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日本分割  作者: 岡村秀平
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二つに分割された日本国。互いに生き残りをかけ熾烈な戦いがはじまる。

イデオロギーの対立は、おそらくは永久に解決しない問題であろう。これを片付けようとして日本を分割してしまったら?

誰もが一度は考えたことがあるであろう、この仮想世界を掘り下げてみたら、作者の頭の中ではこのような世界が展開された。

果たしてこれはただの妄想か、それとも現実に起こりえる仮想現実なのか、答えは読者にゆだねるが、本著によって、読者の想像力にほんの少しでも波風がたてられたなら、存外の喜びである。

この物語は全くの創作フィクションであり、登場する国名、団体及び人物等は、実在のものとは一切関わりのないことを、予めおことわりしておく。

          (作者:岡村秀平)


「日本分割」


一 国を割る決意


二〇二〇年、オリンピックイヤーも、終ってしまえばまるで潮が引くように静まり返ったこの年の秋、日本国は有史以来初となる、ある一つの大きな決断を行った。

それはこの国を二つに割るという決断である。

日本は一九四五年(昭和二〇年)、太平洋戦争に敗れて明治憲法下の国家体制が崩壊し、そののち、一九五二年(昭和二七年)サンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復後、およそ七〇年間、国論は常に二分してきた。

それは、かつては保守と革新、近年では「革新」とは呼ばず「リベラル」という言葉で言い換えられてはいたが、有り体に言えば一九五〇年代型社会主義を理想とし、戦後米国からお仕着せられた憲法を墨守しようとする勢力との確執の歴史であった。

日本国の政権は、一九五五年(昭和三十年)来、実質的に自民党が安定的に担ってきた。

途中何度か、政権を他の政党に明け渡すことはあったものの、交代した政権は、そのたび申し合わせたように短期間で政権運営が行き詰まり、長くても三年ほどで自民党は政権政党に返り咲いていた。

自民党は一九五五(昭和三〇年)年の結党の際、党の政綱として「日本国憲法の自主改正」を掲げていた。

何故憲法の改正が必要なのか。

少なくとも主権国家たるものは、独立国家の具備する最低限度の要件として、国家の独立を保障するための国軍の保持は、基本的権利であるはずであったが、一九四六年に公布された新日本憲法では、この独立国家として具備すべき当然の権利を、自ら放棄した形となっていたのである。

これは、言い換えるならば、主権国家が独立を保つための手段を持たないということであり、どう考えても、また当時の国際的な規範に照らし合わせても不条理な条項であった。

にも関わらず、当時の日本国の社会情勢は、この常識外れの条項を、逆に画期的で世界に先駆ける先進的なものとして肯定する傾向を示していた。

一方で、自由主義対共産主義、いわゆる米ソ東西対立が顕在化し始めていたこの時期、このような国際的な常識を度外視した条項によって生じるリスクを担保する方策として、アメリカ合衆国は日米安全保障条約案を示し、我が国の独立に関する危惧を抱く人々を懐柔するオプションも用意していたのだが、歴史の常として、第二国が当該国の安全を保障するということは、すなわち、その第二国が当該国を隷属するということを意味することは、自明の理であった。

このため主権を回復した直後は、日本国においても、一刻も早くアメリカ合衆国による「庇護」と言う名の支配から脱却し、真の独立国家としての実力を身につけるべし、との思想を持つ人々も大勢いたのだが、ところがそれから時間を経るにつれ、前述のような問題意識を持つ人口は次第に減少し、いつの間にか「カネのかかる安全保障は、言い出しっぺである米国に委ね、自らはひたすら経済発展を追求すべき。」と考える層が増えていったのである。

こうしていつの間にか、当初は不条理と思われていた、お仕着せだったはずのいわゆる「平和憲法」は、時代とともに日本にとって極めて都合の良い国家自主防衛放棄の免罪符へと変質していったのであった。

時が経つにつれ日本国憲法の、特に第九条は、二種類の者たちの「既得権益」となっていった。

一つはこの、アメリカによってお仕着せられたた憲法の第九条は、これによって、日本はカネのかかる国防費用を支出しない大義名分を得たことで、戦後驚くほどの速さで、奇跡と呼ばれた経済発展を遂げ、これをけん引したリーダー達に絶大な権力をもたらしたことと、もう一つは日本国を再び強力な実力を備えた国家にさせたくないある種の層にとっての金科玉条となり得たことである。

それからおよそ半世紀以上、日本国民はすっかりこの日本国憲法を当然のものとして受け入れ、それによって「日本は、国軍を持たなくても平和に繁栄できる国」という誤った認識が定着していった。

しかしながら、平家物語の祇園精舎ではないが、世界は諸行無常であり、不変なものなどは、ありはしない。ましてや日本が軍隊を持たずとも平和に繁栄できたなどという認識は誤りであり、これまでの日本の独立と安全は、第二次世界単線後の東西冷戦構造における米ソのパワーバランスの中、強固な日米同盟と、「自衛隊」という名の事実上の軍隊によって守られてきたのである。

ところが一九九一年、元々米国が自腹を切ってまで日本を守らなければならない理由であった東西冷戦構造の一方の雄であったソ連邦が崩壊し、自由主義対共産主義の対立構造は突然のごとく解消された。

冷戦が終結した直後、直接日本の国防に携わる者は「これで日米安保は解消されるかもしれない。」と、直感的に思った。

しかしながら結果的に、冷戦の終結によっては、世界中の誰もが期待した、戦乱の恐れの無いバラ色の世界は訪れなかった。

それどころか崩れたパワーバランスの隙間をついて、世界中の鬱積した不満や欲望が噴出し、むしろ東西冷戦の時代よりも混とんとした世界となってしまったのである。

そもそも日米安保は、日本を共産主義拡張の防波堤とするためにアメリカが求めた条約である。従って、冷戦構造が解消したならば、考えようによっては、日米安保もその使命を終えたと解することもできたはずである。

一方で、日本を再び強力な軍事力を持つ強国にしたくないという層は、日本国内、東アジア諸国ばかりではなく、アメリカ合衆国や西欧諸国にも存在していた。

このため、東西冷戦終結後も、アメリカは直ちには日米安保の解消を求めなかった。

もっとも、ソ連邦の崩壊の直前に起きた湾岸戦争で、日本は中東アジアにおけるアメリカ軍の前進基地としての存在価値を証明したこともあって、冷戦の終結が、ただちに日米安保の解消と在日米軍の撤退ということには結びつかなかったのも、自然の流れではあった。

その結果、東西冷戦終結後の新たな世界秩序の構築の中で、日米同盟は、本来ならば国家関係としては対等であるべきはずの両国が、何故だかその後も、たとえ米軍に対する日本国内の基地用地の提供という交換条件があったにせよ、一方の国がもう一方の国の安全を保障するという、よくよく考えれば奇妙な構造として存続したのであった。

それから四分の一世紀以上の時間が経過し、いつの間にか世界中の人々の心の中から「東西冷戦」という言葉は、過去の思い出話として片付けられていった。

それより何より深刻だったのは、冷戦構造の崩壊後に巻き起こった、見方によっては、冷戦時代以上に深刻な、混とんとした戦乱の時代に突入する可能性である。

この戦乱の時代は、ある部分では宗教問題、また、ある部分では世界全体の経済格差に関する問題、そして更に厄介なことに、これらの問題を複雑に絡めたテロリズムの拡散という形で世界を揺るがし、どの国のリーダーも具体的な解決策を見つけられずにいた。

世界は正に、先の読めない暗中模索の時代へと突入していたのである。

日本を取り巻く状勢においても、ソ連―ロシアの弱体化の代わりに顕在化したのが、隣国中国の急速な軍拡と、朝鮮半島の核兵器及び弾道ミサイルの開発問題であった。

東西冷戦時代は、例えば東アジア地域において、突如一方的にソ連軍が日本の国土に侵攻し自衛隊が単独でソ連軍と直接対峙するという事態は、実はあまり想定されていなかった。

何故ならばソ連の日本への武力侵攻は、日米同盟によるアメリカの参戦を呼び、アメリカが参戦するということは、ヨーロッパにおいて直ちにNATO(北大西洋条約機構)加盟国対ワルシャワ条約機構国との対決、そして行きつくところとして、第三次世界大戦に発展する可能性があったからである。

米ソの対立構造のなかで、ソ連軍と直接対決するのは、基本的には米軍の仕事であり、自衛隊はどちらかというと、東西冷戦が何らかの理由で暑い戦争に発展した際に、降りかかる火の粉を払う程度に日本の国土を防衛できれば良いという程度の戦力の整備を目指していた。

ところがその後顕在化した中国との摩擦においては、具体的には尖閣諸島の領有権主張という形であったが、要は、中国は直接アメリカと対峙しようとは考えておらず、あくまで目的は隣国日本からの領土の分捕りであった。

このため、道理から言えば日本は、直接中国と対決できる自主的防衛力を整備する必要があるはずなのだが、その前後の流れから何故だか、日本にとっては極めて都合の良いことに、日本と中国との対立関係においても、日米安全保障条約が適用されるということになっていったのであった。

このような情勢の中、あるとき、アメリカ合衆国において、このような奇妙な二国間関係に素直な疑問を抱く、一人の奇抜な大統領候補が現れた。

これまで全く政治家としてのキャリアのない、一介のファンドマネージャーから一代で金融王となったダニエル・ダグラスである。

彼は選挙公約として、率直にこのような奇妙な二国間関係の解消をアメリカ国民に訴えたのである。

当初は泡沫候補と目されていたダニエル・ダグラスは、そのあまりにも奇抜な主張故か、知らず知らずのうちに国民の支持を集め、アメリカ国民はおろか、世界中の大方の予想を裏切り、あれよあれよという間に共和党代表候補となり、最終的には彼が、本命と思われた民主党候補を下してアメリカ合衆国大統領に当選した。


再び時間を少し遡る。

二〇〇一年九月一一日、ニューヨーク貿易センタービルに二機のジェット旅客機が突っ込み、国際社会とテロリズムとの悪夢のような戦いが幕を開けた。

それまで日本は、国際貢献の一環として、PKO(国際連合平和維持活動)への自衛隊の派遣は行ってきたものの、活動の規模はあくまで人的貢献程度に抑え、国際的緊張関係の存在する地域への実力部隊の派遣は行ってこなかった。

ところがいわゆる9.11以降に叫ばれた「テロとの戦い」においては、日本も国内法である憲法九条を盾に兵力派遣を拒むことが難しい気運となり、アラビア海やインド洋上で海上監視にあたる連合国海軍艦艇に対する給油支援という形で補給艦を派遣、更にこれを護衛する必要性から護衛艦も派遣された。また、紛争が完全には終結していない地域に対する復興支援という形での陸上自衛隊員の派遣も、これまでよりはるかに高いリスクを背負って実行された。

こうすることで、日本は積極的な世界への貢献と、より堅固な日米関係をアピールしたつもりであったのだが、その反作用として、日本国内の左派政党は、こうした政府の米国追従路線が、日本が戦争に巻きこまれる危険性を高めているとして、与党と政府を攻撃する材料として利用するようになっていた。

事実、イラクの復興支援にあたっていた陸上自衛隊のキャンプ地にロケット弾が撃ち込まれたとのニュースが流れ、国会において、「陸上自衛隊が派遣されている地域における停戦合意は崩れ、PKO派遣地域としての要件は満たさなくなったのでは?」として陸上自衛隊の撤収を迫る質問が野党から出された際には、当時首相であった和泉純一は陸上自衛隊の派遣の正当性を必死に強弁し、撤収を拒んだ。

しかし、やがてそのような取り繕いに疲れたのか、自民党総裁としての任期の満了を迎えると、当時の腹心であった官房長官水野敬三に政権を禅譲するという形を演出しつつ、あっさりと首相の座を下りてしまった。

こうした情勢の中、和泉のあとを引き継いだ、当時自民党の若手ホープともてはやされた水野敬三であったが、彼の初めての政権は、決して順風満帆ではなかった。

政治の世界とは、実に様々な怨念や嫉妬が渦巻く世界であり、水野の総理大臣就任を快く思わない者は、何も政敵である野党ばかりではなかった。

意外なほどに、手強い敵は身近にいたのである。

日本における憲政史は、常に足の引きずり合いの歴史でもあった。

戦前は「立憲民政党」と「立憲政友会」の対立が特徴的で、両党は戦後に見られる保守対革新のようなイデオロギー的対立ではなく、どちらも今日的に見れば保守系政党であり、両党の競合の理由は政策の違いというよりも、どちらかと言えば権力欲の対立というのが偽らざるところであった。

戦後は、表向きには自民党対社会党のように保守派と革新派の対立が拮抗した時期もあったが、全体を通して見れば、最も苛烈な争いは、政権担当政党である自民党内の権力争いにあったろう。

時にはそのような争いがエスカレートし、自民党から分派する者もあったが、それらは総じて長続きはしなかった。

そもそも、今日自民党のライバルとなっている民衆党も、発足当初は自民党を出た者が多く参入していた。

しかし、それらはどちらかと言えば自民党内での争いに敗れた、いわゆる「負け組」であり、真の実力者は自民党内に巣くいつつ、互いに覇を競ったのである。

水野敬三のライバルたちは、あの手この手で彼の足元をすくった。

中でも、最も露骨で有効な方法は、官僚の囲い込みである。

第一次水野政権発足当時、水野敬三は若手のホープともてはやされてはいたが、そこはやはり「若手」である。政権を裏で支える各省庁の実力者たる官僚とのパイプはそれほど堅固ではなかった。

この点、当選回数の多い実力者たちは、しっかりと各省庁官僚の手綱を押さえていた。

官僚は官僚で、自分たちが、いったい誰と組めば仕事がやり易くなるか、手前の省庁にとってメリットがあるかという観点で政治家を値踏みしていたのである。

このような関係は一朝一夕に築き上げられるものではない。

政界の実力者たちは、見どころのある官僚を若手のうちから手懐け、育て上げる。

時にはうまいものを食わせ、酒をふるまい、場合によっては女をあてがうこともある。

こうして政治家と官僚とのズブズブの関係が出来ていくのだが、こうなると、若手のホープ水野敬三もベテランの先生のご機嫌を損ねては、とても政権運営は成り立たない。

理想に燃えた水野敬三の第一次内閣はこうして、サボタージュや妨害工作に遭い、加えて水野の政治スタイルに反感を持つ国内マスメディアの情報操作もあって、わずか一年であえなく退陣に追い込まれた。

水野政権が倒れたのち、後続の自民党政権も、あまりに水野失脚のための工作が徹底し過ぎたためか、国民の自民党に対するイメージ悪くなり過ぎ、その点をライバルで、当時急速に国民の支持を得ていた民衆党に突かれ、ついには、自民党は政権政党の座を追われることとなった。

政治は権力者同士の熾烈な競争の世界であり、如何に正しく、美しい理想を掲げようとも、その理想を抱えたまま一〇〇メートルのトラックを、追い風を受けて駆け抜けることはできない。

どちらかと言えば政治の世界はラグビーに似ている。

実現すべき「理想の国家運営」という名のボールを抱え、全力でタックルを仕掛けてくる政敵をかわしてゴールをめざさなければならない。

政界とは、かくも歪んだものなのである。

また国政とは、選挙によって選ばれた国会議員によってのみ動かされるものではない。

それは多分、正しいことではないのだろうが、日本という国の権力構造は、ほとんど常に二重構造であった。

表向きには日本の国政は、世界最古の王政国家としての構造を持ち、天皇を国家の象徴として戴きつつ、比較的完成度の高い三権分立の議会制民主主義国家であり、国政の実権については選挙によって選ばれた国会議員の中から選出された内閣総理大臣が担う形となっている。

実はこの政治形態の原型は、特に太平洋戦争後に、占領国の何某かの差し金でできたわけでもなく、明治維新後の明治政府においても、自由選挙による公平な選出という評価要素を除けば、ほぼその原型は出来上がっており、もっと言えば江戸幕府、更に遡れば鎌倉幕府でさえ、天皇家を戴きつつ、行政官の長たる征夷大将軍を奉った幕府という名の、事実上の国家最高権力による統治機構の制度を確立させていた。

明治維新後、明治憲法の下に、日本は比較的に健全な政治家による国家運営に成功していたと言えよう。それは日ロ戦争に至るまで維持され、その間帝国陸海軍は徐々に強大な力となりつつも、ほとんど完全に政治家のコントロールの下に置かれていたのである。

ところが、不幸なことに日露戦争の後、戦勝の功績によって陸海軍の発言力が増すと、次第に日本の政治家は陸海軍軍人をコントロールしきれなくなっていった。

その理由の一端には、世界の軍事バランスの変化もあったが、政治家自身の腐敗もまた、大きな原因の一つであった。

やがて政治家が軍隊を御し得なくなると、政治家と軍人という権力の二重構造が生まれた。

一九三〇年の世界恐慌を機に、国際社会は混迷を極め、その軋轢のはけ口は日本に向けられた。このため一九三〇年代後半、我が国は政治家による内政が行き詰まり、最終的には太平洋戦争開始前の一九四一年十月、ついに日本国は、国政を軍人に託してしまった。

それ以降一九四五年の敗戦に至るまで、国家運営の実権を軍部が掌握することになるのだが、軍人による政権は軍部の独走を生み、その結果我が国は破滅的悲劇を迎えた。

このようにして、政治家が有効に機能しなくなれば、最悪、国家を滅ぼしかねないという痛い経験を日本人は積んだのであったのだが。

その後日本は、一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効を経て、主権国家としての地位を回復して以来、実質的な占領国であるアメリカ合衆国の指導監督の下、欧米型民主主義国家の建設をめざした。

これは、一九四一年以前、つまり明治憲法下における日本国の国家体制の全面否定でもあったはずだった。

しかし残念なことに、新生民主主義国家日本国の現実は、表向きは国民の選挙で選出された国会議員が、国政を取り仕切るということになっていたのだが、しかしてその実態はと言えば、ろくに勉強もしていない国会議員という、名ばかりの先生方になり替わって、お勉強のできる各省庁の官僚たちが、実質的に国政を取り仕切るという、単なる看板の架け替え、権力の二重構造であることに変わりはなく、ただ権力の一方が、戦前及び戦時中は軍部だったのが、戦後は各省庁の官僚に変わっただけのことだった。

このような我が国の政治体系の実態は、その後半世紀以上もの間、特に改められることも無かったが、こうした実態にくさびを打ち込んだのが水野敬三であった。

ところが、第一次政権の際には、当時党勢を伸ばしていた民衆党の、執拗にしてあからさまな追い落とし活動のせいもあったが、主たる要因としては、言ってみれば官僚のクーデター的な妨害工作によって、わずか一年ほどで退陣においこまれたというのが実態であったのではないか。

そもそも、政党内閣制において、政権と官僚とが盟友関係にあるのは、健全な姿とは言えない。

建前としては、官僚はあくまで時の政権に絶対服従であるべきであり、間違っても政権の運営を妨害するようなことをしてはならない。

ところが平成一九年に突如として暴露された、いわゆる「消えた年金問題」とは、少なくとも当時の担当政権による失策ではなく、永年にわたる社会保険庁のルースな業務管理に起因するミスの積み重ねと、これを監督する厚生労働省の統御不能が引き起こした不祥事であったはずだった。

これを当時、水野政権に対するネガティブキャンペーンに積極的に利用したのが、民衆党であり、この問題を専門的に追求した長塚衆議院議員は、一躍時の人となり、一連の年金問題の責任を政府与党と内閣総理大臣である水野敬三に着せることに成功した。

当時、水野自身は政権の座についてほんの半年であり、そもそも彼のキャリアにおいては、厚生労働省関連の役職に就いたことなど一度もなかったのだが、水野は持ち前の強い責任感からか、この問題を「必ず解決する。」と安請け合いしてしまった。

結果的には、とてもではないがまるで砂漠のように果てしない「消えた年金問題」を一朝一夕には解決できるはずもなく、政権与党としてのイメージを決定的に貶めた自民党は、その年に行われた参議院議員選挙において惨敗し、参議院においては民衆党が多数派政党となってしまった。

その後は、衆議院の優越という制度があるとはいえ、衆議院で可決される自民等の主要な法案は全て参議院で全て否決という、ある意味立法府におけるサボタージュ活動に遭い、自民党としての政権担当能力には、強烈なネガティブイメージを植え付けられてしまった。

このような状況で迎えた平成二一年の第四五回衆院選挙において自民党は大敗し、政権与党から下野、代わって憲政史上まれにみるほどの大勝をした民衆党が、政権の座につくこととなった。


一方で、退陣を余儀なくされ、所属する自民党は、ついには野党に転落するという憂き目に遭った水野敬三は、半ば絶望的なまでの失敗を糧に、自己の敗北の原因を徹底的に検証した。

「自分の政権運営の何がまずかったのか。」

それから約三年の間、水野は自身の問題は勿論、日本全体が抱える問題点にいたるまで研究に没頭した。

そして、それらに対する改善策を立て、平成二四年、再び自民党総裁の座に就くと、同年末に行われた第四六回衆院選挙において見事にリベンジを果たしたのであった。

二度目の政権に返り咲いたときには、より一層の、そして周到な政治主導を貫いたのであった。

二度目の水野の政権は、見事なまでに成功し、政権発足の前後には、リベラル勢力はおろか保守派層にまであった不信感を見事に払しょくした。

しかも、政権に返り咲いた水野の政権遂行能力は、それまで民衆党の政権下で、より一層政治家コントロール能力を強めていた省庁官僚たちの甘い見通しを覆し、逆に過去に例を見ないほど強力に官邸主導を推し進めたのであった。

当然のことながら、こうした傾向は、本来の国家運営としては望ましいものであるべきなのだが、高を括っていた官僚たちにとっては、降って湧いたような脅威であり、ゆえに急速かつ強力に不満も募った。

更には追い落とされた水野敬三の政敵たちも、次々と奏功する政策に危機感を覚え水野政権つぶしに躍起となった。

この動きには、日本国内のほぼ全てのマスメディアも同調、全面的に協力し、いつの間にか水野政権対野党連合、マスメディア、一部省庁官僚の連合軍といった構図となった。

特にマスメディアに関してだが、これまで自らは「正義の第三の権力」と自認し、マスメディア側から見て都合の悪い政権は、徹底的な悪者イメージを着せ、追い落とすということを繰り返していた。

それを信じる一般国民は、マスメディアの術中にはまり、政権に対する「不信感」を抱く。

するとマスメディアは、その「不信感」を国民世論調査の結果と称して吹聴し、更に政権のイメージを追い落とすといった手法を繰り返した。

こうしたマスメディアの戦術は、二〇一〇年代前半までは、政権つぶしの常套手段として実に有効に機能していた。

ところが、第二次水野政権に入ったころから、こうした姑息な政権追い落とし工作が十分に機能しなくなってきていたのである。

一次政権と二次政権の違いは、勿論水野敬三自身が政治家として大きく成長したこともあったが、決定的だったのは、ソーシャル・ネットワーク・サービス、SNSの普及である。

SNSを使いこなすネットユーザーは、これを通じて、互いに情報を共有することができた。

このため以前のようにマスメディアが流す水野政権に対するネガティブな情報よりも、率直な肯定感をもって政権運営を観察する機運が醸成され、実態としてみれば、いくら野党やマスメディアが政権を叩こうとも、いっこうに支持率が下がらないという、これまでには見られなかった状況になっていた。


SNS自体は、そのほとんどの管理者は他のマスメディア同様、反水野のスタンスで、水野政権擁護の立場の書き込みを、難癖をつけては抑え込もうとしたのだが、それでもネットユーザーの正直な意見を完全に封じ込めることはできなかった。

このようにして、第二次水野政権は、発足当初のほとんどの見立てを裏切る異例の長期政権となっていた。

その事件が起きたのは、この年末で首相就任以来八年目となる水野首相が、オリンピックの終了を待ちかねたかのように、残された任期の中で念願であった憲法改正を達成するべく召集した臨時国会の議事のさなかであった。

野党側はこれまで三年近く、確たる証拠も無いまま、水野首相が友人に対し政治的な便宜を図ったとする、ほとんど思い込みを論拠にした疑惑の追及を続けていたが、この臨時国会においても、何としてでも改憲を阻止しようと、国会の冒頭からこれまでの水野首相にかかわる疑惑論を蒸し返したうえ、誹謗中傷に近いような政権批判を畳みかけるように浴びせていた。

更には、野党と同じように憲法改正阻止を自らの使命と錯覚しているマスメディアたちも、こうした野党の主張を積極的かつ肯定的に報道し、あからさまな改憲阻止キャンペーンを展開していたのである。

こうして、改憲に対する固い意志を持って招集した臨時国会が、まるで烏合の衆による誹謗中傷合戦の場と化してしまい、水野首相の中では、かなりのストレスが蓄積されていった。

日本国の首相としては異例の長期政権を担ってきた首相水野敬三だったが、これまでその政権の期間中のほぼ全期間にわたり受け続けてきた、野党側による政権運営に対する妨害活動についに堪忍袋の緒が切れ、決して口に出すべきでない一言を放ってしまった。

「あなた方はいつも、ろくに根拠もない絵空事を、何の臆面もなく口に出されるが、政権運営とはそう簡単なものではない。

評論家は常に好き勝手な評論を述べるが、その誰もがその分野で名を成した人はいない。

もし、あなたが私よりも上手く政権運営ができると言うのであれば、一度、どこかで試験的にでもやってみられたらいい。」

水野首相は、こう発言してすぐに後悔した。しかし、一度放った言葉は、そう簡単に消えはしない。

野党第一党である民衆党々首の槙野はここぞとばかりに、返す刀でこう切り出した。

「たった今、総理は『一度やってみろ。』と言われましたね。

ならばやらせてもらおうじゃありませんか。では、今すぐ総理は今の内閣を総辞職してください。」

これに対し水野総理はすかさず、今しがたの発言を撤回した。しかし、そのとき余計な一言を付け加えた。

「大変失礼なことを申し上げた。只今の私の発言は、謹んでお詫びし、撤回します。但し『一度やってみろ。』などとは申してございません。あくまで、『試す機会があったらいいのになあ。』との気持ちが、思わず口をついて出てしまいました。この点につきましては、重ね重ね心からお詫び申し上げたいと思います。」

ここまでならば、事態は収拾したかもしれない。しかし、水野総理は、このとき更に魔が差したのか、自制心という名のたがが緩んでしまったのか、思わず、しかし改めようもない一言を継いでしまった。

「しかし仮に今、私が総辞職したとしても、失礼ですが、民衆党が政権を取れるという保証はないのではと、余計なことながら御忠心申し上げたい。」

この発言に槙野が激高した。

「私も男です。そこまで言うなら受けて立とうじゃありませんか。総理、今すぐ総辞職してください。」

間髪入れずに反撃した槙野の発言に水野総理も少しヒートアップした。

「政治はギャンブルではない。

はったりで総辞職していたのでは、国民はたまったものではない。

私は先ほどの発言は取り消すと申しております。

もし、民衆党首が政権を獲得したいとお思いでしたら、政権批判に血眼になるばかりでなく、どうか国民の皆様に対して、御自身の理想とする政策を掲げられ、御自身が求める理想国家像をお示しになるのが先ではないのですかと申し上げたい。」

この水野首相の一言に議場は、憲政史上あまり例を見ないほどにまで紛糾した。

保守派、左翼リベラル派、左右の双方から激しいヤジが飛び交い収拾がつかない状態となった。

そんな中、誰が発したか分からない一つのヤジに、一瞬議場が静まり返った。

「いっそのこと独立国家を作ればええやろ!」

この出来事にすぐさま反応したのはネット社会であった。

『おもろいやんけ!』

『もうめんどくさいわ。パヨク出ていけ。』

『国内でどうやってパヨク政権試すの?もうこりごり。』

『水野政権も、やり直したよね。

民衆党にも、もう一度チャンスを与えてもいいのでは?』

『もう一度やらせてまたこけたら、誰が責任取るの?

元々、民衆党政権がダメ過ぎたから水野政権になったのだろうが!』

『いっぺん日本を仕切って、その中で試験的にやらせてみては?』

その後しばらく、日本国内では百論が噴出し続けた。

そもそも保守派と左翼リベラル派、この相反する二つの勢力は、互いの主張が永遠に平行線をたどっており、そうした歴史に国民の多くは辟易としていた。

こうした状況から、国家の分割案は、案外妙案として国民に受けとめられていた。

このようなことがきっかけで、半ば試験的に政策試行特区を設けようという話になった。

ところが、「では、その特区には誰が住むの?」と言う話になり、喧々諤々の議論の末行きついての結果が日本国の分割案であった。


今や日本国民の多くが、「日の丸」、「君が代」に代表される、旧来の日本人としてのアイデンティティを尊重する層と、これとは真逆に、「日の丸」、「君が代」を拒否し、あまつさえ日本人というアイデンティティをも否定する形で、この日本国土に生活基盤を築こうとする層に分離し、いわば水と油ように、永遠に混じり合うことのない関係が顕在化していた。

究極的に言って、このような状況から脱する唯一の方法は、根本的に主義主張の異なる者と袂を分かつことである。

今回は、実際には勢い余ってのような「国家分割」案ではあったが、最終的にそのような結論に至るまで、本来国会の場において、このような危険な議論に対し、最もセンシティブでなくてはならないはずの国会議員たちが、誰も諫めなかったということは、裏を返せば、今回の一連の事態のエスカレーションが、長い間我が国で続いてきた保守派対左翼リベラル派との根深い対立が、話し合い等によっては解決できる可能性はなく、もはや両者は別々に暮らす以外にないとの結論に至った必然性を物語っていた。

通常、普通の国家が分裂する場合、宗教や民族対立がその要因となり、独立運動など激しい対立や時に内戦など悲劇的な闘争を経て分離独立に至るのだが、その意味では、今回の日本において、日本国民が下した結論は、ひょっとすると国際社会の歴史を一歩リードしていたのかもしれない。

とにかく日本国民は国を割ることを決意した、それは国家観に疎い日本国民が、まるで不仲な連れ合いと別れて暮らすため、離婚を決意したと言った方が的確だったかもしれない。

国を割るにあたって、どのようにしてどのような人たちが、どちらの国に行くのか?これは当然ながら大問題となる。

先ずは日本国土のどこに線、つまり国境を引くのか、その判断材料となるデータの収集に使った手段は国民投票であった。

国会決議を経て、最初に行ったアンケートは、『あなたは、現在の日本国を二つに分割し、現在民衆党等などが提唱している新国家を実際に建国した場合、従来どおり日本国の国民であることを希望しますか?それとも、民衆党などが建国しようとする新国家への帰属(新国家の国民となること)を希望しますか?

従来どおり日本国国民であることを希望する人は「1」の欄に「✓(チェック)」を、民衆党などが建国しようとする新国家への帰属(新国家の国民となること)を希望する人は「2」の欄に「✓(チェック)」を記入してください。』と二者択一の回答形式で、一八歳以上の日本国籍を有する国民が対象とされた。

このアンケート調査の結果を基に、新国家への帰属を希望する国民の人数比に応じて国土を分割するという方針が、与野党間で合意されていた。

アンケート調査の結果、有効回答率は、普段の国政選挙の投票率よりは少し高めの、八五%近くの回答を得、その結果、回答者のおよその二五パーセントが、新国家への帰属を希望するとの調査結果を得た。

このアンケート結果を基に、事前に成立した国家分割法の規定に従い日本国は、概ね四分の三が旧来の日本国、残る四分の一が新国家となることが決定した。


日本が二つの国に分断されるとの情報が世界に伝わると、これに対して国際社会は様々に反応した。

先ずは米国やEU、英国等自由主義諸国は大いに心配し、日本の分割に対し一様に反対の意思を示した。

特に米国は猛反対であった。

理由は大きく二つ。一つは、転落したとはいえ世界第3位の経済大国である。

もし分割後の経済活動が行き詰まりでもしたら、それこそ世界経済への影響は深刻である。

それでなくとも日本が分割されるかもしれないとの見方が国際社会に漏れ出して以降、ニューヨーク株価は連日下落し続けていた。

もう一つの理由は、言うまでもなく軍事バランスの変化である。

日本が分割され、左翼政党が担う新国家が誕生したならば、当該国家は親中国路線に傾くのは必至と、誰もが見ていた。これは中国の影響力が日本海を渡る可能性を意味していたのである。

それでなくとも中国の南シナ海、東シナ海における海洋進出は、米国の国家戦略にとって重大な懸念事項となっていた。

従って日本分割論が出た早々から、アメリカ合衆国政府は日本政府に対し「重大な懸念を禁じ得ない。」とコメントし、EU諸国等もこれに同調した。

一方で、就任後水野首相と極めて友好的な関係を築いてきたアメリカ合衆国大統領ダニエル・ダグラスは、直接水野に対し、電話で思いとどまるよう説得してきた。

これに対し水野は「行きがかり上こうなってしまったが、ここまで来てもはや引き返せない状況になっている。」と心情を吐露するのが関の山であった。

一方で、中国やロシア、北朝鮮は日本分割を歓迎する旨のコメントを出していた。

特に同胞を日本国内に多数住まわせている北朝鮮は、

「日本国の分割は我が国が主体的に関与すべき事項」

とまで言ってきていた。

中国もまた、

「日本人が真に民主主義に目覚めるための援助を惜しまない。」

と、暗に関与する姿勢を示していた。

こうして早くも日本分割案は、周辺諸国や関係国を巻き込む国際問題に発展する可能性を示していた。


このような中、どちらかというと将来新国家に住まうであろう左派野党が積極的になって国土分割の具体的計画案が練られていった。

先ずは国境の線引きである。東西南北に長い日本列島を真っ二つに割るというのは、一見簡単そうであったが、アンケートの結果から見て、新国家の国民となる人口の割合は分割前の日本人の人口の約二五%、三千万人程度である。

従って、日本の南北どちらから四分の一で国境線を引いた場合、新国家の国土は北日本か南日本か偏った地域となり、独立後の経済活動等を勘案した場合、地理的に不利となる可能性がある。

このため、魚を三枚におろすように本州を半身にすることになった。

正確に言うならば新潟県あたりを中心に、北は秋田県あたりから南は福井県あたりまで、概ね、日本海沿岸の東北、北陸地方と呼ばれた地域が新国家の中心的な国土となることに決定した。

この地域が新国家の国土に定められた理由は、新潟県は地理的には日本経済の中心地である関東や中部地方に近く、わりとリベラル派支持層が厚い地域であったことと、リベラル左派勢力が頼みとする中華人民共和国や韓国、北朝鮮に近いということもあった。ただし、この地域だけでは経済活動や交通の面で不便であり、リベラル左派勢力も大都市部に拠点を残したいとの意向から、東京及び大阪に、それぞれ一定のパーセンテージで飛び地的に国土を要求し、様々な論議の末、認められていた。

東京は概ね中央区あたりを境に東側部分、また、大阪府では元々在日韓国・朝鮮人が多く居住していた生野区あたりを中心に大阪市南部が新国家の国土となった。

更に、新国家樹立勢力が、北海道と沖縄においても一定面積の国土の割譲を要求し、北海道においては苫小牧市や千歳市を中心とした道央の南半分と、沖縄本島の糸満市を中心とした南部が新国家の国土とされることになった。

こうした駆け引きの結果、日本国内には、極めて複雑な国境線が引かれる形となった。

国土分割の検討段階において、経済産業省を中心に慎重に検討した点がある。

国内主要産業の移転の可能性である。日本国内の主要産業は主として関東地方から中部・近畿地方に至るまでの主として太平洋沿岸地域に集中している。

もし仮に主要産業の多くが新国家への移転を希望した場合、その移転費用は莫大なものとなることが容易に想像できた。こうした移転に伴う経費は、基本的には国費で賄う方針であったため、その経費をなるべく低く抑えるため、事前に主要産業の経営者たちにも、個別に移転の希望調査を行った。結果、水野首相は胸をなでおろすことができた。

国内の主要産業を担う企業主のほとんどは、日本国にとどまることを希望したからである。勿論、いくつかの製造業や第三次産業の経営者の中に、新国家への移転を希望する者もいたが、ほぼ想定内であり、むしろ新国家の領土となる地方の企業主の多くが分割後の日本国内への移転を希望したため、経産省関係者は、それらの経費の見積もりに追われることとなった。

しかしながら、アンケート調査の結果は、国土分割の線引き案を練った者たちの目論見が概ね正しかったことを示す結果となった


実際に国家を分割するとなると、国土の分割以外にも、事前に取り決めておかなければならない様々な事柄が次々と湧いて出てくるのだが、そのような事態は、当然これまで誰も想像すらしてはおらず、担当となった閣僚や官僚は連日頭を悩ませた。

先ずは、水野首相が自らに課していた政治家生命をかけた仕事であり、これまで延々と議論され続けてきた憲法改正に関してである。

半ば当然のことながら、憲法改正を阻止することを共通理念としていた野党勢力が、永久的に保守勢力と決別するわけであるから、新しい日本国は、その分憲法改正のハードルが下がる結果となるわけである。

しかし、国家の分割後にいきなり憲法改正を発議した場合、「話が違う。」と考える国民が出てくるおそれもある。また、同じく重要な課題であった在日韓国・朝鮮人問題についても、現在の日本国政府は、この機に乗じて一気に解決したいと考えていた。

こうしたことから、実は国民アンケートの実施計画をリリースするタイミングに合わせて、憲法改正の可能性及び、国家分割後は在日韓国・朝鮮人は新生日本国家への忠誠を誓ったうえでの日本国民への帰化を前提とし、これを拒否する者は国外退去とする旨の方針を、政府当局はマスコミなどに対し、意図的にリークした。

さらには、アンケート実施日の一週間前に、国家分割後の憲法改正の発議と、日本に帰化することを拒否する在日韓国・朝鮮人を国外退去とすること及び、これに加えて日本共産党、在日本朝鮮人総連合会、いわゆる「総連」及び在日本大韓民国民団、いわゆる「民団」をそれぞれ非合法組織として指定する方針を示し、憲法改正の草案を開示した。

憲法改正に関しては、国家分割の話しが沸き起こる前から、既に水野首相自身が公言していたことであり、特に大きな関心事とはならなかったが、在日韓国・朝鮮人の国外退去に関しては、事前に情報をリークしていたとはいえかなりのインパクトをもって日本国内はおろか国際社会にも伝わった。

憲法の改正問題もさることながら、終戦直後からの懸案事項となっていたのが在日朝鮮・韓国人の扱いである。

戦時中の様々な経緯から、終戦後、日本国籍を有しない在留外国人のうち、朝鮮・韓国人に限っては、当面の間、日本での定住を認めるという特例制度は、その後なし崩し的に既得権益として、在日朝鮮、韓国人の間に世襲されていた。

水野首相は今回の日本分割を機に、分割後に日本国への帰属を希望する在日朝鮮人・韓国人は、事前にリークした方針どおり、日本国への忠誠を誓ったうえでの帰化を選択するか、或いは新国家へ移住する、若しくは母国に帰国するかの選択を迫ることを固く決意していた。

また、事実上「暴力革命」の看板を外さない日本共産党を、新生日本国内において非合法組織に指定すると共に、、総連は北朝鮮国家の下部組織であり、日本国内における敵対行為を行っている組織、民団ついても、韓国との窓口は韓国大使館が唯一正当なものであり、日本における民団の活動は日韓関係の二重化を招くとし、両組織の非合法化、日本国内での活動禁止も打ち出したのだ。

こうした方針は、国家分割後に新たにスタートする新生日本国において、戦後から七〇数年引きずってきた忌まわしい禍根を残さないための必須な政策方針なのだか、これに対し、当然のごとく韓国、北朝鮮は、共に猛烈に反発した。

しかし、水野首相はこれを一顧だにせず、ただ「今回の国家分割は、私がこれまで主張してきた、我が国における戦後レジームの総仕上げであり、これを機に戦後の我が国の体制を完全にリセットする。」と宣言した。

この宣言は強烈なインパクトを伴って日本国民と国際社会に受け止められた。

水野首相のこの宣言は、元々水野首相を支持していた層には、熱烈な歓迎をもって受け入れられた。しかし一方で、アンチ水野派の人々は、決定的なまでの嫌悪感をもって反発した。この結果、日本分割後日本国に帰属することを希望する層は、若年世代ほど高い割合となり、逆に新国家への帰属を希望する層は、高年齢者ほど高くなった。

海外の反応だが、アメリカ国内においてもリベラル路線のマスメディアは一貫して、

「水野首相は危険な極右の本性を現した。」

「日本は再び大日本帝国への道のりを歩みだした。」

と書き立てたが、米国のダグラス大統領は、水野首相の宣言に対し、理解する旨を伝えた。

一方、在日邦人を抱える韓国、北朝鮮及び今や共産主義国の雄である中国は、ここぞとばかりに水野首相を批判し、アメリカのリベラル系マスコミの論調をまねて危機感をあおった。同時にアジア諸国に対しても、積極的に水野政権の日本の危険性を吹聴した。

しかし、中国や韓国・北朝鮮を除くアジア諸国の首脳たちの多くは、既に水野敬三と個人的に親密な関係を築いていた者が多く、このような見え透いたプロパガンダには、同調する国のリーダーは殆ど現れなかった。


二 新国家誕生


新国家の建国は西暦二〇二二年四月一日とすることが決まり、国家分割後当面は、意志の変化などにより帰属国の変更を希望する者が出る可能性があることや、別れ別れになった親族同士の交流を妨げないようにするため、十年間は、パスポートやビザなしで全ての新生日本国民及び新国家の国民が、自由に両国を行き来できることとした。但し、新国家建国当時の証拠保存のため、新国家建国時は旧日本国にとどまる者も含め、国民全員が国籍を明確にすることが義務付けられた。

このときの取り決めとして国家分割後両国国民が帰属国を変更しようとする場合の取り決めとして、新生日本国から新国家に帰属国を変更する際は、これをほぼ無条件に受け入れるものととしたが、逆の場合は、厳格な審査及び日本国への忠誠を誓うことが義務付けられた。

 この革新的な国策の断行により、当然移住を強いられる者が出てくるが、この者たちの移住にかかる経費等は、基本的には国民の税金で賄われた。

 国家を分割するにあたり、もう一手間必要なことがあった。それは国境線の設定である。

実際に日本列島の上に国境線を設けるにあたり、一番問題となったのは国境線に、実際に、例えば何某かの壁なりフェンスなりを設けるかということであった。

これについては水野首相の下へ、国土交通省の担当課長が、最も費用を抑えられる案として、高さ二メートル程度の金網のフェンスを設ける計画での見積もりを持ってきていたた。

国境線は従前の県境を基線としつつ、なるべく直線となるように引いたが、それでも日本全土では千キロメートル近くに達してしまう。

なるべく直線としたのは、国境線に設置するフェンスの長さを節約するためであったが、それでもこの国境線に沿って、全てに、仮に最も安価な高さ二メートル程度の金網のフェンスを設けたとしても、トータルとしてはかなりの経費が掛かることは容易に想像できた。

フェンス設置工事に、新国家側の槙野たちは、ほとんど関心を持たなかったのだが、どのように落ち着くにせよ、国境の問題で決着を見なければ、新国家の独立は果たせない。

このため槙野は、この国境線に関する早期の解決を首相の水野に迫っていたのだが、分割後の日本国の治安を気遣う水野は気をもんだ。

水野は将来訪れるであろう国難を、既に予期していたのである。

「できることなら、フェンスをコンクリート製の、高さ五メートルくらいにできないものか?」

しかしそれは、今のこの段階では実現の可能性はゼロに近かった。もし、五メートルのコンクリート製の壁を国境線の全部に建設するとなると、ちょっとした万里の長城を築くようなもので、完成は何年先になるか分かったものではないし、第一莫大な費用が掛かってしまう。

水野は、日本が分割され、槙野達が新国家を立ち上げたならば、遅かれ早かれ、必ず日本と新国家の国境を越境する者が出てくると踏んでいた。

このため、不法な越境を簡単には許さないようにするための壁が必要になると確信していたのだが、それは高さ2メートル程度の金網フェンスでは全く不十分であり、昔、ドイツが東西に分断されていた頃、東ドイツが作った、東西ベルリンを仕切る、いわゆる「ベルリンの壁」の高さ3メートルでも全然足りないと考えていた。

何しろ、日本国内の分割によって日本国内にできた国境線の総延長は、ゆうに千キロメートルに達する。

都市部を仕切るだけの壁なら、高さ三メートルでも、要所要所に監視所を設ければ、不法な越境を阻止することは可能であったろう。しかし、過疎地や山間部を含む総延長千キロメートル近くを常時監視することは極めて困難である。

仮に遠隔監視能力を追求したとしても、越境者を自動的に実力で阻止する装置を設置でもしない限り、たかだか三メートル程度の壁では、イザというとき、不法な越境を阻止することは望めない。

ベルリンの壁は、当時の東ドイツ政府が、自国民が西ドイツに脱出するのを防ぐために設けたものであったが、今回、日本の立場からすれば、壁によって人の移動の遮断を必要としているのは越境される側の方、つまり新生の日本国の方であった。

不安はあったが、最終的には、水野は国交省担当課長の二メートルのフェンス案を裁可し、その後国境線へのフェンスの設置工事は急ピッチで進められた。

ともあれ、国家分割が決議され以降、日本の各所で始まった国境線確定工事は、それまでどこか他人事と捉えていた日本国民にとって、現実を認識する良いきっかけとなった。


国境線の問題以外にも、水野首相は日夜、分割後の日本という国家のあるべき姿を創造し続けていたが、考えれば考えるほど先行きには、「不安」という名の暗雲が垂れ込めるばかりであった。

他方、新国家を立ち上げる野党各代表もまた、彼らなりの考えを持って、新国家の建国に関するそれぞれの理想像を、互いに語り合っていた。

先ずは新国家の政治体制であるが、半ば当然のごとく、天皇や皇族を頂かず、選挙によって選出された大統領を国家元首とする共和制とし、建国後直ちに大統領が選出されることとなった。

国名については、その手法の適否はともかく、新国家国民の総意の下にという趣旨から、新国家国民からの公募と審査により決定されることとなった。

ところが、これがかなりもめた。

元々新国家樹立を目指した層は、旧来の日本国家には否定的であり、当然名称としても「日本」という文字を嫌った。このため、最も自分たちの理想にふさわしい文字を探す作業が必要となったのだが、歴史上日本国は、独立国家として世界に認知されて以来「日本」という国名を変更したことは無く、元々日本人としての教育を受けて来た人々が、「日本」という名称に代わる全く新しい国名を創出すること自体、通常思考の範囲を超えていた。

公募で国名を募った結果は、惨憺たるものだった。

中には漢字やひら仮名をかなぐり捨てて、英字標記にしようという意見まで出たが、そこはさすがに諫められ、結果的には「亜細亜」、或いは「東亜」という、語源は英語では?という冠名を付け、更には、最初に民衆党として自民党からの政権交代を成し遂げ、民衆党初代の総理大臣となり、民衆党が下野した後も、一貫して自民党と水野政権の批判を続け、結果的にリベラル国家建国の旗振り役となった鷺山元首相のキャッチフレーズである「友愛」という文字を取り込み、行き着いた新国家名は「東亜細亜友愛共和国」ということで落ち着いた。

初代大統領候補には、国名の由来からの流れで、旧日本国の元首相であった鷺山幸雄が最有力候補となった。ただし、鷺山はその育ちが良すぎるせいか異常なまでのお人好しであり、元々物事を深くは考えず、直感だけで行動するタイプであったことから、政治家としての資質があまり高くないことは、新国家の大方の立役者達も認識していた。

このため、ドイツ連邦共和国の制度を参考に、国家元首たる大統領の指導の下、組織する行政府を作りそのトップに首相というポストを充てることとした。

これは後にもめごとの火種となるのだが、ドイツ連邦共和国の制度を真似たということは、大統領は多分に象徴的な位置づけであり、実際の統治に関しての実権は、首相が担うもの、との基本方針で建国スタッフのコンセンサスは成立したつもりであった。

初代首相には、現時点での日本における最大野党である民衆党党首の槙野が内定した。

その槙野を中心に、彼らが理想とする国家のイメージ作りは着々と進められていった。


一方で自民党も国家の分割という、前例のない、また、そもそもやってはならないような大きな事業を成し遂げるとともに、分割事業の完了後も両国がスムーズに国家運営を継続できるようにするため、全力で奔走していた。

国家を分割するということは、例えばこれまで世界中のあちこちであった国家の独立とは、少し状況を異にしていた。

多くの場合、新たな独立国家は、言ってみれば家出のようなもので、新生国家として裸一貫での船出となるのが定石なのだが、今回の分割の場合は、言わば円満離婚みたいなもので、分割に際しても、国家的財産の分割ももちろんだが、分割後両国が健全な国家運営が可能となるような配慮もしなければならない。

新生の日本国は、自国の安定的国家運営を継続することも当然のことながら、袂を分かつ新国家の行く末に関しても、ある程度の配慮を行った。

これまで、ほとんど陸の上に国境線というものを持ったことがない日本国であったが、今後は、初めての体験として、その国土にそこそこ長い国境線を持つのである。

もしもお隣となる新国家が独立後、国家運営に行き詰まり、政情が不安定になった場合、自国に及ぶ悪影響は、決して他人事ではない。

国土を分割した後の日本国の国家運営構想については、既に指導者達の中ではそのプランは十分に練られており、後はこのプランをどのように国民に開帳するかという段階に来ていたが、一方で隣人となる東亜国の行く末をどのようにして見守るかという課題については、相当に頭を悩ませていた。

東亜国には、分割時点で国家財政を支えられそうな有力な企業の進出は見込まれていなかった。また、財政を支えるにも、日本人のお家芸である製造・加工産業を立ち上げようにも、その下支えとなるエネルギー問題においても大きな不安材料を抱えていた。

例えば電力にしても、せっかく持っている原子力発電は使わないという。

自民党政府からは、当面代替えエネルギーの自給が可能となるまでは原子力発電を使用することを勧めてみたが、にべも無く拒絶されてしまっていた。

また、治安維持に関してもかなり気をもんだのだが、これについても「内政干渉」と言われていた。

このような状況から日本国政府は、国家分割後、隣に相当迷惑な隣人を住まわせることを覚悟し、密かに準備を整えることにした。

こうした自民党政府の心配をよそに、槙野らは新国家建国の作業に嬉々として邁進していた。

槙野らは、自分たちが建国しようとしている国家は、夢と希望に満ち溢れるユートピアのように思えた。

思えばこの時が槙野達の至福の一ときであったのかもしれない。

なにしろ、これまで自分たちが「日本をこうしたい。こうあるべき。」と思い描いていたことを、全て好きなように実現できるのである。

自民党政府が国土の分割原案を示した際、そのほとんどが国家経済を支えるにはあまりにも脆弱だとして反対した民衆党の有力議員もいたが、槙野はあえてその自民党案を飲んだ。

槙野の腹の中では、

「今のように、自民党政権下でいくら自分たちの政治スタイルを訴えても、国民はなかなかその像をイメージできず、これではいつまでたっても堂々巡りである。

我々が新国家を立ち上げれば、その国を理想国家として、今の日本人に思い知らせることができる。

そうすれば、今は日本に留まることを選択した人たちもきっと、我々の主張の正しさに気付き、やがては我々の国に統合されることを望むようになるだろう。

そうなるためのチャンスなのだから、ここは少々不利な条件でも、新国家建設を前に進めた方が得策ではないか。」

槙野は頭の中で、今の日本国がそっくり全て東亜細亜友愛共和国となり、自分がその大統領となっている姿を想像していた。

勿論槙野は夢だけを思い描いていたわけではない。

現職の水野総理が第一次政権でつまずいて以降、自らの失敗経験を、逐一研究したように、槙野としても前の自分たちの政権における失策の原因は、充分に検証したつもりだった。

また、「政権を失った直接的な原因は、平成二三年(二〇一一年)の東日本大地震であり、これは不幸な出来事であったが、政権にとってみれば全くの不可抗力でしかなかったではないか。」と槙野は考えていた。

この考えの根底には、「たとえ誰が政権を担っていたとしても、結果に大差は無かった。」というある人物の助言が、槙野の背中を押していた。

ある人物とは、民衆党衆議院議員の秋本隆のことである。

秋本は国会議員としては衆議院議員当選二回目であり、当選回数至上主義の国会議員にあっては、まだほんの駆け出しに過ぎなかったが、政治家としてのセンスはなかなかのものを持っていた。

京都大学卒業後、平成一八年度に厚生労働省のキャリアとして入省した秋本は、翌年平成一九年、秋本にしてみれば入省後程なくして巻き起こった、いわゆる「消えた年金問題」で、自分が奉職する厚労省が監督省庁として批判の矢面に立たされたことを、衝撃をもって受け止めた。

このとき、自分が入省後に経験した官僚としての鮮烈な経験と共に、それまで抱いていたこの国の官僚機構に対する疑念がない交ぜとなり、一挙に日本という国家の政治機構や体制に対する疑念が爆ぜた。

「俺はこの先、このまま厚労省官僚として人生を送ってよいのだろうか?」

考えるにつれ官僚として生きていくことに対する焦燥感が膨張して行き、また、日を追うごとに秋本の心を駆り立てた。

ある日、とうとう秋本は、直属上司である所属課長に対し、退職届を提出した。

退職する半年前、秋本は政治家としての登竜門的な機構であった「松下経政塾」を受験し、入塾の許可を得ていた。

それから四年間の、松下経政塾での修業ののち、目指したのは国会議員であった。

ところが、秋本が松下経政塾で研鑽を積んでいる間に、秋本の期待を裏切って、発足当初国民の大きな期待を背負ったはずの民衆党政権は、ほんの三年ほどで自民党に政権を奪還されていた。

しかし秋本は、民衆党が政権の座から転落した直接的な原因は、平成二三年に起きた東日本大震災のせいだと考えていた。

「あのような大規模な自然災害が発生すれば、誰もが政治に対する過大な期待をする。

しかし、そもそも政治機構とは、あのように想像を絶する自然の大災害に対して、常に保障を可能とするだけの能力など持ち合わせるはずがない。

政治機構の役目はあくまでも、平時の状態において国民が安心できるような統治を行ない、非常時には、可能な限り国民生活の回復に努めるが、場合によってはこれを成し得ないこともある。

むしろ、政治機構が、常にあらゆる場面において対応可能なように準備するのは、よくよく考えてみれば、過剰な行政サービスではないだろうか。」と、短期間ではあったが官僚生活で味わった経験もふまえ、秋本はこのように考えに傾いていった。

だからこそ、東日本大震災の後の民衆党の失政をもって、民衆党は政権政党としての能力に欠けているとするような、当時日本社会が下したジャッジに対し、大いなる不満を抱いていた。

だからこそ松下経政塾を卒塾した秋本は、迷わず自分を政治への道へといざなった鷺山のいる民衆党を、再就職先として選んだ。

平成二五年、初志を貫徹する形で民衆党に入党し、しばらくは、半ばボランティア的なスタッフとして働いたのち、平成二六年の衆議院解散を受けての民衆党新人候補者公募に出願し、見事優秀な成績で合格。

その年の年末に行われた総選挙において、民衆党大物先生の落選と引き換えに、念願だった国会議員バッジをその襟に着けることができたのであった。

しかし、国会議員となってほどなく秋本は、鷺山の政治家としての資質を見限った。

いざ自分が政治家になってみると、秋本が魅力的なポイントと思っていた鷺山の「お人好し」さは、国政を担う者としてはあまりにも危う過ぎるということが分かったからである。

代わりに秋本は、当時国民からの支持を失ない、支持率がどん底となっていた民衆党々内において、党内改革派としての発言力を増していた槙野幸生に傾倒した。

元々弁護士である槙野は、その弁舌も切れ味が良く、秋本から見れば、国会において、常に水野首相を始め政府与党を追及する槙野の、その舌鋒の鋭さが小気味良いように感じられたのである。

秋本は、槙野に対し持論を熱っぽく開帳した。

槙野もまた、当時凋落の一途にあった民衆党に自ら手弁当で駆け付け、ピンと一本筋が通ったリベラル思想と熱い心情を熱弁し、政党としての支持率が際限なく凋落する中、見事新人議員として当選を果たした、血気に燃えるような秋本という男を、好意を持って観察していた。

今こうして、新国家の建国にあたり猫の手も借りたい状況にあって、秋本の存在は槙野にとってかなり貴重であった。

日本国の行政官から新国家東亜国への帰属を希望する者は、そこそこの人数が存在した。しかし、彼らは相当に日本国政府のやり方に慣れ過ぎていて、彼らの主張をそのまま取り入れてしまうと、まるで日本国の二番煎じのようになってしまい、槙野達が目指す国家の理想像と少しずれている気がしていたのだ。

その点、秋本は発想が官僚出身者としてはフレキシブルであり、さすがに松下経政塾を卒塾しただけのことはあると槙野は感じていいた。

槙野たち、新国家のリーダーらが目指したことは、ひたすらこれまでの日本国家のスタイルの否定であった。

その感覚は、簡単に言うならば革命そのものであったろう。

しかし槙野は何も、一九五〇年体制をそのまま現代に実現しようとは思っていなかった。

一九五〇年体制とは、単純に言えばマルクス・レーニン主義の具現化を夢見る革命派対資本主義をベースに経済発展によって国家経済の発展を図ろうとする現実派勢力との対立であり、槙野もまだ生まれていなかったし、正直言って詳しいことは槙野にも解らない。

しかし、その一九五〇年体制をそのまま現世界に再現しようとする、一部の新国家けん引メンバーに、正直わずらわしさと一抹の不安を感じていた。

槙野は、ある意味忠実なリベラル思想であり、基本的にはマルクス・レーニン主義や社会主義には傾倒していなかった。何故ならと言うまでも無く、真のリベラル思想とマルクス・レーニン主義とは相容れないからである。

ところが、新国家の設立にあたり、何故かしらマルクス・レーニン主義を理想とし、東亜国は社会主義国家を目指すべきと考える、かつての社会党、今は民主社会党と改名はしていたが、その思想を堅持する者が、少数ながら根強く生き残っていた。

結果的には、これら旧社会党の残党がもたらした様々な影響により、新国家「東亜国」の方向性は歪められ、やがては行き詰まることになるのだが、それはともかく、新国家の具体像が少しずつ見えてくるにつれ、実は槙野の胸中にも、徐々にではあるが、不安という黒雲がシミのように広がっていったのであった。


新国家の政治体制はドイツ連邦共和国のものを参考としつつも、実際に国家を立ち上げるにあたり、どの国をモデルケースとするかにおいて、意外にも選んだ国はアメリカ合衆国であった。

アメリカ合衆国はかつて、宗教上の弾圧から逃れるため、王政国家であったイギリスを脱出し、新天地を求め北米大陸に渡った少数の人々が、懸命な努力とその後の移民受け入れ政策によって、今日世界で最も隆盛を誇る国家を築いたという、まさしく東亜国建国に取り組む者にとっては、これ以上ない成功例であり、手本とするのに最もふさわしい国家であった。

しかし、東亜国建国のリーダーたちは、そうしたアメリカ合衆国の上辺だけの成功例にあこがれを抱いていたが、肝心な、アメリカ人のいわゆる「アメリカン・スピリット」というものについては、正しく学べてはいなかったようであった。

アメリカでは、富裕層や経営者層など経済的に完全に自立し、全く社会の互助制度の世話になる心配のない階層の者を「エスタブリッシュメント」という。

これらエスタブリッシュメントのルーツはかつてメイフラワー号等で、最初にアメリカ大陸に渡った者たちの子孫で、多くは「民主党」支持者であり、彼らは「リベラリスト」でもある。

エスタブリッシュメントはおそらく、生涯にわたって年金や公的健康保険など、国家が仕度する互助的な制度に庇護される必要性がないほどに裕福で、支配階級であり、故に国からの施しに頼る必要もない。

しかしながら、彼らはプライドが高く、自分たちがアメリカという国を支えているという自負を抱くものが多い。

そのようなプライドの根源は、かつて大英帝国との独立戦争という、尊い犠牲の末に独立を勝ち取った歴史にある。

伝統的なアメリカ合衆国国民は、独立を勝ち取るためには、努力や犠牲が必要との認識があるのである。

一方で、新国家東亜国のリベラリストたちは、アメリカ人のエスタブリッシュメントたるリベラリストとはかけ離れたものであった。

新国家東亜国は、言ってみれば物の弾みの、「棚から牡丹餅」のようにして誕生した国家である。

東亜国建国に携わった者たちも、新国家を建国するということの有難みも苦労も、実際には何も自覚しないまま、ここまでに至ったというのが実態であった。

その分、どこか無責任な、大切な東亜国の行く末を本気で考えていたのかという視点で見れば、疑問の残るリーダーも大勢いた。

そのため、国家というものの設計を大して重要視していなかった。

東亜国は、建国時の人口がおよそ三千万人で、しかも人口比率としては高齢者の比率が異常に高い、いびつな構成比となっていたが、こうした問題は、手本とするアメリカのように、海外からの移民を受け入れることで解決できると、槙野達は簡単に考えていた。

東亜国は天皇制とか、過去の歴史を引きずるもの、日本という国家の匂いのするものを一切捨て去る方針であったので、新国家の国民が、日本人の血をひくものでなければならないなどといったこだわりは一切持たなかった。

そもそも新国家の建国メンバーには、共通する一つの傾向があった。

それは、「国」というものの縛りや権威を嫌うという傾向である。

彼ら新国家建国メンバーの大半の者にしてみれば、国家とは長い間、憎むべき、戦うべき敵であり、なおかつ困窮した時にはタダで自分たちに施しをしてくれる存在くらいにしか「国」というものを認識していなかったのである。

そのように、元々国家的な縛りを嫌った者同士が集まって作った新国家が「東亜細亜友愛共和国」であり、新国家の建国メンバーは自らを「リベラル派」と自認し、そのように自ら名乗ってもいた。

しかし、本来「リベラル」あるいは「リベラリスト」とは、けっして社会主義者や左翼思想の者を指す言葉ではない。

「リベラル」を自負する者がその「リベラル」という言葉の意味をどのように解釈するかは、それこそ人それぞれ「自由」であるが、単語本来の「自由」や「解放」という意味からすれば、日本のリベラリストは自由や解放を求める対象が国家権力と認識する傾向にあった。

であるから、そもそも国家機構を創生する作業には、元々不向きな人たちが集まっていたとみることができる。

一八四八年、マルクスらが「共産党宣言」を発表して以来、その思想に染まる者達は、究極的には、いつかこの世界から国境というものが無くなると信じた。

このため、このような思想に少しでも共感した者は、国家という枠組みをアレルギー反応的に嫌い、結果として「国家」とは人を縛る縄のように認識し、その帰結として「国家」というものの現実的な存在に対し、あえて視線をそらしていたのかもしれない。

独立国の条件は学校で習うとおり「領土」と「国民」と「主権」である。

東亜国首脳陣たちもさすがに高等教育を受けたもので占められており、一応は、そのことを知識として知ってはいたのだろう。

しかし、残念ではあるが、その趣旨の本当の重みというものは、どうやら理解はできていなかったようである。

独立国の三要件のうちの二つ、つまり「領土」と「主権」は簡単に手に入れることができた。残る問題は「国民」である。

東亜国の建国メンバーは、基本的にはボーダーレスな世界を理想としていたせいもあり、例えば東亜国の国民となる人々に対しても、「国民」という表現を意図的に避け、代わりに「市民」という表現を多用した。

こうした傾向から、知らず知らずのうちに「東亜国国民」ではなく「東亜国に住まう地球市民」という扱いになり、あまりにも国籍というものを重要視しない社会構造となっていった。

その思想の底流には、共産主義が理想とする、世界中の人々を全て平等な存在として扱い、従って出生により区別しないという方針が貫かれていたことにもよる。

このような思想は、一見、非常に先進的で優れているように感じられたが、しかし、あまりにも現実を無視し過ぎていた。

東亜国に集結した、元日本人のリベラル派という人達の特色として、人間というものを性善説で解釈する傾向が強いということが挙げられた。

建国メンバーたちの氏素性を見れば分ることだが、彼らの多くは、そこそこに育ちの良い者たちで、その人生の成長過程においても、特段経済的に困窮したり、貧困ゆえの犯罪に巻き込まれたりといった苦労を味わったことなどない者であった。

一言で言えば、浮世離れした育ちの者が多かったということである。

このため他人が悪意を持ち、自分に危害を加える可能性というものを考慮しない者が多数を占めていたのだが、こうした特性は、国際的な常識からすればかなり特異な例であり、国境線というものをほとんど持ったことがない、お人好しの傾向が強い日本人の中でも、より他人に対する警戒心を持ち合わせない人々が集まったのが東亜国ということであったのかもしれない。

このため「国民」というものの定義があまりにも疎かになったのである。

東亜国の国民には、明確に重大な犯罪歴のある者でもない限り、世界中の誰もが希望すればなることができた。

正に「来る者は拒まず。」の政策であった。

東亜国リーダーたちのこうした感覚は、外国に対する外交姿勢にも反映されていた。

東亜国国民がこよなく愛する日本国憲法の、中でも一、二位を争うほどお気に入りの部分でもある「前文」に書かれている内容を忠実に信奉し、外交上の問題は、例えどんな争いごとであっても、必ず話し合いで解決できると心から信じている者が東亜国のリーダーの大多数を占めていたのである。

そのようなことから新国家「東亜国」は、建国に際し警察機能と消防機能については、一定程度の規模の整備をめざしたが、国防については、意見が分かれ、一部には最低限度の自衛能力は必要と考える者もいたのだが、一方で、昭和の時代の社会党の残党的な議員らが、強力に「非武装中立論」を主張し、論拠として日本国憲法の例の「前文」と、もはや教条と化した第九条の忠実な履行を掲げたため、そもそも護憲を中心に集まった新国家の指導者たちであったこともあり、実際には多数派であった現実主義勢力も、防衛力の必要性を主張できなくなってしまった。

因みに新国家の建国にあたり、本来ならば全くゼロから始めるべき憲法の起草についても、東亜国国民のお気に入りである日本国憲法を基本に据え、天皇の地位などを定めた第一章を削除し、代りに共和制としての政治機構を定義する条文を追加、第五章の「内閣」から第八章の「地方自治」にかけての部分を、新国家の政治体制に合わせて手直しした他は、基本的に日本国憲法の内容をそのまま踏襲、特に第九条に関しては一文字も変更しないとする方針が、建国に際しての各党の合意事項として取り決められていた。

なお、第二章「戦争の放棄」の条文を、原文である日本国憲法と同じ「第九条」となるようにすべく、わざわざ共和国としての定義を定める第一章は、一条から八条で条文が完結するように工夫されていた。

このようなやり取りの結果、新国家の建国にあたっては、一切の戦力は不要ということになり、世界でもあまり例のない、戦力を全く持たない独立国として東亜国はスタートすることになった。

世界の歴史を紐解いてみても、国家の独立が何の努力も払わずに、永久に保たれたということは無い。

国家としての独立と安寧を望む者は、それなりの対価を支払い、なおかつ独立を維持するために継続的な努力を傾注してきた。

新国家「東亜国」は、その点を全くと言って良いほど顧みなかった。

そもそも日本が太平洋戦争で負けて、アメリカ軍を中心とした進駐軍が日本に乗り込んできた際、占領政策の円滑な施行に資するべく徹底して行われたイメージ操作によって、それまで日本国民にとって英雄的存在であったはずの帝国陸海軍は、戦後は全世界にとっての敵であり、なにより日本国民を破滅の一歩手前にまで陥れた悪の元凶として印象付けられた。

こうして日本国民は、軍隊や軍事力を持ったせいで、戦禍を被るはめとなった思い込まされた。

その結果、大多数の日本人は、武器や軍隊は、例え自国の防衛のためのものであっても全て「悪」と認識する特殊な思想を植え付けられていったのである。

これには、連合国の思想統制という外部の力もあったが、根本的には日本国民が外国と国境を接してこなかったということも大きく影響を及ぼしていた。

通常、多くの民族は、外敵が自分の持つ武力よりも強力な武力を持たないことを幸いに思うものだが、日本人だけは、言ってみればガラパゴス諸島に生息する生物のように、島国国家として長い間歴史を築いてきた民族の特異な習性として、自分が武力を持たなければ、例え侵略目的で攻めてきた外敵であっても、自分たちに対しては、攻撃はしてこないと本気で信じられる国民性が培われていたのである。

冷静に考えるならば、外敵から自国民や領土を守る自国軍は、国民にとっては頼もしい存在であり、自国軍の持つ武器が、外敵が持つ武器よりも強力であることを頼もしく思うのが自然な発想であるはずである。

ところが、世界でほとんど唯一、特殊な事情により日本国民だけは例外となった。

そしてやがては、「武器や軍隊は全て絶対的な悪であり、他人や他国が持つことには干渉しないが、自国が保有することには絶対に反対する。」という、それまでよりも、より特殊な思想の持ち主を育てていたのであった。


東亜国の独立にあたり、かなり大勢の人々が移動することになったが、そこには年齢的な層や職域の違いによって、ある程度傾向に偏りが見られた。

例えば年齢層では、若年者よりも圧倒的に高年齢層の人々が東亜国への帰属を希望したし、大企業の移転がほとんど行われなかったせいもあり、サラリーマンの帰属希望が稀であったのに対し、雇用関係にない、いわゆるフリーランスと呼ばれる業種の人々は、割と積極的に東亜国に入った。

そのほか、東亜国への帰属希望が多かったのは、弁護士などの法曹関係者、医師、大学の教職員、放送局、新聞社などマスコミ関係者など、割と高学歴の者は、日本人全体の平均値に比べ、高い比率で東亜国への帰属を希望していた。

公務員関係に関しては、各省庁の高級官僚クラスからもある程度の帰属希望者を得ていた。彼らはいずれも、将来の次官候補としては二番手、三番手あたりの者たちであったが、槙野にとっては貴重な人材を得られたと満足であった。

そのほか教職員、特に日教組や地方公務員で、自治労などで積極的に活動しているような者は、新国家でなるべく高いポストを目指してか、我先に帰属を希望する者が出た反面、警察や消防に関しては、帰属希望者の割合は少なく、新国家では警察、消防に関しては人的資源不足が懸念された。

こうしたなか、平均的な国民の帰属希望割合と比較して、自衛官の新国家への帰属希望割合は当然のごとく低かったが、それでも一パーセント以下の自衛官及び数パセーント程度の防衛省職員が、東亜国のへの帰属を希望した。

しかし、新国家東亜国では、例え国家防衛のためであっても、一切の戦力を持たないこととされたため、東亜国への帰属を希望する自衛官と防衛省職員は転職しなければならないことになった。

防衛省職員からの新国家帰属希望組は、新国家での他の省庁への入省が認められたが、現役自衛官で新国家への帰属を希望した者は、結果的には、警察官や消防士或いは一般市町村職員として採用することとされた。

日本国の資産の分割に関しても、日本国政府は、基本的には分離独立勢力の要求どおり、国家資産の再配分に応じた。

これは防衛能力についても考慮され、日本国政府としては当初、国民アンケーとの結果の比率に準じて、数十パーセント程度の装備品を割譲することを検討していたのであるが、東亜国新政府が、最終的判断として防衛能力の割譲を要求しなかったため、防衛装備品は全て現状のまま日本国に帰属し、割譲されるべき装備品の評価額に見合う金額を一〇年間かけて東亜国に支払うことで合意が取り付けられた。

このようにして、結果として日本国の防衛力の減少は、東亜国への帰属を希望した一部の自衛官、陸、海、空合わせ、およそ千数百人程度度が退職しただけで終わった。


こうして、水野総理の「やれるものならやってみろ」発言からおおよそ一年半後の二〇二二年四月一日、とりあえずは新国家「東亜細亜友愛共和国」は独立した。

国際社会においては、最新の国家として。また、近代史に珍しく先進国の中において分離独立した国家として、華々しく取り上げられられたこともあり、一時期は世界の注目を集めた。

建国と同時に初代大統領選挙と国会議員選挙が行われたが、大統領選については、本命候補である鷺山幸雄以外、知名度のある候補者は現れず、事実上の出来レースで鷺山が選出された。

国会議員についても、新人の立候補はほんの数名程度で、日本国分割の際に新国家への参加を表明していた政党の出身者たちが、ほとんどそのまま、新生「東亜国」の先生方となった。

選挙後初めて開かれた国会において、大統領である鷺山は、予定どおり首相に槙野幸生を指名し、国会によって無事承認された。

国家運営をスタートしてみると、早速問題が山積していることが分かった。

日本国を分割するにあたり、当時の日本国の国庫にある金、国有財産、年金、健康保険等全て四分の一に相当する額が東亜国に移譲されていたので、新国家東亜国の運営に関して、当面の運転資金はあったが、次年度以降の経済計画を立てるにも、税収としてめぼしいあてもなかった。

国家を支える基盤は、やはり経済活動であり、新国家「東亜国」も、まさか鎖国政策で国家を運営して行くわけにはいかず、槙野たちは頭を悩ませた。

新国家計画段階当初から、過大な期待はしていなかったものの、新国家への移転を希望する大企業は予想以上に無く、一部の情報通信業やサービス業などがあつまった程度であり国家経済を支えられるほどの稼ぎを見込めるあては無かった。

この時、大統領の鷺山は「こうした事態は内需の拡大によって回避できる。」と、以前どこかで聴いたことのある声明を発表した。

なるほど、新国家に集まった国民は、年齢層的には高齢者が多く、こうした高齢者は、確かに個人資産は、割と貯め込んでいる者が多い。

ところが、高齢である分、労働力や生産能力としては期待できず、むしろ年金や医療費がかかって、せっかく旧日本国から割譲された年金や医療費も、早晩取り崩してしまうかもしれない。

また、食糧問題は農業を奨励することによって自給率を引き上げる計画ではあったが、エネルギーについては、せっかくあった新潟県の柏崎刈羽や敦賀、美浜、大飯、高浜などいくつも原子力発電所を持っていながら、原子力発電所はすべて廃炉にするという建国時の公約があり、建国後、今さらエネルギーが足りないからといって、これらに頼ることはできない。

かと言って再生可能エネルギーだけで必要な電力を賄うことも不可能であり、どうしても不足するエネルギーを火力で賄わなければならないのだが、そのためには石油、天然ガスなどを外国から購入するための外貨が必要であり、内需によっては賄えないのである。

槙野はこの時点で少し不安を覚えた。それは一国の為政者としては遅すぎたのだが、新国家の建国スタッフは、ほとんど誰もがそのような問題点については、自分以外の誰かが解決してくれるだろうと、漫然と考えているようであった。

国家運営にはコストがかかるのである。

正直、東亜国建国にあたってそのようなマネージメント能力を持つ人材は、極めて稀有であった。

こうしたことから、槙野は、たとえ厚労省官僚としての在職期間は短かったとはいえ、最近では党内での発言力も増し、なにより自分を慕ってくれている秋本隆に、何かと相談することが増えた。

いつしか秋本は、槙野の重要なブレーンとして、その存在感を増していった。

槙野はことあるごとに、年金や健康保険の問題に限らず経済の活性化策に至るまで秋本に対し、相談を持ち掛けた。

槙野の本業は弁護士であり、法律家である以上、ある程度社会全般の事情に関しては頭に入れているつもりであったが、実際には法律家としての宿命か、四角四面のことしか浮かばない頭では、瓢箪から駒を出すような経済政策の妙案など、考えつくはずもなかったのである。

このような状況の中、重用された秋本は、健全な国家運営の妙案をひねり出すため、全身全霊を傾けた。

とりあえず既存の大手産業界の進出が期待できないのであれば、残る手立ては二つである。

一つは新たに自前の産業を興すか、もう一つは、海外からの大手産業の誘致を図るかである。

一つ目は、仮に本腰を入れてこれを実行に移したとしても、一年や二年でそう簡単に軌道に乗る新たな国内産業が出来上がるとは思えない。

これはやらなければならないことではあるかもしれないが、新たな産業の育成に当面の国家財政を期待するわけにはいかない。とすれば、残る選択肢は、海外からの大手産業の誘致である。

ざっと考えても、この解決策に応えてくれそうなあてはただ一つ、中国だけであった。

秋本は、直ちに政権内にいる中国との太いつながりを持つ有力者を通じて、企業誘致を呼びかけた。これに対しては、早速中国共産党政府自ら回答があり、可能な限りの援助を約束するという。

秋本はホッと胸をなでおろしつつも、直感的に一抹の不安も覚えた。

中国企業が東亜国に進出するということは、当然のことながらそれらの企業に対して用地を提供しなければならない。

案の定、中国政府は、中国企業が存分な経済活動が確実に展開できるための広大な用地の提供を要求してきた。

これはしかし、国家を支える規模での企業の展開を考えた場合妥当かと問われれば、それ相応な規模でもあった。

「なるほど確かに、国家経済を支えるような経済活動を考えるならば、京浜や東海、名阪などの工業地帯の例を見ても、その程度の要求も、あながち不当な要求ではないな。」

ここ最近、第三世界各国の経済発展の立て役者は中国企業である。

東亜国も元は、三位に転落したとはいえ経済大国日本の分家と言えばそのとおりなのだが、実態としては、今は単なる新興後進国である。

「ここはプライドなど捨てて、一日も早い国家財政の健全化を目指すべきであろう。」

秋本はそう判断し、槙野にもそのように答申した。

その後まもなく、中国政府からは、新国家東亜国の主要な港での通関に関する優遇制度や、港周辺地域における経済活動の自由化、用地の優先的使用権の保証など、後から見れば中国にとって都合の良い条件が、次から次へと要求された。

秋本はまた、東アジアにおける経済交易に関しても、独自のアイデアを打ち出していた。

具体的には、自国である東亜国を中心に、中国、韓国、北朝鮮、そして日本も含めて、この国家間の貿易を中継する場合には、関税を含めあらゆる制約を撤廃し、港湾使用料や手数料、それとせいぜい良心的価格の中間マージンを頂くというアイデアであった。

つまり東アジアにおける中継ぎ貿易の拠点となるということである。

このアイデアは、一見妙案に思えたが、限りなく危険なアイデアでもあった。

健全な国家同士で取引をする場合には、このような中継ぎ貿易も妙案であったかもしれない。しかし取引条件にもよるが、間に国連の制裁対象となっている北朝鮮をも取り込むため、このような貿易は違法性というリスクを抱えることとなる。

実際の中継ぎ貿易を開始してみると、大きな取引は、中継ぎを必要としない二国間取引のルートが既に完成しており、期待した仕事は、実質的には北朝鮮を絡めた危ない取り引きばかりとなった。

また中国に対する港湾使用の便宜供与を約束させられていたため、対中国との貿易に関しては、思うような利益は得られなかった。

一方、東亜国が掲げた目玉政策である移民受け入れ政策は、実施と同時に周辺の中国や韓国からも大量の移民希望者が殺到した。

これについては、槙野たちの目論見が半分成功したわけであるが、いくつか困った問題も起きていた。

東亜国政府は、移民受け入れに際し、日本語の読解力や自己資金の額などの条件をかなり緩く設定していたため、移民政策の開始後、各国から殺到した移民希望者は、中には高い素養を身に着け、なおかつ移民後も自立可能なだけの自己資金を持参してきた者も相当数いたのだが、総合的にはかなりの振れ幅をもっていた。

率直に言えば、移民希望者の大多数が、それぞれの出身国においての低所得者層で、学力や職業能力の低い者たちであった。

このため、東亜国政府としては、入国し正式認定された移民に対し、ほとんどの場合、先ずは生活支援のための補助金を支給し、職業教育と、要すれば語学教育を施してやらなければならなかった。

それでも、東亜国では若い労働力が圧倒的に不足していたため、槙野達は一応満足していた。

しかし、問題は移民のレベルが期待値よりも低いという点ばかりではなかった。

東亜国には、かつて日本国内に大勢居た在日韓国・朝鮮人で、日本国への帰化を拒否したほとんどの者達が移住していたのであったが、彼らは東亜国に移ってからも、従来通りの特典を東亜国政府に求めたため、後から移民してきた人々との間に待遇の差を生じていたのである。

東亜国に移民としてやってきた多くの外国人は、当初の期待に反して仕事も無く、住む場所や社会保障も期待できない状況に絶望した。ところが、そこに不思議な一団が居ることに気が付いたのである。

その彼らは働くことも無く、住む場所と生活、あまつさえ医療費まで支給されているという。「これはどうしたことか?」

訊けば彼らは、その昔旧日本国政府によって朝鮮半島から強制的に連れられてきた人々とその子や孫だという。

彼らは先の戦争のあと、本国に帰ることもなく、また国籍を移すことも無く日本国に住まうことを許され、更には国籍差別により働けないという理由で、生活費を国から支給されてきたという。

今回の日本国の分割で、新日本国の方針に従い彼らは東亜国に移住したのだが、旧日本国で得ていた権利はそのまま引き継がれているとの事実を知った。

当然のことながら旧在日韓国・朝鮮人との待遇差に不満を持った移民たち、この時点では、移民たちは東亜国の移民法により東亜国の国籍を有していた。

一方旧在日韓国・朝鮮人たちの中には、東亜国の方針に従い、二重国籍として東亜国籍を取得した者もいたが、多くは東亜国の国籍は有していない。

日本国憲法をそのままカーボンコピーし、戦争放棄をわざわざ「第九条」となるように作られた東亜国憲法においても、生活保護の根拠となっている東亜国憲法第二五条では、「全ての国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」となっていたが、これを忠実に解釈するならば、東亜国の国籍を有しない者が第二五条の適用を受けるのはおかしいと解釈されるはずであった。

そこは、かつて旧日本国においても、生活保護に関する所管であった当時の厚生省が出した「通達」と同様の通達を、東亜国厚労省も出しており、極めて曖昧ながら東亜国国籍を持たない生活困窮者に対する生活保護費支給の根拠としていたのだが、国籍を有しない者が生活保護を受給出来て、国籍を有する者が受給できないということは、明らかに矛盾していた。

こうしたことから、東亜国に移民し、うまく生活の糧を得られない者達が東亜国政府に対して旧在日韓国・朝鮮人と同等の待遇を要求し始めたのである。

東亜国に移民してきた者たちのうち、かなりの割合の者が、言葉や生活習慣の違いに起因する問題のため満足に働けず、生活できないとして生活保護の受給を申請したり、健康保険料の支払いを拒否したりしながらも、一方では微塵の後ろめたさも感じることなく、健康保険での診療を要求し始めたのだ。

東亜国は、元々は在日外国人の支援を得て設立した政党が主導して勝ち取った国家であり、東亜国政府としても苦々しくはあったが、こうした要求を拒絶することはできなかった。

もしも拒絶した場合、旧在日韓国・朝鮮人に対する生活保護等も打ち切らなければならず、そうなると最悪暴動が起き、事態を収拾できなくなる可能性もあったからだ。

ところがそうした事情を知った周辺諸国から、その後移民が加速度的に増加した。

彼らの間で「東亜国に移民すれば、ただでお金がもらえ、医療費もタダだ。」との情報が広まったからだった。

そうこうするうちに、あれよあれよという間に東亜国内は、当初想定したよりも移民の比率が増えてしまった。

勿論移民の全てが不逞の輩ばかりではなく、充分な労働力として活躍する者もいたのだが、トータルとしては、急激に日本国から分与された国庫のお金や健康保険の積立金を取り崩す結果となった。

このような事態に、東亜国国民の間には早くも新国家の先行きを危ぶむ者が出てきた。


国内における外国人の比率が高まるにつれて、治安に関する問題も顕在化していた。

国家分割以来、新生日本国の方は順調に、いわゆる“普通の国”となったが、その分お人好しの人々がこぞって移住した東亜国では、日本とは真逆の状況となっていった。

そもそも、国家分割以前、ひたすら水野政権の足を引っ張っていた国会議員の多くは、素性を正せば中国や在日を含む韓国・朝鮮から帰化した者や家族、親族が中国、韓国・朝鮮人である者が多数を占めており、彼らは日本国や日本人の為ではなくむしろ日本国や日本人以外の国や人の為に働いているというのが実態であった。

それ以外の者も、国家・国民という意識が薄弱で、良く言えば「人類皆兄弟」的な思想の下、ひたすら性善説を信じるお人好しの集まりでもあった。

新国家東亜国の特異性を裏付けるエピソードの一つとして、建国の際、国家の基本方針としてヒステリックなまでに国家としての武力の保持を禁止していたことが挙げられる。

国家としての武力の不保持は、いわば東亜国の看板政策であったが、東亜国政府はこの武力不保持の方針を警察機構にまで徹底させたのである。

このため、まるで昔のロンドン警視庁のように、東亜国の警察官は銃器を一切持たないこととされた。

銃器を持たないこととされた根拠は、またしても旧社会党の流れを汲む民社党委員長福本真貴子の強硬な主張によってであった。

福本の言によれば、「国家権力の執行人である警察官たるものは、例え自らの命を危険にさらしても、他人を傷つけることは絶対にあってはならない。

銃器を用いなければならないような犯罪に遭遇したとしても、その時は一旦犯罪者を逃がし、しかる後また逮捕する機会を探せばよい。犯罪者にも人権があり、これを国家権力が奪うことがあっては、断じてならない。

仮に警察官がそのような事態に遭遇した場合は、その犯罪者によって傷つき、殉職することがあったとしても、それは警察官としてやむを得ないことである。」

これにはさしもの警察官も反感を持ったが、東亜国においては公務員が政府指導層に対し反対意見を述べることは厳しく戒められた。

公務員が政治家に反抗することは、政治主導の精神に反するという理由からであった。

しかし、このような理想論は、あまりに現実を見ていない者の考えであり、武器を持たない警察官を、海外から流入した犯罪者たちは、全く恐れなかったのだ。

こうして、理想論だけで立ち上げた東亜国は、その後急激に辛酸をなめることになっていく。

自国の治安を維持する実力を、国家として持っていないということの危険性に全く気が付かない。

今更だが、このような根本的な欠陥を、その後東亜国の為政者は思い知らされることになる。

外国から流入した、野望むき出しの人々の群れにのみ込まれる中で、元の日本人は、たっぷりと恐怖と失望感を味わうことになるのだった。


  三 日本国再生への道


一方、大量出血を伴いながらも、何とか国内の左翼勢力を追い出すことに成功した新生日本国政府であったが、こちらも新しい船出には問題が山積していた。

そもそも今回の国家分割は、時の首相水野敬三が思わず放った失言から起きたことである。このため、政府自民党内には、国家分割の責任を取って水野敬三は総理の座を辞すべきとの声も上がった。

しかし、自民党内の水野のライバルたちは、最終的に新生日本国スタート時点での、水野の追い落としは止めておくことにした。

東亜国の船出も大変だろうが、新生日本国にしても、再出発はそう簡単なことではない。

おそらくは国家分割後最初の総理大臣は、解決しなければならない幾つもの難題に押し潰されるであろうから、なにもわざわざ火中の栗を拾いに行くことは無い。

ここは水野に人柱になってもらい、水野が潰れた後、自分たちは国家の危機に駆け付けるヒーローとして美味しいところを持って行けばよいと考えたのである。

こうして国家分割後も、引き続き内閣総理大臣の座には水野敬三が座り続けた。

水野は国家分割と同時に日本国憲法の改正案を発議した。

この憲法改正の主たる目的は、勿論第九条の改正であったが、同時にこれまでいくつか問題点とされてきた他の条文の改正も含み、概ね過去に自民党が想起した案に沿うものであった。

憲法改正案は無事国民投票での賛成を経て成立した。

改憲によって、これまでの自衛隊は、「国防軍」となり、「陸上自衛隊」は正式名称を「国防陸軍」、同じように「海」、「空」もそれぞれ「国防海軍」、「国防空軍」と改められたが、通称としては自然のながれで「陸軍」、「海軍」、「空軍」と省略した形で呼ばれた。

水野が憲法改正や自衛隊の軍隊への名称変更を急いだのには訳があった。

水野は、日本が分割された後は、必ず日本を取り巻く国政情勢が緊迫すると考えていた。

「東亜国は遅かれ早かれ、必ず中国や韓国・北朝鮮と結びつく。そうなると最悪日本は、中国や韓国・北朝鮮との国境線を国内に抱えることになるかもしれない。

仮にそうなれば、考えたくはないが、実際に武力衝突に発展する可能性もあるだろう。

そうなったとき、国際法で規定されている軍隊、或いは軍人が持つ権限や権利が適用されない恐れがあるのではないか。

何しろこれまでの日本国憲法をそのまま読めば、『自衛隊は軍隊ではない。』と明言しているのだから。

それに第九条では、これまでなんだかんだと言いつくろってきたが、何しろ『国の交戦権は、これを認めない。』と言い切っている。

今後、もしも国家間の武力紛争事案が発生し、これが国際司法裁判所などによって審議されることになった場合、今の日本国憲法と自衛隊という組織の位置づけは、あまりに危険であって、仮に百パーセント我が国に大義があって起こした武力行使であっても、後になって自衛隊という組織そのものがゲリラ組織的な非合法な軍事組織として、戦争犯罪扱いされる恐れがあるのではないか?」

そのような判断の下に水野は、憲法改正と同時に自衛隊の国防軍への改称を、何よりも優先させたのである。

水野のこのような心配は、残念ながら予想以上に早く的中することとなる。


日本国分割時の合意事項として、分割後一〇年間は、両国民は相互に行き来を自由とするとはなっていたが、自由に国籍を変えられるとはしていなかった。このため、旧日本から東亜国に移住してきた者たちも、今さら新日本国に移りたいと言っても、それはそう簡単には許されないことであった。

一旦東亜国に帰属した元日本人が、再度日本国に帰属先を変更しようとする場合、新生日本国政府は厳しい審査と、日本国家、つまり天皇制や日の丸、君が代など、元々左翼人が受け入れられなかったものへの服従を義務付けていたのである。

これではまるで踏み絵のようだが、日本政府としても、せっかく大量出血をしてまで追い出した左翼人たちに、そう簡単に舞い戻られては、払った犠牲が無駄となってしまうため、やむを得ない措置であった。

一方で東亜国民となった後、再度日本国に戻りたいと考える人々の、その翻意の理由は主に東亜国の経済的なものや治安の悪化であり、天皇制や日の丸、君が代は生理的に受け入れ難く、従ってほとんどの者は審査をクリアできず東亜国へ追い返されていた。

東亜国政府としてもまた、早急にこうした状況を打開しなければならないとの認識は持っていた。

先ずは経済活動に関する問題解決であるが、勿論中国との合弁事業も推し進めており、長期的には改善することも見込めたが、正攻法によって国家経済が立ち直るには数年かかる見込みであり、今すぐ、失業者対策の意味でもカンフル剤となりうる政策を実行せねばならない状況にあった。

お金に困った者が最初に起こす行動、借金する当てもなければ、次の選択肢は持てる物を切り売りすることである。

東亜国が持っている物、資源も産業生産物も無ければ、残るは国土のみであった。

先ず東亜国政府が行ったことは、個人資格での外国政府、企業及び個人に対する不動産の売買を禁じた。

但しそれは国土の保全のためではなく、外国政府、企業及び個人が欲する不動産がある場合、先ずはこの不動産を国が買い上げて、それを欲している外国政府、企業及び個人に売り渡すという仕組みである。

公表はされなかったが、当然のことながらそこには国家としての利潤の上乗せがあった。

外国が欲する不動産が国有財産であった場合、東亜国はなるべく高値で売り渡した。

こうした国土の切り売り行為は、日本国民は勿論世界各国の嘲笑の対象となっていたが、東亜国の統治者としては背に腹は代えられず、とにかく、少しでも、何が何でもお金を稼がなければならなかった。

そしてそれを元手に、国民に働き口を提供しなければ、新国家は早晩破綻することは目に見えていた。

次から次に流入する移民は、ほとんどそのまま失業者となっていった。失業者があふれれば、当然治安も悪化する。

その対策のため、東亜国政府は警察力の増強を余儀なくされた。

元々性善説路線で理想国家に悪人は居ないという楽観論から警察力についても、旧日本の人口比率よりかなり低い水準でしか整備していなかったのだが、その後の移民政策の事実上の破綻と、これに伴う治安の悪化から、東亜国政府は警察力の増強を決断せざるを得なくなった。

建国時、警察官として採用したのは、旧日本国時代に警察官であった者や元自衛官などであったが、これだけでは到底足りなくなってしまった。

このため、移民の中から警察官として採用するしかなくなったのだが、半ば当然の帰結として、移民出身の警察官は、自然と移民出身の利害関係者と結びついた。

警察能力の問題点は旧日本国出身警察官にもあった。

元々彼ら元警察官や自衛官についても、日本国に残った同業種の者達とは違って、必ずしも献身的で自己の職責に忠実な者ばかりというわけではなく、むしろ警察官としての素養に欠ける者も大勢いた。

こうしたことから東亜国の治安状況は急激に悪化していった。

このような状況に陥った原因の根底には、新国家を建国した人達の国家意識が、致命的な欠如があった。

国家とはその字が示す通り、「国」という名の大きな「家」である。つまりは、国という大きな人の集合体を一つの枠にはめる仕組みがなければ成り立たないものである。

ところがリベラル思想というものは、ある意味そうした集合体を否定する考え方であった。

否定するからには集合体としてまとめ上げるメカニズムを理解しようとしない。その結果、土地と人はいるが、各々はバラバラで収拾のつかない烏合の衆と化してしまったのである。

東亜国に移った警察官や自衛官も、多くは集団よりも自己を優先する考え方の者が多く集まっていた。このため大半の者は、集団として職責を自覚し、これを全うするという義務感は、残念ながらあまり持ち合わせてはいなかった。

急速に乱れる東亜国の治安状況にあって、多くの元日本国民、特に高齢の者は、国家分割時はあれほど水野政権を憎悪し罵倒していたのに、あさましいとさえ思えるほどに都合よく、未だ水野が政権を担っている日本国に戻りたいと考え始めていた。

最初の、国家分割時の取り決め通り、旧日本国籍を有していた者は、新生日本国に入国する権利を認められていた。しかし新しく東亜国民となった移民や東亜国に滞在していた外国人は、国境を超えることは認められなかった。

国境の通関所は、元々の国道のあったルートの主だった各所に設けられており、最初の一時期だけは新生日本国から東亜国に向かう人もいたが、東亜国が移民であふれ治安が悪化すると、国境を越えようとする者は、東亜国から新生日本国への一方通行となっていた。

旧日本国籍の東亜国民で新生日本国に入国した者は、公表はされていないものの、当然のごとく新生日本国公安のデータベースに登録されていた。

このため、一旦日本に入国後出国が確認されない旧日本出身の東亜国民はマークされることとなった。

しばらくすると、東亜国民となった後、日本に入国し、その後出国した記録がない者の数は日を追うごとに増加していた。

日本政府当局としても、当初は「日本国籍を有していない以上、医療や生活保護などの行政サービスは受けられないのだから、いずれは生活に困窮して出国するだろう。」と、半ば高を括っていたのだが、そのような者たちの中には、一向に出国する気配のない者も出はじめていた。

これにはさすがに日本政府も危機感を覚え始めた。

「このままでは、旧日本国籍の不法滞在者が、大量に日本に滞留する恐れがある。

これでは何のために多くのリスクと多額の費用をかけて左翼勢力を追い出したのか、この事態を放置すれば、せっかく痛みをこらえて国を割った意味がなくなってしまう。」

そう考えた日本政府は対策に乗り出した。

日本国内各所に設置している、公安委員会が管理している監視カメラに、顔認証システムを採用したのである。

これにより、一応は東亜国から日本への人の移動状況が把握できるようにはなった。

しかし、日本への入国の管理が不充分だと、こうした努力も意味をなさなくなる。

このため、日本国側の一方的措置ではあったが、東亜国から日本への通関チェックは厳しさを増すことになった。

東亜国らか日本への通関の手続きが厳しくなれば、当然のことながら、東亜国側からクレームがつくことになる。つまり、に日本国分割時の合意事項に反するかのように、両国間の人の移動を制限するのは「約束破り」であるとの抗議であった。

無論、こうしたクレームが出ることは承知の上である。しかし、仮に「約束破り」との非難を受けようが、新生日本国の初代内閣総理大臣に選ばれた水野敬三は、東亜国から日本国への人の移動の監視態勢を緩めるわけにはいかなかった。

「通関チェックを緩めれば、将来的には、せっかくリスクを背負ってまで国外に追い出した迷惑な人々が、また日本に舞い戻ってしまう。」

水野は何としてもこの事態は避けたかった。このためにこそ「高い国境線の壁」を欲したのである。しかし、それは願っても叶わぬものであった。

水野は次に起こるであろう事態を予測した。

「今のところは、無理やり国境線を超えようとする事態は確認されていない。しかし、国境線の全てを監視できているわけでもない。

ひょっとするとこうしている間にも、不法な越境が行われているかもしれないし、近い将来には、きっと国境を越えようとする者が出る。」

水野は、密かに国防大臣の小宮義治に、国境線の警戒強化を命じた。

一義的に陸上の国境線警備を担うのは国防陸軍の仕事である。しかし国家を分割した際、多額の国家予算が流れたことから、名称こそ変えたものの、とてもではないが定員の増員や装備の近代化までは手が回らない。

このような環境下、陸軍は、国境警備という新しく大きな任務を担わざるを得なかった。

国境警備任務といっても、ただでさえ少ない陸軍兵員を毎日、国境沿いに四六時中貼り付けておくわけにもいかない。このため国境警備は、極力ハイテク技術の導入を図った。

国家の分割時、日本国政府は、新国家建国派の冷淡な対応と張り合いつつ、必死になって全国境線沿いに高さ二メートルのフェンスを設置したが、これとは別に、密かに監視用光ファイバーを張り巡らせた。

その目的は、全長一千キロメートルにも及ぶ国境線の越境監視用センサーとしてである。

監視用光ファイバーは、地表の浅いところに、光信号の伝送に使われる光ファイバーを埋設したもので、そこに常に同じ光信号を流しておく。

その埋設光ファイバーの近傍や直上を、人や重量物が通ると、光ファイバー内では信号の伝達経路が微妙に変化し、結果、常に一定であるべき光信号に変化が生じるのである。

この信号の変化をコンピュータで解析することにより、監視ライン上での人や物の接近、移動を知ることができるというシステムが構築されていたのであるが、日本政府としてはこれだけでは安心できず、人が越境し易そうな場所にはレーザーレーダシステム、ドローン監視システムなども施設し、強制力は伴わないまでも、不法な越境の事実が把握できる程度には、国境線の警備を厳格化した。

このように国境線の警備を強化した結果判明したことだが、現実には人口密度の少ない地域の国境線において、不法な越境と思われる事象が数多く観測された。

新生日本国としては、これは看過できない事態であった。

東亜国側から日本国に、わざわざ法を犯すリスクを負ってまで越境するということは、日本側にとっては少なくとも好ましいことではない。

越境の事実をどうとらえるか。日本国政府は悩んだ。

不法に越境する者が日本国にとって利益とならないことは、ほとんど明白である。

であれば、日本国家の利益のため何をなすべきなのか。日本国家首脳陣は大いに頭を悩ませた。

不法越境の事実が確認され、しかもそれが継続的に行われているのであれば、当然のことながら防止策を講じなければならない。

当初は監視システムの設置のみを進めていたが、その結果相当回数の越境が観測されたことから、やむなく国境線沿いの要所に、陸軍の警備所を設置せざるを得なくなった。

国防大臣の小宮はここしばらくの国境線上で起きている憂慮すべき事態をありのままに水野に報告した。

これを受け水野首相は、のちに重大な事態を引き起こすことになる、ある大な決断を下した。

しかし、ここで水野首相のその決断を語る前に先ず、その頃山積していた、片づけておかねばならない諸々の事態に触れなければならない。


日本分割後、東亜国の実態であるが、建国と同時に同国が実施した移民受け入れ政策により、人口は建国後わずか三か月で三千万人から、一挙に三千六百万人近くまで増加した。

つまり、人口が僅か三か月間で一挙に二割近く増えた計算になる。

建国計画において、移民による国民の増加を期待した東亜国政府首脳陣は、いっときは狂喜した。

ところが時が経つにつれ、一部のリーダーたちの間にも、先行きを憂う空気が漂い始めた。

押し寄せた移民たちの多くは、とてもではないが、新国家東亜国を支えてくれそうな素質は見いだせなかったのである。

もっと言うならば、母国での生活に困窮して脱出してきた、ほとんど経済難民と呼ぶ方がふさわしい人々が大半を占めていたのが実態であった。

「このままでは、我が東亜国は、移民という名の経済難民によって食いつぶされてしまう。」

少しでもまともな考えを持つ者は、直感的にそう認識した。

他方、何とかして東亜国を理想の国にすべく努力を重ねる者もいた。

槙野首相の命を帯びた秋本は、ひたすら中国政府と、東亜国内への中国企業進出計画について、交渉を重ねていた。

ところが、交渉を重ねれば重ねるほど、秋本にしてみれば、東亜国にとって利益となるよう材料が一向に見えてこないのだ。

考えてみれば当然のことである。

そもそも今日に至るまで、中国が急速な経済発展を遂げてこれたのは、大量の労働力と安い人件費を武器に競争相手を駆逐し、やがてはその生産力により、世界のありとあらゆる生産物の製造工場として、世界市場を席巻できたからである。

しかし、競争相手を打ち負かしてきたその仕組みの原動力は、ひたすら安い生産コスト、つまり格安の人件費にあり、そして今は、安い生産コストという点では主に東南アジア諸国が取って代わっている。

仮に、若くて良質な労働力のない東亜国に中国企業が進出したとしても、そこで利益が生まれる可能性を見出すことは困難である。

つまり、建国当初期待した、中国支援マジックは、鼻から見当違いだったのである。

中国は、東亜国への経済協力という形で、次々と秋田港や新潟港など主要な港とその周辺に広大な土地を囲い込み、そこに様々な施設を建設していったが、それらが何の施設で、どれくらいの雇用を生むのか、また将来的にどれくらいの収益を上げ、その結果どの程度の税金を納めるのか、それらの疑問に対する答えは、残念ながらなかなか見えてこなかった。


他方、新生日本国でも水野総理は様々な改革案を打ち出していた。

先ずは日本国内におけるマスメディアの改革である。

第一次を含め水野政権の遂行において、もっとも障害となったのは、まぎれもなくマスメディアであった。これは水野の頭の中ではもはやトラウマと化していた。

無論、新聞、テレビなどのマスメディアが政治権力の手先となるのは健全なことではないことは、水野は百も承知していた。

むしろ政治権力とマスメディアは適度な緊張関係にあるべきとさえ、水野は確信していた。しかしながら国家分割に至るまでの間、日本社会におけるマスメディアの偏向ぶりは、見る者が見ればあからさまとさえ思えるほどに度を越していた。

「国家分割後は、二度とこのような禍根を残してはならない。」このような考えから、水野は放送局や新聞などのマスメディアをどのように扱うか、かなり苦慮した。

第一次水野政権の躓きの主な原因は、新聞やテレビ業界に入り込んだ外国人勢力であった。

第一次水野政権では、それまで長年にわたり続いてきた中道左派的政治体制を改め、健全な自由と民主主義を貫く国家体制を作ろうとしたのだったが、これに危機感を覚えた外国人の政治力に支配される国内マスメディアが一斉に反水野政権にシフトし、故意に歪められた情報を繰り返し報道することにより、水野政権に対する国民の間違った、ネガティブな世論形成を工作したのだ。

では何故、どうやって日本のマスメディアは外国人勢力に乗っ取られたのか?

これは、戦後の日本においてマスメディアを再構築した際に、当時の朝鮮総連の圧力に折れて、毎年一定数の在日朝鮮人を受け入れたことによる。

当時としては、後先考えないその場対応だったのだろうが、毎年一定数を新聞やテレビ業界に受け入れたことによって、積年にわたる蓄積の結果、日本の新聞マスコミ業界は、特定国の意向を無視できないような体質になってしまっていたのだ。

こうした傾向の危うさは、かなり以前から指摘されてはいたのだが、気が付けば、こうした海外勢力による情報操作は、もはや日本国民の意志ではどうにもならないほどにゆがめられていたのである。

「このような状況は、国家分割後は、何としても回避しなければならない。」

マスメディアの改革に関して、水野は相当強い覚悟を持っていた。

国家分割を目前に控えたある日、水野首相は政権放送において、国家分割後のマスメディアの在り方について言及した。

これは、元々は電波法及び放送法に基づいたものであった。

日本の放送局においては、外国人は免許を得ることはできない。これはつまり、外国人が実権を握る放送局は、放送局としての免許を得られないということである。

故に、会社の役員の過半数を、日本国籍を有する者以外の者が占めたり、株主の過半数を一定の国家、国民が占めたりする放送局は、放送局としての免許を与えないとの宣言を出した。

また、国家分割に際し、在日韓国・朝鮮人で日本国に忠誠を誓い帰化することを拒んだ者を国外退去としたことも一定の功を奏し、日本国に残った放送局のその後における韓国・北朝鮮人勢力の影響力の排除もなされていた。

更に日本放送協会、NHKについても、局内職員の国籍比率については勿論であるが、その存続自体についても検討された。

これまでNHKは殆ど独占企業として、放送法の後ろ盾を基に、強制的に受信料を日本全国から徴収し、集めた膨大な受信料は、ほとんどNHKの独断で使用できていた。

水野首相はこの部分にも手を入れた。

放送法を改正し、NHKを二社に分割、それぞれを完全に独立させ、競合させることにより競争原理が働くようにしたのである。

また受信契約を完全に任意とするとともに、両NHKとも、放送電波にスクランブルをかけ、国民が受信契約を結ぶ際、スクランブルを解除するデコーダーを貸し出す方式とした。

受信契約を任意としたため、当然のことながら契約者は大幅に減少した。

これにより青天井だったNHK職員の給与も大幅に引き下げられ、ようやく常識的なレベルの給与となった。

新聞社については特に手をつけなかったが、国家分割時に左翼思想の高齢者は、殆どが東亜国に移住したため、ただでさえ新聞購読者が減少し続ける中、左巻きの新聞社は、とても日本国内で存続できる状態ではなくなっていた。

もっともこれら左翼系の新聞社も、国家分割時に東亜国に新たな新聞社を立ち上げ、左翼系の記者たちもそちらに移っていたため、日本国内に残っていた左翼系新聞社は事実上廃刊に追い込まれるのは必至とみられていた。

このようにして、新生日本国におけるマスメディアは、以前に比べると見違えるほど透明性を取り戻していった。

また、国家分割の前までほとんどできていなかった公務員の制度改革、特に官僚と呼ばれる各省庁の幹部職員の人事管理にも着手した。

もっとも、平成二六年に水野が政権を取り戻したすぐ後に、各省庁の幹部人事を内閣が取り仕切る「内閣人事局」を立ち上げてはいたが、これだけではやはり、連綿と続く省庁ごとの人事の系譜に、直接手をつけるまでには至ったっていなかった。

そこで水野は新生日本国での政権スタート後、先ず内閣人事局の権限を徹底的に強化した。

具体的には、これまで各省庁が個別に採用していた国家公務員のうち、上級試験合格者の採用を一括して内閣人事局が統括するのである。

採用された上級試験合格者は、一旦一か所の研修施設に集められ、半年間共通の研修を受けことを義務化した。

この研修は、基本的に寄宿制であり、国家公務員上級試験合格者の他、同年度に採用される裁判官、検察官採用枠の司法試験合格者や医系技官採用枠の医師免許合格者も、その半分の期間、一緒に研修を受けることとされた。

この研修の制度は、水野がかねてから注目していた防衛大学校にヒントを得たものである。

防衛大学校は高校卒業者で将来幹部自衛官を目指す者が入学する。

入学時には陸海空、いずれに進むかは決まっておらず、学生は防衛大学校で学ぶ中で、本人の希望や適性などを勘案し、その進路を決めている。

将来の陸海空幹部自衛官を、大学校の四年間、一か所で分け隔てなく同じ教育を施すのは、戦前、陸・海軍が対立したことで、国家の運営に破滅的なほどの悪影響を与えたことへの反省からであった。

これまでの日本における各省庁の、縦割り行政の弊害こそは、現代における陸・海軍の対立の再現に他ならないと考えていた水野総理は、この防衛大学校のシステムを、他の省庁の公務員にも当てはめようと考えたのである。

その目的の最たるところは、各省庁の縦割り意識を排して、省庁を跨いだ、同一年度採用の国家公務員としての同期意識を育むこと及び、国家公務員としての共通の意識、価値観を植え付けることにあった。

東京都に新たに建設される国家公務員研修センターは、自衛隊のそれになぞらえ、正式名称ではないが「国家公務員幹部候補生学校」と呼ばれた。

この研修では、研修生には成績順位がつけられ、研修を修了すると、内閣人事局主導の下、本人の希望や適性、研修での成績などを選考要素として配員計画が作成され、各省庁に配員されることになる。

さらに、一旦各省庁に配員された後も、同一の省庁一か所にのみ、定年まで勤めることはできないこととされ、在職期間中必ず三省庁以上経験することが義務づけられた。

しかも、入省した省庁と退官時の省庁が同じであってはならないというルールも設けられた。

この制度だと、例えば外交官としてキリアを積みたいと思う者は、まず入省時には外務省以外の省庁を選択しなければならない。

更に、もう一つ以上、別な省庁を経験し、複数の省庁で勤務評定を受けて、総合的に外交官としての適性を判断され、最終目標である外務省に人事異動するというステップを踏むことになる。

このシステムだと、いわゆる各省庁の「生え抜き」という者は存在しないことになる。

こうすることの目的は「省益優先」の考えを排除することと、各省庁独自の人事管理の系譜を破壊することにあった。

また、キャリアとノンキャリアとの配置上の障壁も撤廃した。つまり、公務員といえども実力主義、成果主義を採用し、ノンキャリアであっても、有能な者は昇進の上限に制限を設けないこととしたのである。

これにより理屈の上ではノンキャリアであっても事務次官になれることを可能とした。

しかし、こうすることの真の目的は、いわゆるキャリアたちに緊張感を持たせるためであり、かつノンキャリアの者にも一層の発奮材料を与えるためでもあった。

こうして新生日本国が、次々と行政の立て直しを実現していくなか、それを隣で見守っていた槙野は次第に焦りを覚え、その感情はやがて水野が率いる日本国への恐怖と憎悪の感情へと変化していった。

何故隣国に対し恐怖と憎悪の感情が生まれるのか、これではせっかくお気に入りで日本国憲法から引き継いだ東亜国憲法前文の精神に反することになる。

そこには「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるのに、例えば中国や韓国・北朝鮮は信頼できても、隣の日本国は信頼できなかったのである。

国家分割後、水野首相が当初の下馬評に反して、新生日本国を次第に上手く軌道に乗せていくのに、自分が率いる東亜国は、かつて日本で民衆党が政権交代した時の再現というか、それよりももっとひどい状況になっていることを槙野は認めざるを得なかった。

「自分が目指す国こそが理想国家。やがては日本国に残った者達も、理想国家東亜国のすばらしさに気付き、最終的には日本国民の方から東亜国への統合を望んでくるようになる。」といった槙野の自信は脆くも崩れ、東亜国は建国からわずか半年ほどで無秩序な最貧国家に転落し始めていた。

物事が思い通りに進まない日々が続くと、人は誰しも情緒不安定となる。

ある時期から槙野は、次第に「我が国が弱り切ったところで、日本が武力によって再統合を画策するのではないか?」といった悪夢に苛まされるようになる。

もしも日本が武力を行使してきたら、東亜国はひとたまりもない。何しろ東亜国内には、ほとんど何一つ武器というものが無いのだから。

不安を抱いていたのは槙野ばかりではない。実は大統領の鷺山も同様、いや槙野以上に水野率いる日本国を恐れ、憎悪していた。

鷺山は筋金入りの親中派、いやそれどころか、親中派を通り越した媚中派であり、中国政府の傀儡と表現した方が適切なくらい中国に傾倒していた。

ある日槙野は、鷺山のところへ日本の脅威についての相談を持ち掛けに行った。

以前の槙野なら、たとえどんなに悩んでいようが、ただのお人好しで中国政府の下僕のようなお飾り大統領のところへなど足を運ばなかっただろう。

それほど槙野も憔悴し、正常な判断能力を失っていたのかもしれない。

鷺山に相談すれば、彼が中国を頼みとすることは、初めから分かり切ったことであった。

案の定槙野との会談の後、鷺山はその不安な心中を、わざわざ自ら在東亜国中国大使館まで出向き、大使に対して打ち明けた。

東亜国の大統領や首相が、日本の軍事力を恐れ、対抗策を模索しているという情報は、中国大使から直ちに北京の中国共産党政府に届けられた。

そこからわずか三日後、鷺山のもとへ中国政府から「中国・東亜国相互安全保障条約」の草案が親書として届けられた。

これを受け取った鷺山は、ただちに槙野を大統領官邸に呼びつけ、嬉々としてそれを槙野に見せると、心底満足げに微笑み、「どうだ、これでもう何も心配はないぞ。」と声を弾ませた。

その草案によれば、タイトルこそは「相互安全保障条約」となっていたが、実際の中身は、東亜国の安全保障、つまりは、東亜国が第三国から武力攻撃を受けた場合、中国軍が武力を持たない東亜国に成り代わって防衛するという内容であった。但し、その交換条件として中国軍の東亜国内への駐留が提案されていた。

この時槙野は、反射的に危険なにおいを感じとったのだが、世界十指に入る軍事力を持つ日本国に対抗するには、中国に頼る以外の選択肢が無いように思えるのも事実である。

「わかりました。これはこれで、今後慎重に議論しましょう。」とだけ発言して、早々に鷺山のもとを辞した。

少し冷静さを取り戻した槙野は、この段階でようやく秋本に相談を持ち掛けた。

秋本はさすがに二人よりは冷静で、鷺山や槙野が心配している、日本国からの武力による侵攻の可能性と、中国軍を国内に受け入れるリスクを比較した場合、どちらが危険かと槙野を諭した。

秋本はリベラル派ではあるが、それこそ純粋なリベラリストであり、水野政権をそれほど危険視はしておらず、むしろ中国共産党の方を警戒していた。

ところが槙野は、水野とのこれまでの長い対立の結果、相当に憎悪の念を募らせており、とても水野を信用する気持ちにはなれなかった。

因みに、鷺山の水野に対する感情は、槙野の更に上を行っていたのだが、しかし槙野にも若干の分別は残っており、自国領土内に外国の軍隊を受け入れることについては迷いもあった。

ただでさえ東亜国内の主要な港や空港は、建国直後中国に経済協力を持ち掛けたときから、実質的に中国が好き勝手に使用できる状態になっており、かつ港や空港の周辺の土地も、かなりの部分が中国政府あるいは中国企業、団体、個人に買い占められていた。

「この上中国軍まで受け入れたら、東亜国は中国に完全に乗っ取られてしまうかもしれない。」

槙野はさすがに、中国が提案してきた「中国・東亜国相互安全保障条約」を締結するのは危険と判断するに至った。しかし、それをそのまま鷺山に伝えることも、少しはばかられたため、条約締結を先に進めるよう急かす鷺山に対しては曖昧な態度で回答を引き延ばした。

そのような槙野の態度に業を煮やした鷺山は、次第に「ここだけの話」と前置きしながら、周囲の色々な人間に、中国との安全保障条約の話しを漏らしたものだから、やがてはその話は、東亜国政府内はおろか、東亜国内の誰もが知る事態となった。

東亜国内もネット環境は整っていたため、この話はネットを通じて日本にも伝わり、すぐに水野たち日本国の首脳陣の耳にも入った。

これは、水野が最も恐れていた事態の一つであった。

それも水野が予想していたよりずっと早いタイミングである。

水野もさすがに心の準備を整える余裕がなかった。

同じ情報は当然のごとくアメリカ合衆国にも届いた。

大統領のダニエル・ダグラスは水野以上に敏感に反応した。

東亜国内に中国軍の駐留を許せば、東アジアのパワーバランスは土台から崩れてしまう。

日本海沿岸はともかく北海道や沖縄の一部も東亜国の領土になっており、もし仮にこの地域に中国が海軍艦艇を配備したなら、日本にとってもアメリカにとって重大な脅威となるだろう。

また、かつての航空自衛隊の基地や民間空港に中国空軍が駐留した場合、例えば秋田空港からアメリカ空軍の日本における主要な空軍基地である三沢基地までは、直線距離でわずかに一五〇キロメートル余りでしかなく、横須賀基地についても、新潟空港や富山空港などを飛び立った攻撃機が山越えルートで接近し、攻撃を仕掛けられたら一たまりもない。

もし東亜国と中国が軍事同盟を結び東亜国内に敵地攻撃能力を持つ部隊を駐留させた場合、米軍は自衛手段として、敵基地を先制攻撃せざるを得なくなるかもしれない。

もしそうなれば、それこそ第三次世界大戦の危機である。

ダグラス大統領は人目をはばからないほどに激怒し、その姿は世界に映像配信された。そうした映像を見ていた誰からともなく、一つのうわさが流れた。

「ダグラス大統領がCIAに対して、ルーピー鷺山の暗殺を命じたらしい。」

「ルーピー」とは、鳩海が民衆党初の総理大臣をやっていた際にアメリカのワシントンポスト紙が鷺山を形容した単語であり、「ルーピー」はその後鷺山の代名詞のようになっていたが、その「ルーピー」という単語が冠せられていたことから、うわさの出どころはアメリカ国内だったのかもしれない。

ところがこのうわさも瞬く間に世界中に拡散し、当然鷺山の耳にも入った。

鷺山はこのうわさを真に受けた。

水野政権による武力統合を阻止しようとして中国との軍事同盟を画策したことで、今度は自分自身がアメリカから命を狙われる羽目になってしまった。

鷺山は本気でそう信じた。

慌てふためいた鷺山は、槙野を大統領官邸に呼びつけると、頭ごなしに一つの命令を槙野に言いつけた。

「すぐに私を警護する組織を編成しろ。そう『大統領警護隊』だ。

四の五の言っていられない。その警護隊は武装させろ。何しろ相手はCIAだ。」

鷺山のこの言いつけに槙野は目まいを覚えた。

「お言葉ですが大統領、少し冷静になってください。CIAが大統領の命を狙っているというのはあくまでも噂に過ぎません。

それに我が国は全ての武力を放棄するという理念を掲げております。

もし、今ここで武装すると言えば、私はともかく民社党の福本委員長が何と言うか。」

槙野が諫めようとしたが、鷺山の考えは揺るがない。

「槙野、お前はいつからそんなに偉くなったのだ。お前を首相にしてやったのはこの私だぞ。忘れたのか?

福本なんて、あんなアホのおばさんなんかほっとけ。とにかくこれには私という人命がかかっているのだ。

人命は何よりも優先する。そうだろう?」

槙野は正直びっくりしていた。

いつもは卑屈なくらい柔和な態度を保っている鷺山が、まるでジキル博士とハイド氏のような豹変ぶりだ。

それともこれまでの柔和な人物像は演技だったのか?

それにしても自分はこんなにも見下されていたのか。

鷺山が思わず口走った「お前を首相にしてやったのはこの私だぞ。」という言葉には相当なショックを受けていた。

一昨年の秋、国会の中で水野首相の失言を引き出し、リベラル派の理想国家「東亜国」建国のきっかけを作ったのは、他でもない自分自身である。鳩海は何をしたわけでもない。

せいぜい暇に任せて中国国内を行脚し、思いつくまま中国人に対して土下座していただけである。

「育ちのいいボンボンとは、かくも手におえない者か」

鷺山の父は自民党の大物政治家であり、母方の実家は世界的に有名な大企業の創業者である。

槙野は心底辟易とした。

東亜国での「大統領」という立場は、多分に名誉職的なものであり、東亜国憲法においても大統領の国家元首としての権能は国事行為を除いては認めていない。

「いっそのこと、大統領を罷免に追い込んでやろうか?」槙野はそこまで考えて思いとどまった。

鷺山は確かに槙野も認めるルーピーである。しかしながら東亜国内の高齢者層にはそれなりの人気があった。

確かに育ちがいいだけあって、黙っていればそこはかとない品の良さも伺える。

それに比べると自分も、ようやく五〇代後半とはなったが、政治家としてはまだまだ若手の方であり、育ちもそれほど良くはない。

かと言って、鷺山を降ろしたところで誰か他に大統領としての適任者がいるだろうか?

どう見繕っても、槙野の脳裏にそれらしき候補者の名前は思い浮かばなかった。

散々悩みに悩んだが、ここは鷺山の言うことを飲んでも良いのかもしれない。

何しろこのまま国家として丸腰を貫くというのも、現実問題として難しく、口うるさい福本のばあさんさえ黙らせれば、意外と我が国の武装化も可能化もしれない。もしそうなれば、中国との軍事同盟の話しも、水に流せる可能性が出てくる。

槙野はそう思い直すことにした。

「分かりました。大統領、おおせのとおり警護隊を組織します。

民社党の福本委員長は、私が説得します。」

槙野が態度を改めると、鷺山は途端に元の柔和な表情に戻り、

「分かってくれたか。

福本のおばさんの説得なら、私も協力しよう。

なあに、どうしても聞き入れないなら、また昔のように野党になってもらうだけのことさ。」

鷺山はそう言って笑ったが、槙野は平成二〇年の民衆党鷺山政権のことを思い出し、少しゾッとした。


翌日、早速開いた閣議において、この武装化した「大統領警護隊編成案」が発議されたが、案の定民社党委員長の福本真希子は、この案に大反対した。

しかし鷺山の読みどおり、閣外追放を匂わすと、福本は渋々首を縦に振った。

大統領警護隊には、貴重な警察官の中から慎重に人選して三〇名を抽出した。

彼らはいずれも日本国民時の、元警察官と自衛官であり、武器の使用にも習熟していた。

肝心な武器の調達先については、全く困らなかった。

中国政府に事の経緯を説明したところ、必要とする武器は何でも売ってくれたからだ。

こうして、東亜国が大統領警護隊を組織しそのお披露目をすると、そのニュースは世界に配信された。

但し、これに対する世界の反応は冷ややかだった。

「武器を持たない理想国家は、早くも宗旨替えか。」

「国民を守るための武装は放棄しておきながら、大統領を護るためにはとっとと中国からでも武器を買う。なんて無節操な。」

こうして東亜国はまたしても、世界の笑いものになってしまった。

それでも槙野は満足していた。

「これで東亜国が、国家として武器を所持する前例ができた。」

国家分割時、日本国と東亜国はある取り決めをしていた。

それは国有財産の分割において、防衛装備を受け取らない代わりに、その代金を一〇年間に亘り分割で受け取るという取り決めであり、間もなくその第一回目の受け取りを迎える予定となっていた。

受け取る金額は防衛装備品全体の二五パーセントの取得費用に一定の減価償却分を係数として掛けた金額ということで、東亜国に亘った元経産省や元防衛省官僚などもチェックして取り決めた金額であり、年間約一兆円が日本国から貰えることになっていた。

日本の防衛装備品の単価は元々高額であったため、結果として受け取る金額も高額となったが、そのお金で安い中国製の武器を買えば、コストパフォーマンスとしてはかなりお得になる。

槙野の中で打算が働いた。

「日本政府から受け取るカネで武器を買えば、わざわざリスクを冒してまで中国と軍事同盟まで結ぶ必要はないだろう。」

東亜国内では、既に武装化したマフィアが暗躍し、治安を守る警察官にも人的被害が出ていた。

このため、東亜国内の国民世論も民社党の福本委員長が主張していたような警察官丸腰論は鳴りを潜めており、むしろ大勢は、「警察官も拳銃程度は所持していなければ市民の安全は守れない。」との考えに傾いていた。

こうした世論形成に槙野は一気呵成に攻勢に出た。

「海上警察官を含め、警察官は拳銃の携行を認めると同時に、より強力な武装組織にも対処可能なよう、新たに『武装警察隊』を立ち上げたい。」

先日の「大統領警護隊」の立ち上げから、まだわずかに一週間ほどしか経過していないタイミングであり、これにはさすがの福本委員長も金切り声を上げた。

「それじゃまるで、戦後にできた警察予備隊と一緒じゃありませんか。そうやって日本は事実上の再軍備をやった。それと同じことをやろうとしてるんですか?」

『そのとおり。』と、槙野は内心ではつぶやいた。

しかしここで本音を明かすわけにはいかない。

何しろ東亜国には、かつての日本国とは比較にならないくらいの高濃度で、かつての五〇年体制の亡霊が存在しているのだ。

彼らの多くは若かりし頃タオルのマスクとヘルメットをかぶり、角材を振り回した世代である。

現代における彼らの代弁者ともいえる福本を完全に敵に回せば、国内が大混乱する恐れもある。

「これは断じて再軍備ではありません。その証拠に別に戦車や軍艦、戦闘機を持つつもりなど毛頭ありません。しかし、今や国内では、残念ながら武装化したマフィアたちが拳銃はおろか、マシンガンや手榴弾まで所持し跳梁跋扈しているのが現状です。

さすがにこの状況では、警察官にもそれなりの備えをしなければ、犠牲者が増える一方なのです。」

槙野は極めてまともなことを言った。これに対し福本は常日頃の持論を展開する。

「だったら防弾チョッキを着せればいいでしょ。とにかく警察官は、たとえ犯罪者であっても市民を銃で撃つなんてこと、絶対にあってはなりません。

私がいつも言うように、犯罪者が銃を持っていたら、その場では逮捕するのを諦めて、別のチャンスを伺えばいいんです。」

これまで散々聞き飽きていた福本の持論に、さすがに槙野も顔を赤らめつつ言い返した。

「防弾チョッキならとっくに着せてますよ。何しろ防弾チョッキは飛び道具ではありませんからね。

それでも凶悪な犯罪者たち相手には、防弾チョッキは役に立たないんです。何故だか分かりますか?

奴らは鼻から、警察官を確実に殺す目的で、至近距離で頭、下手をすると顔を狙って銃をぶっ放すんです。

奴らは警察官の命なんて何とも思ってないのですよ。せいぜい屠殺場で家畜を殺す程度の感覚なんでしょう。

お蔭で警察官の犠牲が絶えないんです。」

槙野がここまでまくしたてたとき、居合わせた者の中から思わず悲鳴が上がったが、槙野は構わず続けた。

「それに、武器を持ってないときを見計らえとおっしゃいますが、彼らは片時も武器を手放すことはありませんよ。いつだって常に大量の武器を持っているんです。

もはや警察官も臆してしまって、凶悪犯罪が起きているときは、見て見ぬふりをしているのが実状です。

福本さんはそうした実状をご存知ないのでしょうから、一度現場を見に行ってみてはいかがでしょうか。」

かつてないほどの槙野の勢いに、ついには福本委員長も沈黙した。

こうして、大統領警護隊に引き続き、武装警察隊も編成された。

槙野の本音では、武装警察隊設立の真の目的は、日本国の軍事力に対し、僅かながらも牽制となればという思いと、中国が促す相互安全保障条約への回答を引き延ばす口実だったのだが、民社党の福本委員長に対する強弁もあながちほら話でもなかった。

この頃は、東亜国内では東アジアや東南アジア諸国はおろか、中央アジア、中南米、中東、アフリカ諸国に至るまで世界各国から移民が押し寄せ、国全体が難民キャンプの様相を呈しており、もはや武力なしには治安の維持も不可能となっていたのである。

建国から一年余りで東亜国の人口は建国時の五割増しの約四千五百万人にも膨れ上がっていたが、増えた人口のうち一千万人以上は中国、韓国・北朝鮮からの移民であり、残り四百五十万人から五百万人程度がその他の国々からの移民であった。

しかもそれ以外に移民としての正規ルートを経ずして密入国した外国人が多数おり、それらの数はもはや把握しようもなかった。

移民の増加とともに治安も乱れた。このため警察官を増員しなければならなかったが、人材難からその警察官のなり手を海外からの移民に求めたため、かえって状況は悪化し、もはや収拾がつかない事態となってしまった。

当然のごとく日本から移り住んだ国民の間には不満がつのった。

元はといえば彼らは、戦争や争いごとを極端に嫌い、故に防衛力の増強を進める水野政権下の日本を嫌って東亜国に移住した人々である。

ところが皮肉にも、移り住んだ新国家では、国家間戦争どころが、まるで日常が戦場のようになってしまい、自宅で平和な食卓を囲んでいたところに何語か分からない言葉を発しながら押し込んできた武装強盗に、一家全員が惨殺されるという事件も、特に珍しいことではなくなっていたのである。

そんなある日、とうとう民衆党の大物議員宅に武装した外国人強盗団が押し掛けた。

国力がどんどん疲弊していく東亜国にあって、その議員の邸宅は、見るからに裕福そうな外見をしていたのが、強盗団に目をつけられた理由だったのだろう。

突然の不埒な来客相手に、咄嗟に主は

「何もんだお前たちは?

ここを民衆党幹事長細川義男の屋敷と分かってるのか!」と叫んだが、その次の言葉を発する前に、眉間を拳銃で撃ち抜かれてしまった。

外国人の武装強盗団は日本語を全く介さない者が多い。だから彼らにとっては、相手が何か喚いても、それはただの雑音でしかないのだ。そして、そんな雑音を取り払うため、何のためらいもなく殺す。確実に息の根を止める箇所を狙って。

強盗団は金目の物を奪うと、屋敷にいた(あるじ)以外の家族や家政婦も含め全員を殺害し、火を放って逃亡した。

消防関係機関の整備不足から消火活動が後手に回り、屋敷は全焼した。

焼け跡からは、五人の性別不明の焼死体が発見された。そのうち、玄関付近にあった遺体の頭蓋骨は、眉間が銃弾で撃ち抜かれていたが、残りの四遺体は全てリビングの一室で、頭部と胴体が離れた状態で発見された。

銃声をたてない為か、弾丸を節約する為か、玄関付近にあった遺体以外は、首を切断されたものと見られた。

しかし、人の首を切断するのはそれほど容易なことではない。

仮に銃声を立てないためや弾丸を節約する為だったとしても、単に、確実に殺害する為なら、わざわざ苦労して首を切り離す必要はない。頸動脈を切り裂けば済むことである。

それなのに、わざわざ手間をかけて、四人の首を切断したのは、ひょっとするとその行為自体を楽しむためだったのかもしれない。

検視にあたった警察官は、何年か前、ネット上に流れていたイスラム過激派による人質の殺害映像を思い起こし、ゾッとした。

法曹界出身で熱心な死刑廃止論者でもあった民衆党幹事長細川義男は、人権派弁護士としても有名であり、人間の本質は善であるとする自らの信条から、治安が悪化した東亜国内においても、警察官による身辺警護を断っていたのだが、今回はそれが仇となってしまった。

「世の中の争いごとは、全て話し合いで解決できる。」が彼の口癖だったが、死の前に、彼に話し合いの時間は与えてもらえなかった。

民衆党幹事長殺害のニュースは、この頃すっかり残虐事件にも慣れっこになっていた政府首脳陣にも衝撃を与えた。

「さすがにこれ以上、外国人を無秩序に受け入れるのは危険である。」

ここにきて槙野たち東亜国首脳陣は宗旨替えを決心した。

もっともその決断はやや遅きに失していたが。


四 尖閣奪取


東亜国が移民の受け入れを止めるというニュースは瞬く間に世界に広がった。

東亜国のこの決定に対し真っ先に国連人権理事会が苦言を呈したが、そのことで東亜国民も初めて、国連がいかに当事国の事情をろくに調べずに、上辺だけの仕事をしているか思い知ることとなった。

一番悪いのは、無計画に移民を受け入れた東亜国政府ではあるが、その結果東亜国国内がまるで無秩序な社会になってしまったとしても、それは国連をはじめとする国際社会としては全く関知しないことであったのだ。

次々と国際社会における評判を落としながらも、東亜国は試行錯誤の末、少しずつ当たり前の国家に近づこうとしていた。

しかし、一方で乱れ過ぎた国の治安は、新たな移民の流入を止めたところで全く回復する可能性は見いだせない。

この期に及んで治安の回復を図るためには、槙野達はもはや、強権をふるうしかないという状況に追い込まれていた。

そうした状況において、もはや頼りとなるのは中国だけであった。

「中国共産党ならば、こうした事態もうまく収める方法を知っているのでは?」

追い込まれていた槙野は、ほとんど悪魔にでも魂を売り渡さんばかりの心理状態となっていた。

そんな槙野たちの期待を知ってか知らずか、東亜国首脳陣の頼みの綱である中国は、二〇二三年七月某日、ついに長年練り上げた作戦計画を実行に移したのである。

そしてそれは、日本国政府が最も懸念していた中国の行動でもあった。

沖縄県石垣市の尖閣諸島の魚釣島、中国が言う釣魚島に、遭難を装って、漁民を上陸させたのである。

当日はおりから、割と大型の台風が尖閣諸島近海を通過する中、いつものように、さながら中国の公船に護送される形で接近する中国漁船団の中の数隻が、さも台風のあおりを受けたかのようにして魚釣島接近、故意と思われる手法により、漁船を座礁させたのであった。

ただちに近くにいた、第十一管区の巡視船「はてるま」が救出を宣言し、魚釣島に接近したのだが、ここに中国の公船「海警31239号」が自国民保護を宣言し、武力行使をちらつかせて強引に割って入った。「海警31239号」は英語表記では「CHINA COAST GUARD」、つまり日本で言うところの海上保安庁の巡視船的な船舶とされているが、元は海軍のフリゲート艦である。

フリゲート艦であった時に搭載していた主砲の百ミリ連装砲や対艦ミサイルは撤去されているものの、両舷に備えた三七ミリ連装機関砲はかなりの威圧感を与える。

しかもあからさまなことであったが、「海警31239号」の乗組員は、遭難漁船の乗組員の取り調べのためと称し、魚釣島の海岸に仮設テントなど設営し、泊まり込みを始めたのであった。

こうした事態は、当時国家分割のための一大事業を遂行中であった日本国にとっては、これ以上ないほどに大きなストレスとなった。

この動きに呼応するかのように、沖縄県においても、大きな事態が動き出していた。


時間が少し遡るが、日本国分割が沸騰し、実現のための法案が捏ね繰り回されていた頃、沖縄県で一大決心をし、後に大博打に打って出た者がいた。

沖縄県知事「真栄城朝健」である。

発端は、国家分割の線引き作業において、政府と新国家建国派の間で、沖縄県民に断りもなく勝手に沖縄本島に国境線を引いたことに始まる。

元々革新系支持層の多い沖縄県においては、国家分割論が持ち上がった時、新国家への帰属を希望する者の割合が他の地域よりも相当高く、四割近くの沖縄県民がアンケート調査において新国家への帰属を希望していたのである。

ところが、沖縄本島で引かれた線引きでは、新国家の占める割合は一〇パーセントを少し超える面積と決められてしまった。

沖縄本島は人口の大半は島の南部に集中しており、本島の中部以北は、人口密度は極端に低い。

このため、本島全体ではなく人口密集地の二五パーセントとしたことから、相対的に小さくなってしまったのだが、ここには自民党政府による、ある企みがあった。

沖縄本島には数多くの米軍基地が居座っているが、その多くは本島の中部以北に偏在していた。

勿論米軍基地のある土地を新国家の領土とするわけにはいかない。このため、沖縄本島全体の二五パーセントを新国家に分譲し残りの土地から米軍の土地を差し引くと、日本国として残る土地はほんの僅かとなってしまう。これでは、国家を分割した後、沖縄県として経済活動を維持するのも困難となるだろう。

自民党としては、そうした事態は何としてでも回避したかった。

自民党が示した沖縄本島の分割案に、野党側は猛烈に抗議したが、自民党政府は頑として譲らなかった。

こうした沖縄県民の意向を無視した決定に、沖縄県民も一斉に反感を覚えた。

何時も、沖縄県民は中央の政治に振り回され続けている。

思えば平成二一年の衆議院議員総選挙において、民衆党党首鷺山幸雄が沖縄での演説で、普天間基地の代替え基地建設に関し「最低でも県外!」と訴えたとき、沖縄県民、とりわけ革新政党支持層の者たちは色めき立った。

結果的には、民衆党が政権を獲得した後、普天間基地の辺野古移設計画を白紙撤回することは不可能と気付いた鷺山が、最終的に選挙公約を覆す形になり、このせいで鷺山の政権は大きく躓くこととなったのだが、そのほんの束の間、沖縄県民は全てではないにしても、多くの者は「米軍基地が無くなる」という夢を見たのである。この夢はその後、長く尾を引いた。

以後沖縄県民の心のどこかに「米軍基地が無くなる」という僅かな希望の灯がともり続けていた。それほど沖縄における米軍の存在は大きかったのである。

率直に言って沖縄県民の気質は、おおらかで何事にも寛容である。

おそらく沖縄県以外の日本本土内に沖縄県と同じ比率で米軍基地が存在したならば、沖縄県民以外の日本人はとても許容できなかったであろう。

実際、太平洋戦争において米軍が沖縄を占領した後、これまで沖縄県民は実にうまく、そして辛抱強く米軍と付き合ってきた。

いや、もっと歴史を遡れば、その昔、一七世紀に薩摩藩による侵略を受けた後にも、巧みな融和策によって独自の文化を守りつつ時の支配者と折り合いをつけてきた長い歴史がある。

しかし、今回の分割案においても、沖縄から米軍基地が無くなるどころか、削減する見込みも全くなく、かつ残ったわずかな都市部を県民に断りもなく勝手に分割するという。

さすがにこれには、普段温和な沖縄県民も怒りを覚えたのである。

このため、日本国の分割法案が成立しかけていた頃、沖縄県では本土の政治家たちが全く考慮していなかった事態が起きていた。

それは、「沖縄県の独立」、もっと言えば「琉球国独立論」の台頭であった。

元々沖縄は一七世紀までは独立国であった。しかし一六一〇年、当時の薩摩の侵略を受け、実質的な主権を奪われて以降、独立国家としての立場は失われ、一八七二年、正式に日本国家の一部となった。いわゆる琉球処分であった。

以後二〇〇年以上、太平洋戦争後の一時期を除き、沖縄は日本国の一部として扱われてきた。

ところがそうした歴史の中で、常にくすぶり続けたのが、琉球国独立派である。

こうした県民感情の激化を受けて野心を抱いたのが真栄城知事である。

真栄城は、元々は地元の保守層の支持を集めた政治家であった。

真栄城が沖縄においてある程度の政治的な地位を確立するまでは、実は自民党の政策遂行グループが後押しをしたという経緯がある。ところが自民党政権が凋落すると、さっさと支援者を煙に巻いて知らぬ顔を決め込んだ前科もあった。

真栄城知事は水面下で自らの趣旨に同調する者を集め、関係各所に根回しを働きかけ、ついに日本分割の機に乗じて、琉球国独立を宣言したのである。

この独立宣言は単なるはったりではなく、宣言と同時に、日本政府に対し那覇空港の自衛隊使用禁止を宣告してきた。

那覇空港は沖縄本島唯一の民間空港であると同時に、陸・海・空自衛隊が共同使用する、日本にとって極めて重要な国土防衛上拠点でもあった。

ここを使用できないとなると、防衛上重大な支障をきたすことになる。

日本政府は水面下で真栄城知事、この時真栄城は自らを「琉球国臨時大統領」と名乗っていたが、その真栄城に対し「刑法第七十七条の内乱罪を適用する可能性がある。但し、今は真栄城の一連の宣言、宣告を黙殺する」と伝え、静観の構えをとった。

真栄城は独立宣言を発したと同時に米国政府に対して、沖縄に存在する米軍基地の、早期の撤退を申し入れていた。

これを聞いたダグラス大統領は烈火のごとく怒った。

「オキナワが勝手に独立を宣言するならば、我々は再度オキナワを占領するまでだ。勿論、必要ならば軍事力を行使してでもだ。」

ホワイトハウスの執務室で、一言怒声を発すると、直ちに日本の水野首相に電話を入れた。

米国国務省は真栄城知事の独立宣言にも対応に苦慮させられていたが、それ以上に大統領の、この怒りと共に吐き捨てられた発言をどう処理するか、大いに頭を悩ませることとなった。

大統領の発言をそのまま発表すれば、とんでもない国際問題に発展することはほぼ間違いない。

さりとて、沖縄から米軍基地を撤退するという選択肢も、米国の国政戦略を考えた場合、あり得ないことは明白であった。

大統領が言った「再占領するまで。」という趣旨の発言は、沖縄の独立を認めることが前提となる。

今のところ日本政府も真栄城の独立宣言を黙殺する態度を示している。

今後の日本政府の出方にもよるが、当事国や国際社会が、真栄城の独立宣言を無視すれば、とりあえず当面は問題を回避できるだろうが、このまま放っておいて大統領が「再占領」の話をSNSで発信でもしたらとんでもない事態に発展しかねない。

国務長官はじめ米国政府の主だった者たちは背筋の凍る思いを味わっていた。

しかし、さすがにダグラスもそれほど単純ではなかった。

真栄城の独立宣言と沖縄からの撤退要求を聞いた瞬間、頭が沸騰したダグラスだったが、(いかり)心頭(しんとう)で秘書に、日本の水野首相への電話の接続を指示した後は、次第に落ち着きを取り戻し、電話に出た水野首相と話す頃には、すっかり冷静さを取り戻していた。

水野首相とは、今後の方針や沖縄県の処断について話し合い、万が一独立が確定するようならば、最終的には米軍は軍事力を行使する覚悟があることを伝えた。

もう一つ、今回の独立宣言で注目を集めたのが、中国政府の反応であった。

中国政府は真栄城沖縄県知事が「琉球国」独立宣言を発表した際、直ちにこれを承認する意向を国際社会に対し発表していた。

それだけではなく、積極的に「琉球国」の支援を行う用意があるとまで意思表明をしている。

万が一、在沖縄米軍が実力により沖縄本島を再占領した場合、中国と衝突といった事態にエスカレートすることも考えられるし、そうなれば最悪、第三次世界大戦の勃発という事態にもなりかねない。

日米両首脳間の電話会談では、水野首相が、現在の日本政府の対応として、水面下で真栄城知事をあくまで日本国民として扱い、日本の法律に照らし合わせ、内乱罪適用の可能性を警告している旨を伝えた。

ダグラス大統領はこれを受け、少し巧妙な作戦を立てることにした。それは、万が一沖縄が日本国から独立した場合、米軍は実力を行使して沖縄を再占領するオプションが存在することを示唆する作戦である。

具体的にはSNSを利用して、出どころ不明の情報として「再占領」情報を流すのである。

勿論、米軍が再占領するとなると、独立派にとってはかなりの重圧となるであろう。しかしこの作戦の効果はなにも、独立派の脅迫だけを目的とするものではない。

実は真栄城沖縄県知事が琉球国独立を宣言した際、これを歓迎した者もいたのは確かであったが、ほとんどの県民は驚きと不安を持って見ていた。

また、沖縄県民の全てがアメリカ合衆国や米軍を嫌っているわけでもない。

沖縄県民の中には米軍軍人や関係者と結婚している者も数多く存在し、彼らは家族ぐるみで仲良く生活している。

米国人と沖縄県民との間にできた二世、三世も大勢いるのだ。

また、自分の土地や住宅など不動産を米軍に提供し、賃貸料を稼いでいる者も多い。

そういった沖縄県民は本音としては、別に無理やりにでも米軍に出て行ってほしいわけではない。

実際にこのアメリカ軍による再占領ほのめかし作戦は、アメリカ合衆国政府が期待した以上に効果を表した。

突然降ってわいた政府による本島の国境線引きは、確かに沖縄県民の怒りを買い、そのせいで一連の真栄城知事の行動を静観していた保守層や中間層の県民たちが、アメリカ軍による再占領情報の流布をきっかけに真栄城知事らの行動に対し異を唱えだしたのである。

そもそも、冷静で現実的な県民たちは、沖縄が日本から独立すればいいとは、真剣には考えていなかった。

独立を話す者たちの多くは、チョッとした興味半分面白半分でそううそぶく者が殆どであり、心の奥底では今の生活を危険にさらしてまで「独立」などということは望んでいなかったのである。

こうして沖縄県内は、琉球国の独立実現を目指す真栄城知事派とこれに反対し、従来の沖縄県のスタイルの存続を望む保守派とに二分化し、両者の勢力は拮抗した。

そんなさ中に起きたのが中国「海警31239号」の尖閣諸島接近及び官憲等の魚釣島上陸事案であった。

真栄城知事が琉球国独立宣言を発した際、いち早く中国政府がこれを承認し、なおかつ援助まで申し入れたことは、沖縄県民にも十二分に伝わっていた。

真栄城を頭とする独立派たちは、中国のこの反応を歓迎したが、多くの冷静な沖縄県民は正直ゾッとした。

以前から知れ渡っていたことだが、「真栄城知事は中国共産党政府とつながっている。」との噂話を、沖縄県民は思い出していた。

「沖縄が独立し米軍が居なくなれば、すぐにでも沖縄は中国乗っ取られてしまう。」そういった危機意識は、普段陽気な者が多い沖縄県民にも瞬く間に拡散し、程なく県知事のリコールを求める署名活動が始まった。


一方で沖縄県知事を刑法七七条の内乱罪に問うべきという意見は、政府が水面下で真栄城知事に示した警告とは別に、次第に沖縄県民以外の国民の、独立宣言を行った真栄城知事に対する懲罰感情をエネルギーとして国内に広まっていった。

沖縄県知事を刑法犯として有罪とし、自動的に失職させるべきとの意見が世論に浸透してくると、沖縄県の公務員の間に動揺が走った。

元々、革新系である県の自治労関係者は真栄城の方針に従順であり、むしろ妄信的に「琉球国建国」を夢見ている者が多数派である。

また、空港の航空管制業務を行う、国家公務員であるはずの航空管制官も、元々、昭和四七年(一九七二年)沖縄返還後、自衛隊が沖縄に展開して以降、長年にわたり航空自衛隊那覇基地に配備する航空機の機種に注文をつけたり、防衛庁時代から何かにつけて防衛政策の履行に対する妨害運動を行ってきたりした歴史があり、今回の独立宣言と同時に知事から発せられた自衛隊機、後の日本国防軍機の那覇空港使用禁止宣言に応じて、国防軍機の離着陸管制業務をボイコットするなど、積極的に知事の独立運動の後押しをしていた。

これに対し日本政府は通常の航空管制業務を行うよう国土交通大臣名で命令を下していたが、国家分割後、那覇空港は日本国と東亜国両国の共同管理ということになっており、航空管制官も日本国の国土交通省職員だけではなく、東亜国に移籍した管制官も混成状態で管制業務を行っていたため、これを逆手に取った管制官たちは、一方の政府の指示だけには従えないと屁理屈を言って従う気配を見せていなかった。

因みに、もう片方の当事者である東亜国は、真栄城知事の琉球国独立宣言に対しては、中国のように直ちに承認するといった態度には出ず、静観の構えであったが、これは政治的な判断というよりも、建国直後のドタバタの中で、とても琉球国独立などといった想定外の事態に対応する余裕がないというのが実態ではあった。

しかし、那覇空港に勤務する航空管制官が、自衛隊機や国防軍機の離発着の管制業務をボイコットしたことで、日本国にとっては極めて危機的な状況が生じていた。

那覇空港には海軍の第五航空群と空軍の第九航空団が展開していたが、これらはそれぞれ九州以南の海域の哨戒任務や領空侵犯対処任務を担う重要な部隊であり、その所属航空機が飛べないということは、この方面に対する防衛政策の遂行に重大な支障を来していたのだ。

日本国内の保守派層の中には、「航空管制業務を無視して、軍用機を飛ばせばよい。」という強気な意見も出たが、那覇空港は日本でも五本の指に入るほど離発着が超過密な空港であり、離着陸を強行しようにも、安全上不可能な空港であった。

この為、日本政府・国防省は当面の対策として、陸・海・空軍とも、本州にある航空部隊の一部を、米軍の協力を得て嘉手納基地に分派し、何とか哨戒任務やスクランブル任務に対応した。

そのような状況下で巻き起こったのが、中国海警局による尖閣諸島上陸事案であったのだ。

ここにきて日本政府内では、水野をはじめ主要な指導者たちが我慢の限界を感じていた。


一方で、沖縄の他の国の行政機関はどうなったか。司法関係については、裁判官や検察官の個人的な心の持ちようはともかく、とりあえずは法の番人として、自己の職責を全うしようとする姿勢を示していた。

問題は警察官である。

県警本部長はじめ、県警本部の上層部は国家公務員の立場で、あくまで日本国の方針に従う構えであったが、現場の警察官は、立場上は地方公務員である。

国家公務員たる県警上層部とは違って、当然のことながら、地元沖縄県出身者が殆どでもある。

真栄城知事が琉球国独立を宣言した際、県警本部の上層部では、これは警報第七十七条の「内乱罪」に抵触するのではという意見が出た。そのことは、すぐにも末端の警察官にまで伝わった。

「知事の逮捕命令がでたら、果たして自分はどうすべきなのか?」

警察官の大半は心の中では、今回の知事の独立宣言を歓迎してはいなかった。

しかし、「ここで知事を逮捕したら、親族や地元の者は何と言うだろうか?」

このような事態になる前、真栄城知事はそれなりに地元では人気を博していた。

警察官として今回の知事の一連の行動が法的に適法か否かの判断はできるが、もしも知事を逮捕することによって、地元の人たちから非難されたら、自分はどうするべきか?

この先、国対知事派の対立が先鋭化し、国側から独立運動派の逮捕を命じられた場合、相手は知事だけには留まらないであろう。

ひょとすると知り合いや親類縁者を逮捕しなければならないことにもなりかねない。

下位階級で年齢の若い警察官ほど悩んだ。

そのような折、中国当局の尖閣諸島における、不可抗力を装ったような上陸事案により、警察局内では逆に「腹が固まった。」とする空気が主流となった。

沖縄県民、いわゆる「うちなんちゅ」は、「やまと」に対して魂を売るつもりもない分、当然のことながら中国に対しての反感も「やまと」に対する気持ちと同じか、或いはそれ以上である。

真栄城知事らが主張する、「琉球国は元々独立国」という考え方を否定はしない。

しかし、最近の研究によれば、鹿児島県以北の日本人も決して琉球人とのつながりのない他民族ではない。もっと言えば、同じDNAと、同じ言語体系を持つ点においても兄弟であり、決して生来の敵対民族ではないのである。

そう考えるならば、沖縄県民が日本国から独立するという考え方にも疑念が起こる。

仮に琉球国なるものが独立して、その後ずっと単独で独立を保たれる保証があるならいざ知らず、現状では独立後、ほぼ疑いもなく中国に侵略されることは明らかである。

加えて中国当局は、尖閣諸島に上陸した。

この、尖閣諸島上陸に関するニュースは、普段綿密に情報交換している海上保安庁関係者から仕入れていた情報と照らし合わせて、その適法性を検討したが、明らかに違法であり、警察官としての立場としては、決して見過ごしにできない事態と考えられた。

しかし、中国に理屈は通用しない、欲しいと思ったら力づくで取りにくる。そして、手に入れた後で適当な屁理屈をつけるのである。

彼らが沖縄にやってきた場合、国内法どころか国際法すら通用しない。下手をすれば、話し合いの機会もないまま武力制圧され、沖縄県民は、うわさに聞くチベットやウイグルの人たちのように、奴隷の生活を強いられる可能性もある。

『今後、日本政府が真栄城知事の逮捕を命じたときは、それに従う。

もしもこれに抵抗するものがいたら、その者たちも一蓮托生、公務執行妨害で逮捕することになる。』

この方針で沖縄県警内は覚悟を固めた。


  五 国境封鎖


日本国の水野政権は、ついに国境の封鎖に踏み切った。

このことは、日本国分割時の約束事項、つまり新国家建国から十年間は、両国民の往来の自由を保障するという約束を破ることである。しかし、予想以上に急激に悪化する東亜国の情勢は、とてもそのような約束を守るほどの猶予を与えてはいなかったのだ。

何しろ、東亜国との国境線にある通関所は、もともとあった幹線道路の数だけ存在し、国家分割当初は通関の際、一応の身元確認はしてはいたが、事実上はノーチェックし等しく、その後東亜国の治安が悪化した後はそのチェック態勢を改めたものの、それまでの間に相当数の不穏分子が日本国内に流入した可能性を否定できなかった。

これに加え国家分割時の取り決め上の大きな問題もあった。

東亜国には、その本国部分となる元の秋田県あたりから福井県あたりに至る地域とは別に本州では東京と大阪、これ以外に北海道と沖縄に一定の飛び地を割譲されていたが、東亜国の本国とこれら飛び地とを結ぶルートのうち、東京と大阪については、関越道や北陸道を通じ、車両にて自由に往来することが認められていた。

この措置は一応、通関の際に自動的に読み取られるナンバープレートの情報を基にした車両のナンバー読み取りシステムにより、人の行き来の管理が行われるように計らわれていたが、東亜国民が途中のサービスエリアなどで他の車両に乗り換えた場合、完全に人の移動を把握することができなくなる欠点があった。

実際に、このような手法を悪用して、東亜国から日本に入国後、消息不明となる者が多発していた。

東亜国から日本への人の移動が増加するにつれ、通関の際の国籍確認は次第に厳格なものになっていった。

国籍を確認する手近な手段としては運転免許証があったが、運転免許証を持たない者、年齢的に運転免許を取得する年齢に達していない者などは、もう一つの有効な手段として、マイナンバーカードもあったのだが、新国家への帰属を希望するような者に限って、マイナンバーカードは作成しておらず、自身のマイナンバーも記録や記憶していない者が多数であったため、通関において、自身の身分を証明できない東亜国国民が通関において次第に滞留し、混乱をきたしていたのだった。

そればかりか、東亜国の開放政策に乗っかり、大量に東亜国に押し掛けた外国人の中には、東亜国では食っていけないということが分かると、より経済的に豊かな日本国への潜入を試み、日本国への移住を希望する東亜国民に紛れ込もうとする輩が少なからず発生していた。

こうした事態を受け水野首相はついに国境の封鎖を決断したのだったが、国境封鎖のニュースは、対外的にはかなり偏向されて報じられたせいもあり、東亜国は当然のごとく猛反発したが、それ以上に、今や東亜国のパトロンと化していた中国や朝鮮半島は過剰に反応した。

東亜国を通じて日本への浸透を画策していた中国や韓国・北朝鮮は、水野首相の国境封鎖政策を非難するとともに、日本たたきの恰好の材料とした。

更には、国連人権委もこの問題に対し、「重大な懸念がある。」との声明をだしたことから、日本国の立場はかなり不利な状況へと追い込まれた。

海外ばかりではなく、東亜国に移住した家族や親せきなどを持つ日本国民も、一部は水野政権を批判する立場に回った。

それほどのリスクを冒してまで、何故国境を封鎖せねばならなかったのか?

東亜国から日本国への不法入国者が、経済難民だけならまだよかったのかもしれない。

しかし、公安などが把握している実態はもっと危険なものであった。

東亜国は、外国からの移民をほとんど無制限に受け入れている。

東亜国政府は、自国への移民を希望してくる者は、全て善良な市民であると信じているとみられる節がある。

確かに表向き、「犯罪歴がある者は入国を認めない。」とはしているが、国際指名手配犯でもない限り、東亜国の統治能力で、移民希望者の全ての、母国での犯罪歴などチェックできるはずがない。

皮肉だが、せいぜい判明できるのは中国や北朝鮮出身者が、政治犯としての前科があるか無いか程度であったろう。

一方で、東亜国の海岸線に対する警備能力にも大きな問題があった。

東亜国は建国に際し、一切の武力は持たないと決めたため、海上保安庁の設置にも消極的となった。

ただし、全く海上において警察権を行使する手段を持たないというのもさすがに不安だったのか、中型、小型巡視船それぞれ数隻と小型警備船十数隻を日本政府から譲り受け、海上警察として運用することにしたが、ご丁寧にも全ての武装は撤去して日本国側に返却してきた。

また、これに合わせて少数のヘリコプターも受け取ってはいたが、運用コストを抑えるためか、滅多にはそれらのヘリコプターが空を飛ぶこともなかった。

元海上保安庁のヘリコプターでさえこのような有様であったから、航空機による洋上哨戒能力などあるはずもなく、ましてや防空識別圏どころか、領空の警戒監視さえも、いくつかある空港のレーダーを除けば皆無に等しい状態であった。

このような状況であったから、日本海に面する海岸線は、かつて北朝鮮の工作船が跋扈した頃と同じように、不法上陸をたくらむ者にとっては、やりたい放題の状況となっていたし、何よりも、主要な港を中国に対する便宜供与のため事実上開放しており、仮に中国が禁制品を東亜国に持ち込んだとしても、これをチェクし、差し止める能力は、東亜国は持ち合わせなかった。

こうした実態を把握していた水野総理は、東亜国に入国する外国人の中には、必ず中国や北朝鮮の工作員が紛れ込んでおり、おそらくは武器も持ち込んでいると判断していた。

実際に、東亜国の中では中国や韓国・北朝鮮から移住してきた者達が、それぞれマフィア組織を構築しており、東亜国政府はひた隠しにしようとしたが、彼らが武装化しているのは、もはや公然の秘密であった。

「国境を封鎖しなければ、武装した密入国者が、やがて日本国内に流入してくる。」水野はそう確信していた。

だからこそ、なんと非難されようが国境を封鎖したのだった。

そうした中、事件が起きた。

関越道沿線に近い群馬県山中の東亜国との国境において、フェンス沿いに張り巡らされた光ファイバーセンサーが密入国らしき異変を検知したのだ。

センサーが反応した現場に、直ちに自律飛行が可能な監視用ドローンが飛んで行き、現場の映像を監視所に送ってきた。

ドローンの映像によれば、数名の人間が、国境のフェンスをワイヤーカッターで切断しようとしていることが確認された。

直ちに最寄りの警備所から国境警備を任務とする陸軍兵士3人が現場に急行した。

密入国しようとしていたのは男三人、女二人の、合わせて五人だった。

陸軍兵士が現場に到着した丁度その時、人が通れる程度にフェンスの金網を切断することに成功した密入国者は、兵士に発見されたことを悟ると、日本国への侵入を強行しようとした。これに対し兵士側は、拡声器を使って静止しようとした。

すると密入国者たちは、いきなり所持していた自動拳銃を陸軍兵士に向けて発砲したのである。

密入国者が撃った弾は陸軍兵士の一人に命中し、その兵士は倒れた。

突然の発砲という事態には、正直陸軍兵士側も驚いた。

兵士三人のうちの、倒れた一人を含む二人は、以前陸上自衛隊であった時、PKO派遣で南スーダンに派遣された経験があり、このような実弾が飛び交う現場も経験はしていたのだが、まさか日本国内で実弾が発射される事態になろうとは、正直想像できていなかったのである。

国境警備の任にあたる兵士は八九式自動小銃に加え、訓練や演習では決して持たされることのない実弾を、個々の兵士が携行していたが、まさか日本国内で銃撃戦を行うとは想像していなかったため、ついいつもの演習の感覚で、小銃への装填はしていなかった。

兵士たちは、慌てて実弾の入ったマガジンを八九式自動小銃に装填すると、直ちに反撃に移ったが、この間に、最初に発砲した先頭の男と二番目にフェンスを抜けてきた女、更にもう一人、男がフェンスの穴を抜けようとしていた。

兵士が撃った弾はフェンスを抜けようとしていた男に命中し、男はフェンスを抜けたところで倒れた。

そして、先に抜けた男と女がそれぞれ拳銃で援護射撃を行うと同時に、リーダーらしき先頭の男が何かを振りかぶって投げてきた。

兵士たちは、投げられたものは最初、石か何かと思ったが、それは薄い白煙を曳きながら飛んで来て、兵士たちの数メートル前方に立っていた樹木に当たり跳ね返った。

『手榴弾?』

兵士たちは思わずわが目を疑ったが、そこは日頃の訓練の賜物、反射的に一人が「伏せろ!」と叫び、にその場に伏せた。

投げられた手榴弾は立木にあたったせいで、兵士たちから数メートル離れたところに転がり、そこで爆発した。

このため、兵士らに致命傷を負わせることは無かったが、この間にフェンスの向こう側に残されていた男と女がフェンスの穴を抜けた。

最後の女が穴を抜けたとき、最初の銃撃で大腿部を撃たれた兵士が、負傷した体で懸命に小銃に弾を込め発砲した。

兵士の撃った弾は最後尾の女に命中し、女が倒れた。

ことの一部始終は監視用ドローンが中継しており、その映像は逐一監視所に伝送されていた。

このため一連の銃撃戦を知った監視所司令は直ちに増援部隊を現場に急行させた。

現場では陸軍兵士三名が負傷し動けなくなっていたが、命に別状はなかった。

国境のフェンスには、ワイヤーカッターで人が一人通れる程度の穴があけられており、そばにワイヤーカッターも落ちていた。

そして何よりフェンスの穴のそばに男が一人と、フェンスから十数メートル離れたところで女が一人倒れていた。

二人とも既に絶命していた

(下巻につづく。)

私の処女作「暁の湊」を書き上げた直ぐ後は、もう二度と小説の執筆にチャレンジしようなどとは考えなかった。ところが不思議なもので、「暁の湊」の出版が実現すると、またムズムズと不思議な感覚が蘇ってきた。

この、一種の欲求にも似た感覚を満足させるべく、気の向くまま無責任に手掛けたのが今回の作品である。

上巻はほとんど前振り的な内容であり、本著の核心は下巻に持ってきているので、上巻を最後までお読みいただいた読者各位には、ぜひとも下巻にご期待いただきたい。


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