猫柳家の朝支度 4
余三郎が自分の不遇さに打ちひしがれて首を垂れていると――、
「ではでは。皆さん一緒にいただきまーす」
飯の配膳を終えた女中の菊花が誰よりも先に箸を取り上げた。
「いただきます」
「いただきます、なの」
続いて百合丸と霧も箸を持った。
狭い家なので主君と家臣が同じ場所で食事をするのはやむを得ないことだとしても、主君がまだ箸に触っていないのに食べ始める日常風景には主君への敬意とか配慮とかが一切感じられない。
『おやおや? お前たちの主君がこんなに気落ちしてるのに無視して飯を食べるのかい? というか、その前に主君を差し置いて先に食べ始めるとかどういう了見なんだ?』
余三郎は喉にまで出かかったその言葉を飲み込んで自分も慌てて箸を取った。
「頂く」
言いたい事は多々あるが、目の前にある飯を早く胃袋に収めないと家臣であるはずの百合丸と霧が何かと理由をつけて余三郎の膳にまで箸を伸ばしてくるのだ。
育ち盛りなので食べ物に目が無いのはわかるが十六歳の余三郎だって育ち盛りの真っ最中。沢庵の一切れだって多く胃袋の中に収めたい。
食事が始まるとそれぞれが飯茶碗をかつかつと鳴らして一心不乱に食物を掻き込む。
そんな三人をちらりと横目に見ながら余三郎は自分の不遇さを沢庵と一緒に噛み締めた。
『あぁ、せめてでこんな糅飯でいいから腹いっぱいに食べてみたいものだ……』
あっという間に食事は終わり、お櫃の中にはもう飯粒のひとつも無い。
『いつも腹六分目にしか食べられなくて常にひもじい思いをしている将軍縁者なんてわしぐらいだろうな……』
食事が終わるたびに余三郎は悲しくなってしまうのが常であった。
「殿、そろそろ登城の準備をなさいませ」
楽しい食事風景とは程遠い殺伐とした栄養摂取が終わると、菊花がお膳を片付けながら余三郎に促した。
「あぁ。今日は登城日であったか」
「今の世で武士にとっての仕事らしい仕事はこれくらいしかないんだから、ちゃんと覚えておかなきゃダメでしょ。メッ」
余三郎の耳元に口を近づけて、笑いながらたしなめる菊花。
町人たちの間で『乳弁天』と呼ばれているほどの大きな乳と妖艶な美貌を兼ね備えた菊花にこんなにも近づかれたら、物心のつく前から菊花と付き合いのある余三郎でも思わず赤面せずにはいられない。
「むぅ、それはわかっておるのだが……」
「わかってるなら覚えておかないとだめでしょ?」
着替えのために自室に戻ろうとしていた余三郎は霧に袂を掴まれた。
「殿? お城……行く、なの?」
強く引っ張られると破れそうなほど布の薄くなっている古着なので余三郎はさりげなく霧の手を握った。
「うむ、お勤めだからな」
「霧もゆく、なの」
半分瞼の下りた眠そうな目の奥にキラリと輝く決意の光が見える。
「どうしても?」
「どうしても、なの」
袂を掴む八歳児の小さな手に力が入る。
『ちょ、やめ……着物が破れるから。部屋着だってもうこれ一枚しかないんだ』
ひやひやしながらしゃがんで霧の小さな手を握って指を開かせると、今度は指を握られた。
「霧は、ずっと、殿といっしょなの」
むふー!
決意の鼻息が余三郎の顔にかかる。……こそばゆい。
「でもなぁ、付いてきたって城の入り口までは一緒だけれど、お城の中ではわしと霧は別々の部屋になるんだよ?」
「知ってる、なの」
「ん? 知ってて来るのか」
「知ってる。それでもここでお留守番しているより、霧と殿の距離は……遠くない、なの」
眠そうな目のままなのに眉をキリッと吊り上げて弥三郎を見ている。
お散歩連れけ。とせがんでいる子犬みたいな顔だ。
「まぁ、霧ちゃん偉いのねぇ。そんなに殿といっしょにいたいの?」
菊花が小犬を可愛がるような仕草で霧の頭を撫でる。
「霧は、殿といつでも一緒、なの」
めったに感情を表に出さない霧がほんの少しだけ顔を赤らめて顔を伏せた。
「まぁまぁまぁ~。いいわねぇ、愛よねぇ」
菊花がまるで垂直に立てられた蒟蒻のように体をクネらせながら霧の小さな顔を両手で掴み、ぷにぷにほっぺをすりすりと撫でまわす。
「殿ぉ? こんなに可愛い霧ちゃんのお願いなんだからもちろん連れて行くわよねぇ?」
やや興奮気味の菊花が満面の笑顔で訊いてきた。
答えの『可』と『否』を選べる事が出来る質問形だけれど、菊花の目は『可』以外の答えを許さないものになっている。
もはや笑顔で恫喝されているようなものだ。
「うむむむ……」
文武で秀でるよりも人の顔色を見ることに長けていたほうが出世の力になる封建制度の武家社会。
そこで生きている余三郎には場の空気を読む力を当然のように有していたが、その空気を自ら作り出す力と空気を変える力には欠けていた。
ついでに言うなら菊花のような年上の女性に楯突く勇気も持ち合わせていない。
それでも一応、断ればどうなるかを考えてみた。
断ればきっと霧は泣く
↓
霧が泣けば菊花さんが静かに怒る
↓
菊花さんが怒ると今日の夕食はいっそう貧相なものになる。
初等の算術よりもわかりやすい計算式が余三郎の頭で組み立てられ、弾き出した算術の答えは『明察』とは言い難い『打算』となった。
「……お城の中では、大人しくしてるんだよ?」
「わかった。……菊姐さん、ありがと、なの」
霧は菊花にペコリと頭を下げる。
「いえいえ。楽しんできてねぇ霧ちゃん」
お礼を言うのが余三郎ではなく菊花だった事に、霧の心の中にある猫柳家の家中序列がどのようなものか垣間見えた気がしたが……余三郎はあえて考えないようにした。
「霧、支度してくる、なの」
とてとてと自分の部屋へと戻る霧。
「しかし城などに同伴しても面白いことなど何もないのに、どうしてついて来たがるのか」
「殿ぉ、分かってないわねぇ、霧ちゃんは殿と一緒にいるだけで楽しいんですよ」
「そのようなものですか」
「そのようなものなのです。うふふふ」
本当は迷惑なのだが普段口数少ない霧が嬉しそうにしていたので、まぁいいかという気分になってきた。