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◇4 とあるポーランド貴族令嬢


 放蕩者の御曹司たちが帰って小一時間も経った頃。

 窓から通りを眺めていたファニーは、二人の女性が歩いてくるのに気がついた。建ち並んだ家々の番地を確認するかのように、道の両側を透かし見ている。

 一人はウィーンの町娘のようだが、もう一人は雰囲気が違った。ピンと伸びた背筋と優雅な足取り。服装はよく見えないが、姿勢や礼儀作法についてそれなりの教育を受けた令嬢だと思われた。


 自分の家を探しているのだとわかったから、ファニーは自分から外へ出た。


「あら。貴女がファニー・エルスラーさん?」

 勢いよく開いたドアにびっくりしたように町娘の方が尋ねた。どうやらちょうど、ファニーの家を探し当てたところらしい。

「ええ。ライヒシュタット公のお知り合いね?」

 ファニーが言うと(それは推測でもなんでもなかった。彼の手紙が届いてから、5人もの人が、彼女の家を訪れている)、二人は再び、顔を見合わせた。


「私はエミリア・シャラメ。書店員よ」

 町娘の方が自己紹介し、もう一人をつつく。やや尊大にその手を振り払い、もう一人の女性が口を開いた。

「ユスティナ・パディーニよ。よろしくね」

「ポーランド貴族ね」


 言葉にかすかなポーランドなまりがあった。エオリアと似たような質素な服を着用していたが、物腰から貴族であることは間違いない。それも、かなりの高位の貴族だ。

 ファニーが指摘するとユスティナと名乗った女性は驚いたように目を瞠ったが、否定はしなかった。


「それでお二人は、プリンスとどういうご関係かしら」

 相手が同性の、それも年齢が近い女性なので、気軽に尋ねることができた。二人もまた、特別な警戒をファニーに対して抱いていないようだ。


 まずエオリアと名乗った娘が口を切った。

「うちは書店だって、さっき言ったでしょ。あら、言わなかったかしら。父が、レオポルシュタットの裏通りで小さな書店を営んでいるの。フランス語の書籍を多く扱っているわ。入荷があれば新聞もね」

 なんとなく、続きが読めたような気がした。エオリアがファニーの顔を覗き込む。

「ライヒシュタット公が、面会する人だけじゃなく、読む本も制限されていることは知っているわね?」

「噂では」

 祖父の皇帝は、軍務に就いたナポレオンの息子に、見張り役までつけた。それが、最初に来た軍の付き人達だ。

 プリンスの生活が厳しく監視されていることは想像に難くない。

宰相(メッテルニヒ)からつけられた尾行をこっそり撒いて、プリンスは、うちの書店にいらっしゃるの。そして、フランス語のご本を大量にお買いになるのよ!」

エオリアは誇らしげだった。


「私は、」

ユスティナがエオリアを押しのける。

「私は手紙を書いたわ!」

「手紙、ですって?」

思わずファニーは声を尖らせる。

「誰に?」

「プリンスの家庭教師よ!」

力が抜けた。なんだ。家庭教師か。

「ディートリヒシュタイン伯爵は、プリンスが4歳の時から彼の教育を担ってきたわ。そして、ナポレオンの息子の才能を刈り込もうとしたの」

 それは、主としてフランスで流布された、悪意ある中傷だった。実際にライヒシュタット公に授けられた教育はオーストリアの大公にふさわしいもので、ヨーロッパで一流の教育であったことは間違いない。

 目をつぶり、ユスティナは、諳んじた。

 自然は彼に、天才の刻印を捺した。

 彼には、深い知性と優雅さ、慎ましさ、そして、高貴な心と魅力がある。

 彼は、ニワトリやシチメンチョウの中で育てられた、鷲(鷲はナポレオンの紋章のひとつ)である。だが、この国の人々は、鷲について、少しも、理解しようとしない。

 それでも、彼の高貴な本来の姿は、決して、破壊されることはないだろう。

 彼が、いつまでも、家禽小屋にいることは許されない。その翼を切り取ることができる者は、この地球上には、存在しないのだ。


「ね? 恋心ダダもれでしょ? 言ってみればオシの偶像化ね」

 朗々と暗唱された詩のようなものに呆然としていると、傍らでエオリアが茶々を入れてきた。


「恋ではないわ。崇拝よ!」

「はいはい」

「じゃ、あなたのそれは何なのよっ!」

 にやにや笑うエオリアにユスティナが噛み付く。

「私?」

エオリアの目に薄い靄が掛かった。両手を胸の前で組み合わせ、彼女は囁いた。

「萌えに決まってるじゃない……」


 ユスティナをからかう気は、ファニーにはなかった。だって彼女は真剣にプリンスの境遇に憤慨し、彼を力づけ、助けたいと願っているから。

 エオリアの気持ちもよくわかる。一介の町娘が、皇族と結ばれる可能性など皆無だからだ。


 まじめな顔で彼女は尋ねた。

「手紙を彼の家庭教師に? で、返事はなんと?」

「なかった」

「え?」

「だから、返事は来なかったの」

 ここでユスティナは決壊した。

「まったく、あの石頭の年寄りと来たら、どこまで堅苦しく殿下を縛り付ける気かしら。彼はもう、おとなよ? その上、素晴らしい才能を持っている。どうしていつまでもウィーンに閉じこめておけると思えるのかしらね!」


「だから私達、ポーランドへ行くことにしたの」

 突如としてエオリアが口を挟む。

「え? え? え?!」

 投げ込まれた超越理論にファニーはついていけない。

「だって、今、ポーランドは危険よ?」

 昨年(1830)11月、フランスで起きた7月革命の流れを汲む形で、ポーランドに革命が起きた。ロシアが鎮圧に乗り出し、まだ大変な混乱が続いている最中だ。

「だからよ」

大きく息を吸い込み、エオリアが胸を張る。

「私達、殿下の居場所を確保しにいくの!」

「ライヒシュタット公の居場所、ですって!?」

「彼は、あの大ナポレオンの息子よ? 長年虐げられてきたポーランドの尊厳を蘇らせ、独立に導いた偉大な帝王の血を引いているの!」


 機会があって最近習ったばかりのポーランド史を、ファニーは大急ぎで頭の中から引っ張り出した。

 ポーランドは、平原が多い。山や川が少ないから、自然の国境が引きにくい。これをいいことに前世紀末、ロシア・プロイセン・オーストリアの3強国は、1772年、93年、95年の3回に分けてポーランドを分割し、各々、併合した。

 とうとう、ポーランド王国は消滅した。

 その後、ナポレオンの大陸軍(グランダルメ)がヨーロッパの国々に戦いを挑み、1807年、奪い取った領土を独立させ、ワルシャワ公国を設立した。


「でもワルシャワ公国は、フランスの傀儡国家に過ぎなかったはずよ?」

「姉妹よ! ワルシャワはフランスの姉妹国家だったの!」

 今までの上品さをかなぐり捨て、ユスティナが喚いた。

「それなのに、メッテルニヒのやつ……帝王の不在をいいことに!」


 ウィーン会議後、ポーランドは再び分割され、その国土の大半を、ロシアとプロイセンの支配下に置かれた。


「だから私たちは、ずっとナポレオン2世の降臨を待ちわびてきた。微力ながら私も、ナポレオンの息子をポーランド王にせよ、と書いたビラをばらまいたりして協力したものよ。我が国の民族衣装を着た彼のイラストを添えてね! 私にはちょっとした絵心があるの」

 最後の方は随分と自慢げだった。


「それがどうして、貴女たちのポーランド行きに繋がるの? プリンスの居場所を作るって、どういうこと?」

 嫌な予感しかしない。

 彼はオーストリア皇帝の孫なのに。白の軍服(オーストリアの軍服の色)に袖を通したばかりだというのに。


「鈍い人ね!」

ユスティナがぎろりとファニーを睨む。

「ポーランドに革命が起きるとすぐ、ルイ=フィリップ(フランス王。7月革命でブルボン復古王朝を追い出し、王位についた)は、ポーランドにアレクサンドル・ワレフスキを遣わしたわ。アレクサンドル・ワレフスキ。知ってる?」

「?」


「ナポレオンの私生児よ。ポーランド貴族の妻に産ませた。殿下より1歳上のお兄さん」

呆然としていると、エオリアが教えてくれた。

「彼は、ロシア、ロンドンを渡ってパリへ亡命していたの」

「ええと、どういうことかしら……」


 ナポレオンの私生児? 亡命の果て、フランスに? でもって、ルイ=フィリップの遣い……?

 ファニーには話についていけない。


「本当にわかりが悪いわ! フランス(ルイ・フィリップ)はポーランドを狙っているに決まってるじゃない! ナポレオンの私生児を使ってね! ポーランドは、私達のライヒシュタット公のものだというのに!」

「そうよそうよ! 殿下が王様になるのよ!」


「………………」

まじまじとファニーは二人の女性を見つめた。

「ライヒシュタット公は、オーストリアの貴公子です」

力を籠め、彼女は告げた。


「で、そのオーストリアは、彼に何かしてくれたかしら?」

皮肉な口調でユスティナが訪ねる。

「何かって……ライヒシュタット家を設立し、ドイツ人の貴族として立派な教育を……」


「そして、ウィーンに閉じ込めたのよ」

ユスティナは言った。冷厳な声だった。

「ハプスブルク宮廷といえば聞こえはいいけど、そこで彼は、自分の才能を開花させることができるのかしら? 彼はただ、閉じ込められているだけだわ」

エオリアも黙ってはいない。

「宮廷というより、家畜小屋ね、ユスティナがなんとかいう伯爵に書き送った通り。気の毒に(ナポレオン)の子は、ブタやガチョウやメンドリに囲まれて暮らしているんだわ。立派な羽を広げることも許されずに」


 返す言葉もなかった。

「……それで、貴女たちは、私にどうしてほしいの?」

 協力してほしいと言われても困るとファニーは思った。彼女は、一介の踊り子でしかない。あのショパンでさえポーランドへは寄らず、パリへ向かったではないか。


 途端に二人は、乙女の顔になった。

「見せてほしいの。彼の手紙を」

おずおずとユスティナが願う。傲慢な令嬢には全くふさわしくない。

「この国に彼の愛する人がいるなら、計画は放棄しなければいけないと、私達は考えるの。だって、何よりオシの幸せを願うのが、私達の務めだから」

 同じように頬を赤らめ、エオリアも囁く。


「手紙……」

 予想してしかるべきだった。しかし二人の話があまりにぶっ飛んでいるので手紙のことなど、ファニーの頭から消え去ってしまっていた。

「ちょっと待っててくれる?」


 俯き、もじもじと足を組み替えている乙女二人を残し、ファニーは家の中へ取って返した。急ぎ玄関先まで戻り、手紙の端の方だけを引き出してみせる。

 代わる代わる紙の端を覗き込み、二人の乙女は頷き合った。

 決然とした足取りで歩き去っていく。









エオリアとユスティナ・パディーニは架空の人物です。

ふたりは、本編の中で登場します。


「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129



ただし、とある高位のポーランド貴族令嬢が、ライヒシュタット公の家庭教師宛てに、作中にある手紙を書き送ったのは事実です。(この手紙は家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵が握り潰し、ライヒシュタット公の目に触れることはありませんでした)








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