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幼女のお股がツルツルなので徳川幕府は滅亡するらしい  作者: マルクマ
第一幕 子猫は勝手気ままに散歩に出かける
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両替商『狐屋』

 お侍たちがぞろぞろと城に吸い込まれるように登城しているその頃――。


 日本橋の目抜き通りに店を構えている両替商『狐屋(きつねや)』の中庭で、今年十六歳になる若き主人の狐屋青太郎(きつねやあおたろう)は上等な絹の手拭いで体を伝う汗を丁寧に拭いていた。


「何をしているんですかい若旦那」


 そういって青太郎に声をかけたのは大番頭の雷蔵(らいぞう)


 店表で手代たちを相手に開店前の指示をしていたのだが、中庭の方から奇妙な声がするので様子を見に来たのだ。


「あぁ、雷蔵かい。丁度よかった、喉が渇いたので茶を持て。ぬるいのを玉露でな」


「茶は後でお持ちします。それよりも若旦那、あっしは質問をしてんでさぁ、ちゃんと答えてくだせぇまし」


 縁側から庭に降りた雷蔵は、その切れ長の目をキュッと眇めて己の主人の恰好を眺めた。


 青太郎は上半身をはだけてうっすらと汗がにじむ身体を風に当てている。

 まるで武術の鍛錬を終えた直後のような様子だが、青太郎を赤子の頃から見てきている雷蔵は彼に武術の素養が無いのを知っている。


 だからこそ青太郎がこんな朝っぱらから汗をかいてまで何をしていたのかがわからなかった。


「見てわからぬか。ほれ」


 青太郎は庭に植えられた立派な松の木を指差した。


 それほど間口を必要としない両替商であるのに金の力で無理やり店を広げた狐屋は中庭も無駄に広い。


 ひょうたん形の池には目にも鮮やかな錦鯉が回遊し、日当たりのよい蔵の前には四季折々に花をつける花木が植えられている。

 その中でもひと際立派なのが高尾山から運び込んだという松の木だ。


 青太郎はその松の木に女物の帯を巻きつけていた。


 雷蔵はその光景と、先ほど庭の内より聞こえていた「よいではないかー! よいではないかー!」と青太郎が発していた意味不明の掛け声を足してみた……が、その答えは皆目見当もつかなかった。


「見ても分かりませぬな」


「なんと。おぬしも存外(ぞんがい)想像力が貧困だのぅ。くっくっくっ」


 そんな含み笑いをされて雷蔵はその額にミミズのような青筋を浮かび上がらせた。


「すみませんねぇ。想像力が貧困で」


 阿呆に阿呆と言われる事ほど腹の立つことはない。


 背中で握りしめたこの拳を何処にぶち当ててやろかと雷蔵が思案しているのにも気付かずに青太郎は上機嫌で胸を反らした。


「よいよい、分からねば教えてやろう。実はな、父上のように立派な商人になるように鍛錬をしていたのだ」


「商人の鍛錬……で、ございますか?」


 意外すぎる言葉を聞いて、背中で固く握りしめていた雷蔵の拳が弛んだ。


「……雷蔵、なぜ空を見上げているのだ?」


「いえ、このように(ぬく)い日でも言い伝え通りに雪は降るのかと」


 雷蔵が見上げた江戸の空は明るく雲も薄いのがわずかに見えるくらいしかなくて雪は降りそうにもなかった。

 そもそも今は弥生(三月)でもう雪が降る時期は過ぎている。


 それにしても珍しい事があるものだと雷蔵は驚いた。


 今まで青太郎が自発的に商人としての何かを習得しようと努力するのは、雷蔵が知る限り初めての事だ。


「大旦那様が生きている頃にそれくらいのやる気を見せてくれたらどんなに……いえ、今更言っても仕方ありやせんな。それにしても殊勝(しゅしょう)なお心がけですな。この雷蔵、どうやら若旦那を見損なっておりやした」


「見損なうとは?」


「へい。ただの遊び好きな苦労知らずのぼんぼんで狐屋の将来など何一つ考えていないただの阿呆(あほう)かと思うておりました」


「おまえさん。そんな事を思っていたのか」


「へいっ!」


 憎らしいほどにきっぱりと無遠慮な返事をする雷蔵に青太郎は顔をしかめたが、青太郎に物心がつく前から父の懐刀として辣腕(らつわん)を振るっていた雷蔵にはどうしても強い事が言えなかった。


「まぁ良い。父上が亡くなって四十五日も過ぎた。これからは私がこの狐屋を背負って立たねばいけないからね、今までのようにボヤボヤしてられないよ。そうであろう雷蔵」


「若旦那……」


 雷蔵の黒目がちな目にホロリと熱いものが浮かぶ。


 子供の頃は極道の使い走りをしていた雷蔵だが、十二になった年に縁があってこの狐屋の先代に拾われた。


 それ以来、雷蔵は己を表の世界に引き上げてくれた先代のために骨身を削る思いで狐屋のために働いてきた。


 それから十八年。


 ようやくこの狐屋が天下一の大棚になったその矢先、仕えていた主人が病に倒れ、呆気なくこの世を去り、その跡取りがどうしようもなく阿呆なのを心底心配していた。


 狐屋もこれで終わりかと思っていたのだが、そのどうしようもない若旦那の思わぬ言葉に胸が熱くなった。


「若旦那。……ご立派になられましたなぁ」


 つぃっと雷蔵は己の袂を掴んで目尻を押さえた。


 これならこの店も大丈夫。そんな暖かい気持ちが雷蔵の心を明るくした。


「今すぐ茶をお持ちいたしやす。ところで、どのような鍛錬をしておいでだったんで?」


「うむ、見ておれ。こうするのだ」


 青太郎は松の木に巻きつけた帯を手にすると「よいではないかー!」と掛け声を発して帯を思いっきり引いた。


 気の抜けた顔のわりに剛力と言って差し支えない筋力を持った青太郎の腕で引かれた帯はパシーンと小気味よい音を立てて松の木を大きく揺らす。


「どうじゃ見事なものであろう? 毎日の密かな鍛錬の成果で、ようやく私にもこの技の極意が見えた気がするぞ。ふっふっふっ、これが才能というものであろうかのう、なぁ雷蔵?」


 自信満々の顔で振り向く青太郎。


「すみません若旦那。やはりあっしにゃ何の鍛錬なのかさっぱり理解できやせん」


 じわじわと不審顔になる雷蔵。


 もしこの家が武家ならば柔術の習練をしているのかと思うところだが、狐屋は商家である。


 商人の鍛錬といえば一に算盤、二に読み書き。そして交渉術と腹芸だ。


 それなのに、まるで漁師の網引きのように女物の帯を引く鍛錬で商人としての何が養われるのか雷蔵には全くわからなかった。


「おぬしも鈍いのぅ。よいか? 一流の商人ともなれば遊びも一流でなくてはならん」


「……で?」


 いやな予感が雷蔵の胸に湧き上がる。


「『女独楽(おんなごま)』って技を知っておるか? 嫌がる娘の帯を掴んで『よいではないかー!』って、思いっきり引っ張るのだ。そうすると女が『あーれー』って言いながら独楽のようにクルクル回って素っ裸! 父上は吉原でこの技の達人だったそうじゃ」


「なるほど。わかりました」


 雷蔵は思いっきり冷めた目で青太郎の正面に立つと、両手に拳を作って青太郎のこめかみをグリグリとねじ回した。


「ぎゃぁーーー! いっ、痛っ! 痛っ! 痛いっ!」


「何をしていやがるかと思えばこのアホ太郎め!」


「主人に向かってアホ太郎とはなんだ! 痛っ! やめろ! こらっ!」


「ソロバンも満足に弾けねぇくせに、店表にまで聞こえるほどの大きさで奇声を発して女遊びの鍛錬なんかしてんじゃねぇやド阿呆め! 死ね、死にさらせこの穀潰(ごくつぶ)しがぁ!」


「うぎゃぁぁーー!」

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― 新着の感想 ―
[一言] 時代劇のあれ、女独楽っていうんだったんですね。
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