始末だ。
F・カール大公は、覇気のない大公として有名だった。
「あのね、」
そろりと大公は後ろを振り返った。まるで尾行がいないのを確認するかのようだ。
「ゾフィーが気にしてて」
「ゾフィー大公妃が!?」
大公の妻である。19歳で、バイエルンから嫁いできた彼女は、去年の夏、ようやく男の子を授かったばかりだ。
大公はまた、頭を掻いた。
「つまりその、フランツが君に手紙を書いたろ?」
「ああ」
もはや諦観にも似た思いで、ファニーは家の中に取って返す。手紙を持ち出し、大公の前で広げて見せた。
「……」
大公は驚いた風さえなかった。ファニーが掲げる燭台の光で淡々と一読すると、手紙をファニーに返した。
「ありがとう、理解してくれて」
ぼそりと礼を言う。
「実際、ゾフィーじゃなくても気になるというものだ。先日、フランツの大隊が宮殿の下を通過したのだが、彼は、バルコニーの方を、ちらともみなかった。バルコニーには、父とゾフィー、そして、1歳のフランツ・ヨーゼフ(F・カールとゾフィーの間に生まれた子)もいて、手を振っていたというのに」
「ちょっとした独立心だと、プリンスはおっしゃっていました」
大公の苦痛に寄り添うようにファニーが説明する。
「独立心?」
「あの方の年齢で、未だに皇帝の庇護の元にいるのは珍しいですから。ライヒシュタット家として、宮殿を出て一戸を構えたいのだと思います」
「そうだね。実務に就くのが遅すぎたのだ」
「それは、宰相のご意志では?」
宰相メッテルニヒ。ウィーン体制の立役者だ。
さっきまでここにいたエオリアとユスティナは、メッテルニヒがナポレオンの息子を飼い殺しにしているのだと憤っていた。
大きなため息を、大公が吐いた。
「ナポレオンの息子は僧侶になるべきだと、親戚のばあさん※が言ってね。でも、父はあの子の意志を尊重して、早くから軍事教育を授けた。11歳の時に軍曹(将校の最下位)に任命したが、それから19歳まで、一切の昇進がなかった」
(※ 皇帝フランツの叔母、マリア・カロリーナ[1752年 - 1814年]。ナポリ王・シチリア王妃。ナポレオンが夫からナポリを奪い、残されたシチリアからウィーンへ亡命、そのまま亡くなる。)
「実務に就かれていなかったのだから当然でしょう?」
昼間来た「マリア」の弟は、まだ少年なのに「大佐」の位を与えられたことを、ファニーは思い出した。彼の「実務」とは、どのようなものなのだろう。
F・カール大公は首を横に振った。
「20歳でようやく大隊を任されはしたが、ハンガリー第60連隊の司令部はウィーンにある。皇族の初任地はプラハと相場が決まっているのにな。仕事も、冠婚葬祭など、パレードの指揮ばかりだ。この先も、ウィーンを出て、戦場に赴くことなどあるまい。あの子は、お飾りの将校に過ぎないのだよ」
「プリンスはそれで満足しているのでしょうか……」
ファニーが思わず発した問いに、大公は首を竦めた。
「可能なら、彼には青ではなく、白い軍服(城はオーストリアの軍服の色。青はフランス)を着ていてもらいたい。だが、あの子を飼い殺しにしている僕達に、そんなことを言う権利があるのだろうか? 僕はゾフィーが少しでも、あの子をこの国に繋ぎとめていてくれることを祈るのみだ」
絶望的な叫びだった。普段心の中で思っていることが、夜の闇に紛れて流れ出してしまったように見えた。
「穏やかな日々の楽しい仲間。中庭の砂漠にあるオアシス。彼女は、心を潤すことなく、彼の目を惹いた」
不意にファニーが口ずさんだ。
「ライヒシュタット公がおっしゃったのです。『彼女』というのはゾフィー大公妃、『彼』はライヒシュタット公ご自身のことです」
大公がびっくりしたように目を上げる。
「ですから、F・カール大公、」
しかしそれ以上のことを、ファニーは言うことができなかった。皇帝の息子ということは別としても、人のよさそうな中年の男に、若い娘が軽々しく口にできることではない。
「貴方の奥さんが貴方の甥御さんと浮気をしているという噂は、全くの出鱈目です」……などと。
「さっき、ゾフィーにフランツを引き留めて欲しいと言ったが、実際のところ、ゾフィーを元気づけ、励ましてくれていたのはフランツの方なんだ。フランツ・ヨーゼフが生まれるまで6年近くも、僕たちの間には子ができなかったから。ウィーンの宮廷には居場所がないと、彼女は感じていたんだ。だから……フランツには感謝している」
ぼそりと大公が零した。内省的な瞳で、自らの傷を抉るかのようにさらに続ける。
「ゾフィーは、本来なら、兄の妻になるはずだった。ところが神の采配で、思いがけず、僕に回されてしまった。下品で覇気がないと、宮中でも評判の悪い僕にね! 僕がどんな気持ちだったかわかるかい? バイエルンの薔薇とも例えられた美しい妻が僕のものになったんだ。このように何の取柄もない僕の……」
「F・カール大公は、オーストリア皇帝のご子息であられます。また、貴方のお子様は、いずれこの国の帝王となられるお方です」
「でもそれは僕の手柄じゃない。僕はただ、生まれて来ただけだ」
地の底を這うような暗い声だった。ファニーは思わず息を飲んだ。
まるでひとり言のようにF・カール大公はつぶやき続ける。
「僕は、フランツのようには、絶対に振舞えない。あいつのようにスマートに女性をエスコートすることができない。ダンスだって下手くそだ。僕の妻でいることは、ゾフィーには、さぞや退屈なことだろう。あの子は、規則や典礼でがんじがらめの寒々とした宮廷からゾフィーを連れ出して、息抜きをさせてくれているんだ」
「でも、それは……」
ファニーには承服できかねることだった。夫が妻に、他の男と息抜きをして来いと?
ファニーの顔色を読み取った大公は笑い出した。
「フランツだからだよ! 子どもの頃からあの子のことは良く知っている。あの子は、3歳になったばかりの時に姉貴に連れられてウィーンにやってきた。生意気なガキでさ。でも、可愛いんだ。ドイツ語さえわからないあの子に、僕はいろんないたずらを教えたものさ。ザクセンの伯母様はパルマの姉上(フランツの母マリー・ルイーゼ)に、フランツに僕を近づけるなと書き送ったくらいさ。それからずっと一緒に、僕らは育ってきた。一緒にキツネ狩りをしたり、馬で遠駆けしたり……」
急にしゅんとした。
「僕に覇気がないせいで、ゾフィーはとても不安定なんだ。彼女はあの通りの美女で、その上才媛だ。不遜にも近寄って来る輩は大勢いる。僕はこの通りだしね。夫は恐るるに足らず、って感じ? 逆なんだ。彼女がフランツと一緒なら、僕は安心していられる。彼はとても礼儀正しいと、ゾフィーも言っていた」
礼儀正しさ。
それは、恋とは正反対の感情だと、ファニーは思った。恋愛の燃えるような情熱とは対極にある、冷たく理知的で澄んだ感情だ。
そもそもファニーは、プリンスと6歳上の叔母上の仲を疑ってはいない。
この家に集う人達も、同じ意見だ。
もっとも、大公妃自身の気持ちまではわからない。たとえばなぜ、彼女はそれほどまでにプリンスの書いた手紙を気にするのか。夫に、様子を探りに来させるくらいに。
「F・カールご夫妻のご多幸をお祈り申し上げます」
万感の思いを込めて、ファニーは囁いた。
ゾフィー大公妃
ゾフィー大公妃については、中編もあります。
「ライヒシュタット公とゾフィー大公妃」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/427492085