登城 2
霧の奥方宣言に驚いて声を上げたのは当の余三郎より百合丸のほうだった。
「なるほど、そういう意味での『家臣ではない』か。ふむふむ、でもな霧、そういう話はもっと大人になってからするもんだぞ」
「殿。今の返事、大人になった霧と結婚……って意味。なの? 将来夫婦確定。なの?」
霧が頬を赤くしてもじもじしている。
「な、な、な、なぁーっ!? ダメでござる! 絶対にダメでござるっ!」
「……ウリ丸。本当に邪魔、なの」
「ダメでござる! ダメでござる! ダメでござるっ!」
余三郎の言葉をちょいと捻って婚約の言質に変えようとしている霧と、駄々をこねる子供のように手足をジタバタさせている百合丸。
これではどっちが年上なのか分からない。
自分を間に挟んでいがみ合っている二人に「やれやれ」と溜息をつく余三郎。
「そういう意味で言ったんじゃないよ霧。霧がもっと大人になって、己の世界を広げて、たくさんの人と出会って、選択できる幅をうんと増やしてから、じっくり考えようって事だよ」
余三郎自身が異性と付き合った経験なんぞ皆無なので説得力に乏しいが、幼女相手の説得なら人づてに聞いた定石通りの一般論を言うだけで十分だ。
「霧も百合丸も相当に器量良しなんだから、あと数年もすれば裕福な商家のお大尽から嫁に望まれるようになるだろう。この先ずっと出世する機会を得られぬまま老いて死んで行くだけのわしなんかと違って、おまえたちは己の将来を選ぶことが出来る。いつまでもウチみたいな貧乏武家に奉公しなくともよかろう」
「殿、それはあんまりでござる! 百合丸は忍の家系に生まれた生粋の忍者! 夢は古今無双三国一の最強忍者になって主家中興の礎となり歴史に名を残すことでござる! 商家に嫁ぐなどもってのほかでござる!」
「ウリ丸は勝手に最強になればいい。霧は殿の奥方になる、なの」
「さ、最強と奥方は別の話でござる! それに、殿が将来出世して大身大名の身分になったときには……」
「なったときには? なの」
こんな太平の世でわしが出世するわけがなかろう。と余三郎は思ったが景気の良い話は嫌いではないので黙って聞いていた。
「そうなれば、殿の命を狙う者も出てくるやもしれぬ。そのとき、と、殿と、ふ、ふ、ふ、臥所を共にしている者が最強なら、殿も安心して眠れるでござろう。殿の奥方には武力のある女がよろしいのだ。その点。せ、拙者なら、剣には自信があるゆえ、安堵して眠れる未来を約束致す所存で候っ!」
照れているのか、恥ずかしがっているのか、それとも混乱しているのか、いまいち判断のつかない慌てっぷりでそんなことを宣言する百合丸だったが、今朝は百合丸自身が余三郎の臥所の中に潜り込んだ不審者だったことをすっかり忘れている。
「ふふん、筋力が足りずに脇差さえまともに握れぬ霧殿には、そのようなことは出来ぬであろう」
「うん。霧、殿に安心して眠って貰える未来は約束できない、なの」
「そうであろう、そうであろう、剣の稽古で拙者に一度も敵わぬ霧殿ではのう。ふははは!」
齢十二の百合丸が八歳児の霧を相手に勝ち誇った顔をする。大層大人げない。
『きっと精神年齢が同じだからぶつかり合うのだろうな』
二人のいがみ合いを見ていて余三郎はそう思った。
しかし実際は霧の方が百合丸よりもずっと上手だった。
「剣の腕は関係ないの。なぜなら霧、殿と臥所を共にしたら『今夜も寝かせないぜ、うえっへっへっ』なの。寝ている暇を与えない、なの」
「ぶふっ!」
余三郎が思わず鼻から汁を飛ばした。
「な、なんと!?」
百合丸も一瞬で飛騨の『さるぼぼ』のように顔を赤くした。
「だから安眠は無理なの。でも、しかたない。霧の魅力が殿を狂わせるの。殿は悪くない」
とろりと蕩けた瞳で余三郎を見上げる八歳児。どうしてこの歳にしてこんな顔ができるのか、悪女の片鱗を匂わせている。
『す、末恐ろしいとはこのことか……』
百合丸は本気でそう思った。
余三郎は霧が『寝かせない』という意味をきちんと理解していて言っているのかは疑問だったが「じゃぁどういう意味? 教えてくれないと分からない、なの」と無垢な目でグイグイと説明を求められてもそれはそれで困るので、あえて突っ込まないことにした。
「それより早く行かないと登城の刻限に間に合わなくなるぞ。門の前はいつも混むんだからな」
余三郎はため息混じりにこの話題をさらりと流すと、霧の頭を軽く撫でて歩き始めた。
余三郎の袴をずっと掴んだままの霧はそれに引っ張られるように後についてゆき、呆然としていた百合丸とのすれ違いざまに「霧、負けない」と、さっきよりももっと小さな声で言った。
余三郎には決して見せない挑戦的な目だ。
「ぬ、ぬぬぅー!?」
ギリギリと歯を鳴らす百合丸。
小走りして余三郎に追いつくと百合丸は余三郎を挟んで霧とは反対側に立ち、余三郎の手を握ろうとして……ちょっと躊躇った後、手を握らずに袖をつまんだ。
「おいおい、そうやって二人に着物を引っ張られては歩きにくいではないか」
自分の視界の外で二人が青白い火花を散らして睨み合っているところまではさすがに察知しようがなく、余三郎は「まったく、しょうがないなぁ」と暢気に苦笑していた。