子猫は勝手気ままに散歩に出かける 1
江戸城に登城した余三郎は大手門で百合丸たちと別れると、不愛想な茶坊主の案内で菊の間へ連れていかれた(ちなみに菊の間は七つある大名の詰め所の中で最下位の席次にあたる)。
それから既に二刻半(五時間)が過ぎている。
『……毎回思うが、何もせずにじっとしているというのは中々につらいものだな』
余三郎は溜息混じりに肩をならして首をめぐらせた。
『昔は良かったなぁ……』
余三郎は目の前の畳を眺めながら思う。そこには何もない。
余三郎がまだ『将軍の子』という身分にあった頃は大奥の内に自分の部屋があって、手を伸ばせば甘い菓子もあったし、喉を潤す茶もあった。
『子供の頃は好きなだけ饅頭や餅が食べれたのになぁ……』
自分の事は良いとしても、ここよりも窮屈な家臣詰め所に押し込められている霧や百合丸に、ご褒美として甘い物の一つでも上げたいところだが……菓子なぞ余三郎の収入で買えるはずがない。
砂糖がたっぷりと使われた菓子は貧乏旗本にとって贅沢品以外のなにものでもないのだ。
『恵まれた生活っていうのは失って初めて気がつくものなのだな……』
まるで晩年を迎えた老人の如く妙に悟った事を心中で呟いていると、ふわりと梅の香りが漂ってきた。
茶坊主の一人が襖を開けて出入りした拍子に弥生の風が中庭の梅の香りが入り込んで来たらしい。
座敷の中で煮凝りのように溜まっていた人の熱気が一時に薄れて皆がホッとした顔つきになる。
余三郎も同じような表情でホッとしながら何気なく中庭へ目線を向けると――。
『――っ!?』
余三郎は一瞬自分の目を疑った。
家臣たちの詰め所で大人しく待っているはずの霧と百合丸が、こそこそと白壁の下の植木の陰を伝ってどこかに向かおうとしているのが見えた。
「あ、うあぁ!?」
思わず声を上げた。
「いかがいたした猫柳殿!?」
茶坊主の一人が神経質そうに額の青筋を浮かべて余三郎の側ににじり寄ってきた。
「い、いや。なんでもない。少し風邪気味での……ごほん」
うろんな目つきで余三郎の顔を覗き込む茶坊主。
まるで遠慮のないその視線は無礼で腹立たしいものだったが我慢しなければならない。
「猫柳殿。武士たるもの体調を管理するのもご奉公の一つでありますぞ」
接待役という名目ながら、実際はこの場の管理者である茶坊主は詰め所にいる旗本たちに粗相がないかを細かく監視する役目を負っている。
たかが茶坊主と侮って彼らに見下した態度をとっていた旗本が彼らの讒言のせいでお家取潰しの憂き目に遭った例もある。そうならないためには彼らの袖を小金で重くしてやるのが一番なのだが、そんな余力のない余三郎としては唯々平服するのみである。
「いや、まったくもってそのとおり。面目ない」
素直に頭を下げたせいか茶坊主は嫌味な顔をしながらもそれ以上は何も言わずもとの席に戻った。
「大丈夫ですかな? 猫柳殿。顔が真っ青ですぞ」
余三郎の隣に座っていた気の良さそうな年配の侍が少しだけ顔を寄せて声をかけてくれた。
「は、ははは……だ、大丈夫でござる……」
そう応えながらも余三郎は生きた心地がしなかった。
『あやつら……いったい何処へ行くつもりだ?』
詰め所で放屁しただけで士道不覚悟と難癖をつけられて領地没収になるこのご時世。
食うや食わずの旗本という身分であるよりも、いっそ士籍を剥奪されて町人にでもしてくれたほうが清々するのだが、そんな処罰だけでは済まされずに切腹を命じられたらそこで全てが追ってしまう。
命あればこそ浮かぶ瀬もあれ、だ。
『何事も起きませんように。何事も起きませんようにっ! 南無阿弥陀仏っ! 南無八幡っ!』
必死の思いで祈る余三郎。
まだ梅の花が咲き始めたばかりの季節でありながら、余三郎の額からは雑巾を絞ったように汗がとめどなく流れ落ちていた。