謎の御者
「申し訳ありませんアニーシャ様。いきなり爆音が聞こえたと思ったら、吹っ飛んでっちゃいまして」
へへ、と軽い調子で笑う御者だが、庇っている右手から尋常じゃない量の血が流れている。
このままでは、出血多量で彼の命が危ない。
「ちょっと貴方!むやみに動くと危ないですわ!」
ドレスが汚れる事も構わず、アニーシャは御者の肩を持って木の側に腰を下ろさせる。
御者が歩いてきた道は、足跡を残す道標のように血で点々としていた。
相当な痛みを伴うはずだが、呼吸ひとつ乱すことなく落ち着いた様子で微笑みかける。
「ありがとうございます。アニーシャ様のお召し物を汚してしまった不敬をお許し下さい」
「そんな事…とにかく、貴方を治療しなくては」
「それには及びませんよ。っつ…と」
着ていた長袖を勢いよく破ったかと思うと、素早い動作で傷口を締め付ける。
無駄のない一連の動作は、ただの御者とは思えない洗練されたものだった。
「ほら、大丈夫です」
「……こやつ、相当頭が湧いとるな」
終始ヘラヘラと笑った態度で右手を動かしこちらに見せてくる彼に、リリアが呟く。
頭が湧いてるは言い過ぎだと思うが、アニーシャも変わった人物だ、と面食らう。
「あのままでは右手に後遺症が残るぞ。一応、治療しておいてやった方が良いのではないか?」
「そうね…」
普段アニーシャ以外の人間にあまり興味を示さないリリアだが、止血した右腕から容赦なく滲み出る血に思う所があったのか、珍しく助言する。
(幸いさっきの騒ぎで精霊たちはまだ居る)
再び力を借りて治癒の魔法を施す為、御者の腕を取る。
いきなり腕を触れられた事に戸惑うも、アニーシャから発せられる優しい光に気を取られているのか、抵抗した様子もなくすんなり受け入れた彼は、徐々に癒えていく傷の痛みに驚いた表情で自身の腕を凝視した。
「いやはや…これは驚きました。帝国一の魔術師でも、こうはいきませんよ」
「そこまででは…」
「いやいや、本当に助かりました。正直、もう剣は握れないかと思いましたよ。ははっ」
「………剣?」
ただの一介の御者が、剣など手にするのだろうか?
考えに耽るアニーシャを余所に、御者は驚嘆と畏敬の念がこもった口ぶりでしきりに「いやぁ凄い」などと漏らしている。
それから、ふと思い出した様に扉が無い開け放しの馬車を見て顔を顰めた。
「あちゃー」
目線の先、つい今しがたの攻撃で滅茶苦茶になった馬車は、馬も驚いて逃げてしまったのかおらず、最早扉のないただの箱と化した悲惨な姿をしている。
(お……思った以上に大変ね、これは…)
夜も深くなるというのに見知らぬ領地の森に投げ出された事よりも、モントニール侯爵からおくられた馬車を無惨な姿に変えてしまった事の方が重大な気がした。
花嫁が謎の襲撃者に襲われたのだから、命があるだけでも褒められるべきだが、相手は血も涙もないと言われるあのモントニール侯爵。
どんな言いがかりをつけられたものか……。
しかし、今のこの状況では、モントニール領地に足を踏み入れる事すら叶わない。
これは近隣の街まで徒歩覚悟だな、と意を固めたアニーシャは、通常の貴族令嬢よりも荷物が少ない事に初めて感謝した。
「なるべく馬車は壊すなってユリアス様から言われてたのになぁ」
「……今、なんと?」
「っと…おしゃべりが過ぎたようですね。すみません」
それ以上は何も言うつもりがないのか、「よいしょ」と気の抜けた台詞で立ち上がる。
(なるべく馬車は壊すな、だなんて…そんな指示をされる意味は何なのかしら)
考えれば考えるだけ悪い方向に思考が傾く。
目前で服の埃をはらっている彼は、実は普段から馬車を壊す程の破壊者とでも言うのだろうか?
否、こうして襲撃者に狙われる事を、モントニール侯爵は初めから知っていた?
(まさか…まさかね…)
「お荷物はこれだけですかー?」
嫌な予想を振り払うように首を振ると、半壊した馬車の中から荷物を取り出していた御者が言う。
その手には、アニーシャが持ってきた決して大きいとは言えないトランクを掲げている。
「えぇ!それだけですわ」
「承知致しました。…これならば、街まではすぐ着きそうですね」
「街は近いのですか?」
「えぇ、ここから20分程歩けば直ぐに。宿もありますし、今夜はそこに泊まるつもりだったのですよ」
語尾に「こんな事にさえならなければ」とつきそうな物言いで言うと、申し訳なさそうに口を開く。
「馬車は明日までに手配しますので、街までは徒歩移動となってしまうのですが…」
「えぇ、全然構いませんわ。こんな事になってしまったのですから」
毅然とした態度で歩く素振りをするアニーシャに、御者はふっと微笑んだ。
「お噂通り、変わったお方ですね」
「…それを、本人の前で堂々と言う貴方ほどではないわよ」
「これは失礼致しました」
ちょっとした皮肉で返したつもりだが、全く失礼とも思っていなさそうな素振りで恭しく一礼する御者からは、本気の謝罪など一切感じさせない軽さを感じる。
ここまで胡散臭く感じれるのも逆に珍しい。
あまり詰め込んでいないとはいえ、重さのあるトランクをいとも簡単に担ぎ、街まで歩きだそうと一歩踏み出し始めた彼に、気になっていた質問を投げ掛ける。
「貴方、名はなんと仰るの?」
「あ、そういえば申し遅れておりました」
うっかりうっかり、なんて声が聞こえそうな調子でくるりとアニーシャの方に向きを変えると、軽薄そうな口元をさらに緩めた。
「ジーニス・ツェルマットです。不肖ながら、ユリアス様の側近を務めさせていただいております」
「そう…貴方、モントニール侯爵様のそ……側近?!?!」
「えぇ、側近です、側近。ふふ」
驚愕するアニーシャの顔をたいそう面白がる御者、ではなくモントニール侯爵の側近という重大な役割を担う人物ジーニスは、満足気に頷いた。