猫柳家の朝支度 1
江戸城にほど近い神田の御徒通り。
そこからちょいと横道に入った裏通りにみすぼらしい一軒家があった。
元は白かったであろう土壁は茶色く変色していて、屋根の瓦も何枚か割れている。
今が明け方でなければ幽霊や妖怪が出ても不思議ではない雰囲気を醸し出しているのだが、その外見に反して家の中からは若い女性の元気な声が聞こえてきた。
「ウリ丸ちゃーん。もうすぐ朝餉の用意ができるから殿を起こしてきてくれるかしら」
服部百合丸が中庭の井戸で顔を洗って土間に戻ってくると、朝餉の用意をしていた通い女中の菊花から用事を頼まれた。
「拙者はウリ丸ではござらぬ。百合丸でござる。それだとまるでイノシシの子供みたいではござらぬか」
いつものように訂正しながら百合丸は三尺もない短い廊下を渡ると襖をすらりと空けてこの屋敷(借家)で最も立派な部屋に足を踏み入れた。
部屋の奥にある明り取りの小窓から差し込む朝の光でほんのりと明るくなっている八畳の簡素な部屋。
その中央に敷かれた薄い布団には当然のように猫柳家当主の猫柳余三郎が眠っている。
割と#頻繁__ひんぱん__#にこの部屋に入ることのある百合丸だが、口実があるとはいえ本人がいる状態でこの部屋に入るのは少々緊張した。
百合丸はそっと足音を忍ばせて布団に近づくと余三郎の顔が見下ろせる位置で座り込んだ。
そして考える。
『さて、どうしたものか……』
百合丸は目の前で寝虚仮ている余三郎の寝顔を眺めながら腕を組んだ。
『このまま起こしたのではつまらない』
何かしら面白いことができないものかと百合丸は腕を組んで思案した。
『殿の顔にいたずら書きをするのはどうだろう』
齢十六の少年のわりに顔の油気が少なくてさらりとした肌。
吹き出物の一つも見当たらない綺麗な頬。
『この綺麗な顔に猫のヒゲのような線を描けば面白いのではなかろうか』
しかし、百合丸はその案をすぐに取り下げた。
落書きをするための道具が無い。
いや、余三郎の文机に筆はあるのだ。硯もあるし墨もある。
けれど主君の顔に一筆入れるためだけに中庭の井戸へ引き返して片手で一掬い分の水を汲み、硯に注ぎ、墨を磨らなければ墨汁は出来ない。
そう考えるとこの案はひどく面倒な事に思えてきた。
『では、何をしよう?』
手軽で、面白くて、殿を驚かせながらも、自分は楽しい。という最高のいたずらをしてみたい。
百合丸は首をひねって考え続けたが全く思いつかない。
『良い思案を捻り出すために頭にもっと血を集めてみるのが良いかもしれぬ』
百合丸は理論的にそう考えた。
そうするには寝転がって頭の位置を低くするのが一番だが、暦では春でも弥生(三月)の朝はまだ寒い。
このまま畳の上で寝転がっては風邪をひいてしまうかもしれない。
『おお、目の前にちょうど暖かそうな布団があるではござらぬか。中に殿が入っているけれど、風邪をひかないようにするには仕方がないので同衾するしかないでござるな。いや、本当に仕方がないでござるな。まったく、まったく、困ったものでござる』
なんて己自身に言い訳しながら百合丸はいそいそと余三郎の布団の中に足を差し入れた。
音も無く余三郎の横に滑り込んだ百合丸は息が掛かるくらいの至近距離で余三郎の寝顔を凝視する。
余三郎の睫毛をニヤニヤと眺めながら、すぅ~っと肺いっぱいに息を吸い込む百合丸。
かすかに汗の匂いが混じった余三郎の体臭が百合丸の鼻孔を通り抜ける。
『ふふふっ、臭いでござるな、殿は雄臭いでござるよぉ、まったくもう、臭い、臭い、しかしこの匂いは……何やら妙な気分が滾ってくるでござるなっ!』
ふー……。はー……。ふー……。はー……。
まるで盛りのついたメス犬のように百合丸の息が荒くなってくる。
段々と目も血走ってきている。
まだ齢十二の童女でありながら百合丸はすでに危うい性癖に目覚めつつあった。
そんな百合丸の邪な欲望の対象にされている余三郎は真横から漂ってくる不穏な気配を眠りながらでも感じているらしく、苦しそうに顔を歪めて「ううぅぅ……」と呻き声を上げ始めた。
『むっ!? いかん、このままでは殿が起きてしまうでござるな』
すでにこの部屋に来た当初の目的を忘却の彼方へと捨て去っている百合丸は、そっと布団から出る……のではなく、余三郎の髪を揺らすほどに荒くなっていた息を服部家伝来の呼吸法で整えて、そのままガン見を続行。
「う……ううっ?」
不穏な気配の圧力がグッと増したのを感じた余三郎がさらに苦しそうに眉根を寄せて呻き声を出して、頬にはうっすらと冷汗が滲み出てきた。
『おやおやぁ? 拙者がこうして見守っておるというのに殿は悪夢でも見ておいででござるか。ならば家臣としての忠義を示すためにもその頬に滲み出た汗を舐め取るのが道理でござろうなぁ……ひゅふふふ』
どうして悪夢を見てしまうのかなど考えもせずに百合丸はぺろりと舌なめずりをした後、顔を紅潮させながら舌を突き出して余三郎の頬に顔を寄せて――、